酸の雨は星の落涙



最終話 酸の雨は燦々と



 数百万年分の日記は、読み終えるだけでも一苦労だった。
 アリシアの書く文章は、プログラマーだったというだけのことはあり、簡潔で的確だったが、一年分でも最低三百ページ もの文章になる。それが数百万年ともなると、文書データ化しても相当な量があった。だから、ゲオルグはそれまでの趣味 だった読書に代わり、アリシアの日記を読むことにした。アリシアは仮想現実での出来事を仔細に書き記した日記を読まれるのを 恥ずかしがったが、ゲオルグがどうしても読みたいと言い張ると折れてくれた。
 長きに渡る各惑星代表との会談と交渉の後、ようやく地球人類はアリシア・スプリングフィールドのミスではないと認め、 表向きだけではあったが謝罪もあり、アリシアに対する態度も軟化させた。なので、ゲオルグは、アリシアに地球人類の都市型 宇宙船に戻っても良いと言ったが、アリシアはそれを拒み、惑星クーでの生活を続けることを望んだ。同種族であろうとも、 頑なに非を認めようとしない態度に嫌気が差した、とアリシアはきっぱりと言い切った。ゲオルグはその意志を尊重し、 アリシアを送り返さずに惑星クーに止まれるようにしてやった。
 一年以上の入院を終えて退院したアリシアは、先刻通り、ゲオルグの現住居に移住した。そうなると、それまでは病院の 設備となっていた地球人類用の中性水の濾過器や食品用植物プラントといった設備もほとんど移動させることになり、思っていた よりもかなり大袈裟な引っ越しになってしまった。おかげで、それほど広くない木造の一軒家であるゲオルグの住居の隣には、 アリシアの生命維持に欠かせない設備を収納するための小型のビルを建てることになった。それに必要な資金や人員は、惑星クーと 惑星レギアが半々だった。それらの設備が出来上がるまでの間、アリシアは終始申し訳なさそうにしていた。本人も、ここまで 派手なことになるとは予想もしていなかったからだ。ゲオルグらが気に病むことはないと言ったが、アリシアは気まずげだった。 生きるために必要なものが違うのは生命体としての構造自体が違うから当然だ、とゲオルグは何度となく言い聞かせると、 アリシアはようやく納得した。
 車椅子に載ったアリシアは、ぼんやりと窓の外を見つめていた。ゲオルグはアリシアの日記を読む作業を中断し、彼女の 横顔を窺った。アリシアは草を淡く濡らしながら降りしきる細かな雨粒を、気のない眼差しで眺めていた。アリシアが外を眺めるのは 珍しいことではないし、リハビリを行っても義足が上手く扱えない彼女は長時間の行動が出来ないので、じっとしていることの 方が多いほどだ。エーディは本業が忙しく、ヒルダも今日は定期メンテナンスの日なので、必然的にゲオルグはアリシアと 二人きりになっていた。そういう状況になることも珍しいわけではなく、そういう日はゲオルグはアリシアに徹底的に付き合う ことに決めている。彼女が話したがる時は会話を重ね、読書している時は距離を置き、傍にいてほしそうだと感じ取ったら 付かず離れずの距離を保つ。ゲオルグはアリシアに特別な感情を抱いているが、その思いを表に出したことはなく、アリシアに 伝えるなど以ての外なので、同居人の域を脱していない。ゲオルグには、それだけで充分だからだ。

「ゲオルグ」

 アリシアは乾いた唇を動かし、呟いた。

「どうした」

 ゲオルグが応えると、アリシアは冷えた窓に義手を添えた。

「本当にこれで良かったのかなって、思ってしまうんです」

「そう思う必要はない。私達が君を助けたのは」

「解っていますし、とても感謝しています。あなた方を巻き込んでおきながら、助けてもらったんですから」

 アリシアは上体を捻り、ゲオルグに向いた。

「ですけど、忘れられないんです。ヴァルハラのことが」

 曇り空の重たい色を映した瞳は、憂いに混じって別のものも宿していた。

「忘れる必要はない。忘れてはならないからだ」

 ゲオルグはアリシアの日記を表示している電子書籍を閉じてから、立ち上がった。

「でも…」

 アリシアは窓の外側を伝い落ち、膨らむ雨粒を見つめた。

「私はヴァルハラに心身を囚われている間、脱出することだけを考えていたわけではありません。どうにかしてヴァルハラと 一体化して、制御しようとも考えていました。そう思い続けていたからなのでしょう、私の神経系統はヴァルハラと同調し、同一化し、 私は彼になっていましたし、彼は私にもなっていました。だから、彼の気持ちが誰よりも解るんです。いえ、解ってしまうんです」

