豪烈甲者カンタロス




閉ざした世界



 桐子の世界には、桐子しかいなかった。
 桐子の世界は桐子だけのものだから、桐子以外は必要ない。父親も、母親も、友人も、何もかも不要だった。
母親である女を孕ませた男も、桐子を出産してすぐにコインロッカーに詰め込んだ女も、恋しく思ったことはない。
養護施設に押し込まれた似たような境遇の子供達も、どれもこれも猥雑で汚らしく、興味を惹かれることもない。
親代わりの職員や、仕方なく通わされている学校の教師にも全く興味はなく、目を合わせる気すら起きなかった。
孤児のくせに反抗的だと罵られて殴られることも少なくなかったが、桐子を虐げた相手を反対に蔑んでやった。
 桐子の世界は桐子のものだ。桐子は桐子だけの世界を完成させている。だから、干渉されても何も感じない。
桐子の世界の中では、桐子は特別な存在だった。誰よりも崇高で、誰よりも美しく、誰よりも優れた少女だった。
そう思っていれば、どんなことも受け流せた。そう思っていなければ、穢らわしい外の世界が桐子を蝕んでくる。
 だから、桐子は桐子だけの世界で生きていた。




 桐子の世界が乱されたのは、戸籍上の父親から捨てられた時だった。
 鍬形という名の政治家は、桐子を引き取ってから本当に可愛がってくれた。桐子ですら気を許しかけるほどに。
欲しいものがあれば買い与え、行きたいところがあればすぐさま連れていき、西洋人形のように着飾ってくれた。
天蓋の付いた大きなベッド。分厚い絨毯が敷き詰められた部屋。豪奢なドレス。食べ切れない量の食事や菓子。
流行りもの、値打ちもの、高級品と名の付くものは手を伸ばせば得られ、両手に余るほどの宝石も持っていた。
桐子が長らく思い浮かべていた、本物のお姫様の世界だった。けれど、その世界は所詮作り物でしかなかった。
 戸籍上の父親は、大物政治家に恩を売るために桐子を女王の卵の生体実験体にし、二度と姿を現さなかった。
父親の部下や秘書も顔を見せることはなく、桐子の世界には桐子しか残らず、お姫様の世界は戻ってこなかった。
 だから、この世界も偽物だ。腹部の鈍い重みを感じながら、桐子はベッドの上から長方形の空を見つめていた。
吐き気がするほど白い壁に作られた窓には、太い鉄格子が填められ、桐子と空の間にどす黒い線を作っていた。
別に、空が好きというわけではない。だが、自分の世界に閉じ籠もるためにはそれなりに集中する必要があった。
 薄い腹部に触れると、皮膚越しに忌々しい女王の卵が感じられる。潰してしまいたいが、腹を裂く勇気がない。
それ以前に、腹を裂くための道具がない。窓は桐子の頭上よりも遙かに高く、ベッドは床に造り付けられている。
部屋にあるのは、プラスチック製の水差しとコップと、効果の弱い鎮静剤と、山積みの食糧ぐらいなものだった。
壁と同じく白いテーブルに載せられている食糧はどれもこれも安物で、パッケージを見るだけで味の悪さが解る。
それまで桐子が食べていた本物の食事や菓子とは懸け離れていて、薄汚いとしか思えず、食欲は湧かなかった。
女王の卵に体力が奪われたためにひどい空腹は感じていたが、桐子の天より高い自尊心がどうしても許さない。
添加物だらけのジャンクフードや、汚い油と化学調味料にまみれたスナック菓子など、口に入れることすら嫌だ。
そんなものを食べてしまえば、桐子の世界は内側から汚れていく。それだけは嫌だから、必死に空腹を堪えた。
 桐子を閉じ込めている部屋のドアがノックされたが、答えなかった。桐子ちゃん、と甘ったるい声が掛けられた。
桐子の世話役である、女性看護師の波佐見睦美だった。何度かノックされた後、睦美はドアを開けて入ってきた。

「入るわね、桐子ちゃん」

 白々しい笑顔を顔に貼り付けた睦美は、ベッドに座り込んでいる桐子に近付いてきた。

「お腹、空いていないの?」

 テーブルの食糧の山が手付かずであることに気付いた睦美は、心配そうな表情を作った。

「なんでもいいから食べなきゃダメよ。あなたの体は、もう普通の体じゃないんだから」

 そんなこと、言われなくても解っている。桐子が縦に区切られた空から視線を下ろすと、睦美は身を屈めた。

「桐子ちゃん」

 馴れ馴れしく呼ばれるだけでも、強烈に腹が立つ。この女は、桐子にべたべたすることで心を開かせようとする。
他人に近付かれるだけでも嫌なのに、この女は桐子の肌や髪に意味もなく触るばかりか、抱き寄せようともする。
他人の体温など、気持ち悪くて吐き気がする。無神経なだけでなく、自分の感情を桐子に押し付けようとしてくる。
桐子を見ている目も、優しげなふりをしているが狡猾だ。桐子に付け入る隙を、見逃すまいとしているだけなのだ。
桐子を懐柔すれば、研究所内で睦美の立場は確立する。そうすれば、睦美が執心する研究員が靡くと思っている。
そんなに安易なことが起きるわけがない。桐子ですらもそう思うのに、一回り以上年上の睦美はそうは思わない。
それどころか、桐子を利用出来る立場にいることを喜んでいる。浅はかで薄っぺらい外面だけが整っている女だ。

