酸の雨は星の落涙



第二話 不実なる事実は






 実験は成功した。
 だが、その結果は良好とは言い難い。私の浅はかな考えで、犠牲者を増やしただけだからだ。
 最初は城と庭園、従順な使用人、次に可愛らしい愛玩動物、支配する都市、そして今回の王子様。
 いずれも私の思考により、具現化した事象だった。幻覚などではなく、物質を伴った現実に等しい空想だ。
 実験を繰り返すことは不本意ではあるが、実証しなければデータを得られないからだ。
 人道的に外れたことだとは承知している。だが、実験しなければ、私は事態を打開出来ずに朽ちていくだけだ。
 この文書を目に留めてくれることはないだろうが、この場にて、ゲオルグ・ラ・ケル・タ一等宙尉に謝罪する。


 アリシア・スプリングフィールドの日記より




 朝は訪れた。
 それも、何事もなく。プラズマ弾が貫通した感触が残る主眼の義眼に触れるが、穴は空いていない。視界も良好で脳も無事で、 アンダースーツは血液に汚れていない。但し、プラズマライフルの残存エネルギーが減っていた。ゲオルグは身を起こしたが、主眼に 映るものの違いに若干混乱した。アリスを撃ったが弾が跳ね返り、ベランダで死んだはずが、いつのまにかアリスの隣で眠っていたからだ。 鼻腔には花の匂いが入り混じった少女の匂いがまとわりつき、胸焼けがする。ベッドから下りようとすると、三本目の足に細い腕が 絡み付いてきた。

「一人にしないで」

 アリスはぱちりと目を開け、ゲオルグに縋った。

「なぜだ」

 ゲオルグが聞き返すと、アリスは目元を擦った。

「解り切っているわ」

「俺は」

 何も解らない、と返そうとしたが、ゲオルグは理解した。アリスは一人になりたくない。アリスは誰かの傍にいたい。アリスは他者を 求めて止まない。アリスは寂しい。アリスは退屈だ。それが生身と機械の脳に染み渡ると、ゲオルグの体の自由は奪われた。

「アリス」

 ゲオルグはアリスに向き直り、腕を差し伸べた。

「ほら、やっぱりね」

 アリスは微笑み、ゲオルグの手を取って起き上がった。

「ヒルダ」

 アリスが呼び掛けると、寝室の扉が開いてヒルダが顔を覗かせた。

「承知しております。朝食の御用意は整っておりますので、その前のお着替えを」

「今日はいいわ。着替えはゲオルグにやってもらうから」

「承知いたしました」

 ヒルダはかすかなモーター音を響かせながら礼をし、扉を閉めた。

「さあ、ゲオルグ」

 アリスに促され、ゲオルグは頷いた。

「解った」

 実のところ、何も解っていない。解った、と意志とは無関係に声帯が動いてしまう。先程も、アリスの要求が外部から情報を 流し込まれるかのように伝わってきたが、伝わってきただけであって受け入れたわけではない。だが、ゲオルグ自身の意志を 無視して体が動いていく。脳を切り離されたかのような違和感に苛まれながら、ゲオルグはアリスを追う形で猫足のワードローブに 向かった。アリスはワードローブの両開きの扉を開き、はち切れんばかりに詰まっているドレスを両手で示した。

「ねえ、今日はどれがいいかしら? ゲオルグが決めて下さらない?」

「俺は」

 ドレスの趣味など解らない、と思ったがやはり言えず、薄い水色のドレスを指した。

「そう。私もこれがいいって思っていたのよ」

 出して、とアリスにせがまれ、ゲオルグは分厚い皮膚に覆われた無骨な手で繊細なドレスを出し、彼女に渡した。

「次は髪飾りを選ばなくっちゃ」

 アリスは薄い水色のドレスをドレッサーの椅子に掛けてから、ワードローブの隣のタンスの上にあるアクセサリーボックスを開け、 重たげな宝石が付いたバレッタや華やかなリボンを取り出し始めた。

「ねえ、ゲオルグ」

「解っている」

 やはり何も解っていないのに解っていると答えたゲオルグは、アリスの肩越しに煌びやかな箱を見下ろした。

「これだ」

 ゲオルグが指したのは、白いバラを模った髪飾りだった。

「そう、私もそう思っていたところよ」

 アリスは満足げに微笑み、滑らかな絹のネグリジェを脱いで下着姿になると、ドレッサーの椅子に腰掛けた。

「靴下を履かせて」

 ゲオルグは言われるがままに前両足の膝を付くと、目の前にアリスの細い足が差し出された。薄い爪が付いた短い指が並ぶ 素足は足の裏も皮膚が柔らかく、太股も脹ら脛も産毛が薄く生えているだけで余計なものはない。ひたすらに清らかなシュミーズの下を 指で摘んで持ち上げたアリスは、さあ、と促してきた。ゲオルグはタンスのどこに何が入っているかも解ってしまっていたので、 タンスの下段を開けてドレスに合う薄く長い靴下を取り出すと、アリスの足先に被せ、するすると太股の中程まで引き上げた。

