純情戦士ミラキュルン




第十五話 悪逆非道! 暗黒参謀ツヴァイヴォルフ!



 居心地が悪いと、却って集中出来るのが不思議だ。
 昼食を終えたツヴァイヴォルフは、美花が広げた教科書や参考書を眺めていたが、背中に視線が刺さっていた。 もちろんそれは、取締役の席で自分の仕事を捌いている暗黒総統ヴェアヴォルフから注がれているものだった。 事の真相を話しても、兄は納得するどころか逆に腹に据えかねたらしく、態度を緩めるどころか厳しくなっていた。 美花がいる手前は怒るに怒れないのか、先程から緑茶を飲んでは給湯室に向かい、お代わりを繰り返している。 そこまで気になるならいっそのこと勉強を教えてくれりゃいいのに、とツヴァイヴォルフは思わないでもなかった。
 時間が経つに連れて社内には怪人が戻り、アラーニャの他にレピデュルスやパンツァーまでもが戻っていた。 最後の一人のファルコは今日出掛けた現場が遠い場所なので、戻ってくるまでは時間が掛かるとのことだった。

「えーと、次は……」

 美花は教科書を広げて範囲を示したが、ツヴァイヴォルフは首を捻った。

「そんなん習ったっけ?」

「一学期の前半に習う公式ですから、どれだけ授業の進みが遅くても習っていると思いますよ?」

「こんなん、覚えてねーし」

「でも、覚えておいた方が後々で楽ですよ。そのうち、応用問題が出ますから」

「応用なぁ……」

 応用されたとしても基礎が解らないのでは意味がない。ツヴァイヴォルフは、今更ながら危機感を抱いた。 美花は教科書の下に隠れていた問題集を出すと、どの問題にすべきかと考えながら、口元に手を添えて唸った。 先程から美花が教えているのは、始業式後に行われた実力テストで特に難問であった数学の基礎問題だった。 教えるのは上手いというわけではないが、出来る限り噛み砕いた説明で解りやすくしようと頑張ってくれている。 美花が相手であるということもあり、今ばかりはツヴァイヴォルフも身を入れて一学期の復習に取り掛かっていた。
 ツヴァイヴォルフははシャープペンシルをノックして芯を出し、壁掛け時計を窺うと、思いの外時間が過ぎていた。 美花と共に悪の秘密結社ジャールを訪れたのは午前十二時半前だったが、いつのまにか午後三時を回っていた。 昼食の時間もあったので、全てが勉強に費やされていたわけではないが、自分にしてはかなり長く勉強していた。 一人ではなく、手元に携帯ゲーム機も携帯電話もなく、兄の目があったおかげだが、我ながら感心してしまった。

「なあ、野々宮」

「はい?」

 問題集をめくっていた美花が顔を上げると、ツヴァイヴォルフは尋ねた。

「お前さ、どのくらい勉強してんの?」

「んーと、そうですねぇ……」

 美花は問題集のページを開き、ここからここまで、と先に指示してから、ツヴァイヴォルフに返した。

「部活動をしていませんから、帰るのだけは早いんです。だから、家に帰って掃除をしてから、当番の時は御夕飯の 下拵えをして、その後に宿題とか課題とかをやるんです。それは長くて一時間半かな。その後、お兄ちゃんと一緒に 御夕飯を食べて、お風呂に入って、寝るまでだから、合計で四時間強は勉強していますね。あ、でも、塾がある日は もうちょっと長いかな」

「真面目だなー、お前」

「いえ、全然。だって、勉強していても、気が逸れちゃうことも多いし」

「あーあるある。つか、そうならねー方がマジ少ねーし」

 ツヴァイヴォルフがけたけたと笑うと、諸経費の書類に目を通していたヴェアヴォルフが呟いた。

「お前の場合は九割が休憩だろうが」

「兄貴にはマジ関係ねーし」

 ツヴァイヴォルフがむくれると、ヴェアヴォルフは書類を置いて腕を組んだ。

「いいや、大いに関係あるぞ。お前がジャールに入った以上、お前は弟だがれっきとした部下であり社員の一人だ。 当然のことながら、お前が野々宮さんと悠長に勉強している一分一秒にも賃金が発生している。だがしかし、勉強は勉強で あって仕事じゃない。そんなものは家に帰ってからいくらでも出来る。だが、ここはあくまでも会社であって仕事場なんだから、 仕事に従事すべきなんだ」