「さあ、行きましょう」

 睦美は桐子に触れようとしてきたので、桐子はその手から逃れるためにベッドから下りた。

「検査室なら解っているわ。案内される必要なんてないわ」

 ドアを開けながら桐子が冷淡に言い捨てると、睦美は桐子を追ってきた。

「今日は違うのよ、桐子ちゃん。検査じゃなくて、他のことをするのよ」

「何を」

 廊下に立った桐子が振り向くと、睦美は笑みを崩さぬまま言った。

「桐子ちゃんが実戦で使用する戦術外骨格となる、人型昆虫の幼虫を選別するのよ」

「虫の、幼虫?」

「そうよ、幼虫よ。培養施設は地下にあるから、案内するわね」

 睦美は桐子を促し、歩き出した。桐子はしばし迷ったが、大分距離を開けて睦美の背を追うように歩き出した。
空気が流れると、睦美の化粧の匂いが剥がれてきた。甘ったるい香水が鼻を突き、看護師らしい匂いではない。
男に媚びる女の匂いだ。それに尚更気持ち悪さを掻き立てられ、桐子は胃液しかない胃が引きつりそうになった。
だが、吐き戻せる余力はなかったので、桐子はぺたぺたとスリッパを鳴らしながら白く四角い廊下を歩き続けた。
 戦う力は特別なものだ。だから、少しだけ興味があった。




 重装備の兵士に守られながら、エレベーターを下りた。
 桐子は睦美や兵士達が出て行ってからエレベーターを下りると、これまで見たことのない研究施設を見回した。
上層の研究施設とは一線を画した設備が並び、兵士の数も目にも見えて多くなり、壁も分厚く頑強になっている。
淀んで湿っぽい空気を吸い込むと、記憶が蘇った。桐子が女王に卵を産み付けられた時と似通った匂いだった。
巨体の虫に陰部を裂かれる痛みを思い出し、桐子はやや青ざめながら、睦美らを追って研究施設の奥へ進んだ。
 分厚い隔壁をいくつも通過し、厳重な警備を抜けた先にある目的の地下室は、空気の温度からして異様だった。
人間の息吹のように生温く、そして湿っぽい。明かりも落とされていて薄暗く、それがまた気色悪さを煽ってくる。
他人の体内にいるような気分になりながら桐子が中に入ると、地下室の壁にはずらりと太い円筒が並んでいた。
十五個のガラス製の円筒には青緑色の液体が詰め込まれていて、その全てに肥大した幼虫が収められていた。
睦美はわざとらしい笑顔を顔に貼り付けたまま、桐子の背を柔らかく押し、人型昆虫の幼虫の元へ向かわせた。

「さあ、選んでちょうだい。桐子ちゃん」

 背中を残留する睦美の手の感触が嫌で、桐子は背中を何度となく擦ってから、十五個の円筒へと足を進めた。
円筒の一つ一つにはラベルが貼られ、虫の種類と番号が印されていたので、一番から順番に視線を動かした。
 人型トンボ、人型チョウ、人型バッタ、人型セミ、人型ゴキブリ、人型テントウムシ、人型クモ、人型スズメバチ、
人型カマキリ、人型クワガタムシ、人型ホタル、人型カミキリムシ、人型ダンゴムシ、人型ナナフシ、人型カブトムシ。
 すると、人型クワガタムシの幼虫がかすかに身を捩ったので、桐子は反射的に人型クワガタムシに目を向けた。
少しだけ興味を惹かれた桐子が近付くと、人型クワガタムシの幼虫はまたも僅かに動き、計器が電子音を零した。