 ゲオルグはアリシアの背後に寄り、膝を曲げてその視線に合わせた。

「ならば、あの時泣いたのは、君であり彼なのか」

「はい」

 アリシアは頷き、ゲオルグを見上げた。

「彼は私が離れるのは嫌だと言いました。私も、少しだけですが、彼と離れるのは寂しいと思いました。だから、あの 酸性雨が降ったんです。でも、私は、ずっとあなたに会いたかったんです」

「彼は、それをどう思っていた」

 ゲオルグが問うと、アリシアは躊躇いがちに答えた。

「凄く、嫌だって…」

「ならば、やはり、彼は君であり、君もやはり彼なのだ。アリスが私であり、私がアリスであったように」

 ゲオルグは主眼のレンズを狭め、アリシアの複雑な表情にピントを合わせた。

「だから、君は私を望んでいない」

「そんなことはありません」

 アリシアは車椅子から立ち上がったが、上手くバランスが取れずによろけた。

「君は私を利用した。ヴァルハラとアリスの戒めから脱するための、現実に至るための鍵として使ったのだ」

 アリシアの細すぎる体を受け止めたゲオルグは、レギア人の半分程度しかない背丈の彼女を見下ろした。

「だが、それでいい。私もまた、君を利用したのだから」

 ぎゅい、とまたレンズを絞り直したゲオルグは、今にも泣きそうなアリシアを見つめた。

「現実とは、得てしてそういうものだ」

「だったら、あなたは、私を…」

 そこから先は言えなくなったアリシアは、ゲオルグの硬い腕を曖昧な力加減で握り締めた。

「私は、それ以上は何も求めはしない」

 アリシアの柔らかな髪にセラミック製の指を通しながら、ゲオルグは鼓膜の下まで裂けた口の端を緩めた。

「もっとも、求められたら別だがね」

「ゲオルグ」

 アリシアは震える声で名を呼び、ゲオルグの首に腕を伸ばしてきた。

「やっぱり、あなたは私の王子様かもしれません」

「その理由は」

 アリシアに導かれるまま、ゲオルグが上体を曲げると、アリシアはゲオルグに縋り付いた。

「私を助けて下さったからです」

 甘く、温く、静かな時が過ぎた。一秒は短いようで長く、雨音はいつのまにか大きくなり、アリシアの上擦り気味の 呼吸音が居間に広がっては消えていった。ゲオルグの首の後ろで手を組み合わせたアリシアは、目を閉じた。

「私は全てを知っています。アリスを使用してヴァルハラと一つになっていた時に、宇宙を飛び交う電波を通じてあらゆる 惑星の情報媒体と接触しましたし、都市型宇宙船を見つけるためにヒルダが行った情報爆撃で、地球人類が私のことを どういった扱いにするかも知りましたし、あなた方レギア人のことも、クー人のことも、イリシュ人のことも、ヒルダを造った レーヴ人のことも、覚えられるだけのことを覚えました。言語はどの惑星も体系が違うので、なかなか上手く扱えませんでしたが…」

 ゲオルグはアリシアを抱き寄せ、その重みを味わった。長らく、触れたくても触れられなかったものだった。

「いや。君に助けられたのは、私だ」

「皆が皆、私を、アリスを、ヴァルハラを疎んでいました。だから、地球人類にも未練はありませんが、生きて帰っても 誰も喜んでくれないのは寂しいと思いました。けれど、あなたはそうではありませんでした。私のことを忘れようともしないし、 助けようとしてくれましたし、こうして傍にいてくれます」

 アリシアは顔を上げ、潤んだ瞳でゲオルグの義眼を見つめた。

「だから、私の現実はあなたの内にあります。ヴァルハラでもアリスでもどこでもない、あなたの中に」

 僅かに腰を浮かせたアリシアは、ゲオルグの硬い唇を優しく塞いだ。ゲオルグも少しだけ身を乗り出し、アリシアに 応えた。アリシアは身を引くと、切なげではあったが恥じらいを見せた。ゲオルグは威嚇にしか見えない笑みを返すと、 アリシアはゲオルグの腕に自分の腕を絡めた。柔らかな雨音を心地良い音楽のように聞かせてくれるアリシアの気配に 感じ入りながら、ゲオルグは左手でアリシアの頬を出来るだけ丁寧になぞった。
 迸らんばかりの感情を伝える術を、それ以外に知らなかったからだ。




