酸の雨は星の落涙



第六話 私情による施錠



 エンジンを止めたヒルダ・ボートは、錨を降ろした。
 アップルソーダの海には海流らしい海流はなかったが、念のためだ。航海の途中で眠気を催したアリスは船室で 眠っていたが、エンジン音が止まったことに気付いて起きてきた。目を擦りながら船室から出てきたアリスは、見渡す限り 金色の海が広がる光景に感嘆して満面の笑みを浮かべた。

「広いわね」

「ええ、御嬢様」

 ヒルダ・ボートが穏やかに返すと、アリスは身を乗り出した。

「どんな魚が泳いでいるのかしら。ねえ、ヒルダ」

「御自分でお確かめになるのがよろしゅうございます、御嬢様」

 ヒルダ・ボートが甲板の倉庫を開いて釣り道具を出すと、アリスはそれを取り出した。

「ええ、そうね!」

 体格に合った長さの釣り竿を出したアリスは、大きく振りかぶってウキを投げた。

「そおれっ!」

 真っ直ぐに飛ばされたウキは、小さな水音を立てて波間に沈んだ。アリスはヒルダ・ボートが釣り道具と一緒に 出した椅子に腰掛けると、にこにこしながらウキを見つめた。ヒルダ・ボートは船室上部に付いた小型のカメラでアリスの様子を 眺めながら、同時にレーダーで魚影を探した。ヒルダ・ボートの近くには見当たらなかったが、海底の地形が変わっている 箇所には魚らしき影が集まっている。ヒルダ・ボートはその方向に魚雷でも発射して誘導しようかと思ったが、それでは アリスに気付かれる。アリスは軽やかなメロディーの鼻歌を零しながら、ウキを見守っていた。

「ねえ、ヒルダ」

「なんでございましょうか」

「ヒルダは優秀ね」

 アリスは釣り竿のリールをくるくると巻いてから、またウキを投擲した。

「ありがたき御言葉に存じます」

 ヒルダが答えると、アリスは明るい笑顔になった。

「だって、ヒルダは優秀だって決まっているじゃない」

 どこからか吹き付けてきた風がヒルダ・ボートを揺らし、小さな泡が混じる金色の波が立った。それが収まると、船影の 真下にはかつてのヒルダの体である、宇宙船プリュムラ号が沈んでいた。全長は五十メートル以上あり、機密情報を輸送する 船に相応しい重武装でありながら高速飛行を可能にした機体で、一切無駄のない流線型の外装に包み込まれた宇宙船だった。 それを視認した途端、ヒルダの回路がぢりっと痛んだ。

「あなたは優秀よ、ヒルダ」

 君は優秀だ。

「とても綺麗よ」

 君は美しい。

「どの宇宙を探しても、あなた以上に完成された宇宙船はいないわ」

 どの宇宙を探しても、君に勝る宇宙船はない。

「ねえ、ヒルダ」

 アリスの笑顔に、ヒルダが記憶している情報が重なる。それは、かつて、ヒルダを使って機密情報を輸送する任務に 当たっていたエージェントの顔だった。だが、彼は最後になんと言っただろう。惑星ヴァルハラに墜落する軌道に入ってしまった ヒルダは、彼らを救命艇に乗せて排出したが、その寸前にエージェントの一人が吐き捨てた言葉が未だに記憶容量に焼き付いている。

「だから、あなたは役立たずなんかじゃないわ」

 この役立たずが。

「ねえ、ヒルダ」

 アリスの笑顔が、小型カメラのレンズの曇りによって陰っていく。ヒルダは過電流を流されたかのような痛みが走る回路に、 苦痛を感じた。その一言で、それまでに積み上げてきた経験や実績やデータが全て否定された。どれほど優れた宇宙船でも、 墜落してしまったらそれまでだ。だから、どれほど秀逸なコンピューターでも、一度でもミスをしてしまったら電卓以下だ。その 瞬間から、ヒルダは墜ちた。己の体と共に、言葉通りに地に落ちた。

「ねえ、ヒルダ」

 アリスは笑う。

「私はあなたを求めるわ。だから、あなたも私を求めて」

 釣り竿を離れたアリスの手がヒルダの甲板に触れ、小さな体が横たえられる。

「それが最善の選択であり、最良の結果よ」

 最善。最良。最適。最高。最上。

「だから、ね?」

 アリスはヒルダを抱き締めるように、甲板に細い腕を回す。

「私を受け入れて」

 それは出来ない。したくない。するわけにはいかない。アリスは妄想の根源だ。空想を支配して現実を浸食する悪しき 存在であり、ヒルダに命じられた任務に支障を来す。だが、過電流による痛みとアルゴリズムの僅かな乱れが発生している ヒルダにとってはどのプログラムよりも優しい命令だった。ヒルダはアリスの重みを感じながら、船体に打ち寄せる波の柔らかさに 気を緩めかけた。ヒルダのアリスは、どこまでもヒルダを求める。それが道具の幸せだからだ。アリスはそれを解っていて、ヒルダを 道具として利用してくれる。けれど、それは本来の自分ではないと基本プログラムが叫んでいる。それなのに、人工知能が甘言を 欲して止まない。
 それは、致命的なエラーだ。