「あなた、私が解るの?」

 答えは返ってこない。けれど、また、動いた。

「そう…」

 桐子は惹かれるままに手を伸ばし、十号と番号が振られた円筒に触れた。空気と同じく、生温かった。

「彼にするわ」

「あら、早かったわね」

 睦美は意外そうに目を丸めたが、桐子はそれを無視して生温い部屋を後にした。

「名前も決めたわ。セールヴォランよ。十号だなんて、そんな名前じゃつまらないわ」

「セールヴォラン…ああ、フランス語ね」

 睦美は桐子の付けた名の意味を察し、脇に抱えていたファイルを開いて書き付けた。

「上に戻るわ。ここ、気分が悪いのよ」

 桐子は自動小銃を持った兵士の横を通り過ぎ、足早に地下室から出ていくと、追い縋る睦美を置いて進んだ。
一人でエレベーターに乗って地上階のボタンを押すと桐子の入った箱が昇り始め、かすかな重力が肩に掛かる。
モーターの唸りを聞きながら、桐子は目を閉じた。卵が液体の中で蠢いた様を思い起こし、自分の世界と重ねた。
 作り物の羊水に浸かった穢れを知らない幼虫は、桐子の発した言葉を聞き取って桐子にだけ反応してくれた。
ならば、彼は桐子の世界に至る資格があるのでは。込み上がる笑みを押さえぬまま、桐子は期待に高揚した。
 早く、早く、目覚めてくれ。




 それから、数週間後。
 セールヴォランと名付けられた幼虫は着実に成長し、培養ポッドから腐葉土に満たされた養育室に移された。
全長四十二センチの人型クワガタムシの幼虫は、湿った腐葉土の上に置かれると、腹をうねらせて這いずった。
分厚いペンチのような茶色い顎で腐葉土を囓って、もぞもぞと動き、培養液以外の物質を懸命に摂取している。
桐子の背後で、睦美があからさまに顔をしかめた様が養育室と観察室を区切る強化ガラスに映り込んでいた。
研究員達は眉一つ動かさずに冷徹に観察し、時折書き付けている。だが、少なくとも睦美よりはまともな反応だ。
彼の成長を喜ぶどころか蔑むとは、鬱陶しくてたまらない。だが、今は睦美になど構っている場合ではないのだ。

「セールヴォラン」

 桐子が声を掛けると、幼虫は腐葉土を抉っていた顎を止めた。

「セールヴォラン。私の声が聞こえるわね?」

 ぼろぼろと腐葉土を零しながら顎を起こした幼虫は、未発達の目を強化ガラスに向けた。

「そう…」

 その目としばらく見つめ合っていたが、桐子は居ても立っていられなくなり、ブラウスのボタンを外した。

「彼に会いに行くわ」

「孵化したばかりの幼生とはいえ、無闇に接触するのは…」

 研究員が渋ると、桐子はブラウスを脱いでスカートを落とし、下着も躊躇いなく脱いで幼い肢体を露わにした。

「何よ。私に命令しようとでも言うの? 身の程知らずね」

 開けて、と桐子が養育室と観察室を隔てるドアを示すと、研究員達は顔を見合わせて口々に言葉を交わした。
桐子の振る舞いを許すか否か、ではなく、生体実験体の成功例と孵化したばかりの幼生の価値を比べていた。
どちらも損害を受けても補填出来る、との結論を出した研究員達は、桐子の言葉に従う形でドアの鍵を開けた。
彼らの言葉も気に食わなかったが、気にするだけ無意味だ。それ以前に研究員達は桐子の世界に存在しない。
桐子の世界に存在しているのは、桐子とセールヴォランだけだ。だから、聞こえていたとしても、聞こえてこない。
 有機物の饐えた匂いと少し冷たい空気が肌を舐め、足首まで柔らかな腐葉土に埋まり、湿った土に包まれた。
桐子が養育室に入ると幼虫は桐子の気配に気付き、まだ短い六本足で土を掻き分けながら桐子に迫ってきた。

「セールヴォラン」

 桐子が跪いて両腕を広げると、幼虫、セールヴォランは桐子の前で止まった。

「そう、あなたはセールヴォランなのよ」

 桐子は人差し指を口に含んで唾液を絡め、人差し指をセールヴォランに差し出した。

「ほら、舐めてごらんなさい」

 少女の唾液を纏った指先に、セールヴォランは興味を示していたが、顎を開いてにゅるりと短い舌を伸ばした。
セールヴォランは体同様未発達の舌を懸命に動かし、桐子の指先に付着した桐子の唾液を舐め取っていった。
冷たいものが肌をなぞる感触がくすぐったく、桐子は目を細めた。すると、指を弄んでいた舌が急に引き戻された。
幼虫とは思えぬ力に引っ張られ、桐子の腕が引かれた。そのまま舌は手首に絡み、桐子の手は口腔に没した。
桐子は目を見開いたが、抗わずに背を曲げてセールヴォランに近付き、手を舐め回す舌の滑らかさを味わった。
ぢゅるぢゅると唾液とも体液とも付かない液体を顎の端から零しながら、セールヴォランは桐子を見つめていた。

