純情戦士ミラキュルン




家族の肖像



 夢を見たような気がした。
 嫌なもので胸中をなぞられるような不快感が迫るが、具体的な像が結ばず、不快感の上に不安感が募った。息が 苦しい。胸が詰まる。胃が重苦しい。喉の奥が熱い。頭が重い。感じ慣れた体調不良なのに、何かが違う。不快感は 明確な不安に変わり、不安は凝固した畏怖に変わり、畏怖は重みを伴う恐怖となって冴を苛んだ。助けを求めるよう に夫の名を呼んで手を伸ばしたがその手を取る手はなく、中空を彷徨った手が畳に落ちた。
 手の甲が畳に打ち付けられた冷たさと痛みの中、冴は目を覚ました。不快感は溶けたが、残滓が心中に凝った。 生温い布団から起き上がり、冴は薄暗い室内を見回した。障子から差し込む日差しは鋭く、触れると暖かかった。 だが、空気は凍えるように冷たく、首筋がぞわりと粟立つ。息を吸い込むと肺が凍りそうになり、呼吸を細めた。浅く 吸って、浅く吐いて、肺を外気に慣れさせる。それから立ち上がろうとするが、立ち眩みがしてよろけかけた。一度 布団に座って目眩が収まるのを待ってから、冴は慎重に膝を伸ばすと、今度はちゃんと立つことが出来た。

「ヴォルフガング様?」

 夫の名を呼ぶが、答えはない。

「レピデュルス?」

 夫の側近であり使用人の名を呼ぶが、やはり答えはない。

「どなたもおられませんの?」

 寝起きに誰もいないと、寂しくてたまらない。冴は浴衣の上に厚い綿入れ半纏を羽織り、襖を開いた。冷え切った 床板に極力触れないように、つま先立ちで縁側を歩き、日差しに暖められた部分を選んで進んだ。庭木は白い綿 のような新雪に覆い尽くされ、昼の日差しを照り返して眩く輝き、自重に負けた雪が枝から落ちた。冴はほうっと息を 吐き出し、その白さに目を細めた。見慣れない雪が面白くてならないが、遊ぶことは出来ない。少し前であれば翌日 に熱を出すのも構わずに無茶をしていたのだろうが、今は冴一人の体ではなくなったのだ。

「うふふ」

 幸せを噛み締めながら、冴は下腹部に触れた。

「ゆっくり育ってから、お外へ出ていらっしゃいな。大きくなったら、私と一緒に遊びましょう」

 ほんの少しだけ丸くなった腹に向け、冴は笑みを浮かべた。

「あなたは御父様似かしら、それとも私に似ているのかしら? あなたに会えるのが、本当に楽しみですわ」

 まだ見ぬ我が子を撫でるように、冴は優しい手付きで下腹部をさすった。妊娠が解ったのは、二週間前のことだ。 ヴォルフガングと結婚して間もなく、冴は激化する戦火を逃れるために、大神家の別荘がある山間部に疎開した。 新聞やラジオは判を押したように戦況が良いと伝えるが、敵対国の戦闘機に主要都市や軍需工場が爆撃された。 冴らの住んでいた家も都市部に近く、軍港も近かったため、敵対国から空爆されてしまうのは時間の問題だった。 ヴォルフガングとレピデュルスは任務があるので疎開すべきではないと冴は言ったが、彼らは冴と共に疎開した。 素人目に見ても明らかな軍紀違反だが、ヴォルフガングの祖国も相当戦況が悪いらしく、処罰は行われなかった。 軍人である二人に祖国を裏切らせてしまったことを冴は気に病んだが、二人は笑うだけだった。軍に下っていたの は戦うためではなく生き延びるためだ、そして、こうして生き延びたのだからもう良いのだよ、と。
 そして、冴は二人と共に別荘に疎開した。温泉場のある観光地だが、戦時下なので観光客は一人もいなかった。 戦争で物流が滞っているために冬場でも食料が豊富で、大神家と付き合いのある農家からは多く分けてもらった。 恐ろしげな外見のヴォルフガングとレピデュルスは当初は恐れられたが、何度も雪下ろしの手伝いに行って住民達 と打ち解けた。だが、冴は空気の良い場所に来たというのに体調が悪く、起き上がれない日が続いていた。最初は いつもの体調不良だと思っていたがあまり長く続いたので、医者に診てもらうと妊娠していることが判明した。無論、 父親はヴォルフガングだ。冴も喜んだが、ヴォルフガングはそれ以上に喜び、喜びすぎて医者に叱られた。
 居間にも台所にも二人がいなかったので、冴は雪下駄を引っ掛けて二人の足跡が続いている土蔵に向かった。 土蔵の分厚い鉄扉が開いていて、物音がする。冴は外の明るさに反比例した暗さの土蔵を覗き、声を掛けた。

