不測の事態だ。 だが、彼らとの接点が完全に失われたというわけではない。 完全に手詰まりに陥ったわけではなく、これもまた好機と捉えて行動に移すべきだ。 破損箇所の確認と共に修復作業の開始。それと平行し、彼らの肉体と意識の座標のずれを補正。 諦観するには、早すぎる。 アリシア・スプリングフィールドの日記より 海は、果てしなく金色だった。 真珠の粒のように煌めく気泡が無数に沸き上がり、波間で爆ぜて金色の粒子を散らしている。それもそのはず、 一夜にして都市と庭園を浸食した海はアップルソーダで出来ていたからだ。その証拠に、潮の匂いならぬリンゴの匂いが 風に乗って運ばれてきた。その甘ったるさにゲオルグは胸焼けがしそうになったが、アリスの手前、堪えないわけには いかない。そのアリスはと言えば、ゲオルグに抱え上げられてベランダから身を乗り出しながら、アップルソーダの 海を見つめてはしゃいでいた。 「凄いわ、これが海なのね」 違う、と言おうとしたが喉を動かせず、ゲオルグは否定出来なかった。ゲオルグの知る海も泡立つ海ではあるが、 成分が大きく異なる。濃度の高い酸性の液体で、塩分を始めとしたミネラルが溶け合っているが、酸が強すぎるために 海底の岩盤が少しずつ溶かされて常に泡立っている。だが、定期的に火山が噴火して溶岩を新たに広げていくので、 海底が溶けきることはない。よって、ゲオルグの知る海はこんなに甘ったるいものではない。それ以前に、この世界に 存在する物体の全てが甘ったるい。まるで、アリスの価値観をそのまま引き摺り出したかのようだった。 アリスは感嘆しながら海を見渡していたが、肘でゲオルグの胸を押して下ろすように促した。ゲオルグがアリスを 下ろすと、アリスはベランダから寝室に駆け戻り、隣の衣装部屋の扉を開けた。 「出掛けましょう、ゲオルグ!」 「どこへ」 「どこって、それは海に決まっているわ。海が出来たのなら、遊ばなきゃ」 アリスは手当たり次第に服を引っ張り出し、床にぶちまけている。 「だが、移動手段がない」 ゲオルグは窓を閉めてから衣装部屋に入ると、色とりどりの服に囲まれたアリスは笑った。 「あら、そんなのは平気よ。だって、ヒルダがいるじゃない」 「だが、彼女は」 「ヒルダは何でも出来るのよ。だって、私のメイドだもの」 アリスは鍔の広い帽子を取り出して被ると、姿見を覗き込んだ。 「だが、それは」 何の根拠もない、とゲオルグが言いかけると、アリスはワンピースを体に当てながら振り返った。 「だって、ヒルダは役に立つのが当たり前なのよ。役に立たないなんて、そんなのはヒルダじゃなくってよ」 上機嫌なアリスは、髪型を思案しながらヘアアクセサリーを取り出し始めた。すると、階下からヒルダの悲鳴のような 合成音声と同時に壁と扉が一度に破壊されたような轟音が発生し、ゲオルグはすかさずハンドガンを抜いてベランダから 正面玄関を見下ろすと、ヒルダの外装と同じ配色のプレジャーボートが飛び出していた。どうやら、アリスのせいでヒルダの 形状が海遊びに最適な形態に変化してしまったようだった。ゲオルグはアリスが衣装選びに夢中になっている間に寝室から 脱すると、長い階段を下りて正面玄関のあるホールに入った。そこには、アップルソーダの波が打ち寄せている階段に ピンクと白のプレジャーボートが飛び出していた。 「ヒルダか」 ゲオルグが問うと、ピンクと白のプレジャーボートはヒルダの声で答えた。 「ええ、まぁね…。なんでこんなことになっちゃったのかしら…」 「この前、ゲオルグがロボットになったのと同じことだろ」 ヒルダがぶち抜いた両開きの扉を擦り抜けたエーディは、コップでアップルソーダの海水を汲んだ。 「おい、王子様。毒味しろ」 「なぜだ」 ゲオルグが疑念を示すと、エーディはアップルソーダが並々と入ったコップを抱えて飛んできた。 「なぜってそりゃ、この星の海水はアルカリ溶液だからな。うっかり死んだら嫌だからに決まってんだろ。ほれ」 と、エーディがコップを突き出すが、ゲオルグは受け取らなかった。 「アルカリ溶液は俺の体液でも中和不可能だ」 「そのアップルソーダがアルカリ性だとしても、ゲオルグの胃液と混じって真水になるわけがないでしょ」 ヒルダ・ボートはごとごとと船体を揺らすが、上手く動かなかった。 「ああ、もう、動きづらいわね! 足が欲しいわ、足が!」 