酸の雨は星の落涙



第九話 落涙は累々と



 ゲオルグらが仮想現実から脱した後も、彼女の時間は続いていた。
 九万年もの時を誰もいない城と都市に閉じ込められて暮らしていたであろうアリシア・スプリングフィールドの 心情は、察するに余りある。終わりのない世界に絶望しても、死を試みようとも、脱出を願おうとも、彼女にはその いずれも不可能だ。内側からでは楽園の皮を被った無限地獄を破る術はなく、長きに渡ってアリスに意識を奪われている 彼女では尚更難しいだろう。だから、ゲオルグらが外的手段でアリシア・スプリングフィールドを解放するしかない。
 可変型戦闘機に搭乗したゲオルグは、エーディと共に後部座席に押し込めたヒルダのナビゲートを受けながら、 都市型宇宙船の探索を開始した。だが、ヒルダの協力を得ても、自機のレーダーでは強力なジャミングを破るほどの パワーは出せず、闇雲に突き進むだけだった。目的を見定めずに進むことは燃料を浪費だけだとも思っていたが、 一秒でも立ち止まろうものなら自分が許せなかった。アリシア・スプリングフィールドの助力を受けて脱しておきながら、 肝心な彼女を置き去りにしてきたのだから。その上、祖国の内争が収まりきらなかったからといって五年もの間、 惑星ヴァルハラの存在を忘れていた。いや、忘れようとしていた。出来ることなら、二度と関わりたくないとすら思っていた。 しかし、今はそんな考えに至った自分が腹立たしくてならなかった。

「おい、ゲオルグ」

 ゲオルグの飛ばしぶりに少し焦ったエーディが声を掛けてきた、ゲオルグは揺れる機体を据えるために操縦桿を きつく握り締めていた。ヒルダも触手状の目を伸ばして覗き込んでくるが、ゲオルグは進行方向を睨んでいた。真っ直ぐ 飛び続ければ、都市型宇宙船が現れるはずだと根拠もなしに信じていたからだ。だが、そんなはずもなく、文明の影も形もない 大陸を突っ切るように進んでいるだけだった。

「しっかりしやがれ、将軍だろうが!」

 エーディの鋭い制止の声が鼓膜を揺さぶった直後、ゲオルグの視界に異様な光景が飛び込んできた。

「何よ、これ」

 ヒルダも戸惑い、眼下の大地を見下ろした。ゲオルグは水素エンジンの出力を落として減速し、高度を下げ、重たい雲 から脱すると、可変型戦闘機の真下には巨大な亀裂が走っていた。亀裂の幅だけでも数十キロメートルはあり、横の長さは 一目見ただけでは見当も付かない長さだった。地平線の端から端まで走っていて、大陸そのものが引き裂かれたかのような 光景だった。亀裂のいびつな側面には青白い結晶体の鉱脈が露わになっていて、恒星光を受けてちかちかと光っていた。

「地殻変動か? だが、今までの地表を見た感じだと、火山活動はそんなに激しくないと思ったが…」

 エーディはキャノピーの内側に前足を押し当て、身を乗り出して見下ろした。

「ゲオルグ、降下して。何が起きているのか、把握する必要があるわ」

 ヒルダが足先で下方を指すが、ゲオルグは躊躇った。

「しかし」

 一秒でも時間を無駄にすれば、アリシア・スプリングフィールドが。懸念を示したゲオルグに、ヒルダは言った。

「愛しのお姫様を助けようにも、状況を把握しておかなきゃ始まらないわよ」

「…解った」

 ゲオルグは更に減速し、三本足を出しつつ降下した。徐々に地表に近付いていくが、亀裂の底はまるで見えなかった。 見えるのは浅い部分に露出している鉱脈と土だけで、そこから下は宇宙にも似た暗闇だった。着陸脚として出した三本足を 曲げて衝撃を和らげながら着陸した可変型戦闘機は、キャノピーを開いたが、機内から外に出たのはヒルダだけだった。

「ちょっと待っててね。調べたら、すぐに戻るから」

 無数の足を器用に動かしてかさかさと歩いたヒルダは、可変型戦闘機の足を伝って地表に降りると、亀裂に向かった。 エーディはゲオルグの肩越しに身を乗り出すが、亀裂の深さと巨大さに気圧され、うぇ、と声を潰して引っ込んだ。ゲオルグは 操縦桿から手を放し、ヒルダの動向を見守った。巨大すぎる亀裂の端で止まったヒルダは、幅が広すぎるせいでやたらに 小さく見えた。ヒルダは触手状の目を伸ばして調べていたが、マニュピレーターを一本伸ばして手近な珪素鉱脈に触れた。

「お、おい、それはまずいぜ!」

 その珪素鉱脈は、量子コンピューターの回路では。エーディは、思わず目を剥いた。

「大丈夫よ」

 エーディの声を聞き取ったヒルダは、背面部に付いた拡声器を使って答えた。

「五年もこの星にいたのよ。童貞男が使うアルゴリズムも分析済みだから、情報をブロッキングすることなんて簡単 なんだから。外に出たはいいけど何もせずにいたあんた達とは違うのよ」

