酸の雨は星の落涙



第六話 私情による施錠



 アップルソーダの海は、いつのまにか城をも飲み込んでいた。
 ヒルダは元の姿に戻り、部屋と部屋を隔てる壁は甘い水に押し流され、三人は大広間の中に投げ出されていた。無重力 空間のように圧迫するものもなく、水中であるはずなのに呼吸は可能だった。つまり、この状態は誰かのアリスの延長線上 にある状態なのだ。開きっぱなしの窓から流れ込んできた海流によって漂う椅子を避けたゲオルグは、手近な柱を掴んで 体を固定してから二人の名を呼んだ。

「ヒルダ、エーディ」

「あ…?」

 ヒルダは何度かゴーグルを点滅させ、周囲の状況を把握してから、ゲオルグに向いた。

「ああ、そうか。また戻ってきたのね、この城に」

「アリスは」

 ゲオルグが大広間を見回すと、エーディはくるりと一回転してからテーブルに降りた。

「いない。俺のアリスがいないからな」

「ええ、私のアリスもよ」

 ヒルダは落胆を隠さずに答えると、ごぼりと泡を吐きながら沈んで手近な椅子に座った。

「結局、私達はアリスからは逃れられないね」

「認めたくはないが、俺達が本心から逃げようとしないからさ」

 エーディはため息を吐いたらしく、短い牙の間から気泡が浮いた。

「あなたはどう、王子様?」

 ヒルダがゲオルグに向くと、ゲオルグは顔を背けた。

「…同上だ」

「やれやれ」

 エーディは呆れと共感を混ぜつつ、テーブルに横たわった。

「アリス、アリス、アリス。あれを本当に殺せたら、俺達はどうなっちまうんだろうな」

「精神崩壊でもするんじゃない?」

 ヒルダは冗談めかして言ったが、二人は答えられなかった。エーディは自分の前足に顔を埋めてしまい、ゲオルグも 胸中に残る違和感を振り払えずにいた。特に強いのは、口元に染みたアリスの唇の余韻だ。今まではアリスに促されて 行っていたことだが、アリスを通してアリスを求めていたのはゲオルグ自身なので、それまでのキスも全てはゲオルグの意志に よるものということになる。そう思うと妙な疼きが起きたが、上手く表現出来ずに突っ伏した。

「おい、どうした?」

 ゲオルグの異変にエーディが気付いたので、ゲオルグは思い切り顔を逸らした。

「なんでもない」

「それはそれとして、これからどうする?」

 ヒルダが二人に声を掛けると、エーディは聞き返した。

「何をだよ」

「この星を出るかどうかよ。出たとしても、私が帰る当てなんてないわ」

 ヒルダは二の腕を握り締め、俯いてゴーグルを陰らせた。

「俺も人のことは言えねぇよ。帰ったところで、ここにいる時となんら変わらねぇ」

 エーディは耳を伏せ、尻尾の先でテーブルを叩いた。 

「俺は」

 ゲオルグは答えかねて、言葉を濁した。アリスを通して表現された自分の感情を認識するなら、ゲオルグはこの世界に 浸っている限りは幸せなのだろう。だが、それではいけない。任務を全うして勝利を収めなければ、ゲオルグが昇進した意味も 戦闘機を操る術を身に付けた意味もない。脱出する意志を揺らがせてはならない、と思えば思うほど、アリスから一心に 注がれた感情の数々が蘇った。ゲオルグはどう行動するべきか判断を下せなくなり、前両足を床に付いて頭を抱えてしまった。

「とりあえず、俺が思い付いたことでも言っておこう」

 エーディは二酸化炭素の泡が弾けるアップルソーダの海に浸食された大広間を見つめ、淡々と述べた。

「アリスは死なないし、分裂するし、俺達の深層心理にまで入り込んでくる。でもって、俺達の心理状態を具現化して 目の当たりにしてくれる、素晴らしい機能の持ち主だ。この星に墜ちたばかりの頃はアリスが全ての現象を操作している んじゃないかと思っていたが、それは違った。アリスは俺達の深層心理を反映させていただけであって、本当に願望を叶えて いたのは俺達自身だったんだ。だから、アリスはツールに過ぎない」

 とんとん、とエーディは前足でテーブルを小突いた。

「でもって、その力のおかげでアリスは毎度毎度とんでもないことをやらかしてくれるが、現実味がまるでない。てことは、 そもそも現実じゃないってことだ。ということは、仮想現実である可能性が極めて高い」

