純情戦士ミラキュルン




犬神



 月の赤い夜だった。
 家々の明かりが落ちて人々の息吹も静まった夜更け、ヴォルフガングは縁側に座って手酌で酒を飲んでいた。 元々、夜行性の種族であるヴォルフガングは寝付きが悪い。鍛錬もしていないので肉体の疲れもなく、昼間の暑さ と気怠さだけが体内に淀んでいる。退屈凌ぎに本を読もうにも、手元にあるのはヴォルフガングの力だけでは読む に読めない日本語の本ばかりだ。かといって、無闇に外を歩き回るのは良くない。レピデュルスがいる時ならばとも かく、冴を一人きりにするわけにはいかない。清酒を傾けて喉に流し込み、息を吐くが、蒸留酒に劣らぬ強さの酒精 が回ってきても眠気はまるで訪れなかった。

「犬神か」

 昼間の霊媒師の言葉が頭に引っ掛かり、そればかりが頭の中で渦巻いていた。

「私は、そうなるやもしれんのか」

 主の意志を汲み、他者に害を成す獣の化身。冴を愛するあまりに、何をしでかすか解らないということか。否定の 言葉を吐こうとしたが、酒と共に飲み込んだ。冴が大事でたまらないが、喜んでもらえるのかが解らない。贈り物を すればいいのか、観劇にでも連れ出せばいいのか、はたまた床を共にすればいいのか、さっぱりだった。だから、 このままでは、即物的な願いを叶えることが冴の喜びに繋がることだと思い込んでしまうかもしれない。そうなれば、 ヴォルフガングは珠子の言うような犬神になりかねない。けれど、それだけはしてはならないことだ。
 不意に、奥の間に物音がした。冴が寝返りを打ったのか、と思ったがそれにしては異様な物音だ。ざらり、ざらり、 ざらり、と何かが畳に擦れる。ずるり、ずるり、ずるり、と重たく長い物が引き摺られて動いている。ただならぬ気配に 腰を上げたヴォルフガングは、冴の眠る奥の間の襖に手を掛けて、音を立てないように開いた。
 障子を通り抜けた赤い月明かりが注ぐ奥の間では、冴が眠っていた。寝顔は穏やかで、寝息も落ち着いている。 だが、その寝顔を見ているのはヴォルフガングだけではなかった。月光よりも赤い瞳が見開かれ、冴の寝顔を食い 入るように見つめていた。枕元には座り込んでいるのは闇を吸い込んだかのような異形で、両膝を曲げて長い腕を だらりと垂らしている。それに気付いていないのか、冴は目を覚ます気配すらない。闇の凝結物は頭を上げ、耳元 まで裂けた口をみちりと開いた。

「清い娘よ」

 様相に見合う濁った声を発した闇色の異形は、ずるり、と両腕を引き摺って腰を上げた。

「のう、おぬし」

「誰だ、貴様は」

 ヴォルフガングは低く呟くと、闇色の異形は芋虫のように膨らんだ指先で冴の顔に触れた。

「誰でもなく何者でもない者よ。ちと弱っているが、喰うに丁度良い娘よ」

「彼女に触れるな!」

 ヴォルフガングは襖を開け放って歩み寄るが、にゅるりと闇色の異形は動き、ヴォルフガングの背後に回った。

「おぬしが喰わねば、儂が喰うてやろう。いかに瑞々しい果実も、喰わねばいずれ腐るものよ」

「うっ!?」

 空気の流れすらも感じなかった。ヴォルフガングが目を剥いて振り返ると、闇色の異形はぐきりと首を曲げた。

「我が名はイヌガミ。おぬしであり、また、おぬしになるであろう者」

「私は貴様ではない、世迷い言を!」

 ヴォルフガングはイヌガミに掴み掛かろうと踏み出すが、イヌガミはぬるりと移動して庭に出た。

「憎いか、ならば殺してみせい」

 月明かりが落ちる庭に立つイヌガミの頭部にはヴォルフガングのそれに似た耳が生え、尻尾までも生えてきた。 月光を浴びても尚、体表面はコールタールを塗ったかのような湿った黒のままで、陰影が一切出来ないほど深い。ヴォルフガングは奥の間の襖を閉めてから庭に出ると、着流しの裾を割って袖を上げてイヌガミと対峙した。
 砂粒を蹴散らしたイヌガミが、無数の星が散らばる夜空に吸い込まれる。ヴォルフガングは地面を蹴り付け、夜空 を目指した。一秒と立たずに家々の屋根が見下ろせる高さまで上昇すると、イヌガミは鞭のような腕を振り回した。 ヴォルフガングは敵の腕が振り下ろされたと同時に掴み、捻ると、鉄をも裂ける爪を伸ばして切りつけようとした。 が、もう一方の腕で攻撃を止められ、ぐねりと波打った腕によって引き離されたヴォルフガングに、すかさず追撃が 加わった。呆気なく叩き落とされたヴォルフガングは、見知らぬ民家に落下する寸前に空中を蹴り、再度跳躍した。 反撃に転じるべく拳を固め、上体に捻りを加えながら拳を叩き込もうとするが、イヌガミを見た途端にぎょっとした。