「うーるっせぇ。俺らも色々大変だったんだよ」

「あら、それは楽しみね。事が終わったら、ゆっくり話を聞かせてもらおうじゃないのよ」

 エーディの文句に言い返してから、ヒルダはするするとマニュピレーターを引き戻した。

「アリスの機能が強すぎるせいで、アリシア・スプリングフィールドから発信されている情報が大分減少しているけど、 発信源は掴めたわ。ここから北に二千キロ、つまり、北極の極冠ね」

「遠いな」

 ゲオルグが呟くと、ヒルダはかさかさと這い戻ってきた。

「磁場と地脈の関係で、珪素鉱脈が北極に集中しているからでしょうね。私の船の小型探査機が使える間に 地表を調べてみたけど、都市型宇宙船の本来の着陸地点からは大陸自体が違っているわ。たぶん、より効率的な 情報伝達を行うために都市型宇宙船を飛ばして移動させたのね」

「探査機を使ってたくせして、この馬鹿デカい地割れを見落としたのか?」

 エーディが呆れ笑いを浮かべると、ヒルダは可変型戦闘機の後部座席に戻ってきた。

「そんなわけないでしょうが。ここ一年、大した地震もなければ隕石の落下もなかったのに、地面が割れていたから 驚いたんじゃないの。ほんっとに一言多いんだから」

「それで、その探査機は」

 キャノピーを閉じながらゲオルグが問うと、ヒルダは触手状の目を左右に振った。

「雨を降らされて、全部壊されちゃった。童貞男ってば、地球人類がテラフォーミングに使っていた気象操作装置を搭載した 低軌道衛星に手を加えたらしくって、降雨する水の成分がおかしなことになっているのよ」

「だから、その童貞男ってのはやめろよ」 

 エーディが尻尾でヒルダを叩くと、ヒルダはむっとした。

「事実は事実でしょうが。それともなあに、心当たりがあるから気になるわけ?」

「そんなわけがあるか。自分のことを乙女だ何だって言うわりに、いちいち下品なんだよ」

「今時のコンピューターは情報に曝されすぎて擦れてんの。純情可憐な女なんてのはね、それこそ童貞の妄想よ。 男が思うほど、女は綺麗でもなければ美しくもないわ。誰だって何かしらの嫉妬は持っているし、利益のために計算を 欠かさないものよ。ヴァルハラがアリシア・スプリングフィールドを解放しないのは、彼女がそういう普通の女になるのが 嫌だからなのかもしれないわね」

「つまり、なんだ。ヴァルハラの野郎は、アリシアって女を子供のままでいさせたいってわけか?」

 アリスの外見を思い出しながらエーディが返すと、ゲオルグは再発進の準備を整えながら言った。

「有り得る話だ」

「それこそ、童貞の妄想よ。世の中、そんなに都合の良いことなんてありはしないのよ」

 ヒルダは後部座席からケーブルを伸ばして計器類に接続させ、採取した情報を移した。

「だよなぁ。ゲオルグが発端になった惑星レギアのクーデターだって、ありゃ本当に運が良かったからだ。でもって、 思いの外ゲオルグのシンパがいたから、成功したようなもんだ。若い頃のくせで感情的な判断を下さないような性格の 将軍だったから、派手に好かれはしないが徹底的に嫌われてもいなかった。そんな下地があった上に、アイデクセ帝国の レギア人は手前勝手な感情だけで政治やら戦争やらを動かしまう皇族を疎んでいたから、世論がゲオルグに傾くのは 至極当然ってわけだ。辛いモノを喰った後に甘いモノが欲しくなるようなもんで、それまでとは正反対のリーダーを求めたんだな。 で、ゲオルグの部下もほとんどが物解りのいい連中だったし、議員も貴族も惑星クーとの戦争には七割以上が反対していたし、 帝国軍に士官候補生として息子を預けている大貴族の当主なんかは皇帝を暗殺する手筈も整えていたぐらいだったしな。 開戦一歩手前でゲオルグが動こうが動かなかろうが、アイデクセ帝国の帝国主義が崩壊するのは時間の問題だったのさ」

 エーディはスペーススーツの弛みを直してから、外気と内気の気温差で少し曇ったヘルメットを擦った。

「都合の良いことばかり起こる世界は、最早世界とは言えない」

 ゲオルグはヒルダから受け取った情報を元に北極との正確な距離を割り出してから、エンジンを作動させた。

「世界とは己の目から受け取った情報を元に己の脳の内側に構成される感覚の総称だと認識しているが、都合の良い ことばかり起こる空間は外界からの情報が遮断された脳内に構成された閉鎖空間と言うべきだろう」

「確かにな。外に出てみないと、解らないことの方が多すぎる」

 エーディは体を伸ばし、操縦席の背もたれの上からゲオルグの頭上を見下ろした。

「どんな言語だって、現地住民と話してみないとイントネーションの差異は解らないもんさ。文字の読み方やら意味やら 何やらだけを調べて頭に叩き込んだところで、会話が通じるってわけでもない。俺が話すレギア語も、お前が話すイリシュ語も、 まだ完全じゃないしな」