「つか、俺、何したらいいのかマジ解んねーし」

「だったら、四天王の誰かに聞けばいいじゃないか」

「そんなの面白くねーし」

「だから、そういう問題じゃない。賃金が発生するということは、その給料に見合った労働を行っていることが大前提なんだ。 働いてもいないのに金をもらえるわけがないだろうが。初日でいきなり現場に放り込まれないだけ、ありがたいと思ってもらいたいぐらいだ」

「なんで俺が行かなきゃなんねーんだよ。マジ変だし」

「うちの副業は人材派遣会社だからな。行かせたいのは山々だが、お前が働けるような現場があるわけがないし、派遣した ところで一時間と持たずに逃げ出してきそうな社員を派遣したくないんだよ。そうなっちまったら、せっかくパンツァーとファルコが 取り付けてきてくれた契約が切られちまう」

「なんで?」

「契約先から信用されなくなるからだ。信用されなくなれば、今後の契約にも関わるしな」

「つか、ジャールって世界征服を企む悪の秘密結社だろ? なんでそんなのがマジに働いてんの?」

「世界征服するに当たっては何はなくとも資金が必要なんだ。資金がなければ怪人の数も増やせないし、必要物資を買うことも 出来ないし、何より社員である怪人達に給料が払えない。そりゃ、俺だって湯水の如く金を使った作戦を展開したいと思うこともあるが、 うちの会社にはそこまで余裕がないんだよ。だから、今は皆で一生懸命真面目に働いて、世界征服に必要な資金を貯蓄しているんだ」

「親父もそんなこと言ってた気がすんだけど。つか爺ちゃんも」

 ツヴァイヴォルフの鋭い発言に、ヴェアヴォルフは言葉に詰まりかけたが押し切った。

「だっ、だから、六十年越しの悲願だからこそ、俺の代では世界征服を果たすんだ! ここまで長くやっちゃったら、やるだけ やらないと引っ込みが付かないってのもちょっとあるが!」

「んじゃ、とっととミラキュルンとかいう女を叩き潰せばいいじゃん」

「それが出来ないから苦労しているんじゃないか。それにな、ミラキュルンを倒したとしても、この世にはヒーローはごまんと いるんだ。だから、ミラキュルンを倒したとしても俺達の戦いは終わらない。それどころか、ますます激化していく。そのためには 豊富な資金と充分な人材、そして行動力と決断力!」

 次第にテンションが上がってきたヴェアヴォルフは拳を固め、椅子を蹴り倒しかねない勢いで立ち上がった。

「世界征服への第一歩として、まずはこの町内一帯の勢力図を塗り替えることから始めなければならない! 確かに俺達と ミラキュルンの間には凄まじい実力差はあるが、俺達にあってミラキュルンにはないものがある! それは人生経験だ!  日々の過酷な労働で培われた体力と、契約先との取引で鍛えられた精神力と、仕事に次ぐ仕事で摩耗した神経の代わりに 蓄積したストレス、そして最後に上から下からじわじわ感じる期待と不安とプレッシャー! それらを全て悪のパワーに変えれば、 ミラキュルンといえど敵うはずもない!」

 確かに負けそうだ、と美花は身を縮めた。ヴェアヴォルフが苦労しているとは思っていたが、そこまでだったとは。 あまり知ってしまうと殴りづらくなるので、考えないようにしよう、知らないようにしよう、と思っていたが不可抗力だ。 居たたまれなくなって、この場から逃げ出してしまいたくなった。それが無理なら床に這い蹲って謝りたくなった。
 美花にはようやく戦う理由が出来た。大神剣司の日常生活を守り、引いては市民の日常生活も守ることである。 だが、ジャールの面々にも日常生活があり、怪人達は労働に従事しているので美花よりも余程社会貢献している。 これでは、どちらが正義か解らない。真面目に生きる怪人達を週一で殴っているミラキュルンの方が悪なのでは。