「ん…」

 くすぐったげに吐息を零したアリスは、もう一方の足も差し出した。ゲオルグはその足にも靴下を被せ、するりと引き上げる。 アリスの両足が薄い布地に覆われると、アリスは立ち上がった。ゲオルグはファスナーを外したドレスを床に広げると、アリスは ドレスの中に立ったので、ゲオルグはドレスを引き上げてアリスの腕を通させ、長い髪を挟まないように持ち上げながらファスナーを上げた。 たっぷりとした金髪を背中に垂らしたアリスは、再び椅子に腰掛けた。ゲオルグは椅子を回して大きな楕円形の鏡に向き直らせると、 なぜ知っているのかと最早疑問に思うことが無駄だと思えるほどの自然な動作で、ドレッサーの引き出しを開けて櫛を取り出していた。

「ねえ、ゲオルグ」

 後ろの髪を丁寧に梳かれながら、アリスが呟いたので、ゲオルグは手を止めずに返した。

「なんだ」

「昨日の夜、何か、した?」

「いや」

 ゲオルグはアリスを狙撃した記憶はあったが、やはり言葉には出来なかった。

「そう。だったらよろしいのよ、ゲオルグ。けれど、私に断りもなしにベッドからいなくなったりしないで」

「解った」

「ずっと、ずっと、私の傍にいて」

「なぜだ」

「なんだってよろしいわ」

 髪を梳いているゲオルグの手を取ったアリスは自分の頬に導き、体温が低く硬い手の感触を味わった。

「だって、あなたは私の王子様なんだもの。ねえ、ゲオルグ」

「ならば、君は俺の何なんだ」

 ようやく自分の意志で言葉を発したゲオルグが問うが、アリスは鏡の中で笑うだけだった。

「さあ、なんでしょうね。それはあなたがお決めになることよ、ゲオルグ」

 決められない立場だから、聞いているのだ。ゲオルグはそう言おうとしたが、喉が詰まって言葉にならなかった。仕方なく、 アリスの髪を整える作業に戻った。強化セラミックアーマーに覆われてモーターとシリンダーで動く左腕ではアリスの細すぎる髪を 上手くまとめられないが、右腕ではウロコに引っ掛かって切れてしまいかねない。ゲオルグは機械部品の珪素回路を扱う時にも 匹敵する注意深さで、アリスの緩く波打った金髪を両サイドから一束ずつ取ると、櫛と一緒に取り出した結び紐で結ってから 白いバラを模った髪飾りを差し込んだ。手鏡を使って合わせ鏡にし、アリスに出来映えを見せてやると、アリスは満足げに笑った。
 そして、ゲオルグにキスをした。




 城の大広間で、アリスは長々と朝食を摂った。
 大広間はとにかく巨大で、戦闘機のハンガーがすっぽり収まるのではと思うほどの規模の空間だったが、食卓として 整えられたテーブルがあるのは広大な空間の中央だった。その他には、作者不明の絵画や彫刻があるだけだ。
 当然ながら、ゲオルグも朝食に付き合わされた。ヒルダが細々と運んでくる異文明の料理は、見た目ばかりが綺麗で 味も薄ければ量も少なく、大柄な兵士であるゲオルグの胃袋を満たすほどのものはなかった。しかし、食べなければ 体力の消耗も回復出来ず、脱出に必要な力が湧かない。だから、ゲオルグはオードブル、スープ、パン、肉料理、魚料理、 デザートの順に出てきたものを順番に平らげていった。どれもこれも食べ慣れない味付けだったが、中性で味気ない水と 多少は酸味が効いた果汁のジュースで流し込み、胃袋に収めた。朝食の席にはエーディもいたが、彼はスープと主食だけを 出されていて、時折にゃあと鳴いては愛玩動物らしい態度を保っていた。

