豪烈甲者カンタロス




第十一話 濁った正義



 過酷な訓練の合間の休日に、黒田は妹を見舞った。
 妹、百香が入院しているのは規模の大きい都立病院の小児科で、黒田は五階の病棟に行き、妹の名を探した。
ずらりと並ぶ病室からは子供達の声が漏れ聞こえ、面会に訪れた親に甘える子供の声もそこかしこから聞こえる。
それが黒田の胸を刺し、寂寥感に苛まされた。自分でさえもそう感じるのだから、百香はもっと切ないに違いない。
 百香の入院している病室は大部屋で、中を覗くとベッドは全て埋まっていた。妹のベッドは、左側の窓際だった。
黒田が挨拶して病室に入ると、ぼんやりと外を眺めていた百香が振り向き、血の気の薄い顔を紅潮させて言った。

「お兄ちゃん!」

 その声は病室どころか廊下にまで響き、他の患者達の咎める目が向いたので、百香は曖昧な笑顔で固まった。
黒田は百香の代わりに謝ってから、百香のベッドに近付いた。百香はすぐさま黒田に飛び付き、抱き付いてきた。

「お兄ちゃん、元気だった?」

 黒田に力一杯しがみつきながら、百香は全力の笑顔を浮かべた。黒田は、百香の細い髪を撫でる。

「なんとかな。百香の方はどうだ?」

「ぼちぼちっていうか、トントンっていうか、まあ、そんなとこ」

「なんだそりゃ」

「えへへ」

 百香は照れ臭そうに笑うと、黒田から離れてベッドに座り直した。

「ごめんね、お兄ちゃん。せっかくお兄ちゃんが頑張って稼いだお金なのに、私が一杯使っちゃって」

「気にするな。そのために俺は軍人になったんだから、一杯使って早く元気になってもらわないとな」

「うん」

 百香は申し訳なさそうだったが、頷いた。そして、頬を緩めた。

「あのね、お兄ちゃん。来週ね、仮退院出来るんだって!」

「本当か?」

「うん。体力も付いてきたし、発作も起きる回数も随分減ったから」

「そっか、良かったな」

「でも、お兄ちゃんには訓練があるんだよね」

「そういう時ぐらい、休みはもらえるさ。軍だって、それぐらいの融通は利くはずだ」

「でも、お兄ちゃんは下っ端オブ下っ端じゃん。休みが欲しい、なんて言ったらぶっ飛ばされるんじゃない?」

「あのなぁ…」

 黒田が苦笑すると、百香はにんまりした。

「だから、仮退院はしないつもりなんだ。本当に退院出来る時まで、楽しみは取っておこうと思ってさ」

 精一杯の笑顔を見せる妹がいじらしく、また切なかった。百香の笑顔は陰りがないが、強がりなのは明らかだ。
人一倍甘えん坊の百香なのだから、黒田が軍に入って戦っている間、寂しさが溜まりに溜まっているはずである。
それなのに笑顔を作り、意地を張ってみせる。黒田は人目も憚らずに百香を抱き締め、痩せた体を撫でてやった。

「ごめんな、百香。寂しかったんだな」

「大丈夫、だよぉ」

 百香は笑顔を保とうとするが、堪えきれなかった。黒田の肩に顔を埋めて声を殺し、肩を震わせて泣き出した。
黒田は百香の体を受け止めてやり、息苦しそうに引きつる背をさすってやった。百香は黒田に縋り、泣き続けた。
余程寂しかったのだろう、黒田の服を力一杯握り締めて離そうとしないばかりか腕を緩めると抗議の声を上げた。
それがまた嬉しくて悲しくて、黒田は百香が泣き疲れて寝入るまで撫でてやり、その日は病室に泊まることにした。
 百香と同じく、黒田も寂しかったからだ。