「で?」

 ツヴァイヴォルフは高らかに宣言した兄を見上げ、不満げに尻尾を振った。

「兄貴、世界征服っぽいことしたっけか?」

「……そう言われると」

 ヴェアヴォルフはすぐに勢いを失い、椅子に腰を下ろした。

「若旦那は何もなさっていないわけではありませんぞ。ただ、成果が出ないだけですとも」

「そうよねぇん。若旦那は企業経営で手一杯なんだからぁ、世界征服を進展させる方が難しいわよぉん。それにぃ、 ミラキュルンちゃんと戦うようになってからは半年ぐらいなんだしぃ、世界征服出来ちゃう方がおかしいわよぉ」

「ついでに言っちまえば、若旦那は先代に比べて優しいんだよなぁ。ミラキュルンとの戦いだって、攻め方が手緩いと 来たもんだ。一般市民を巻き込む作戦も展開しねぇ、怪人の強化改造もしねぇ、戦闘員を雇わないから戦力増強もしねぇ、 巨大化もしねぇとあっちゃ、進展が遅くて当たり前だぁな。坊っちゃま、若旦那を責めてやるな、資金繰りに気を取られすぎて 本来の目的を忘れがちなだけなんだからよ」

 と、レピデュルス、アラーニャ、パンツァーが口調は優しいが情け容赦ない言葉を連ねた。

「何か本当にすまん……」

 ヴェアヴォルフは軍帽がずれるほど深く項垂れ、尻尾を脱力させた。

「あ、あのう」

 ヴェアヴォルフが不憫になってきた美花は、控えめに発言した。

「だったら、次の決闘では負けましょうか? あの、その、私、ミラキュルンとは知り合いですから……」

「いいやそれはダメだ!」

 ヴェアヴォルフはすぐさま腰を上げ、スチール机を叩いた。その拍子に書類が崩れ、床に散らばった。

「お情けで勝てたとしても、それは本当の勝利じゃない! ヒーローから同情されて手加減されるような悪の組織が、 世界征服なんか出来ると思うか!」

「ごっ、ごめんなさぁい!」

 ヴェアヴォルフの語気の荒さに気圧された美花が涙目になると、ツヴァイヴォルフがにやにやした。

「あー、兄貴がまた野々宮泣かしたー」

「あっ、違います違います大丈夫です! ちょっとビックリしただけですからはいあの平気ですから!」

 美花はツヴァイヴォルフの言葉を打ち消そうとしたが、ヴェアヴォルフは余程気に病んだのか両耳を伏せた。

「ごめん、野々宮さん。そんなつもりじゃなかったんだが」

「あらぁん、もうこんな時間ねぇん」

 場が陰鬱な空気になりかけたことを察したアラーニャは、そそくさと給湯室に向かった。

「美花ちゃんが持ってきてくれた芋羊羹、切り分けておやつにしましょおん」

 ツヴァイヴォルフは給湯室から足をはみ出しながら芋羊羹を切り分けるアラーニャから視線を外し、兄に向いた。 美花に謝られ、アラーニャにフォローされても、自責の念が抜けないのか尖った耳は両方伏せられたままだ。 レピデュルスはヴェアヴォルフを気にしているようだったが、パンツァーはそうでもないのかアラーニャを見ている。 そして美花はと言えば、ヴェアヴォルフを窺いはするが話しかけられず、教室にいる時と変わらない姿になった。 勉強を再開しようかとちらりと思ったが、芋羊羹の方が重要なので、アラーニャが切り終えるのを待つことにした。

「芋羊羹?」

 パンツァーが頭部の単眼を瞬かせたので、ヴェアヴォルフは悟った。

「ああ、そういえばそうだったな。芋羊羹は。だが、俺もお前達も大丈夫だろう?」

「俺達はそうかもしれねぇが、確か坊っちゃまはまだ……」

 パンツァーはヴェアヴォルフに返してから応接セットに向くと、アラーニャが切った芋羊羹を二人に勧めていた。 ヴェアヴォルフは腰を上げたが既に遅く、ツヴァイヴォルフは小皿に載った芋羊羹を咀嚼し、飲み下してしまった。 ヴェアヴォルフ、レピデュルス、パンツァーが一斉に絶叫すると、アラーニャは盆を取り落として天井に飛び付いた。