「ねえ、ゲオルグ」

 レモンのシャーベットを食べ終えたアリスは、スプーンをカクテルグラスにからりと置いた。

「なんだ」

 今一つ満たされない胃袋を誤魔化すために水を何杯も飲んだゲオルグが返すと、アリスは頬杖を付いた。

「なんでもなくってよ」

 ふふふ、とアリスは照れ笑いした。ゲオルグはピッチャーからコップに移し替えるのが面倒になり、ピッチャーから直接水を 流し込んで胃を膨らませてから答えた。

「ならば、問うな」

「あら、冷たい方」

 アリスは唇を尖らせるが、顔は笑ったままだった。

「今日はお庭に出掛けない?」

「なぜだ」

「だって、こんなにも良いお天気なんだもの」

 アリスは顔を上げ、天井に届くほど大きな縦長の窓から青い空を見上げた。

「だから」

 なんだと言うんだ、とゲオルグは言いかけたが、また言えなくなった。

「ヒルダ」

 アリスが食べ終えた皿を片付けているヒルダに声を掛けると、ヒルダは胸に手を当てて礼をした。

「では、お弁当をお作りいたします」

「どこへ」

 出掛ける気なのだ、とゲオルグが問おうとすると、アリスは紅茶を傾けた。

「お庭を歩きましょう。二人だけで、ずうっとね」

「他の連中は」

「エドはお昼寝で忙しいわ。ヒルダは城の御仕事で忙しいわ。だから、ゲオルグと私だけで行くのよ」

「なぜだ」

「あなた、そればかりね。けれど、可愛らしいわ」

 アリスはティーカップをソーサーにそっと置き、目を細めた。

「ゲオルグは私の王子様なのよ。だから、私の傍にいてくれれば、それだけでよろしくてよ」

「だが、俺は」

「私に口答えなさる気?」

 アリスの細い眉根が顰められ、眼差しがきつくなった。途端に、ゲオルグの喉は機能を失って強張った。だから、ゲオルグは 物理的な問題で言い返せずにいると、アリスは悠長に紅茶を飲み干してから満足げに頷いた。

「そう、それでよろしいのよ」

 今日もおいしかったわ、と言いながら椅子を引いて立ち上がったアリスは、言葉だけでなく呼吸にも苦労しているゲオルグに 近付くと、真下から覗き込んできた。

「また着替えを手伝って下さる? 外に出るんだもの、着替えなければならないわ」

 アリスの人差し指が伸び、ゲオルグの水に濡れた口元を押さえた。

「また、なぜだ、なんて言ったりしたら許さなくってよ」

 骨も細ければ肉も薄い指に押さえられた口元を動かすことも出来ず、ゲオルグは硬直していた。恐怖や戦慄などではなく、 筋肉が固まったことによる物理的なものだ。アリスの指が下がるとゲオルグの首も下がり、頷かされた。

「そう、それでよろしいの」

 アリスはゲオルグの口元から人差し指を外すと、ドレスの裾を翻して背を向けた。

「衣装部屋で待っているわ。私を待たせることも許さなくってよ」

 両開きの扉に向かったアリスに、ヒルダがすかさず続いた。アリスの歩調に会わせて先回りして扉を開き、アリスが出た後に 追って出ていった。アリスの足音とヒルダの駆動音が遠ざかると、思い出したようにゲオルグの首と喉の筋肉が緩み、呼吸が戻ってきた。

「ああ、やれやれ」

 名残惜しげに皿を舐め尽くしていたエーディは、長方形のテーブルの上を歩いてゲオルグに近付いてきた。

「おい、窒息してねぇだろうな?」

「多少の酸欠には陥ったが、問題はない」

 ゲオルグは喉の動きを取り戻そうと水を飲もうとしたが、ピッチャーは空になっていた。

「で、ゲオルグ、お姫様とお散歩に行くつもりか?」

 エーディはゲオルグの前に座ると、ゲオルグは返した。

「いや」

「昨日言ったじゃねぇか、機嫌を損ねるなって。昼寝するまでは付き合ってやれ。優雅なお散歩が終わったら、俺に付き合えよ。 いいものを見せてやる」

「それはなんだ」

「後のお楽しみだよ。んじゃな、王子様」

 エーディはテーブルから飛び降り、二足歩行で歩き出した。ゲオルグはピッチャーを置き、エーディに続いて大広間を後にした。 ずらりと並んだ窓から朝日が差し込む回廊は眩しく、ゲオルグは主眼と副眼の採光を絞った。エーディの真っ直ぐ立った尻尾は 歩調に合わせて左右に揺れ、ぺたぺたと小さな足音が連なった。その後ろに、セラミックアーマーのブーツを履いたゲオルグの 硬い足音が重なり、壁に反響しては消えていく。途中でエーディは中庭に出たが、ゲオルグはアリスの衣装部屋に向かうために 階段を上り始めた。一階、二階、三階、四階、と上がるたびに、アリスのはしゃいだ声が近付いてきた。衣装部屋が何階にあるかは 教えられなかったが、やはり理解していたゲオルグは、迷わずに五階に入って一室の扉を開け放った。
 間もなく、体の自由を奪われた。





 


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