 その頃。黒田の任務は、国立生物研究所の護衛だった。
 人型昆虫と遭遇しながらも生き残った黒田は、数少ない目撃者として、敵前逃亡したことも咎められなかった。
それどころか生き残ったことを賞賛され、一等陸士から三等陸曹に一足飛びに昇進し、報賞までも与えられた。
後から考えれば、それは口封じだったのだろう。退役されて人型昆虫との戦いのことを公表されては困るからだ。
だが、その時の黒田は若かったため、何の疑問も持たずに昇進を喜び、報賞で百香にプレゼントを買ってやった。
 国立生物研究所で働く櫻子と接する機会も増え、それまでは電話やメールだけだったが、交際するようになった。
中学高校と女っ気のなかった黒田には初めてのことばかりで、櫻子も不慣れだったので、初々しい交際を重ねた。
交際する間に話し込み、色々なことを知った。櫻子が一つ年上であることや、大学を中退して就職したことなどを。
双子の姉がいるが仲が良すぎて困る、とも言い、その時は自分や百香と似ているのだと思い、微笑ましく思った。
だが、双子の姉、薫子に対する表現がかなり柔らかくされていたことに気付くのは、あまり時間が掛からなかった。
 その日。黒田は仮退院した百香と帰宅し、退院祝いの手料理を携えて訪問した櫻子を交えてささやかに祝った。
黒田と交際しながら百香とも交流を深めていた櫻子は、実の姉妹のように仲良くなり、百香も櫻子に懐いていた。
百香は櫻子が作ってくれたケーキを食べてはしゃぎ、黒田にも幼子のように甘え、それまでの寂しさを紛らわした。
だが、はしゃぎすぎて疲れてしまったらしく、すぐに眠ってしまい、黒田は二階の子供部屋に百香を連れて行った。
 百香を寝かしつけてからリビングに戻ってきた黒田はドアを開けようとして、話し声が聞こえることに気付いた。
リビングから漏れ聞こえてくる櫻子の声は黒田は聞いたことがないほど甘ったるかったが、横顔は緊張していた。

「そう、だから平気よ、お姉ちゃん」

 黒田は少々気が咎めたが、ドアの隙間から櫻子の様子を窺うと、櫻子は携帯電話に話しかけていた。

「引っ越したのだって、研究所に近い方が便利だと思ったからよ。ええ、ああ、住所…?」

 櫻子は僅かに言い淀んだが、頬を歪ませて答えた。

「解ったわ、実家に連絡しておくから」

 櫻子は形の良い唇を噤み、眉根を顰めて、受話器から零れ出る姉と思しき声を聞いていたが息苦しげだった。
先程まで黒田や百香と会話していた際の明るい笑顔は消え失せて、表情は暗く、辛そうに目も伏せられていた。
櫻子は無理矢理声を作って、明るい口調で姉の会話に相槌を打っていたが、強引に会話を締めて通話を切った。
肩を落として深く息を吐いた櫻子は、携帯電話を閉じた。そして、黒田がリビングに入ると、櫻子は涙を滲ませた。

「輝之君…」

「今の、お姉さん?」

 黒田が櫻子の隣に座ると、櫻子は頷いた。

「ええ。どこから、聞いていたの?」

「最初からだ。すまない」

「いいの、気にしないで。私の問題だから」

 櫻子は腕をさすり、寒さを堪えるように背を丸めた。

「お姉さんって、どういう人なんだ?」

 黒田が問うと、櫻子は視線を彷徨わせていたが、重たく述べた。

「姉は、私のことを女として見ているのよ」

「それって、どういう意味で?」

「言葉通りよ。凄く嫌なことだから出来れば話したくないけど、でも、話さないと、輝之君や百香ちゃんに悪いから」

 櫻子が青ざめた唇を歪めたので、黒田はその肩に腕を回し、抱き寄せた。

「そんなに辛いのなら、無理に話さなくてもいい」

「話すわ。ちゃんと向き合わなきゃいけないから」

 櫻子は涙を拭ってから、折れそうな心を支えるために黒田の手を握った。

「小さい頃から、私と姉は仲が良かったわ。双子だったし、性格は違うけど気が合ったし、一番の友達だったのよ。でも、小学校高学年の頃から、姉が変わってきたの。意味もなく私の体にべたべた触ってくるし、手を繋いでくるし、キスもされたわ。その頃は私も何も知らなかったから、大人びた遊びだと思っていたの。だけど、周りの友達にそれとなく聞いても、そんな遊びをしている子はいなかったわ。いたとしても、それは男女の付き合いをしている早熟な子ぐらいで、もちろん相手は異性だったわ。同性で、しかも兄弟同士でそんなことをしているなんて、どう考えてもおかしかったの。でも、学校では友達も少なくて暗い姉が、私を構っている時は明るい顔をするから、強く断ることが出来なかったの。家の中でまで、寂しい思いをさせるのは悪いと思ったから」

 櫻子は浅く息を吸い、黒田の手をきつく握った。

「だけど、私が止めなかったせいで、姉はどんどんエスカレートしてしまったの。夜になると私の布団に入ってきて、手をはね除けても、胸や太股を撫でてきて、それどころか…」

「もう、いい」

 黒田が櫻子を抱き締めると、櫻子は震え出した。

「ごめんなさい、こんなこと、聞かされても困るだけよね。ごめんなさい、輝之君」

「櫻子は悪くない。そうだろ?」

「でも、私、ああ、お願いだから嫌わないで、嫌いにならないで!」

 櫻子は黒田の服を歪むほど握り締め、ぼたぼたと涙を落とした。

「私、あなたのこと、本当に好きなのに利用しているの! 姉から逃げたくて、大学を中退して研究所に就職した時に、嘘を吐いてしまったの! 好きな人がいるって、その人には病気がちな妹さんもいるって、結婚しようって言われているって! だから、あなたに近付いたの! 嘘を本当にしなきゃって思って、でも、そうしたら、私は本当に…」