「何何、何よぉおおっ!?」

「喰っちまったもんは仕方ない、巨大化しちまう! いいから脱げ、一着作るのにどれだけ掛かると思ってんだ!」

 慌てて駆け寄ったヴェアヴォルフは弟の軍服を脱がせようとするが、ツヴァイヴォルフは訳も解らず抵抗した。

「んなこと出来るか! つかなんで芋羊羹で巨大化すんだよ!」

「俺が知るか! だが、するものはするんだ! それがお約束なんだよ!」

 ヴェアヴォルフはツヴァイヴォルフを組み敷き、軍帽と軍服とズボンと軍靴を引っこ抜いて放り投げた。

「パンツァー、窓を割れ! レピデュルス、車を止めろ! アラーニャ、糸を張って被害を最小限に食い止めろ!」

「おうさな、若旦那ぁ!」

 パンツァーはすぐさま駆け出して窓へと突進し、ショルダーアタック一発で窓枠ごと粉々に破壊してしまった。

「こうなってしまっては致し方ありませんな!」

 破壊された窓から飛び出したレピデュルスは本社前の道路に飛び降り、車が途切れた瞬間にレイピアで 地面を切断した。アスファルトが分断されたことで行き交う車が急ブレーキを掛け、レピデュルスに乱暴な文句が 投げ掛けられた。レイピアを構えて車と通行人を牽制するレピデュルスの頭上にアラーニャが舞い降り、糸を吐き出した。 数秒と立たずに巨大なクモの巣を作ったアラーニャが社内に戻ると、入れ違いにヴェアヴォルフが飛び出した。

「ちょっと痛いが我慢しろ!」

 ヴェアヴォルフは半裸のツヴァイヴォルフを空中に放り投げると、自身はアラーニャに回収されて社内に戻った。 呆然としていた美花は、割れた窓から外を窺うと、ビルとビルの間のクモの巣にツヴァイヴォルフが転がっていた。 全身にクモの糸がまとわりついて毛並みは乱れ、ワイシャツは首までめくれ上がり、尻尾は垂れ下がっていた。 見てはいけないものを見てしまった気がした美花が身を引くと、息を荒げたヴェアヴォルフが軍帽を被り直した。

「野々宮さん。すまないが、次からは芋羊羹は勘弁してくれ」

「あ、はい……」

 美花は小さく頷くと、突然震動が起き、ビルが軋んだ。一瞬、地震かと思ったが原因はツヴァイヴォルフだった。 割れた窓の端に、巨大な尻尾が現れた。クモの糸が絡んだ茶色の体毛が揺らされると、生温い風が発生した。 尻尾に続いて出現したのはビルの窓よりも大きな肩と、丸まった背中と、情けなく伏せられた二つの耳だった。 美花は恐る恐る割れた窓から頭を出して見下ろしてみると、ツヴァイヴォルフの体はクモの巣をはみ出していた。 クモの巣に顔を埋めているので顔は見えなかったが、どれほど軽く見積もっても全長二十メートルはありそうだ。 本当に、これは芋羊羹のせいなのか。美花は信じがたかったが、目の前にあるのだから信じるしかなさそうだ。

「ああなっちまったら、二三時間は元に戻らねぇな。戦いでもして発散すりゃあ別だが」

 パンツァーは肩に付いた破片を払い、跳躍してクモの巣の隙間を通り抜けたレピデュルスが戻ってきた。

「巨大化された坊っちゃまの処理をいかがなさいますか、若旦那」

「私の糸だってぇ、そう長くは持たないわよぉん」

 天井に貼り付いているアラーニャが逆さまに顔を出すと、割れた窓の外側にファルコが降りてきた。

「若旦那、こいつぁ一体全体何事ですかい! なんで坊っちゃまが巨大化しちまってんでさぁ!」

「ファルコ、丁度良いところに帰ってきた! お前はまだ巨大化因子を封印していなかったよな?」

 ヴェアヴォルフはファルコに迫ると、ファルコは羽ばたきながら答えた。

「怪人因子の改造手術は手間が掛かりやすから、ついつい先延ばしにしちまったんでさぁ。ってことは、まさか」

「そのまさかだ、すまん!」

 ヴェアヴォルフはツヴァイヴォルフの食べ残しの芋羊羹を掴み、ファルコの空いたクチバシ目掛けて放り投げた。 条件反射で飲み込んでしまったファルコは目を丸くしていたが、ヴェアヴォルフらが見守る中で巨大化し始めた。 みるみるうちにファルコが膨張し、頭は窓を越え、翼がビルの幅を越え、最後には顔も足も見えなくなった。ファルコは 羽ばたきながら頭を下げ、社内のヴェアヴォルフと視線を合わせると、渋々ではあるが了承してくれた。

