純情戦士ミラキュルン




第十二話 禁断の誘惑! ヴェアヴォルフの魔力!



 空よりも濃い青に染まった水が、攻撃的に輝いていた。
 水面を隔てるコースロープが、熱気が籠もった風を受けて波打った水面に叩かれて緩やかに揺れていた。 炎天下の日差しに曝されたプールを囲んでいるコンクリートとフェンスは、触れれば火傷しそうなほど熱していた。 れっきとした競技用プールで水深が2メートルもあり、深さ故に入場出来るのは中学生以上に制限されている。 なので、普段から利用する人間は限られており、大抵は水泳に打ち込んでいる学生や社会人が利用している。 だが、今日はそのプールのあるスポーツセンターの休館日でもないのに、プールには誰一人泳いでいなかった。 それもそのはず、一ヶ月前から悪の秘密結社ジャールが予約を入れていて、この日のために借り切ったからだ。

「あの、ヴェアヴォルフさん」

 ヴェアヴォルフの隣に座るミラキュルンは、スクール水着を着て薄手のパーカーを羽織っていた。

「なんだ」

 普段通りの軍服姿でヴェアヴォルフが言い返すと、ミラキュルンはプールを指した。

「せっかくですから、泳ぎませんか? 私、走るのは遅いですけど、泳ぐのは結構得意ですよ?」

「そうですな。こうも暑いと、私も存分に水を浴びねば干涸らびてしまいます」

 ヴェアヴォルフの背後に控えるレピデュルスは、もっともらしく頷いた。

「それに、せっかく借り切ったんですから、使わないと勿体ないですよ、ヴェアヴォルフさん」

 ミラキュルンはピンクのマスクを被った小首を傾げたが、首から上だけがヒーローなので異様極まりなかった。 バトルスーツでも水中活動が出来ないわけではないのだが、そのまま水に入るとマントやら何やらで動きづらい。 だから、首から下だけ変身解除してスクール水着に着替えたが、何度見ても首から上と下がアンバランスすぎる。 ヴェアヴォルフは今すぐに軍服を脱いで水面に飛び込みたい衝動に駆られていたが、暗黒総統の意地で堪えた。
 今回、悪の秘密結社ジャールが決闘の場に選んだのは市営スポーツセンターに併設された競技用プールだ。 河川で戦闘を行っては一般市民に迷惑が掛かってしまうし、万が一事故が起きてしまっては色々と困るからだ。 だが、借り切ったのは午前中だけだ。丸一日借り切らなければならないほど、戦いが長引くとは思えないからだ。 ミラキュルンと戦う怪人は、水中のギャングの異名を持つタガメ怪人のタガメスで、水中の破壊工作を得意とする。 普段は水道工事会社に勤めており、土日に跨る休みが取れたから、ミラキュルンと決闘を行うことになったのだ。
 しかし、当日になってタガメスが病欠した。本社に電話してきた声は息も絶え絶えで、夏風邪を引いたらしい。 あまりに苦しげだったので、外回り中のファルコに連絡し、タガメスのアパートの住所を教えて向かってもらった。 ファルコからは、自室で倒れ伏していたタガメスを掛かり付けの病院に連れて行ったとの報告を受けたので、タガメスは もう大丈夫だろうが問題は戦う相手を失って時間を持て余したミラキュルンの方である。 先週の決闘後に次回は水中戦だと伝えたおかげで、本人も準備万端だったので、追い返すのは悪い気がした。
 その結果、訳の解らない状況になってしまった。三人は、プールサイドに設置されたテントの下に座っていた。 ヴェアヴォルフも、せっかく借り切った料金を無駄にしたくはないのでミラキュルンの意見に内心で同意している。 だが、軍服を脱げばヴェアヴォルフは大神剣司に戻ってしまう。泳ぎたいのは山々だが、それだけは無理だった。 ミラキュルンは天童七瀬の友人で、天童七瀬は野々宮美花の友人なので、巡り巡って話が伝わるかもしれない。 そうなってしまえば、これまでの苦労が水泡に帰す。なので、ヴェアヴォルフは必死に凄まじい暑さと戦っていた。