「んじゃ、押してもらえばいいじゃねぇか。王子様によ」 エーディはコップに入ったアップルソーダの匂いを嗅いだが、舌は付けなかった。 「エドは当てにならないし、このままじゃまたアリスに何言われるか解ったもんじゃないわ。とにかく、私を動ける状態に してくれないかしら?」 斜めになったまま扉をぶち抜いているヒルダに懇願され、ゲオルグは彼女に近付いた。 「了承した」 ヒルダ・ボートは大きかった。さすがにゲオルグの戦闘機とまではいかないまでも、全長十五メートルほどはある立派な 船舶だった。居住部分も広く、長期の滞在にも耐えられそうだ。後部には大型のエンジンとプロペラが一基搭載されていて、 ある程度なら速度も出るだろう。ゲオルグは二十数トンはありそうなヒルダ・ボートが自力で動かせるとは思っていなかったが、 正面玄関前の階段の傾斜とアップルソーダの海の浮力を利用すれば少しは動かせるはずだと踏み、ヒルダ・ボートの後部に 左肩を当てて踏ん張った。すると、いやに呆気なくヒルダ・ボートは進水した。 「あら?」 浅く打ち寄せる金色の海に滑り落ちたヒルダ・ボートは、その場でプロペラを回して進んでみた。 「そうか、解ったわ。私の外見は変わっても、質量はほとんど変わっていないからよ」 「そいつは怖いね、風に煽られりゃ一発で転覆するぜ」 エーディはコップに汲んだアップルソーダを飲むか飲むまいかを迷っていたが、結局海に戻した。 「となれば、この都市は元々それ相応の質量を持った物体だったってことか。てぇことは、うん…」 エーディは身を屈めて目を凝らし、金色の泡立つ海に沈んだ都市を睨み付けた。が、ヒルダ・ボートが巻き上げた アップルソーダの波が襲い掛かり、頭から尻尾の先までべっとりと濡れてしまった。 「うおおおおおっ!?」 アルカリ溶液だと思っていたエーディは全身の体毛を逆立てたが、体毛も皮膚も溶けなかった。 「あ…」 エーディは口元に滴った海水を舐め、脱力した。 「普通のアップルソーダだぜ、こりゃ。驚いて損した。けど、驚きすぎてせっかく浮かんだ考えが吹っ飛んじまった」 体洗ってくる、とエーディはべたつく足跡を残しながら、玄関ホールから立ち去った。それと入れ替わりに、海遊びらしい 服装のアリスが階段を駆け下りてきた。 「さあ、出掛けるわよ!」 鍔の広い麦藁帽子に白いセーラーのワンピースを着たアリスは、荷物で膨らんだトートバッグを抱えていた。 「あら、エドは?」 「自室だ」 ゲオルグがエーディの行き先を指すと、アリスはバッグをゲオルグに投げ渡した。 「まあいいわ、エドはお留守番ね。じゃ、行きましょ」 「仰せのままに、御嬢様」 先程とは一転してしおらしい口調になったヒルダ・ボートは、後退して正面玄関に接岸して乗り降りするための階段を下ろした。 アリスは真っ先にヒルダ・ボートに乗り込み、ゲオルグもそれに続いた。程なくしてヒルダ・ボートは発進したが、エーディは取り残された ままだった。ゲオルグは彼の動向が気になったが、アリスに船首部分に来るように促されたのでそちらに向かい、並んで進行方向を 見ることになった。金色の海に取り囲まれた城は間もなく遠ざかり、海に沈んだ庭園も門も都市も遠のいていった。凄いわね、綺麗ね、 とはしゃぐアリスに気のない返事を返しながら、ゲオルグはベルトに付けた物入れに手を添えていた。 その中に隠した日記帳の錠前は、質量の割に重みを感じた。 軽やかなエンジン音は、もう聞こえなくなっていた。 それだけで、心の底から安心する。エーディは鉛とアルミフィルムを貼り付けた分厚い扉を苦労して閉めてから、稼働したままの コンピューターの前に飛び乗った。計算途中だった数式を解析するためにキーボードを叩いていると、肉球に返ってくる重みのない 手応えに尻尾が垂れ下がった。人数が限られていても、やはり他者と接するのはたまらなく苦痛だ。口では調子のいいことを言って いるようだが、その実は考え抜いて喋っている。不用意なことを口にしたがために、無用な怒りを買って嫌われたことは数知れない。 だから、外に出るのは嫌だ。コンピューターの冷却ファンが回る音とモニターから発せられる平坦な光を浴びながら、エーディは 深く深く息を吐いた。 「出たいのは本音だ」 この星から脱すれば、また任務に戻らなければならない。