「櫻子」

 黒田が櫻子の顔を上げさせるが、櫻子は顔を背けた。

「ごめんなさい、本当に、なんて謝ればいいか…」

「理由なんて、どうだっていい。櫻子が来てくれて、俺も百香も幸せなんだ。だから、それだけでいい」

 黒田は櫻子を撫でてやると、櫻子は滂沱した。

「ごめんなさいぃ…」

 わあわあと泣き喚く櫻子を抱き締めて、黒田は嘘の材料にされていたことを恨むよりも先に、彼女に同情した。
姉の妄信的な感情からの逃げ道を作るため、黒田に近付かなければならないほど、櫻子は追い詰められていた。
櫻子と交際する間も、何かがあるのでは、と薄々感じ取っていた。笑顔を見せても、ふとした間に暗い顔をする。
それが気に掛かっていたが、問い詰められなかった。櫻子の秘密を暴けば、関係が終わってしまいそうだからだ。
だが、櫻子もそれを危惧していた。嘘を貫くためだけに近付いた相手に芽生えた恋が、消えることを恐れていた。
 その夜。黒田は、初めて櫻子と体を重ねた。それまでは、櫻子はその気は見せても、体を許してくれなかった。
身持ちが堅いのだと思っていたが、体を開けば薫子の一方的な行為を思い出してしまうから、開けなかったのだ。
黒田の体の下で、櫻子は笑顔を浮かべた。本当に好きな人と繋がれて嬉しい、と黒田に縋り付いて、涙を流した。
それまでは、薫子に強引に局部を探られて刺激だけで潤させられ、感じている演技をして薫子を誤魔化していた。
そうでもしなければ、薫子はいつまでたっても満足せず、櫻子が疲労と嫌悪感で気分が悪くなっても続行し続けた。
だから、ぎこちないながらも愛情の籠もった黒田の愛撫は心地良いのだと、櫻子は照れ臭そうに頬を染めていた。
温かく柔らかな体と甘えた表情が何より愛おしく、黒田はソファーの上で櫻子を抱き締めながら、気持ちを定めた。
 いずれ櫻子と結婚しよう、と。




 そして、忘れ得ぬ日が訪れた。
 甘ったるい疲労と余韻に浸りながら黒田が目を覚ますと、櫻子の姿はなく、子供部屋からは百香も消えていた。
櫻子はともかく、百香までいないのはおかしかった。玄関を見ると二人の靴はなく、ガレージには櫻子の車もない。
だが、早朝だ。研究所の規則が体に染み付いている黒田や櫻子が早起きのは仕方ないにしても、百香は違う。
先日まで入院していた百香が、早起きなどするわけがない。それでなくても、百香は朝方は体調が優れないのだ。
百香の具合が悪くなって病院に向かったのなら、真っ先に黒田を起こすはずだ。携帯電話にも、着信履歴はない。

「どこに行ったんだ、二人共」

 黒田は重たい不安を覚えながら、服を着込んだ。掃き出し窓を開けて、櫻子の匂いが残る空気を入れ替えた。
初夏とはいえ、早朝は空気が冷え込んでいる。黒田は二人の姿を求めて、人気のない住宅街に視線を巡らせた。
不安を紛らわすために朝食の準備に取り掛かるが、やはり落ち着かず、黒田は携帯電話を取って櫻子に繋げた。
だが、繋がらなかった。電源を切られているか電波の通じないところにいる、とのアナウンスが冷淡に流れていく。
 嫌な予感ばかりが膨らみ、黒田は朝食の準備もそこそこに家を飛び出して、恩給で買った中型バイクに跨った。
訓練に明け暮れながらも手入れを重ねていたおかげで、エンジンは素直に火が入り、マフラーが低く鳴き出した。
 どこに行ったのかも解らないが、何もしないでいるわけにはいかない。黒田は住宅街を走り抜け、大通りに出た。
昼間は車通りの多い道も、今ばかりは静かだ。穏やかに走る車を次々に追い越し、路地を曲がり、奥へと進んだ。
住宅街から少し離れた公園に近付いた時、異物が視界に入った。黒田は迷わず公園に入り、歩道に乗り入れた。
小高く土を持った芝の小山の上に、それはいた。山間に現れたものよりも一回り小さかったが、同じ生物だった。