「なっ」

「大旦那様」

 レピデュルスだった。ぬるついた影が剥がれ落ちて生まれ出た側近は、濡れたように黒い複眼に主を映した。

「このような夜更けに、何をしておられるのですか」

「……あ?」

 それは私のセリフだ、とヴォルフガングが言いかけると、レイピアの先端がヴォルフガングの顎を持ち上げた。

「あの娘は私が喰らいましょうぞ。さすれば私は人の叡智を手に入れ、永久なる命の牢獄を脱しましょう」

「お前、何を馬鹿な」

「大旦那様が喰われないからでございます!」

 ひゅお、と風を切りながら振り抜かれたレイピアに体毛を裂かれ、灰色の飛沫が飛び散る。

「全く、なんて夜だ!」

 ヴォルフガングは薄皮が切れた首を押さえて後退し、レピデュルスが突き出してくるレイピアとの間合いを取った。 空中だというのに、レピデュルスの突きに隙はない。的確に急所を捉え、心臓、首、腹、肩、と切っ先を放ってくる。 一撃でも受けたら貫通する。ヴォルフガングは戦うか否か迷ったが覚悟を決め、レピデュルスの腕を絡め取った。

「すまん!」

 ヴォルフガングは躊躇いを捨てて側近の腕を掴み、曲げてへし折り、レイピアを叩き落とした。

「い、ぁ……」

 ぼたぼたと滴る体液は赤く、浴衣の袖に滲む。鼻を突く臭気は鉄臭く、甲殻類の体液とは似て非なるものだった。 赤っぽい月明かりを浴びた者は赤茶けた外骨格がぬるりと剥がれ落ちると、体格が一回りも二回りも縮んでいた。 長い黒髪が乱れ、青ざめた頬に散らばっている。涙で潤んだ目が上がり、冴は苦痛に歪んだ顔を向けてくる。

「ヴォルフガング様、腕が、腕が痛うございますわ……」

「どうして、そんな」

 今し方倒したのはレピデュルスだ。状況が理解出来なくなったヴォルフガングは後退するが、冴は迫ってくる。

「ああ、憎らしい、憎らしい、憎らしい! あなたさえいなければ、私はこんなにも醜くならずに済みましたのに!」

 折れた腕から黒い泡が膨れ上がり、冴の半身を覆っていく。

「私は穢れてしまう! あなたが私の穢れとなるものを殺して下さらないから! だから、私はこんなにも!」

 ごぶり、と一際大きな泡が膨れ、冴を包み、弾けると、黒い唾液を散らしながらイヌガミが両腕を振り回した。

「恨みや妬みを喰らってしまったではないかぁああっ!」

「そうですとも、大旦那様。あの娘を喰らえば、大旦那様は更なる高みへと上ることでしょう」

「そうですわ。あのカニのお化けがいるから、私はヴォルフガング様の目には留まらないのですわ」

「さあ、あの娘を喰らいましょうぞ。料理でしたらお任せ下さい。大旦那様の口に合う味に仕上げてしんぜましょう」

「お願いしますわ、ヴォルフガング様。カニのお化けを殺して下さいまし。そうすれば、あなたは私だけのものに」

 レピデュルスと冴の声が、同じ口から交互に聞こえる。耳を塞ごうとしたヴォルフガングに、長い腕が吸い付く。

「さあ、大旦那様」

「さあ、ヴォルフガング様」

「あの娘を」

「あのカニのお化けを」

 みぢぃ、と顎が落ちるほど大きく口を開いたイヌガミは、二人の声で同じ言葉を発した。

「殺して下さいまし」

 赤い月までもが笑っているような気がした。二人の声が重なるが、そこにいるのは二人のどちらでもないモノ。油を 塗ったような光沢を帯びた漆黒の軟体の物体は、ぬるぬるとヴォルフガングに長い腕を回して締め付けてくる。首を 刎ねてしまえ、喰い千切ってしまえ、頭を噛み砕いてしまえ。心中がそう叫ぶが、これは本物の二人かもしれない。 手応えの不確かな頭部を掴んだヴォルフガングは、深呼吸して肺一杯に夜気を満たし、それを抱き締めた。
 どちらであろうと殺せるものか。どちらかを殺したとしても、その先に待っているのは果てのない後悔だけなのだ。 抱き締めたイヌガミは手応えが奇妙だったが、にたりと笑ったので、ヴォルフガングはなんとなく笑い返した。理由は 解らないが、それは嘲笑ではなく微笑みだと思ってしまった。可笑しいと思ったが、なぜか嬉しいと思った。
 足に滴った酒の冷たさで、ヴォルフガングは両目を開いた。いつのまにか杯が傾いていて、床板に広がっている。 だが、先程まで空中にいたはずでは。ヴォルフガングは混乱しながら目を上げるが、月は冴え冴えと青白かった。 赤かった月が青いだけでなく、裾もはだけていなければ袖もめくりあげておらず、首筋には切り傷はない。

