純情戦士ミラキュルン




夜はただ、冴え冴えと



 冴が亡くなってから、一年が過ぎた頃。
 大神邸に人ならざる来客が訪れた。それは、冴の生前に夫婦の肖像画を依頼していた絵描き、六科豆吉だった。 今にも壊れてしまいそうなリヤカーを引いていて、その中には風呂敷包みと平べったい布包みが載せられていた。 疎開先から引っ越す前に会ったのが最後だったので、一年半振りの再会だが、豆吉は見るからに消沈していた。 書生風の格好は相変わらずだったが、かなりくたびれていて、履き潰した靴は縫い目が緩んでいた。
 レピデュルスによって居間に通された豆吉は、太い尻尾も丸みのある耳も伏せていて目も上げようとしなかった。 鳳凰仮面の一件以来、生きる意欲を取り戻したヴォルフガングは、商売用の立派な洋装で豆吉を出迎えた。それ はただ、豆吉が来る直前に土地売買の相手が来ていたからであり、豆吉を威圧するつもりではなかった。けれど、 豆吉は隙のない洋装のヴォルフガングに気圧されてしまったのか、出された紅茶に手を付けようとしなかった。

「あの」

 長い長い間の後、豆吉は口を開いた。

「奥様の御加減はいかがで」

「亡くなったよ。だから、今はもう楽になっているのではないかな」

 ヴォルフガングが努めて平静を保ちながら答えると、豆吉はしょんぼりと肩を落とした。

「そうでごぜぇやすか……」 

「上京してくるとは、余程の用事があるのか?」

 ヴォルフガングが尋ねると、豆吉は黒く丸い目を瞬かせた。

「いえ……。戦争が終わっちまってから、色々ありやして、その、奉公先から放逐されちまいやして」

「それはそれは」

 レピデュルスが同情を示すと、豆吉は目元を擦った。

「俺は御屋敷の皆さんが好きでやしたから、御給金なんざいらねぇって言ったんでやんすけど、食い扶持を一人でも 減らさなきゃやっていけねぇって言われちまいやして。でも、俺には行く当てなんてありやせん。だけど、大旦那様と 奥様の絵だけはなんとか完成させやしたんで、お届けしようと思いやして、ようやっと探し出したんで」

「それならば、仕事が見つかるまではこの屋敷にいるといい」

 ヴォルフガングの申し出に、豆吉は目を剥いた。

「そんなぁ滅相もねぇ!」

「どうせ、この屋敷には私と息子とレピデュルスしか住んでおらんのだ。部屋など余りに余っている」

 ヴォルフガングが手を挙げて二階を示すと、豆吉は腰を浮かせかけた。

「そいでしたら、せめてお手伝いはさせて下せぇな。じゃねぇと、申し訳なくって申し訳なくって」

「よろしいですとも。私めも、手が増えて大変嬉しゅうございます」

 レピデュルスが快諾すると、豆吉はほっとして腰を戻した。

「ありがとうごぜぇます、大旦那様。雨風が凌げるだけでも大分違いまさぁ」

「あの村では、君には大分世話になったからな。心ばかりの礼だ」

 ヴォルフガングはそう言ってから、豆吉が運び入れてきた大きな長方形の布包みを見やった。

「それで、あれが肖像画かね?」

「へぇ。傷付けねぇようにと思いやして、大事に大事に運んできたんでさぁ」

 豆吉はようやく緊張が解れたのか、少し冷めた紅茶を飲んでから、ソファーから下りた。

「御披露目といきやしょう」

「それでしたら、斬彦坊っちゃまもお連れいたしましょう」

 しばしお待ちを、とレピデュルスは居間から出ると、隣室でゆりかごに寝かせていた斬彦を連れて戻った。

「あいやぁ、大きくなられやしたねぇ!」

 豆吉はレピデュルスに抱かれた斬彦に近付くと、丸い目を更に丸めて凝視した。

「まるっきり大旦那様の生き写しじゃございやせんか! 可愛いもんですなぁ!」

「それはもう。夜泣きに継ぐ夜泣き、筋金入りの好き嫌い、凄まじいぐずり、その他諸々で悩まされ続けておりますが、 それもまた可愛らしいと思えるようになったのでございます」

