酸の雨は星の落涙



第二話 不実なる事実は



 ゲオルグの主眼の前では、日傘がくるくると回っていた。
 白いレース地で作られた日傘は白い恒星光を跳ね、主眼を照らした。金色の軸もちかちかと点滅するように光を跳ねたので、 ゲオルグは思わず主眼を覆いかけた。日傘の主であるアリスは、ドレスより裾が短めのワンピースを着ていて、ブーツを履いた 足を浮つかせながら歩いていた。両肩の袖は膨らみ、腰は高い位置で絞られ、フリルとレースの付いた短いエプロンを結んで 腰の後ろに作った大きなリボンを揺らしていた。ワンピースの色は鮮やかな朱色で、庭園に咲き乱れる花々よりも派手だった。

「ねえ、ゲオルグ」

 足を止めずに振り返ったアリスに、バスケットを提げたゲオルグは言った。

「なんだ」

「このお庭、綺麗でしょう?」

 アリスは自慢げな顔でゲオルグに向き直ると、ゲオルグはぐるりと周囲を見回した。アリスと共に城を出て歩き始めてから 小一時間は経過したが、未だに城の庭園の中だ。花壇がなくなったと思えばバラの生け垣が現れ、噴水も一つや二つではなく、 花の種類も膨大だ。だから、進むたびに色彩の暴力が主眼と副眼を襲ってくる。人工視神経と繋がった脳がむず痒くなる煩わしさだ。 よって、庭園を綺麗だと感じる余地もなければ綺麗だと思う理由がなかったため、ゲオルグが答えずにいるとアリスがむくれた。

「もう」

 また喉が詰まるのか、とゲオルグは内心で身構えたが、筋肉は硬直しなかった。

「あなた、もっと喋って下さらない?」

 アリスはゲオルグに歩み寄り、小首を傾げた。

「な」

 なぜだ、と言いかけて自分の意志で押し止めたゲオルグは、言い直した。

「理由を提示してくれ」

「理由?」

 アリスは怪訝そうに首を傾げ直したが、肩に掛かった髪を払った。

「言うまでもなくってよ。せっかく二人でお散歩しているのに、何もお話ししてくれないなんて退屈だわ」

「口述すべき事項はない」

「色々あるわよ。そうね、たとえば」

 アリスはゲオルグの左腕を取り、滑らかなセラミックアーマーを撫でた。

「ゲオルグがどこから来たのか、教えて下さらない?」

「なぜだ」

「だって、気になるんですもの」

「ならば、他の連中のことは」

「あれは気にならないわ。エドは可愛いだけで充分だし、ヒルダも素直に言うことを聞いてくれていればよろしいの。 けれど、ゲオルグは違うわ。だって、私の王子様なんですもの」

「俺は王族でもなければ貴族ではない。その認識は誤りだ」

「女の子を幸せにしてくれる殿方は、どんな世界でも王子様なのよ」

 アリスはゲオルグの左腕に自身の右手を這わせ、口元を持ち上げた。

「ならば、アリスは俺が来たことで幸せになったのか」

「ええ、もちろん」

 アリスはゲオルグの左腕を抱き締め、満面の笑みを見せた。

「あちらで一休みしましょう、ゲオルグ」

 アリスが指した先に、円形のバラの生け垣に囲まれた東屋があった。ゲオルグはアリスに腕を引かれるがまま、 東屋に向かった。こぢんまりとした東屋には都合良くテーブルと二人分の椅子が設えてあり、ゲオルグの左腕を離したアリスは 小走りに駆け込んだ。ゲオルグは少し遅れて東屋に入り、テーブルに昼食入りのバスケットを置いた。