「まあ、それについては私もちらっと考えたことはあったけど、いくらなんでもそれは無理よ」

 ヒルダが口を挟むと、エーディは彼女を一瞥した。

「その根拠は?」

「私達の意識が電脳化されているとしても、転送された記憶がないわ。まあ、それ自体を抹消されているのかもしれない けどね。仮にこの世界があんたの言う通りの仮想現実だとしても、転送する意志のない相手の意識をどうやって仮想現実まで 転送するのよ? 私みたいなコンピューターと脳の半分が機械のゲオルグはともかくとして、エドの意識まで飛ばすのは 不可能よ。説明が付けられないわ」

「量子コンピューターなら出来るだろ」

「また随分と飛ばした考えね。余程のことがあれば、不可能ではないだろうけど、この星のどこにそんなに大規模な演算能力を 持ったコンピューターがあるって言うのよ?」

 ヒルダが首を捻ると、身を起こしたゲオルグは自身の頭部を指した。

「珪素回路か」

「そうだ。この星の鉱脈のほとんどはアルカリ結晶体、つまりは珪素だ。まあ、それだけじゃ電子回路になるわけがないから、 星全体が量子コンピューターと化した原因を突き止めなきゃ話にならん」

 エーディは、長い尻尾をゆらりと揺らした。

「だが、それも大体の目星は付いている。この城が、恐らくアリスの本体だ」

「城が? でも、ここは…」

 ヒルダは訝ったが、しばし考えてから言った。

「そうか、解ったわ。前にゲオルグがアリスに見せられた映像に出てきたっていう、都市型宇宙船を城に作り替えているのね。 私が船になっても質量が変わらなかったのと同じで、都市型宇宙船ぐらいの質量を持った物体でなければ城も都市も作れるわけが ないものね。となれば、これまで行った破壊工作は全て無駄だったってことね。仮想現実じゃ、いくら破壊したところで意味がないわ」

「そうである可能性が高い、というだけだがな。しかし、それが解ったと言うだけで安心するのは大間違いだ。何せ、問題の根本は 俺達自身にあるんだからな」

「承知している」

 エーディの結論に対してゲオルグが呟くと、ヒルダはマスクに手を添えて俯いた。

「そう言うのは簡単だけど、一朝一夕でどうにか出来る問題じゃないわ」

「どうにかするんだよ。俺だって、出来ることならアリスに甘やかされていたい。だけどな、それじゃダメなんだ。俺達はとっくの 昔に成人しているし、やるべきこともあるし、帰るべき場所もある。まあ、帰ったところで身の置き場があるとは思えないが、帰らない よりは余程マシだ。いい加減に終わらせないと、身も心も腐っちまう」

 エーディは顔を上げ、二人を見やった。

「手始めに、この海からどうにかしようじゃねぇか。おい、王子様、じゃなかった、ゲオルグ。お前、そんなにアップルソーダが 好きなのか?」

「解らない」

 ゲオルグが正直に答えると、エーディは苛立たしげにテーブルを叩いた。

「解らなかったら思い出せよ! 俺はソーダ系のドリンクは胃が痛むから嫌いなんだよ! ヒルダはこんなもん飲まねぇから、 間違いなくお前が原因だろうが!」

「少し待て」

 ゲオルグは時間を掛けて生身の脳から記憶を掘り起こし、ようやく思い当たった。

「そういえば、子供の頃、これと似た味と色合いの飲料を過剰に摂取していた期間があった」

「じゃあ好きなんじゃねぇか。いいから、とっとと他のことを考えろ。この甘党が」

 エーディに毒突かれたが、ゲオルグは切り返した。

「俺は過剰に糖分を欲する性癖を持ち合わせていない」

「じゃ、エドが他のことを考えればいいでしょ。ゲオルグの深層心理を塗り潰すぐらい強烈なのをね」

 ヒルダが指先でエーディを小突くと、エーディは耳を伏せた。

「異常現象を引き起こした張本人の意識じゃなきゃ、情報の上書きも出来ないだろうが」

「そうでもないわよ。ファイル名とソフトさえどうにかなれば、いくらでも」

「じゃあ何か、俺にこいつの訳の解らない思考をトレースしろってのか? そんなのは死んでもごめんだ! 大体な、いい歳 こいてお姫様だの王子様だの考えてるような奴の気持ちなんか、俺は理解したくもねぇ! いいや、理解するぐらいだったらリアルに 自殺する! 気色悪くて寒気がするんだよ!」

 エーディがゲオルグを指して喚き立てると、ゲオルグは怪訝な顔をした。

「なぜ、それを」

「なぜって、そりゃあ、俺達のアリスは元々一つのアリスだから、ある程度なら情報を共有しちまうんだよ。つっても、お前らの 精神状態までは読み取れないけどな。それさえなきゃ、俺は死ぬまでこの世界にいるつもりだったよ」