「ヴォルフガング様、こちらですの?」

「冴!」

 途端にヴォルフガングが飛び出してきて、自分の着ていた上着を冴に被せた。

「こんなに寒い中を出てきてはいかんよ。しかもそんな格好で!」

「御心配なさらず、ヴォルフガング様。平気でしてよ」

 夫の体温が残る上着の暖かさに頬を緩めた冴は、ヴォルフガングの両耳に付いた埃を見、噴き出した。

「ヴォルフガング様こそ、なんて格好ですの?」

「あ、ああ、これはだな」

 ヴォルフガングは灰色の毛並みに付いた埃を払ってから、土蔵の中で忙しく働くレピデュルスに振り向いた。

「レピデュルス!」

「大旦那様、少々お待ち下さい。ございました」

 人型カブトエビ、レピデュルスは同じく埃まみれの外骨格を払い、木箱を引っ張り出した。

「なんですの、それ?」

 冴が首を伸ばすと、レピデュルスは箱を開けて中身を出した。それは、ばらばらにされたイーゼルだった。

「ですが、これをお使いになるのでございますか? 大旦那様には、欠片も絵心がございませんが」

 レピデュルスは使い古しのイーゼルを手際良く組み立てると、ヴォルフガングは苦笑した。

「重々自覚しているとも。だから、絵を描くのは私ではない」

「絵? なんの絵ですの?」

 ヴォルフガングの暖かな腕に抱かれながら冴が問うと、ヴォルフガングは片目を閉じた。

「決まっている。君と私の絵だ」

 組み立て終わったイーゼルを閉じ、脇に抱えたレピデュルスは、土蔵から外に出てきた。

「ですが、大旦那様。このような山村に来て頂けるような、酔狂な画家はいらっしゃらないのでは?」

「三日三晩降り続いた雪のために、この村は今や陸の孤島だからな。それはまず無理だろう。だが、その陸の孤島の 中からならば何の問題もない」

 ヴォルフガングは冴を片腕で軽々と抱え上げると、本宅に向かった。

「絵描きの方が村の中にいらっしゃいましたの?」

 夫の首に腕を回した冴が尋ねると、ヴォルフガングは頷いた。

「そうなのだよ。私も知らなかったのだがね」

「腕は確かでして?」

「作品をいくつか見せてもらったが、画力も表現力も申し分のない絵描きだ」

「ですけど、どうして急に絵を描いて頂こうだなんて思い付きになりましたの?」

 本宅に到着した冴は、玄関のあがりまちに下ろされた。ヴォルフガングもブーツを脱ぎ、玄関に上がった。

「解り切ったことではないか、君が美しいからだ」

「まあ」

 率直な言葉に冴は赤面し、夫の尻尾を引っぱたいた。

「嫌ですわ、そんなに褒めても何も出ませんわよ!」

「ふおっ!?」

 思い掛けない部分に訪れた打撃にヴォルフガングがつんのめると、冴は両手で頬を押さえて照れた。

「で、ですけど、ヴォルフガング様が仰るのなら、そうなのかもしれませんわぁ」

「そんなに嬉しいのなら、もっと言っても構わんが」

 ヴォルフガングは引っぱたかれた尻尾を守るように丸めてから、妻の愛らしさににやけた。

「もうっ」

 冴はますます照れて身を縮めたので、ヴォルフガングは妻の肩を抱き寄せた。

「さあ、床に戻りたまえ。こんなところにいては、子に障る」

「でしたら、ヴォルフガング様が連れて行って下さいまし」

 冴は少々声を上擦らせながら、ヴォルフガングに寄り掛かった。ヴォルフガングは口元を緩め、快諾した。

「可愛い我が侭だ」

 華奢な体を横抱きにして持ち上げたヴォルフガングは、冴の優しい匂いを味わうようにその髪に鼻先を埋めた。 冴はむず痒そうに笑みを零し、ヴォルフガングの首に腕を回して抱き付いてきたので、頬に口付けを落とした。今は まだ子の重みはないが、二人分の重みなのだと思うと感慨深く、ヴォルフガングはいつになく感じ入った。