「朝食を終えてから、三時間程度しか経過していない。尚早だ」

「嫌ね、私はそんなにがっつかなくってよ」

 アリスは日傘を閉じて東屋の柱に立てかけてから、スカートを押さえて椅子に腰掛けた。

「でも、お茶ぐらいは淹れて下さらない? 少し喉が渇いたわ」

「俺は」

 そんな技能は持ち合わせていない、と言いかけたが、ゲオルグはバスケットを開いた。サンドイッチと同梱されている 保温容器には、紅茶が入っているとの情報をヒルダから受け取っている。ゲオルグはアリスの分のティーカップを出し、淹れたての 熱さを保っている紅茶を注いでからアリスに出したが、アリスは不満げに頬を張った。

「違うわ」

「何がだ」

「ゲオルグも一緒にお茶を飲むのよ」

「不要だ」

「もう、あなたって方は」

 お貸しになって、とアリスはゲオルグの手から保温容器を取ると、もう一つのティーカップを出して注いだ。

「はい、どうぞ」

「不要だと言ったはずだ」

 ゲオルグは自分の前に差し出されたティーカップとアリスを見比べたが、アリスはティーカップを突き出した。

「お飲みになって」

「…解った」

 長々と自分の言葉で喋れていたが、またも自分以外の意志で言葉が出た。ゲオルグはアリスの手から、自分の手には 小さすぎるティーカップを受け取った。渋々、ゲオルグが紅茶に口を付けると、思い掛けない甘さが舌にべとついた。香りだけでは 解らなかったが、最初から砂糖が入れられている。大方、アリスの意図に従って動いたヒルダが砂糖を入れたのだろうが、 余計な行為だと思わずにはいられなかった。ゲオルグが甘ったるい紅茶を飲み終えてからアリスを見やると、彼女は 頬杖を付いてゲオルグを見つめていた。

「さあ、お話しになって」

 だが、ゲオルグの言葉は、アリスの未知の力によって封じられている。余計なことを言おうとすると、目に見えない力がどこからか 働き、ゲオルグの意志に反して筋肉を強張らせてしまう。アリスが興味を持たない話や、アリスの意識から逸れるほど他愛もない 雑談ならば問題はないが、アリスに向けて喋るのでは、また喉が塞がってしまう。ゲオルグは、何も言えることはない、とアリスに 言おうと考えたが、そんなことは口にすら出来ない。ゲオルグは思案した後、ずらりと牙の並ぶ幅広の口を開いた。

「俺はアリスについての情報が不足している」

 喉の動きが妨げられやしないかと内心で危ぶみつつ、ゲオルグは言った。

「情報がなければ、アリスの望む答えは返せない。よって、情報の開示を要求する」

「まあ…」

 アリスはゲオルグの答えに目を丸めたが、くすくす笑った。

「よろしくってよ。私のことを知りたいのなら、もっと簡単な言葉で仰ればいいのに」

「簡潔な表現に終始した」

「それが簡単でないのよ」

 アリスは椅子を引いて立つと、ゲオルグの傍にやってきた。

「でしたら、もっと近付かなければならないわ」

「なぜだ」

 ゲオルグが訝ると、アリスはゲオルグの筋肉が張り詰めた左足に腰掛け、胸に寄り掛かってきた。

「また理由が欲しくって?」

「理由がなければ合意出来ない」

「あなたの合意は必要なくってよ。必要なのは、私の願いだけ。それ以上の理由なんて、この世にあって?」

「…いや」

 この距離なら、容易く首を折れる。そう判断したゲオルグは右手をアリスの首に伸ばそうとしたが、案の定右腕が強張り、 動かせなくなった。アリスはゴム製のアンダースーツに覆われたゲオルグの胸に手を添え、笑みを零す。

「だから、私があなたに教えることはたった一つだけ。私はこの世のお姫様。そして、あなたは私の王子様」

「アリス」

 それは俺の任務とは異なる、と言おうとしたがやはり言えず、ゲオルグが口に出すことが許されたのは、少女の姿をした 暴君の名だけだった。アリスは満足した様子で、にいっと目を細めた。