「でも、その……」

 ミラキュルンはヴェアヴォルフに及び腰で話し掛けてきたが、暑さで苛立ったヴェアヴォルフは声を荒げた。

「そんなに泳ぎたければ勝手に泳げばいいだろう! 水着なんだから!」

「あっ、でも、その、私だけじゃ……」

 ミラキュルンは語気を弱めたが、ハート型のゴーグルの下から視線を動かし、ヴェアヴォルフの尻尾に向けた。

「俺の尻尾がどうかしたのか」

「いえ、その、あの、なんでもありません!」

 ミラキュルンは両手を振って後退し、取り繕った。

「そ、それでは、御言葉に甘えまして、泳がせて頂きます!」

 ミラキュルンはヴェアヴォルフに一礼すると、羽織っていたパーカーを脱いでベンチに引っ掛けてから外へ出た。 鮮烈な日差しの下に出たミラキュルンは、首から上を除けば健康的な発育の女子高生で、体型も丸みがあった。 紺色の生地を膨らませている乳房は年相応の大きさで、しなやかに伸びる太股の上には柔らかそうな尻がある。 ヴェアヴォルフは僅かに見とれたが、レピデュルスの存在に気付いてすぐさま視線を逸らし、軍帽を深く被った。

「若旦那。健全な御趣味で何よりです」

 レピデュルスはきちきちと外骨格を擦り合わせて笑みを零してから、テントの下から出た。

「それではミラキュルン、私もお付き合いいたそう」

「ありがとうございます、レピデュルスさん!」

 飛び込み台に立ったミラキュルンはレピデュルスに一礼してから、飛び込み台を蹴って水面に身を躍らせた。 水柱を上げて少女の姿は没し、レイピアを置いたレピデュルスもその隣の飛び込み台から水面へと飛び込んだ。 両者はしばらく潜水してから浮かび上がると、底部の塗装の色を吸い込んだ水を掻き分けながら泳いでいった。 その様はいかにも涼しげで、ヴェアヴォルフはまたもや水中に飛び込みたい衝動に駆られたがぐっと我慢した。
 ミラキュルンとレピデュルスはそれぞれのペースで二十五メートルを泳ぎ切ると、今度は深く潜って戯れ始めた。 バトルマスクのおかげで常人より呼吸が楽なのか、ミラキュルンは甲殻類であるレピデュルスに追い付いていた。 レピデュルスも水中なので気持ちが安らぐらしく、戦闘に持ち込むこともなく、ミラキュルンと至って普通に遊んだ。
 体毛の下からだらだらと流れ落ちる汗をコンクリートに散らしながら、ヴェアヴォルフはミラキュルンを眺めた。 ミラキュルンの首から上が美花だったら、と思ってしまうと、途端に下世話な妄想が膨らんで始末に負えなかった。 暑さで脳が煮えたのか、止めようと思っても止められず、ヴェアヴォルフは暑さ以外のことで身悶えそうになった。 どうして俺はこうも馬鹿なんだ、と精一杯自戒しながら、ヴェアヴォルフはペットボトルに残る生温い麦茶を呷った。
 体液のような温度だった。




 大神邸の居間は広い。
 元々明治時代に建築された異人館であるため、当然ながら大勢の来客をもてなせるような作りになっている。 敷地も広ければ、部屋自体もやたらと広く、パーティなどが執り行うことが出来る居間はとにかくだだっ広かった。 冬場には大活躍する古い暖炉が備え付けられ、大きな窓が設置された日当たりの良いパームルームもあった。
 居間の中央に設置されたソファーで、鋭太はぐったりしていた。冷房が効いているので暑さのせいではない。 問題は、同じソファーに座っている姉の弓子だった。祖母似で人間にオオカミの耳と尻尾が生えたような外見だ。 弟二人と違って祖父の血は全く遺伝せず、外見も人間に近く、身体能力も獣人以下で人間以上という微妙さだ。 普通の人間よりも少し鼻と耳が効く程度で、特殊能力はない。顔付きは童顔で、二十五歳になろうとも可愛らしい。
 その姉は、鋭太の傍で満面の笑みを浮かべていた。弓子の手には獣人用のグルーミングブラシが握られている。 上半身を脱がされた鋭太は、背中を上から下に撫でていくブラシのむず痒い感触を堪えて歯を食い縛っていた。