「こうなっちまったら仕方ありやせん。坊っちゃまを連れて、巨大化が収まるまで大人しくしてまさぁ」

「本当にすまん、後で必ず埋め合わせをするから」

 ヴェアヴォルフが平謝りすると、両足のカギ爪でツヴァイヴォルフを掴んだファルコは浮上した。

「その言葉、忘れねぇで下せぇな!」

 一度羽ばたくごとに猛烈な風を作り出して巨体を持ち上げたファルコは、次第に遠のき、町中から脱した。 ファルコの後ろ姿とその足にぶら下がるツヴァイヴォルフを見送ったヴェアヴォルフは、安堵のため息を零した。

「街は救われた……」

「早急に事後処理を行わねばなりませんな」

 レピデュルスがレイピアで渋滞の起きている道路を示すと、ヴェアヴォルフは手近な電話の受話器を上げた。

「まずは警察と市役所に連絡だ。その後に施工業者だ。窓が割れたままじゃ雨が吹き込んじまう」

「忙しくなっちゃうわぁん」

 アラーニャはしゅるっと残った糸を絡め取り、パンツァーは肩に付いた窓の破片を払った。

「怪人なら一度は通る道だが、まぁさかこんな時になっちまうたぁなぁ」

 三人の後ろで突っ立っていた美花は、罪悪感に駆られて俯き、肩を細かく震わせた。

「ご、ごめんなさいぃ……」

「以後気を付けてくれればいいよ、野々宮さん。悪いのは、ツヴァイヴォルフに巨大化因子のことをちゃんと 説明していなかった俺の方なんだから。それに、巨大化因子さえ改造手術で封じてしまえば、芋羊羹は普通に 食べられる。だから、芋羊羹はありがたく頂くよ」

 ヴェアヴォルフに慰められたが、美花は更に深く俯いた。

「すみません……」

 このまま社内にいるのに耐えきれず、美花は手早く荷物をまとめて逃げるようにジャール本社を飛び出した。 罪悪感も強かったが、焦りにも駆り立てられていた。まさか、ジャールの怪人達が巨大化出来るとは知らなかった。 これではミラキュルンに勝ち目はない。怪人との間に実力差はあるが、巨大化されてしまっては戦いようがない。 今後、もしも怪人達に巨大化した状態で襲われてしまったら、美花は変身もせずに逃げ出してしまうかもしれない。 だが、それでは大神の日常を守れない。世界征服されてしまう。しかし、ミラキュルンは巨大化したことなどない。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。美花は乾き切った喉に唾を飲み下し、汗混じりの涙を拭いながら走り続けた。 戦えば負けないかもしれないが、負けないことは勝利ではない。勝たなければ、ミラキュルンの存在価値はない。 大神の日常を守るために戦うと決めたのだ、だからこんなことで挫けてはいけない、と美花は唇を引き締めた。
 来週の決闘では、巨大化しよう。




 芋羊羹は恐ろしい。
 いつのまにか空は朱色に染められ、風に千切られた雲はこれから訪れる夜の藍色を吸い込んでいた。 こんなに長々と空を眺めたのは久々だ、とどうでもいいことを考えながら、ツヴァイヴォルフは大の字に寝ていた。 巨大化中のことは、あまり覚えていない。普段目にする世界が縮んでしまったような感覚だったことは覚えている。
 体中の関節が軋みを立て、筋肉という筋肉が引きつり、内臓が重たく、脳は発熱とは違う熱で煮え溶けそうだ。 全身のありとあらゆる部分が過負荷に耐えかねて悲鳴を上げていたが、思考は気持ち悪いほど落ち着いていた。 我が身に起きたことが非常識極まりないので、慣れぬ勉強に疲れた脳が現実を理解することを諦めたのだろう。 体毛を通り抜けてきた外気で全裸なのだと自覚したが、体を動かすに動かせないので、当分はこのままだろう。