「そう、それだけでよろしいのよ」

「アリス」

 ゲオルグは己の意志を阻まれる苦痛と戦うが、口から出るのは、やはり彼女の名だけだった。

「そうよ、そうなのよ、ゲオルグ」

 アリスが両腕を伸ばすと、ゲオルグは意志に反して首を差し出してしまい、アリスの腕に引き寄せられる。

「ねえ、ゲオルグ」

 主眼には、美しいが故におぞましい暴君の笑みだけが映る。

「愛していると、言って?」

「な」

 なぜだ、と言いたかった。合理性がない、と言いたかった。意味が解らない、不要な行為だ、発言の意図が理解出来ない、 説明を要求する、と言えるものなら言いたかった。だが、その全てが押し殺され、生身の脳の内側で渦巻いてはいずこへと 消えてしまった。ゲオルグは動きの戻った右腕でアリスの後頭部を掴んで力任せに引き剥がそうとしたが、手に力が戻らず、 その柔らかな金髪を撫でることしか出来なくなっていた。

「ねえ、私の王子様」

 舌に残る砂糖よりも花の匂いよりも甘く、アリスがねっとりと囁く。

「アリス」

 この頭を砕き、両目を潰し、喉を握り、心臓を抉れたら、解放されると認識していた。だが、ゲオルグはそのどれも行動に 移すことが出来ないまま、自分でも呆れるほど優しい仕草でアリスを抱き寄せていた。

「さあ」

 再三、アリスが促す。ゲオルグはアリスの細くも小さな体を抱え、背を丸めて顔を寄せた。

「俺は」

 愛していると言えと言われても、求められる意味が解らない。たとえ、解っていたとしても、言いたくなかった。記憶の片隅に 引っ掛かっている、過去の自分が感じていた感情の残滓が震えている。しかし、その震えは砂粒が擦れ合う音よりも儚く、小さすぎて、 ゲオルグの意志に見えざる意志に勝つ力を与えるほどではなかった。だが、思考に変化を与えるには充分すぎるものだった。

「アリス」

 ゲオルグは唯一自由に発することの出来る彼女の名を繰り返し、左腕を広げ、彼女を引き剥がした。

「なあに?」

 期待と照れを込めて見上げてきたアリスに、ゲオルグは身を屈めた。

「アリス」

 ぐ、とアリスの小さな肩を押さえたゲオルグは、自身の口先で彼女のふっくらとした唇を塞いだ。この行為にどんな意味が あるのかは理解しかねるが、アリスの口を塞ぐには有効な行為だ。ん、とアリスは僅かに抗ったが、ゲオルグの胸に 添えられた手が背中に回ってきた。図らずも抱き合う形となり、ゲオルグは両腕に力を込めて戒めを強めた。このままアリスの 背骨を折ってしまえれば、何もかもが終わってくれるのだが。

「ゲオルグ…」

 ごつごつとした彼の背から手を離したアリスは、赤らめた頬を押さえた。

「あなたって、不思議な方ね」

「それは俺が言うべき言葉だ、アリス。君は不可解だ」

 ゲオルグはアリスの匂いが濃く残る鼻先を気にしつつ、身を引いた。

「けれど、嬉しいわ」

 アリスは名残惜しげに口元を拭ってから、ゲオルグの肩に頭をもたせかけた。

「だったら、あなたが私を理解したら愛していると言って」

「解った」

 もっとも、その時は永遠に来ないだろうが。ゲオルグはアリスの感触がこびり付いた口先を手の甲で拭ってから、 アリスを窺った。いつになく弛緩しているアリスはゲオルグのアンダースーツを強く掴んでいて、当分離してくれそうになかった。 実のところ、ゲオルグは空腹を感じ始めていたが、アリスが許してくれなければ昼食に手を付けられないだろう。それが、 この城とこの星の道理なのだ。体感時間で一日が過ぎてみると、嫌でも身に染みてくる。ゲオルグは戦闘機の操縦法や 銃器の扱い方を忘れてしまわないかを危惧しながら、アリスの気が済むまで甘えさせた。
 何事もなく、昼食にありつくために。





 


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