「…女王」

 フルフェイスのヘルメットを外した黒田は、出かけにベルトに押し込んできた拳銃を抜いた。

「なんで、こんな、街中に…」

 黒田はチェーンを越えて芝生に踏み入り、腰を落として歩み寄っていったが、女王の影に見える影に気付いた。
着の身着のままの姿の櫻子が座り込み、肩を震わせていた。黒田はぎょっとして駆け出し、櫻子に声を上げた。

「逃げろ、櫻子!」

「てるゆき、くん…」

 櫻子は嗚咽を堪えながら、黒田に振り返った。

「ごめ、ん、なさい…」

「あのことはもういい、俺は櫻子がいてくれたらそれでいいんだ!」

 銃口を上げて女王を牽制しながら黒田が叫ぶと、櫻子は涙に濡れた頬を少し緩めた。

「それ、本当?」

「ああ、俺は嘘なんか吐かない! 絶対に!」

「じゃあ、許して、くれるよね?」

 櫻子は涙を拭いながら立ち上がると、危うい笑顔を黒田に向けた。

「こうしないと、私、お姉ちゃんから一生解放されないから」

 ぎしゃあ、ぎしゃあ、と女王が鳴く。顎を擦り合わせる音に交えて、咆哮のように聞こえる音を胸郭で作り出す。
だが、女王が櫻子を襲う気配はない。警戒心を剥き出しにして六本足を動かしているが、虚空を切るだけだった。

「仕事でちゃんと成果を上げれば、お姉ちゃんはきっと私を認めてくれる。だから、これは仕方ないことなのよ」

 俯いた櫻子の手には、黒田が百香にプレゼントしたピンクの携帯電話が握られていた。

「きっと、許してくれるよね? 輝之君も、百香ちゃんも」

「櫻子、何を言っているんだ?」

 黒田はその意味を悟らぬように、思考を凍らせた。

「私の仮説が正しければ、これで人型昆虫は操れる。戦術外骨格は完成する。そしたら、輝之君は戦わなくて済むし、お姉ちゃんからも認めてもらえるし、それに、輝之君は私だけのものになるの」

 女王の腹部が、不規則に揺れている。内側から叩かれているかのように、白い節が波打っている。

「昨日は、本当に嬉しかった。私のこと、ちゃんと見てくれて、好きになってくれたのは輝之君だけだよ」

 櫻子は頬を染め、恥じらった。その表情は昨夜と変わらないが、背後では女王の腹部が何かに叩かれている。

「だから、ね、輝之君」

「櫻子、お前は百香に何をした!」

 拳銃を渾身の力で握り締めた黒田が怒声を放つと、櫻子は目を丸めた。

「なんで怒っているの?」

「言え! 櫻子、お前は百香をどこにやったんだ!」

「百香ちゃんなら、そこにいるじゃない」

 櫻子は人差し指を上げ、女王を指した。

「さっきから、ずっと」

 膝を笑わせながらも辛うじて立っている黒田の耳に、櫻子の言葉が掠め、消えていく。

「人型昆虫には女王がいる。輝之君もそれは知っているよね。でも、女王が生むのは普通の人型昆虫だけじゃないの。これまでに回収した女王を解剖して解ったことなんだけど、普通の卵に混じって、一つだけ大きい卵があるの。ただの個体差だとか言う人もいたけど、私はそれが女王を生み出す卵だと思った。でも、女王の卵が孵化する条件は難しくて、丁度人間の体温ぐらいで暖めておいて受精させないと孵化しなかったの。そう思って生体実験を繰り返したけど、孵化させるために最適な苗床は、女性の子宮だったの。そして、苗床になった女性は、女王の卵から人型昆虫の興奮を抑制するフェロモンを分泌するようになる。これを上手く使えば、並行して開発している人型昆虫を兵器に転用した戦術外骨格を実用化出来るはずよ」

 ねえ、輝之君、と櫻子は甘ったるく話しかけてくる。だが、黒田は答えることも出来ず、芝生の上に座り込んだ。
朝露を吸った芝生の冷たさとは別の冷たさが背筋を落ち、手足から体温が抜け、明け方の空が暗くなっていく。
その原因が自分の視界だと知ったのは、櫻子に抱き締められた後だった。しかし、彼女の腕を振り払えなかった。
一発も撃つことのなかった拳銃は足元に転げ、横たわった。黒田は女王の鳴き声に混じる妹の声を聞き取った。
 お兄ちゃん。助けて。お願い、ここから出してよ。百香の掠れた絶叫で、我に返った黒田は、櫻子を振り切った。
ほとんど動かなくなった女王の腹部を叩き、蹴り、殴るが、女王の腹部は割れずに黒田の侵入を頑なに阻んだ。
その間にも、妹の声は激しくなる。黒田は拳が腫れて皮が破れても手を止めることなく、女王の腹部を殴り続けた。
 だが、黒田の手が百香に届くことはなかった。





 


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