「ちったぁ調子が戻りやしたかい、坊っちゃま」

 ツヴァイヴォルフの視界にクチバシを突き出したのは、ファルコだった。

「戻るわけねーし……」

 ツヴァイヴォルフは体を起こしたが、単純な動作だけでも背中や手足に鋭い痛みが走り、変な呻きが漏れた。

「まあ、無理はしなさんな。俺も最初に巨大化した時ぁ、体中ビッキビキで次の日は使い物になりゃあしなかった」

 隣に座ったファルコは、ツヴァイヴォルフにペットボトルのスポーツドリンクを手渡してきた。

「うー……」

 手が上手く動かないので歯で噛んでキャップを捻り取り、乾き切った喉と胃液すら枯れた胃に流し込んだ。 巨大化した直後に同じく巨大化したファルコに連れてこられた時は解らなかったが、ここは採石場のようだ。 だが、事務所には人影はなく、西日に照らされた重機は赤錆が浮き、現場としての機能は失っているようだった。

「ここはよ、大旦那様が御健在だった時によぉーく決闘で使った場所なんだよ。今は倒産しちまってるし、買い手も付いてねぇが、 土地の権利は大神家のモンだ。だから、俺らが入ったところで何の問題もねぇっつうわけでさぁ」

 ファルコは羽毛に覆われた瞼を下げ、懐かしげに石と砂の世界を眺めた。

「そういや、あんたら四天王っていつからジャールにいんの? 俺が生まれる前からいるんじゃね?」

 水分を得たおかげで気力も戻ってきたツヴァイヴォルフが言うと、ファルコは笑った。

「いんやぁ、俺は四天王の中じゃ一番の新参者でさぁな。一番の古株は他でもねぇレピデュルス、次にアラーニャ、その次に パンツァー、そいでもって最後に俺でさぁな」

「え? アラーニャの方が先なん? でも、パンツァーの方が年上じゃね?」

「俺達にも色々あるんでさぁ」

 ファルコは喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲み干すと、クチバシで噛んで真っ二つにした。

「しっかし、なんでまた急に坊っちゃまは世界征服したくなったんですかい? それまではちいっとも興味を示してくれなかった じゃあありやせんか。まさかたぁ思いやすが、女の子に袖にされたんですかい?」

「ちげーし! んなわけあるかよ!」

「あの野々宮さんっちゅうおなごが、若旦那の思い人なんでやんすね? でもって、坊っちゃまのクラスメイトでもあるんですな?  やっぱり兄弟ですなぁ、女の趣味が同じたぁ」

「だから違うっつってんだろ! 俺があんなの鈍くさいの好きなわけねーし!」

「解りやしたよ、そういうことにしといてやりまさぁ」

「マジちげーし」

 ツヴァイヴォルフは可笑しげに笑うファルコから顔を逸らし、気を紛らわすためにスポーツドリンクを飲み干した。 ファルコはツヴァイヴォルフの言い分を信じていないらしく、そうかそうかぁ、と勝手に納得したように頷いている。 出来ることならファルコを黙らせてしまいたかったが、ツヴァイヴォルフにはそこまでの余力は残っていなかった。 採石場付近の低めの山とその麓に広がる町並みをぼんやりと眺めていたが、思考は美花へと移り変わっていた。
 こんなはずではなかった。少しだけ悪いことをして美花を独り占めしたいだけだったのに、巨大化してしまうとは。 悪いことをしたから罰が当たったのだ、と思ってしまったが、考えてみたら怪人は悪いことをするのが宿命なのだ。 それなのに罰が当たるのはどういうことだ、と悩んでしまいそうになったが、答えが出ないのですぐに止めた。 ツヴァイヴォルフは自分の馬鹿さ加減に嫌気が差してしまったが、今日の出来事でつくづく痛感したことがあった。
 勉強は大事だ。そして、芋羊羹は二度と食べるものか。





 


09 8/22