「……あんた、大丈夫かい?」 

 顔色の窺えないカブトエビを見上げ、豆吉が少し首を捻ると、レピデュルスは複眼の間を押さえた。

「ええ……なんとか……」

「すまん、レピデュルス」

 心苦しくなったヴォルフガングが耳を伏せると、レピデュルスは寝起きで機嫌が今一つの斬彦をあやした。

「そう思われるのでございましたら、存分に坊っちゃまを御世話して下さいませ、大旦那様」

「そいじゃあ、気を取り直して御披露目といきやすか。坊っちゃまもご覧下せぇな」

 豆吉はひょいひょいと跳ねるように歩いて布包みに近付き、布を縛り付けていた紐を外した。布が剥がれた瞬間、 ヴォルフガングは身を乗り出した。そこには、あの日、生きていた冴が切り取られていた。軍装のヴォルフガングが 立ち、その傍らでは冴が舶来ものの椅子に腰掛け、微笑みを浮かべている。この時はまだ胎児でしかなかったが、 斬彦も描かれている。紛れもない、家族の肖像画だ。天井から吊り下げた赤い布地のドレープが柔らかく描かれ、 差し込む日差しは冬のそれだった。そして、冴は美しかった。絵の具を厚塗りされた艶やかな黒い瞳が、真っ直ぐに ヴォルフガングを見つめている。冴は生きていた。この絵の中で、再会する時を待っていたのだ。

「冴……」

 ヴォルフガングは込み上がるものを堪えきれず、声を詰まらせた。

「あの日の奥様は、ほんっとうに美しゅうごぜぇました」

 懐かしげに、そして物悲しげに、豆吉は渾身の肖像画を見上げた。

「大旦那様が好きで好きでどうしようもねぇっちゅうことが、見ているだけでよおっく解りやした。だから、俺も目一杯 頑張って仕上げたんでさぁ。けど、こんな絵は二度と描けねぇでしょうなぁ。モデルが最高だったんでやんすから」

「本当に、ありがとう」

 ヴォルフガングは冴の息吹を感じ取るように深く呼吸してから、豆吉の肩を叩いた。

「いえいえ。俺は自分の出来ることをしたまででさぁ、大旦那様」

 豆吉は鼻先を引っ掻いて、照れ臭そうに笑った。

「近いうちに額を付けよう。そして、飾ろう。どこが良いと思う、レピデュルス」

 ヴォルフガングが意見を尋ねると、斬彦を抱き直したレピデュルスは思案した。

「そうでございますね……」

 レピデュルスの複眼が、応接間に向いた。

「ああ、そうだな。そこがいい」

 ヴォルフガングもまた、応接間に向いた。

「奥様のお気に入りだったんでごぜぇやすか?」

 豆吉が二人の視線を辿ると、ヴォルフガングは感慨に耽った。

「そうだ。起き上がれていた頃は、よく連れてきてやったものだ」

 体調が良い時、冴はヴォルフガングに必ず頼んできた。日当たりの良いポーチのある居間より、余程気に入って いた。その理由を尋ねると、冴は笑った。あなた方と最初に暮らした家の部屋が、このくらいの広さでしたのよ、と。 最初に暮らした大神家の別宅は戦火で焼けてしまったから、記憶の内にしかないが、だからこそ思い出したい、と。 応接間の窓辺に腰掛け、冴を膝に載せて庭を眺めていることしか出来なかったが、ヴォルフガングは幸せだった。 冴も幸せだった。別宅や疎開先での思い出を確認するように、出来事を一つ一つ大切に語っては目元を潤ませた。 死する前の日は、冴は朝から調子が良く、いつも以上にヴォルフガングに甘えて外の景色を見たいと言ってきた。 けれど、その日は応接間ではなく屋根裏部屋に行きたがり、屋根裏部屋の窓から二人で寂れた街並みを眺めた。 今にして思えば、冴は命の限界を知っていたのだろう。だから、あの日だけは別の景色を見たがったのだ。