「……どういうことだ?」

 ヴォルフガングは頭部の体毛を掻き乱してから、思い出した。昼間、霊媒師の九尾珠子から幻術を掛けられた。 その時はなんでもないと思っていたが、効果が現れたらしい。すると、先程のことは夢に似た幻だったのだろうが、 手応えや匂いが生々しすぎる。レピデュルスの腕を折った感触や冴の血の臭いが鼻を突き、今もまだ、幻術の中に 囚われているような気がしてならない。ヴォルフガングは胸中に不安が掠めたので、杯を置いてから腰を上げた。 出来る限り慎重に襖を開けると、青白い月光が細く差し込み、奥の間で熟睡している冴の寝顔を淡く照らし出した。 ヴォルフガングは奥の間に入ると後ろ手に襖を閉め、冴の枕元で膝を付いた。触れなければ確かめられない、との 思いに突き動かされたヴォルフガングが頬をなぞると、温もりが返ってきた。赤子のように柔らかな手応えと確かな 温もりにヴォルフガングはこの上なく安堵し、立ち去ろうとすると、冴が薄く目を開いた。

「ヴォルフガング様……」

 冴はヴォルフガングの裾を掴み、眠気の残る眼差しを上げた。

「行ってしまわれますの?」

「冴さんの眠りを妨げてはいかん」

 ヴォルフガングは冴の手を解こうとするが、冴はシワが寄るほどきつく裾を握り締めた。

「嫌ですわ」

「では、寝付くまで傍にいよう」

「それだけでは足りませんわ」

 ヴォルフガングに縋り、冴は膝立ちになった。

「どうか、どうかお傍に」

「我が侭を申されるな」

 その手を振り解くのが惜しくなったヴォルフガングは膝を付き、冴と視線を合わせた。

「ヴォルフガング様にもっと触れて頂きたいし、触れたいんですの。それなのに、いつも逃げてしまわれるから」

 それに、と冴はヴォルフガングの胸に顔を埋め、恥じらうように肩を縮めた。

「ヴォルフガング様が犬神であったとしても、取り憑かれているのは私の方ですわ」

「弱ったな」

 これでは、逃げることなど出来ない。ヴォルフガングは腰を下ろして胡座を掻くと、冴を招いた。

「ならば、今宵は共に過ごそう」

「ヴォルフガング様」

 冴は笑みを浮かべながら寝床から這い出すと、ヴォルフガングの膝に収まり、大柄な体に細い腕を回してきた。 間近に感じる冴の甘い匂いにヴォルフガングはくすぐったい気持ちになったが、欲動は湧いてこなかった。しかし、 それは時間の問題だ。冴と手を繋いだのは結婚を申し込んだ時だけで、これほど確かに触れ合うのは初めてだ。 同じ家で暮らしているのに、思いを告げたのに、抱き締めることすら出来なかったのだ。自分では目を逸らしている つもりでも吐き出せずにいた欲求は溜まりに溜まっていて、鼓動と共に血に混じり、全身を高ぶらせてくる。
 奥の間が暗いからだろう、冴は遠慮せずにヴォルフガングに甘えてくる。日中は目も合わせてくれなかったのに。 だったら、こちらも遠慮することはない。ヴォルフガングは照れ笑いを零しつつ、冴の顔を上げさせて顔を寄せた。 何をするのか察しが付いたのか、冴は瞼を下げた。ヴォルフガングは冴の小さな唇を塞ぎ、薄い体を抱き締めた。 存分に冴を味わってから唇を解放したヴォルフガングが腕を緩めると、冴はくらりと頭を傾けて脱力した。