 地表は、未だ遠い。
 ゲオルグの腕の中には、地球人類仕様に作ってもらったスペーススーツに覆われた彼女がいた。重たい義肢は 無重力によって浮かび上がりそうになるが、その度に押さえ込んでいた。三年ぶりに装備したセラミックアーマーは以前にも 増して扱いづらく、筋力の低下で嫌でも加齢を思い知った。眼下には、あの青い惑星が待ち構えていた。

『ねえ、ゲオルグ』

 セラミックアーマーに内蔵された通信機を通じ、ヒルダが声を掛けてきた。

「なんだ」

 ゲオルグが返すと、ヒルダの声色は沈んだ。

『私には生死の概念なんてないけど、多少のことは理解出来るわ』

「言ってみろ」

『彼女は死んだわ。でも、あなたは生命活動を継続しているわ。だから、何も一緒に行くことは…』

「彼女は私だ。そして、私は彼女だ」

『でも、こんなのって』

「エーディに伝えておけ。仮想現実での日々も、その後の日々も、私もアリシアも楽しかったと」

 セラミックブーツの底で床を踏み切り、背中の水素ブースターに点火した。程なくしてガイスト号の船影は遠のき、 ヒルダと通じていた通信機も電源を切った。機械の脳に内蔵された無線は既に落としてあるので、宇宙空間が掻き鳴らす 電磁波の音楽も届かない。ゲオルグが感じ取れるのは、自分の落ち着いた呼吸とセラミックアーマーを揺さぶってくる 水素ブースターの振動と、主眼を溶かすほど染み入ってくる青い星の姿、そして、彼女の重みだった。
 二日前、アリシアは死んだ。手足を切り落としたことだけでなく、長期間量子コンピューターと一体化していた ことにより、脳や肉体の端々が傷んでいた。心身の苦痛を投薬で誤魔化しながら生きたが、二日前の夜に力尽きてしまった。 アリシアが幸せであるように尽力したつもりだったが、叶えられない願いの方が多かった。ゲオルグ自身もアリシアに 与えたいものは多かったが、与えられないものの方が多かった。それが悔しくてたまらなかった。
 アリシアが死んだ時、ゲオルグも死のうとした。だが、死ねなかった。自分が流す酸性の血でアリシアの肌を汚すのが 耐えられなかったからだ。脳を欠損したことで色彩を欠いたゲオルグの生涯に、暖かな色を与えてくれたのがアリシアだった。 だから、彼女に何も返せないまま、のうのうと生き続けるのは嫌だった。そう思い、考え、至ったのが、忌まわしくも思い出深い 惑星ヴァルハラだった。

「アリシア」

 重力に引かれて落下しながら、ゲオルグは安らかな死に顔のアリシアにヘルメットを寄せた。

「君は私だ。故に、私は君だ」

 ヴァルハラはアリスであり、アリシアであり、ゲオルグでもある。

「今度は、どこへも帰りはしない。帰る必要がないからだ」

 分厚い大気圏が迫り、セラミックアーマーが過熱する。加速に乗じて圧を増した重力が体を押さえ付け、腕の中の アリシアが奪われてしまいそうになる。ゲオルグは渾身の力でアリシアを抱き締め、彼女に及ぶ大気圏摩擦が少しでも 和らがせようと体を反転させ、背中から大気圏に突入した。セラミックアーマーが砕け、アンダースーツが引き千切られ、 ヘルメットが破損し、宇宙空間に露出した肌が急速に過熱し、義眼が割れ、三本目の足が焼き切れて消失しようとも、 ゲオルグはアリシアを離さなかった。二人が一握の塵と化す瞬間まで、それは変わらなかった。
 割れた義眼から滴った強酸性の体液は、雨と化す前に蒸発した。




 一筋、流星が落ちた。
 木造の家のベランダから夜空を見上げていた女は、しなやかな指を組んで祈った。その背後に歩み寄った男は、 機械の目を動かし、大気摩擦で燃え尽きていく物体を見据えた。宝石のように輝く結晶状の草が生えた草原に風が渡り、 しゃらしゃらと珪素が擦れ合って繊細な音を奏でた。流星はその一つだけで、例の物体が炭素の粉と化して大気に溶けた後は 夜空は静寂が戻った。白く凍り付いた極冠の中心に不相応な、荒れ果てた街を見下ろす高台に建てられた小さな家だけが 窓明かりを放っていて、地上で輝く一点の星のように見えた。赤錆に浸食され、大穴が開けられているのはかつては城と 呼ばれていた塔だった。塔が見下ろすのは同じく錆び付いた街並みで、時折吹く風が寂しく鳴いていた。女の手に 機械の手を重ねた男は、義眼を下げ、言った。