「ほら、取れる取れる」

 弓子は自前の尻尾をぱたぱたと振りながら、鋭太を毛繕いしていた。

「夏毛になっても、まだまだ抜けるんだよね。ちゃんとお手入れしなきゃダメじゃない、鋭ちゃん」

「つったってさぁ」

 鋭太は片耳を曲げて言い返すが、姉の笑みは緩まない。

「鋭ちゃんは剣ちゃんに比べて毛並みが柔らかいんだから、綺麗にしておかないと」

「マジめんどいし」

「こんなに可愛いのに勿体ない」

「つか、可愛いわけねーし」

 鋭太は顔を背けるが、弓子は鋭太の毛並みが整った背に顔を埋めた。

「こんなにモフモフしてるのに、可愛くないわけがないじゃない」

「くっつくんじゃねーよ! つか暑いし!」

 鋭太は弓子から離れようとするが、弓子は鋭太にしがみついてきた。

「いいじゃない、私はお姉ちゃんなんだから。もっとモフモフさせてよぉ」

「てか、なんで俺なんだよ! 意味不明だし!」

 逃げ腰の鋭太に、弓子はむくれた。

「だって、剣ちゃんは世界征服をするようになってからはあんまり実家に帰って来ないじゃない。だからって、 この歳でお父さんとお母さんにモフりに行くのは恥ずかしいじゃない」

「芽依子でもいいじゃん。あいつだって、怪人体になりゃ毛ぇあるし」

「芽依子ちゃんは忙しいんだから、そんなことを頼んじゃ悪いよ」

「てことは何だよ、俺は暇だっつの?」

「鋭ちゃんは朝からずっと家にいるじゃない、暇でしょ?」

 背中によじ登ってきた弓子に後方から覗き込まれ、鋭太は目線を彷徨わせた。

「うー、あー……」

 暇と言えば暇だ。だが、それは、ただ単に鋭太が夏休みにやるべき高校生の本分を放り出しているからだ。 高校には部活動や補習のために出掛けるが、家に帰ってきたら途端に気が抜けて宿題に手を付けられない。 というより、手を付ける気がない。さっさと始めた方が面倒ではない、と思うのだが、どうにもやる気が起きない。 いざとなったら美花に見せてもらおう、との下心も胸中で燻っていることも、鋭太の腰が上がらない一因だった。

「だからさぁ鋭ちゃん、モフらせてぇー」

 弓子に思い切り抱き付かれ、鋭太は凄まじい羞恥に襲われた。

「ちょっ、ばっ!」

 姉に甘えられるのは初めてではない。むしろ、子供の頃から姉は甘える相手ではなく甘えてくる相手だった。 兄の剣司共々愛玩犬のように撫で回され、ふかふかした体毛を味わわれ、幼い頃などぬいぐるみ扱いだった。 物事の分別が付かない頃は単純に嬉しかったが、思春期を迎えた今となっては、恥ずかしくてたまらなかった。 兄の剣司が実家を出る前であれば、弓子の愛玩の矛先はそちらにも向いていたのだが、今は鋭太しかいない。 だから、弓子が愛玩するのは専ら鋭太であり、両親からも芽依子からも弓子の夫からも微笑ましく見られている。 周りから見れば楽しげでも当の本人には溜まったものではないが、兄と違い、なんとなく姉は粗暴に扱えないのだ。