「大旦那様」

 すると、玄関先からレピデュルスが声を掛けてきた。

「お前、少しは状況をいうものをだな」

 甘い一時に水を差されたヴォルフガングが不満を示しながら振り向くと、側近の傍には件の絵描きがいた。

「御来客でございます」

 レピデュルスは律儀に来客を指し示すと、来客はばつが悪そうに茶色い体毛の生えた耳を引っ掻いた。

「準備がありやすので、早めに来た方が良いかなぁと思っただけでして、はい」

「ヴォルフガング様ぁっ」

 照れに次ぐ照れで目眩がしてきた冴が夫を揺さぶると、ヴォルフガングは来客を制した。 

「しばらく待たれよ。すぐに戻る」

 へえ、とやりづらそうに返事をした絵描きを振り切るように、ヴォルフガングは足早に冴の部屋へと向かった。体温 が抜けきっていない布団に置かれた冴は、見ず知らずの相手に無防備な姿を見られた恥ずかしさで激しく悶えた。 ヴォルフガングもまた恥ずかしかったので、すぐには冴の部屋から出ていかず、柱に両手を付いて項垂れていた。 その後ろ姿と垂れ下がった尻尾がなんとも情けなく、冴は訳もなく可笑しくなってきて笑い出した。鈴を転がすような 妻の笑い声に、ヴォルフガングは羞恥心が増したらしく、尻尾を丸めて股の間に収まってしまった。

「冴……。何も笑わずとも良いではないか」

 弱り切ったヴォルフガングが漏らすと、冴は目元に滲んだ涙を拭った。

「だって、ヴォルフガング様のそんなお姿を見たのは初めてなんですもの」

「もう少し可愛がるつもりでいたのだが、あの程度で収めておいて良かったと思うべきか」

 自戒を込めてヴォルフガングが呟くと、冴は布団の上から這い出して夫の背後に近付いた。

「それは残念でしたわ。私の具合がよろしくないから、近頃はすっかり御無沙汰しておりましたもの」

「ああ、違う違う、そういう意味ではない。普通に可愛がると言うことだ。それに、今の君には」

 若干慌てたヴォルフガングに、冴はにんまりした。

「解っておりましてよ」

「君はそこで大人しくしていたまえ。私は彼に仕事の内容を話さねばならないからな」

 ヴォルフガングが襖に手を掛けたので、冴は立ち上がった。

「私も参りますわ」

「だが」

「今日は具合もよろしいんですの。それに、絵に描いて頂くのなら、綺麗にしなければなりませんわ」

 冴はタンスを開けて上等な着物を引っ張り出すと、襦袢や帯も出し始めた。

「御客様をお待たせしてはいけませんわ。ヴォルフガング様、着替えを手伝って下さいまし」

「解った」

 ヴォルフガングは開けかけた襖を閉め、妻の元に戻った。冴は足袋と襦袢を着終え、両腕を広げて背を向けた。 ヴォルフガングは床に広げられた鮮やかな朱の着物を取ると妻の細腕に通し、折り目を背中の中心に合わせた。 冴は衿元を合わせ、腰よりも上の位置で上前と下前を折り曲げて長さを調節して、緩まない程度に腰紐を結んだ。 衿を整えて弛みを直し、伊達締めを付けてから、帯を貝の口に結び、後ろに回して位置を整え、帯締めを結んだ。

「もうちょっと派手な結び方に出来れば良かったんですけれど、時間がありませんもの」

 冴は鏡台の前に座り、鏡を隠す布を外してから櫛で長い黒髪を梳いた。

「どうせなら、髪も結いたかったですわね」

 飾り紐で器用に髪を結び、後れ毛を耳に掻き上げてから、冴は夫に向き直った。

「さあ、参りましょ」

「その、帯がきつくないか?」

 ヴォルフガングが不安げに帯を指すと、冴は帯を押さえた。

「平気ですわよ。帯を締める位置は胸の下ですもの、お腹ではありませんわ」

「なら、いいんだが」

 ほっとしたヴォルフガングは、襖を開けて冴を促したので廊下へ出た。居間に入ると、来客はもてなされていた。 炭火が入った火鉢の前で茶を啜っているのは、着物の下に開襟シャツという書生風の服装のタヌキだった。袴の上 から太い尻尾が垂れ下がり、両手には四本の指しかなく、手のひらにはふっくらとした肉球が付いている。耳は先が 丸く、目元から口の下に掛けて黒くなっていて、黒く丸い目も手伝ってどことなく愛嬌のある様相だ。体型も全体的に 丸っこく、背丈も小さい。獣人と言うよりも、中途半端に人間に化けたタヌキの妖怪と言うべきか。