「もっと、私が欲しいの?」

 桐子が柔らかく呟くと、セールヴォランの舌の動きが止まったので、桐子は潤った手を引き抜いた。

「そう…」

 桐子は彼の体液が絡む指先を上げ、舌先で舐めた。とろりと粘る筋が垂れ、桐子の細い太股に滴り落ちた。
女王の卵が分泌するフェロモンが体液に混じることは、研究員から教えられて知っていたが、躊躇いがあった。
セールヴォランは桐子の世界に立ち入るのに相応しい存在だとは思ったが、今まで体を開いた経験すらない。
女王のフェロモンの有効性と必要性も教えられていたが、いざ彼を目の前にすると、胸中がむず痒くなってくる。
けれど、このままでは桐子は彼の女王になれない。意を決し、桐子は女王以外には晒していない陰部を晒した。

「おいで、セールヴォラン」

 桐子が腰を下ろすと、セールヴォランはうねうねと這いずりながら、桐子の股間に頭を埋めて舌先を伸ばした。
指や手など比較にならないほど敏感な部分に冷たいものが触れ、桐子は上擦った吐息を零し、薄い胸を反らす。

「そう、良い子ね」

 幼く、荒く、貪欲に体液を欲する幼虫を感じ、桐子は腐葉土を掴み、掠れた声を上げた。

「そう、そうよ、素敵だわっ…」

 下半身から上り詰めてきた快感に仰け反った桐子は、弛緩し、少し冷たい腐葉土に横たわって呼吸を整えた。
甘い痺れの混じる気怠さが心地良く、すぐに起き上がりたくなかった。手足の先まで火照り、頬は紅潮していた。
双方の体液が伝う太股の間で蠢いていたセールヴォランは、桐子の顔に近付き、きちきちと顎を小さく鳴らした。

「私はあなたの女王なのよ、セールヴォラン」

 桐子はセールヴォランを出来る限り優しく抱き寄せ、自身の体液と彼の体液が付いた顎をぬるりと舐め上げた。
セールヴォランは底の見えない瞳で桐子を見つめたまま大人しくしていたので、桐子は彼の顎や顔を舐め続けた。
桐子の体液は酸味混じりの塩の味がし、セールヴォランの体液の味は生臭く苦かったが、吐き気は覚えなかった。
それどころか、体内で渦巻いていた不快感が氷解するような感覚を覚え、桐子は無心に白く膨れた幼虫を愛でた。
 唾液の糸を引きながら桐子が顔を離すと、セールヴォランは腐葉土に頭を突っ込んで、体を丸めて掘り始めた。
桐子はそれを妨げないために身を引いて、セールヴォランが分厚く柔らかい腐葉土の中に没していく様を眺めた。
数分ほどでセールヴォランの姿は失せ、桐子だけが残された。穴を見つめていると、無性に切なくなってしまった。
 腐葉土に足を埋めながら養育室を出た桐子は、手早く服を身に付けると、研究員達を一瞥して観察室から出た。
誰も彼もが言葉に詰まっていて、桐子の扱いに困っている。中には、研究対象に向けるべきでない目の者もいた。
だが、何もかもどうでもいい。自室に戻って、セールヴォランとの触れ合いを思い返して心も体も満たさなければ。

「桐子ちゃん!」

 桐子がエレベーターの前で立ち止まると、睦美が追い掛けてきた。

「何よ」

 桐子が腐葉土の付いた長い黒髪を払うと、睦美はぎこちない笑顔を貼り付けた。

「頑張った、わね」

 睦美なりに無難な言葉を選んだのだろうが、それは桐子の行動の意味も理由も全く解っていない言葉だった。
それどころか、セールヴォランを女王のフェロモンで屈服させるための不本意な行動だと思っているようだった。
何も解っていないから、解っているふりをしている。それが何になるのだろう、と桐子はますます彼女を軽蔑した。

「待って、桐子ちゃん! 念のため、精密検査を…」

 慌てながら睦美が追ってきたので、桐子は到着したエレベーターに滑り込み、すぐにドアを閉めて上昇させた。
上昇に伴う加圧を感じながら、桐子は唇に貼り付いたセールヴォランの体液を舐め、名残惜しみながら嚥下した。
 桐子の世界は桐子のものだ。そして、桐子を選んでくれたセールヴォランのものだ。だから、他の誰もいらない。
睦美や研究員達に対する嫌悪感をセールヴォランへの思いで塗り潰しながら、桐子は二度目のため息を零した。
孵化したばかりのセールヴォランは、桐子が知っている昆虫の幼虫とは比べものにならないほど美しい虫だった。
思い返すだけで、胸の奥が締め付けられる。彼が成虫になったら、どれほど美しく、力強い戦士になるのだろう。
先程感じた疼きが滲み出すように蘇って、桐子は体液と土の付いた指でスカートを握り締めて熱い吐息を零した。
 忘れがたい快感だった。







09 4/7