「ふぁ……」

 月明かりだけでも解るほど頬を赤らめた冴は、口元を押さえて目を潤ませた。

「こ、こんなの、苦しすぎて死んでしまいそうですわ」

「では、やはり離れた方がよろしいかな」

「嫌、そんなの嫌ですわ」

 冴は赤面しながらヴォルフガングを見上げ、着流しを掴む手に力を込めた。

「ヴォルフガング様が望むのでしたら、私は……」

「早々に契りを結ぶわけには行くまい。まずは、冴さんに慣れてもらわねば。私にも、私の剣にも」

 自分で言っていて恥ずかしくなったが、ヴォルフガングが言い切ると、冴はかすかに震えながら頷いた。

「や……優しくして、下さいまし」

「善処しよう」

 冴の火照った頬を撫でてヴォルフガングは破顔すると、暗闇でも解るほど緊張と高揚で強張った表情が解けた。 冴はヴォルフガングに身を委ね、ヴォルフガングは冴の痩せた体を解き、心行くまで愛した。ヴォルフガングは暑さ とは違う意味での汗が浮いた冴の肌を味わいながら、心中に燻る先程の幻影を思っていた。
 冴のためなら、誰でも殺せてしまう。彼女が望むのならば、レピデュルスでさえも手に掛けることが出来るだろう。 だが、そんなことをして冴が心から笑ってくれるはずがない。けれど、彼女の願いはどんな願いでも叶えたいと思う。 恐らく、あのイヌガミはヴォルフガングの一部だ。九尾珠子の用いた幻術で引き摺り出された、心中の暗部だろう。 冴との幸せな日々を望む一方でレピデュルスとの凪いだ日々も望んでいる。ならば、どちらも選べばいい。これまで の日々とこれからの日々は別物ではない。長らく連ねてきた時が重なり、交わり、新たな時が始まるのだ。
 冴が存在する、幸福な世界が。




 翌日。予告通り、九尾珠子が訪問した。
 冴が奥の間から頑なに出てこず、使用人もまだ来ていなかったので、ヴォルフガングが薄い茶を淹れて出した。 昨夜の幻影の件を話すと、珠子は満足げな笑みを見せた。幻術が無事に成功したことが素直に嬉しかったのだ。 そして、その幻影に出てきたイヌガミのことを事細かに説明すると、珠子はこれで犬神の件は終いだと言ってきた。 あれだけで祓ったことになるのか、とヴォルフガングが訝ると、珠子は昨日は見せなかった朗らかな表情で言った。 要するに犬神とは人の恨みや妬みが表面化したものなので、それを自制出来るようになれば祓ったも同然だ、と。 最後の仕事は依頼主にそれらしく説明することだ、と言い、珠子は丁寧な挨拶をしてから大神家を後にした。
 湯飲みや急須を片付けてからヴォルフガングが奥の間を覗くと、布団では掛布にくるまった冴が身を丸めていた。 疲れ果てているのか、身動き一つしない。悪いことをした、とヴォルフガングは後悔しながら奥の間に入った。

「冴さん」

 ヴォルフガングが声を掛けると、冴は掛布の下からおずおずと顔を出して、掛布をめくってシーツを指した。

「これ、いかがなさいましょう」

「あ……」

 昨夜の拙い行為の証拠である薄い染みに、ヴォルフガングは居たたまれなくなって両耳を伏せた。

「私、何が何だか解らなかったものですから」

 叱られた子供のような顔で俯く冴に、ヴォルフガングは耳を伏せたまま頭を掻いた。

「これは全面的に私の責任だ。私が洗おう。だが、最後に洗濯をしたのは何十年前だったか……」

「頑張って下さいまし、ヴォルフガング様。ご覧の通り、私は動けませんもの!」

 途端に明るく笑った冴は布団からシーツを剥ぎ取ってヴォルフガングに渡すと、掛布を被って寝てしまった。代えの ものを持ってきて下さいまし、とも命令され、ヴォルフガングは多少理不尽さを感じたがそれに従った。とにかく、 レピデュルスが帰ってくる前になんとかしなければ。事を知られたら、何はなくともばつが悪いからだ。レピデュルス がどうやって洗濯していたのかを思い出しながら、ヴォルフガングは家の裏にある井戸に向かった。

「もしかして、このことか?」

 主の意志を汲み、使役される犬神とは。洗い桶に水を張って洗濯板でシーツを擦りながら、ヴォルフガングは自問 した。確かに冴は御嬢様育ちで体も脆弱だが、大佐ともあろう己が顎で使われるとは。今更ながらかすかな苛立ち を感じたが、一度始めたものは最後までやらなければ。粉石鹸を入れて泡立てつつ、ヴォルフガングは昨夜の行為 を思い出しては一人で恥じ入った。二人きりでは嬉しいやら気まずいやらで、レピデュルスの一刻も早い帰りを願い ながら、懸命に洗った。だが、少しでも気を逸らすと昨夜の冴の言葉や温もりやその他諸々が蘇って力が入りすぎ、 大量の泡が立った。とにかく、昨夜の名残が消えるほど綺麗に洗って庭先に干そう。真っ白に洗えれば、冴が笑顔 で褒めてくれるかもしれない。子供染みた期待を抱いた自分に、ヴォルフガングは苦笑いしたが清々しくもあった。
 何にせよ、冴が笑ってくれるのだから。







09 11/9