「あら。じゃあ、今の私はどっちの言葉で話しているのかしら?」

 どっちも知らないんだけど、とヒルダが頭と思しき部分を傾げると、エーディは首を捻った。

「そういえばそうだな。俺はレギア語は話せるが、ヒルダの母国語は全く知らないぞ」

「我らの意識は仮想現実に接触しているため、多少なりとも意識を共有しているからだろう」

 ゲオルグが発言すると、エーディは訝った。

「その根拠は?」

「これだ」

 ゲオルグが指したレーダー画面には、レギア語ともイリシュ語ともヒルダの母国語とも違う文字、地球人類が 使用する言語が現れていた。それは、三人が仮想現実で接触した、アリシア・スプリングフィールドの意識の断片である 鍵付きの日記帳に書き記された文字と同じ文字だった。

「読めるかしらね」

 ヒルダが触手状の目を伸ばしてレーダー画面に近付けると、エーディも身を乗り出した。

「ゲオルグの言う通り、俺達の仮想現実に掠ってんのなら、ちゃんと読めるだろうさ」

「読めるとも」

 ゲオルグはグローブを填めた指先で、アリシア・スプリングフィールドの筆跡と同じ文字をなぞり、音読した。

「お久し振りです、皆さん。私の考えた通りにあなた方の意識がアリスから脱してから、長い長い年月が過ぎ去りました。 途中まで数えてみましたが、気が狂いそうになったので止めました。私には外の世界での時間経過までは解りませんが、 あなた方であれば在るべき世界に無事戻れたことでしょう。どうか、帰れるうちに引き返して下さい。目の前の亀裂を超えてしまえば、 ジャミングも通用しなくなり、またアリスの仮想現実に引き摺り込まれてしまいます。その亀裂は、私が造り出した最初で最後の 攻撃です。惑星ヴァルハラに物理的な損傷を与え、珪素鉱脈を断裂させ、量子コンピューターの回路の一部を破損させました。 都市型宇宙船が埋没している北極の極冠を中心にして五角形を描くようにして亀裂を走らせ、先日、四本目の辺となる亀裂を 完成させました。残る一つの辺を完成させ、アリスの演算能力を飛躍的に向上させている量子コンピューターの機能を低下させた 後、アリスを物理的に破壊するために都市型宇宙船に気象操作装置である人工衛星を墜落させます。私は全ての責任を取ります。 だから、どうか」

 お帰り下さい、との文字は読む気になれず、ゲオルグはレーダー画面から指を放した。

「つったって、なぁ?」

 エーディがゲオルグに目を向けると、ヒルダもにゅっと両目を伸ばしてゲオルグに向けた。

「私達じゃこの戦闘機を操縦出来ないから、そればっかりは王子様の御機嫌次第よねぇ」

「目的地は既に決まっている。北極の極冠だ」

 ゲオルグはレーダー画面から主眼を上げ、ペダルを踏んで水素エンジンの回転数を上げた。

「下手なことになったら責任取れよな。俺、まだやり残したことが山ほどあるんだからよ」

 そう言いつつも、エーディはベルトで体を固定した。ヒルダは無数の足に装備された吸着装置を使い、キャノピーの 裏側にぺたりと貼り付いて上下逆さまになった。

「そうよそうよ。私だって、搭乗員の忘れ物の恋愛小説だけじゃ刺激が足りなくて退屈なんだから。あなた達にこの星から 連れ出してもらわないと、死んでも死にきれないわ」

「それは私も同じだ」

 ゲオルグは方位指示器に従って機首を傾けながら、分厚い口元を緩めて牙の根本を覗かせた。

「私は、アリシア・スプリングフィールドとの面会を果たさなければならない」

 エーディからの皮肉とヒルダからのからかいが聞こえた気がしたが、聞こえなかったことにして、ゲオルグは 可変型戦闘機の操縦に集中した。若い頃であれば腕力でねじ伏せられていた加速による機体のぶれも、壮年を過ぎて しまうと厳しいものがあった。機械の左腕のパワーに頼って可変型戦闘機を押さえ付けながら、加速出来るだけ加速し、 北極の極冠を目指した。程なくして、数十キロメートルにも渡る亀裂を飛び越えた瞬間、それまで見えていた景色とは 異なる景色が義眼の主眼を通して脳に染み入ってきた。
 青々とした草原。美しい花々。澄んだ湖。そして、彼方にそびえる白亜の城。アリシア・スプリングフィールドの 体感時間にして九万年もの時間が経過した仮想現実は、悪化の一途を辿っていたようだった。よく見ると、草に見える ものは薄いクッキーで、花に見えるものは飴細工で、湖に見えるものはゼリーだった。機体を舐めていく風も甘みのせいで 重たくなり、翼に粘り気が絡み付いてくる。ゲオルグは憤りを覚えたが、操縦桿を握り締めた。
 一秒たりとも、無駄にすることは許されない。





 


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