「冴は何を見たのだろうな」

 ヴォルフガングは開け放った窓から庭先に目をやり、呟いた。

「いや、冴が見ていたのは、どのような世界だったのだろうな」

 随分前の出来事だが昨日のように覚えている、見せ物小屋での一件も思い出した。

「人と私達の世界は、違うとでも言うのだろうか」

 網膜に映り、視神経を通り、個々の脳で認識した世界こそが世界だから、違うと言えば、皆、違っている。しかし、 人は皆、目にする世界は同じだと思おうとしている。だから、特異な者や人ならざる者達から目を背ける。虫と鳥が 食する物が違うように、立場が違えば生きる術も違って当たり前だ。それを異端だと廃絶するのは誤りだ。異端なら 異端で、胸を張って生きていけばいい。しかし、出る杭を打って打って打ちのめすのが人の世界なのだ。これからも 鳳凰仮面のような輩にはうんざりするほど出会う予感がする、と人ならざる者の本能がざわめいた。ならば、手段は 一つしかない。異人館に引っ越してきたその日、弱った体で懸命に怒った冴が言ってくれたように。

「ここは一つ、世界征服でもしてみるか」

 ヴォルフガングが真顔で言うと、レピデュルスが呆気に取られた。

「……はあ?」

「大分前に話しただろう、鳳凰仮面とかいう酔狂な輩のことを」

「あ、ああ、はい、そうですが、それとこれとは一体何の関係が」

「我らは社会少数者ではない、むしろ数で言えば人より多いかもしれん。度重なる激戦で労働力となる人間が減って しまった今、息を潜めている意味などない。むしろ、前に出て働き、人の立場に収まってしまうべきだ。そうは思わんかね、 レピデュルス」

「確かに、我らのような者は人よりも体力はございますし、労働力としては申し分ないかと」

「そして、その暁には人間に取って代わり、地上を征服してしまうのだ」

「ですから、なぜ一足飛びどころか百も千も越えてそのようなお考えに至ってしまわれるのですか!」

 混乱してきたレピデュルスが珍しく声を張ったので、ヴォルフガングはにやけた。

「どうせやるなら、事は大きい方が良い。私もお前も老い先長いのだ、時間など腐るほどある」

「大旦那様。するってぇと、それは会社ですかい?」

 二人のやり取りを面白がりながら豆吉が口を挟むと、ヴォルフガングは感心した。

「おお、そうだな、それがいい! どうせならば徹底的に行こう、悪の秘密結社だ!」

「あ……?」

 悪でございますか、と言い損ねたレピデュルスが首を傾げると、豆吉が調子に乗ってきた。

「でしたら、なんかこう格好良い御名前でも付けたらいかがでしょうや! それだけじゃ締まりがありやせんぜ!」

「ではこうしよう、悪の秘密結社ジャールだ!」

 意気揚々と胸を張ったヴォルフガングに、レピデュルスは不安混じりに問い掛けた。

「その、ジャールとは何なのでございますか?」

「語感だ、語感。それ以上の意味はない。あったとしても、間違いなく後付けだ」

「お好きになさいませ」

 付き合いきれなくなったレピデュルスが一歩下がろうとすると、ヴォルフガングはすかさず側近の肩を捉えた。

「待てレピデュルス。お前は私の部下となれ、そして四天王の一人だ!」

「はいぃぃぃっ!?」

 とうとう声を裏返したレピデュルスに、ヴォルフガングは畳み掛けた。

「四天王といっても、残り三人はまだおらんぞ。これから集める。だが安心しろ、お前に相応しい残り三人を集めてみせよう。 そしてこの私は、そうだな、暗黒総統ヴェアヴォルフとでも名乗ろうではないか」

「御言葉ですが、大旦那様。その二つ名、意味はそのままではございませんか」

「当たり前じゃないか。何事も解りやすい方が良いからだ」

「頑張って下せぇ、大旦那様!」

 ヴォルフガングに豆吉が発破を掛けてきたので、レピデュルスは体液が煮詰まってしまいそうになった。ヴォルフ ガングが意気を取り戻したのは非常に良いことだが、方向性が大いに変だ。止めなければならない。だが、止めて 止まるような御方ではない、と思い直した。ヴォルフガングが笑う様を見るのは、かなり久し振りだ。父親の異変を 察してか、レピデュルスの腕の中で斬彦がもぞもぞと動き、父親を求めるように短い腕を伸ばした。ヴォルフガング は息子の要求を聞き付けてレピデュルスから斬彦を受け取り、世界征服だー、と言いつつ頭上に掲げた。全く意味が 解らなかったが、ヴォルフガングがあまりにも楽しそうなので、レピデュルスは徐々に主の気分が伝染してきた。 豆吉もまた、事の次第を楽しんでいる。寝床を失わないために主の機嫌を取っているのかもしれないが。
 果てしなき野望の第一歩を踏み出した人ならざる家族達を見守るように、キャンバスの中で冴は微笑んでいた。 ヴォルフガングはきゃあきゃあと笑う息子を掲げながら、肖像画の中の妻に笑みを返し、決心を据えた。
 戦いの始まりだ。