惑星探査員としてやらなければならないことや、収集しなければ いけないサンプルや、集計しなければならない情報も多い。惑星探査員は宇宙飛行士としての才能と同時に科学者としての才能も 要求される職業で、選ばれた時はエーディでさえも嬉しいと思った。宇宙に出てしまえば、誰とも関わらずに宇宙船の中に閉じこもって 暮らしていけるからだ。だが、惑星探査が終われば惑星イリシュに帰らなければならず、また他者と接しなければならなくなる。 「けど、楽なのも本当だ」 エーディは顔の両脇から生えたヒゲを下げ、三角の耳を伏せた。 「俺は何をどうしたい?」 正直、アリスを羨む瞬間がある。誰からも否定されず、疎まれず、もてはやされるだけなのだから。だが、それは偽物だ。 エーディはその壮大な嘘の犠牲となり、アリスの訳の解らない力によって忠誠を誓わされている。しかし、逆の立場だったら どうだろう、とも思ってしまう。口うるさいが有能なコンピューター、寡黙かつ無感情だが頼れる軍人、そして、ただの愛玩動物。 そう思うようになってしまうと、尚更、惑星ヴァルハラを離れがたい気持ちが湧いてきてしまう。けれど、偽りの世界に縋って 生きることは最低だ。一介の科学者としては、この状況を解決し、母星に帰ることが最優先なのだ。 「あなたは帰りたいの? それとも、帰りたくないの?」 エーディの翼の生えた背中に、あの小さな手が添えられる。 「ねえ、エド」 「俺は…」 モニターに映り込んだアリスを見上げたが、エーディの胸中には動揺が入り込む隙間もなかった。 「解らん。帰りたい気もするが、帰っちまえば、俺は」 「どうなってしまうの?」 コンピューターを載せたデスクに腰掛けたアリスは、エーディを膝に乗せて優しく撫でてきた。 「好かれることもなくなっちまう」 背中の毛並みを撫でる手の暖かさにほだされそうになる自分が嫌で、エーディは目元をしかめた。 「ああ、俺だって解っているさ。矛盾しているってことぐらい、重々承知している。俺は誰にも好かれることはねぇし、好かれる ような性格じゃないし、周りだってそうだった。だから、俺も長いことそうやって生きてきたんだ」 「けれど、あなたは」 「寂しいに決まってる。どれだけ突っ張ってみたって、結局のところ、俺はどうしようもねぇんだ」 「ええ、そうね」 アリスはエーディを撫でる手を止め、アップルソーダを洗い流したために水気が残る翼に触れた。 「けれど、なぜ、あなたはそれを誰にも言わないの?」 「言えるかよ、こんなこと。俺みたいな奴がしおらしいことを言ったって、気持ち悪いだけだ」 「そうかしら」 「そうなんだよ」 エーディはアリスの手に身を委ねながら、とろりと目を細めた。 「なあ、アリス」 「なあに、エド」 「お前は俺のアリスなのか? それとも、ゲオルグとヒルダと一緒に海に出たアリスなのか?」 「あなたのアリスよ、エド」 「じゃあ、また殺さないとな。これまで、俺はお前を何度も殺してきたんだ。殺せないのは、ゲオルグのアリスとヒルダのアリスだ。 俺のアリスなら、俺が殺せるはずなんだ」 エーディは首を上げ、穏やかな微笑みを向けてくるアリスを見上げた。 「アリス、お前は危険だ。俺達が弱っている時に、お前は弱みに滑り込んでくる」 「だって、それが私なのだもの。それをしなければ、私はアリスではないわ」 「それが危険だってんだよ。最高の人心掌握術だからな」 「じゃあ、エドは私が本当は何なのか解っているのね?」 「薄々はな。だが、俺にも人並みに弱みはある。こうやってお前に甘いことを言われると、外に戻ろうって気も、踏ん張って 生きようって気も、ガンガン削げていっちまう」 アリスの肌触りの良いワンピースに包まれた華奢な膝に顔を埋め、エーディは浅く爪を立てた。 「なあ、アリス」 「なあに、エド」 「お前は、幸せか?」 「ええ、幸せよ」 アリスは笑う。エーディは笑うことすら出来ず、彼女のワンピースに立てた爪を引っ込めた。アリスの正体について明言する のは、アリスを殺すことよりも余程恐ろしい。それはもちろん、幼稚で屈折した世界に浸って過ごす快感を振り払えないからだ。 こんな時間を、これまで何度過ごしてきただろうか。いずれ浮上しなければならない。切り捨てなければならない。だが、抵抗しきれて いない。エーディはアリスの膝の上に丸まり、その手に身を委ねた。 程なくして、蜜よりも甘い眠りが訪れた。 10 2/17 |