「何を祈った」

「私達の幸せ」

 女は組んでいた手を解き、その手で男の手を包み込んだ。

「彼は生きているわ。だから、私はこうしてここにいるし、あなたもこうしてここにいる。それは幸せなことかしら」

「ある意味では幸福かもしれん。だが、ある意味では」

「究極の不幸よね」

 男の機械の手に白い頬を寄せ、女は目を細めた。

「彼に意識を預けた瞬間に私達は死する自由を放棄したわ。私はともかく、あなたまでそうしなくても…」

「君を一人には出来ない。我らの襲撃でアリスのメインコンピューターが破損し、機能を失っているとしても、アリスの プログラムがネットワークを通じて長らえている可能性は高い。故に、油断は出来ない」

「あら、嬉しい」

 女はくすくす笑いながら、男に振り返った。

「でも、本当のところはどうなの? ねえ、教えて?」

「君が彼の所有物に下ることが、腹の底から気に食わない」

「安心して。彼は、私のことをあなたのようには思っていないわ。彼は私であり、私は彼だから」

「彼は君を欲してはいるが、愛してはいないのか」

「ええ。彼が私に対して抱いている感情らしきものは、私達が感じる感情とは構造も違っていれば発生する理念すらも 異なっているもの。執着とか、愛情とか、そういった安易な言葉で括れるものじゃないわ。でも、一つだけ具体的な表現が 可能なものがあるとすれば、進化への欲求かしらね。彼は刺激を求めていたのよ。私を内包し、私の意識に内包されることで、 彼には私と私が使用するアリスから発せられる情報が駆け巡ったのよ。刺激を受けなければ、どんな生き物だって成長する ことは出来ないもの。おかげで、彼は随分と成長したわ」

「だが、彼はもう孤独ではない。私は君であり、君は私であり、彼は君だからだ」

 男は耳元まで裂けた口元を緩め、太い牙を垣間見せた。女は栗色の髪を掻き上げ、琥珀色の瞳を上げた。

「そうね。それでいいのよ」

 星が煌めき、風が囁き、大気が震える。

「知的生命体に限らず、万物は己の内に仮想現実を所有している。目にし、耳にし、触れたものを現実だと認識 しているだけに過ぎず、結局は己の脳が見せるまやかしなのだ。そのまやかしを共有し、同調し、融合しうる相手を 見つけ出すことが、その仮想現実を現実たり得る手段だ」

 男は女の頬をなぞり、三本目の足を曲げて身を屈めた。

「それが、私にとっての君だ」

「そして、私にとってのあなたであり、彼にとっての私達なのよ」

 本来あるべき姿と同じ姿で、女は笑う。やはり、本来あるべき姿と同じ姿で、男も笑う。

「その通りだ」

「ねえ」

 女が男に甘えると、男は膝を付いて目線を合わせた。

「なんだ」

「まだ、言ってもらってなかったことがあるわ」

 女が悪戯っぽく微笑むと、男は平坦に返した。

「言葉にすれば、情報は曖昧になるが」

「けれど、言わなければ、具現化しないままだわ」

 どこか得意げな女に、それもそうだな、と男は納得し、言った。

「愛しているよ、私のアリシア」

「愛しているわ、私のゲオルグ」

 二人の影が重なると、一筋の青い軌跡が星空から去っていった。今し方、ヒルダがガイスト号を操って惑星クーへ 帰還したのだろう。主無き家が残る星に到着したら、一部始終をエーディに報告するはずだ。エーディは呆れるだろうか、 それとも怒るのだろうか。どちらにせよ、自分達が旅立ったことを悔いてくれる相手が存在しているのは素晴らしいことだ。 もっとも、彼にとっては不本意な結末かもしれない。だが、それはあくまでも他者の視線であり、二人の見ている世界とは 違う感覚だ。だから、今、ゲオルグとアリシアは幸福だ。肉体から意識を乖離し、死を放棄し、過去も未来も永遠に訪れない 黄昏の世界、惑星ヴァルハラとアリスの残滓が成した仮想現実に没し、宇宙と無数の星々が構成した情報の海に溶ける日が 来るとしても、嘆くことはない。
 それが、二人の選んだ世界だからだ。


 酸の雨は止まない。
 アリシアが、ゲオルグが、そして、ヴァルハラが生きているから。

 今日もまた、星は涙する。
 




THE END.....




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あとがき