 夜の帳が、あらゆるものを包み込む。
 大神邸の留守番を任された豆吉は、遊び盛りの斬彦に背中によじ登られながら二人に手を振って見送ってきた。 ヴォルフガングはレピデュルスと共に彼に挨拶をしてから、庭先から跳んだ。マントが夜風を切り裂き、広がった。 二度、三度、と跳ぶと大神邸が遠ざかる。唯一灯りの付いた居間にいる豆吉の姿も遠のき、見えなくなる。
 街から突出したビルディングの屋上に着地し、軍靴で踏み締める。背後にレピデュルスが控え、膝を付いた。闇市 のある通りから少し外れた通りに目をやると、見せ物小屋の前で見覚えのある男が口上を述べている。鶏の血臭 に混じってネコの男とあの娘の匂いが流れてきたので、ヴォルフガングは少し安堵し、懐から軍帽を出した。

「大旦那様」

 レピデュルスの声が背に掛かり、ヴォルフガングは第三帝国軍人時代の軍帽を被った。

「ああ、感じている。ずっと前からな」

 人の匂いが鼻腔を撫で、肺に降りる。同時に、人智を越えた存在、ヒーローの気配が神経を逆撫でする。

「来たな」

 目を上げると、月のない夜であろうとも己を激しく主張する者、金色の覆面の男が浮いていた。

「何度現れても同じこと! 貴様らのつまらん野望など、この私、鳳凰仮面が打ち砕いてくれる!」

 鳳凰仮面は尾羽のように枝分かれした虹色の襟巻きを靡かせながら、二人を指した。

「つまらないのは貴様の方だ! 浅はかな正義など、崇高なる悪の前では戯れ言に過ぎん!」

 ヴォルフガング、もとい、暗黒総統ヴェアヴォルフは両腕を広げてマントを大袈裟に翻し、高らかに宣言した。

「我が名は暗黒総統ヴェアヴォルフ! 悪の秘密結社ジャールの総統にして、闇より出でし気高き悪の権化なり!  世界に真の安寧をもたらし、征服による真の幸福を与えんがために参上した! 覚悟しろ、鳳凰仮面!」

 ヴェアヴォルフは宙に身を躍らせ、牙を剥いて猛った。

「今夜こそが、貴様の最後だ!」

 星も見えない夜空の下、灰色の獣が舞う。金色の男はそれを迎え撃ち、今宵もまた、正義と悪は戦い合う。いくつ もの夜を越え、いくつもの闇を破り、いくつもの拳を交えながら、互いの信念と理想を削り合わせていった。どちらか が倒れるまで終わらず、終わらせられない戦いだ。その戦いを見る目は、人間と人ならざる者の半々だ。
 正義が偶像なら、悪も偶像だ。何も違わない。違っているのは、背負っているものと振り翳した大義名分だけだ。 鳳凰仮面がいかなる経緯でヒーローと化したのかは知らないし、これからもそれを追求するつもりはないが、正義が いるなら、悪がいなければならない。見せ物小屋のようなことを起こさないためにも、率先して正義の矛先となろう。 誰かが誰かを守れば、守られない誰かが生まれる。本当の悪とは、傷付かずに済んだであろう者を傷付ける者だ。 世間が正義を望まれるのなら、悪も望まれる。穢れだというのなら、それを一心に引き受けて立ち向かうだけだ。
 夜は冴え渡る。理想を凝固させて人の鋳型に収めたような正義がために、人ならざる者達のための悪がために。 鳳凰仮面に渾身の一撃を加えたヴェアヴォルフは、反撃の拳を喰らいながらも高揚感に駆られて笑っていた。
 冴は生きている。野望となって、この胸に熱く滾っている。







09 11/16