 ああやだやだ、とエーディはゲオルグから距離を置くように身を引いた。

「それはなぜだ」

 ゲオルグが聞き返すと、エーディは顔を歪めた。

「解り切ったことを聞くな、気持ちいいからだよ! だがな、その中にお前らのどうでもいい妄想やら自己嫌悪やらが流れ込んで くるもんだから、夢見心地も一瞬で台無しだ!」

「じゃ、私達もエドの意識を読み取れるわけね」

 やってみましょ、とヒルダがあらぬ方向を見つめて集中したが、途端に吹き出した。

「なあに、あんたってそんなにアリスの膝が好きなの? 可愛がってもらいたいなんて、意外に可愛いじゃない!」

「うるっせぇ! お前こそ、いつまでも引き摺ってんじゃねぇよ! だから、お前は役立たずなんだ!」

 羞恥に駆られたエーディは牙を剥くと、ヒルダは金切り声を上げた。

「人のトラウマを抉らないでよ! これだから男って嫌!」

「俺だってお前みたいなヒス持ちは願い下げだ! とっとと廃棄処分にでも何でもなりやがれ!」

「あんたの方こそ、一生誰にも好かれやしないって断言してやるわよ! 誰も好きになってくれないからって、自分で 自分を好きになるほど滑稽なことはないわね!」

「ばっ、馬鹿言え、自尊心ってやつだよ!」

「自己愛の間違いでしょ!」

 ヒルダはエーディに反論しながら詰め寄り、首の後ろを掴み上げた。エーディは短い足を振り回して抵抗する。

「離しやがれ、イカレコンピューター!」

「イカれてんのはどっちよ! 口では偉そうなことばっかり言うくせして実行力がないくせに!」

「自殺するしか能がないくせして良く言うぜ!」

「それとこれとは関係ないでしょ!」

 互いに敵意をぶつけ合う二人の意識が、ゲオルグの脳にじわりと染み渡ってきた。二人揃って、他人を攻撃していなければ 自分を守れないと信じているようだった。アップルソーダの海は城と都市と陸地の境目を埋め尽くしたが、同時に三人の隔たりをも 埋め尽くしてしまったようだった。ゲオルグは二人の気持ちを読み取り、なぞったが、攻撃してまで自分を守りたいという気持ちは 理解出来なかった。自分を守りたいという自己防衛本能に似た心境はある程度なら解るが、他人を傷付けてまでやるほどの ことではないように思えた。むしろ、傷付けるよりも、解り合えたら良いのでは、と判断した。ゲオルグは他人の気持ちすらも理解 出来なくなって久しいが、理解出来ない分、深く考えるくせが身に付いていた。だから、この敵対行動は無益だと判断した。状況は、 皆、変わらないのだ。言い争うことで浪費する時間と体力を、建設的な行動に回すべきだ、とも思った。

「正論過ぎて吐き気がする」

 エーディはゲオルグに目を向けたが、すぐに逸らした。

「俺はお前みたいな奴が嫌いだ。アリス以上に嫌いだ。だから、利用し尽くしてやりたかったんだよ」

「あなたに気持ちがあるのなら、ちょっとでいいから理解してほしかったわ。言い争いすることだって、まるっきり無駄な 行為でもないのよ。私は機械だけど、人並みに心が動くのよ。だから、外に出さないと辛いのよ」

 ヒルダはゲオルグに背を向け、自身を抱き締めるように両の二の腕を掴んだ。二人から逆流してきた感情の数々に、 ゲオルグは思考を止めた。エーディはゲオルグを心底疎んでいて、ヒルダまでも厄介に思っていた。ゲオルグは二人に対して 感じたことのないものを返されたことで、脳の片隅がちくりと痛んだ。ゲオルグが無意識下で願っていたアップルソーダの海が 溶かした意識の隔たりは、無遠慮であり残酷だった。ゲオルグは何も発言することがないと判断し、開け放たれたままの大広間 の扉から回廊に出た。一歩進むたびにアップルソーダの海の水位が下がり、回廊の終わりに至った頃には足首よりも低くなり、 ゲオルグの三本足で容易に掻き分けられるほどの量になった。ゲオルグは回廊の終着点に辿り着くと、胸中で燻る奇妙な 感覚を処理するため、分厚い壁に拳を打ち付けた。
 義眼の縁に溜まったアップルソーダの雫が落ち、足元に小さな波紋を広げた。





 


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