「お初にお目に掛かります、奥様」

 人型タヌキは湯飲みを置くと、ヴォルフガングと冴に深々と頭を下げた。

「六科豆吉と申します、いわゆる化けダヌキでごぜぇます」

「ムジナですの?」

「そう、ムジナ。六つの科、と書きます」

 豆吉は顔を上げると、厚い爪が生えた指で宙に字を書いた。

「ヴォルフガング・ヴォルケンシュタインの妻の大神冴と申します。以後、よろしくお願いいたしますわ」

 冴は一礼してから、豆吉の前に座った。ヴォルフガングも妻の傍に座ると、レピデュルスが茶を出してきた。

「ですけれど、タヌキさんが絵を描かれるなんて、ちょっと想像が付きませんわね」

 冴は何度も湯気を吹いてから、熱い緑茶を啜った。茶菓子を抓みつつ、豆吉は丸っこい目を瞬かせた。

「いんやあ、そんなに縁遠いものでもありやせんよ。タヌキの毛っちゅうのは、絵や字を書くのにはもってこいのものでして、 昔っから色んなところで使われているものでしてねぇ。まあ、絵を描くようになった切っ掛けは人間の真似事なんでごぜぇますが、 これがなかなか楽しくってねぇ」

 豆吉は茶菓子で渇いた口を茶で潤してから、口元の毛をぺろりと舐めた。

「そんで、肖像画の御依頼っちゅうことでしたが」

「材料費はこちらで負担する。いくら時間が掛かっても良いから、良いものを描いてくれ」

 ヴォルフガングが言うと、豆吉は夫婦をじっくりと眺め回した。

「はいはい、そりゃあもう良いのを描きますともよ。戦争が始まってしまってからは、ろくすっぽ絵なんて描かせてもらえやせん でしたからねぇ。それに、お二人とも、描き甲斐のあるお姿をしていらっしゃる」

 絵の具の量と色を決めているのか、口の中でぶつぶつと呟いてから、豆吉はレピデュルスに向いた。

「んで、こっちのカニのお化けみたいな御方はどうしやす? 一緒に描きやすか?」

「カブトエビです。私はご遠慮させて頂きます。あくまでも、大旦那様と冴様の肖像画でございますので」

 レピデュルスは少々語気を強めて訂正してから断ると、豆吉はやや不満げに太い尻尾を揺すった。

「やや、そうでごぜぇやすか。こちらもまた、描き甲斐のある見た目をしていらっしゃるんですがねぇ」

 豆吉はごそごそと荷物を探ると、鉛筆とスケッチブックを取り出した。

「そんでは、まず、お二人をざっと描かせて下せぇな。要領を掴んでからじゃないとどうにもこうにも」

「それでは、どんな顔をしていればよろしいのかしら」

 絵のモデルにされたことなどないので冴が畏まりそうになると、豆吉はにこにこと笑った。

「そう硬くならずに、普通にしていらっしゃればよろしいんですよ。肖像画と言っても、描くのはやっぱり人間でごぜぇますから、 ちゃあんと表情を付けますとも。お二人を観察するために、しばらく通わせて頂きやすからね」

 胡座を掻いた豆吉はスケッチブックを開いて白紙のページを出すと、二人をじっくりと眺めた後、鉛筆を走らせた。 冴は夫の横顔をちらりと見上げたが、彼は特に意識していないらしく耳も尻尾も動いていなかった。レピデュルスは 豆吉の湯飲みに緑茶を注ぎ足してから、邪魔にならないようにと音も立てずに居間から去った。ヴォルフガングの 隣で正座した冴は緊張するあまりに目線を彷徨わせていたが、ヴォルフガングに肩を抱かれた。宥めるようにとん とんと優しく叩かれると、冴は強張っていた体と心が解けていき、夫の胸に頭をもたせかけた。
 そして、無意識に腹をさすっていた。







09 11/11