「鋭ちゃん、可愛いっ!」

 弓子は鋭太の懐に滑り込み、腹部の体毛に顔を埋めてきた。

「勘弁してくれよ……」

 弓子に力一杯抱き付かれながら、鋭太は両耳を伏せて辟易した。

「弓子御嬢様、いらっしゃいますでしょうか」

 ノックの後に芽依子が入ってきたが、ソファーの上でもつれ合う姉と弟を見て目を丸めた。

「お取り込み中でございましたか」

「取り込んでねーし! つか、襲われてただけだし!」

 鋭太は弓子を引き剥がし、後退した。弓子は不満げだったが、ドアの前に立つ芽依子に向いた。

「なあに、芽依子ちゃん」

「刀一郎様がお帰りになられました」

「待ってました! 鋭ちゃんも好きだけど、刀一郎さんはもっと好き!」

 弓子はソファーから降りたが、鋭太の頭をよしよしと撫でてから、居間から出ていった。

「はー……。やっと終わった……」

 鋭太は姉の後ろ姿を見送ってから、ソファーの背に引っ掛けていたTシャツを取った。

「不健全極まる光景にございました」

 芽依子が真顔で言い放ったので、鋭太はすぐさま言い返した。

「そんなわけねーし!」

「また掃除機を掛けなくてはなりませんね」

 居間に入ってきた芽依子は、鋭太の座るソファーの周辺に散らばる体毛を見下ろした。

「なんか、悪ぃ……」

 それらは全て鋭太から抜けた体毛なので、鋭太が苦笑すると、芽依子は眉間を顰めた。

「常にそのようにしおらしくあらせられれば、私めも鋭太坊っちゃまに対して敬愛を抱くのでございますが」

「悪かったな!」

 鋭太はTシャツを被り、ソファーから立ち上がった。

「どうせ俺は、兄貴よりも馬鹿で姉貴よりもかわいげがねーよ!」

「自覚しているのでございましたら、改善に努めるべきかと存じます」

「うっせぇ!」

 鋭太は牙を剥いて突っぱねてから、居間のドアを開けて廊下に出ると足元に熱気がまとわりついた。 一刻も早く自室に籠もってクーラーを付けよう、と鋭太は足早に廊下を歩き出したが、玄関先の二人に気付いた。 階段を昇ったが、なんとなく気になって二人を見下ろした。姉の向かい側に立つのは、夫の名護刀一郎だった。 結婚前に弓子が勤めていた大手証券会社の同僚であり、社内恋愛の末に結婚し、今では大神邸に住んでいる。 長身だが体付きは細く、メガネを掛けていてスーツ姿ばかり目にするせいか、知的で落ち着いた印象を受ける。 怪人の血統故にがっしりしている大神家の男達とは正反対で、ジャールの怪人達とは完全に別の生き物である。 なので、名護が大神家の一員になった時は強烈な違和感に苛まれたが、時間が過ぎたおかげで鋭太も慣れた。

「やっぱり、またダメだったの?」

 先程の明るい声色とは打って変わり、弓子は落胆していた。

「ごめんなさい、刀一郎さん。無理を言っちゃって」

「弓ちゃんが気にすることはないよ。うちの親もいずれ解ってくれるさ」

「うん。だと、いいんだけどね」

 弓子は刀一郎に肩を抱かれると、切なげな笑顔を見せた。

「今年こそ、ご挨拶に窺いたかったんだけどなぁ」

 今にも泣きそうな姉の表情に耐えられず、鋭太は一階よりも更に蒸し暑い二階に昇り、早速滲んだ汗を拭った。 階下からは名護が弓子を励ます声と芽依子が二人を出迎える声が漏れ聞こえたが、振り払うように進んだ。 以前は兄の剣司と共有していたが、今では一人部屋になっている自室に入った鋭太は、すぐさま冷房を付けた。
 名護の実家と大神家は折り合いが悪い。原因は、大神家が世界征服を企む悪の組織を経営している怪人一族 だからだ。大神家は名護の実家とも仲良くしたいのだが、名護を間に挟んでも話し合いの席は設けられず、一切を 無視されているので結婚披露宴は大神家が執り行ったが、名護の両親はその披露宴にすら顔を出さなかった。
 怪人といえど、弓子は常人も同然だ。獣人ではなく、かといって人間でもないので怪人に分類されているだけ なのだが、名護の両親にはそれすらも不快らしい。ごく普通にヒーローが存在し、怪人が跋扈する世界であろうと、 人間ではない者を毛嫌いする人種はたまにいる。名護の両親がそうであったというだけで、名護本人は弓子だけでは なく大神家の家人に対しても親しくしてくれる。だから、無理に名護の両親と関わらなくても良い、と鋭太らは思っている のだが、弓子にも弓子なりに意地があるのだろう。
 誰もでも、譲れないものはある。





 


09 8/6