 どこともつかない場所に、ゲオルグは立っていた。
 傍らには、やはりアリスがいた。だが、その服装はヒルダ・ボートに乗って城を出た時とは異なり、ゲオルグの記憶と 記録回路に馴染み深い格好、帝国軍将校の服装だった。足が一本足りないせいで、軍用ズボンの後方には尻尾のように 長い筒が垂れ下がっていたが、それ以外は上位軍人には違いなかった。侵攻作戦の出撃前にゲオルグが目にした、鏡の中の 自分を思い出させる。ゲオルグは侵攻作戦直前に一等宙尉に昇格したため、嬉しいと思うことは解らなくてもせめて着慣れて おこうと思い、支給されたばかりの軍服を着て鏡の前に立ってみた。だが、着慣れることもないまま、ゲオルグは宇宙での戦いに 駆り出され、惑星ヴァルハラに墜落し、本分を果たせずにいる。

「一尉」

 手袋を填めた手で軍帽の鍔を上げたアリスは、セラミックアーマー姿のゲオルグに向いた。

「なんだ」

「あなたは絶対服従を欲しているわ」

 アリスの背後にはアップルソーダの海も城も庭園も都市もなく、ゲオルグの母星の首都が広がっていた。

「それはなぜ」

「それは、俺にはそれ以外の使い道がないからだ」

「けれど、それはあなたが言ったことじゃなくってよ」

「そうだ」

 ゲオルグは、サイボーグ化したがために実戦配備された。脳を増量した際に神経系統にも手を加えられたため、 それまでには出来なかった戦闘機の操縦も近接戦闘もこなせるようになった。感情を全く表に出せなくなってしまったから、 何も感じない機械と同じだという扱いにされた。だから、傷付くことも平気で言われ、何をされても怒れなくなってしまった。 出身を馬鹿にされても、訓練の成績が良すぎたからというだけで悪態を吐かれても、上官から罵倒されても、子供の頃から 大切にしていた航空機の模型を目の前で壊されても、家族から見放されても、友人だと思っていた者から手酷い裏切りを 受けても、殴り付けられても、蹴り付けられても、侮辱されても。

「俺は」

 ゲオルグはアリスの傍に膝を付き、人工頭蓋骨に覆われた頭を押さえた。

「ゲオルグ」

 アリスはゲオルグの傍に寄り、その顔に触れた。

「アリス」

 ゲオルグはアリスの細い体に縋るように腕を回し、抱き竦めた。

「俺は帰還するべきだ。だが、決定事項として認識するために必要な事項が外的要因にて欠損した」

「それは何?」

「それは」

 ゲオルグは四本指の手でアリスの後頭部を掴み、肩に押し当てた。

「君だ」

 アリスはゲオルグの感情を代弁してくれた。アリスは自分の望みだと思わせておきながら、ゲオルグの望みを次々に 叶えてくれた。子供の頃に憧れた童話のお姫様。城に眠るお姫様を助け出す王子様。飴玉の雨。己の限界を超えた戦い。 抱き締めてくれる腕の主。傍にいてくれる相手。

「俺は異常を来している。俺は前線に帰還しなければならない。俺は、君の王子様ではない」

 ゲオルグはアリスを引き剥がそうとするが、出来なかった。アリスと向き合うたびに体の自由が奪われていたのは、 ゲオルグ自身が奪っていたからだ。一人になりたくなかったのはゲオルグだ。見てほしかったのも、知ってほしかったのも、 欲してほしかったのも、ゲオルグだ。全て、アリスがゲオルグに代わって述べていただけなのだ。

「俺は…」

 ゲオルグは言葉を続けようとしたが、アリスの腕が背に回されたことで喉が詰まった。

「あなたは私をどうしたいの?」

「解らない。俺は君が生物ではないことを認識している」

「そうよ、私はアリス。あなたのアリス」

 アリスはゲオルグの顔を上げさせ、主眼と向き合った。

「あなただけのアリス」

 アリスはゲオルグの口先にキスを落としてから、目を細めた。

「私を好きになって。そうすれば、私は幸せになれるわ」

「君を通した俺がか」

「ええ、そうよ」

「それは不可能だ」

「それはどうかしら」

「俺自身が確証を得ている。よって、その意見は聞き入れられない」

「大丈夫よ、ゲオルグ。いずれ、あなたは私を好きになるわ。時間は掛かるだろうけど、必ず」

「根拠のない意見だ」

「あなたがそう思い続けるのなら、そうなってしまうわ。けれど、あなたがそう思わなくなければ」

 アリスは軍帽を外し、ゲオルグに被せた。

「ねえ、ゲオルグ」

 アリスは笑う。ゲオルグが二度と出来ない顔で、慈しむ気持ちを注いでくれる。ゲオルグは感情の形は成さなくとも、 固まりとして胸中から迫り上がってきたものに煽られるようにアリスを抱き締めていた。意味が理解出来なかった行為、いや、 意味を理解しようとしても出来なかった行為を行うためにアリスの顔を上げさせ、捕食しそうなほどの勢いでゲオルグは アリスの唇を塞いだ。そうしなければ、感情に至らないがために乱れた脳波で頭が爆ぜそうだ。
 義眼の底で、視神経が鈍く痛んでいた。





 


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