南海インベーダーズ




変異体隔離特区掃討戦線



 翌日。夕日の残滓も水平線に没した後、忌部は職員室に向かった。
 これまでほとんど職員室を訪れたことはなかったが、その床下に翠がいるとなったら話は別である。床板が四角く 区切られている部分の前で膝を付くと、取っ手を引っ張った。分厚い蓋が持ち上がると、湿っぽい空気が足元から 這い上がってきた。蓋を上げきってから地下を覗くと、狭い空間の奥に翠が収まっていた。家財道具を入れられるだけ 入れたはいいが、まだ整理出来ていないのだ。翠は忌部が来るのを待ち兼ねていたのか、蓋が開くと同時に腰を 上げて近付いてくると、文机の上から包帯を取りかけたが、顔に巻かずに素顔を曝したまま兄を出迎えた。

「御兄様!」

「良い子にしていたか、翠?」

 ハシゴを伝って忌部が地下室に下りると、翠は兄に微笑みかけた。

「もちろんですわ、御兄様。御兄様がいらっしゃるのをずうっと待ち兼ねておりましたのよ」

「何か必要なものがあったら、中に運び入れてやるよ。地下室の整理も手伝ってやる」

「ありがとうございます、御兄様。ですけれど、平気ですわ。私のものなんて、たかが知れておりますもの」

 翠は振り向き、地下室の奥に作り付けられた棚を見やった。平たく折り畳まれた翠の着物や帯や襦袢が収まって おり、片付かないなりに秩序が生まれ始めている。忌部が促すと、翠は草履を懐に入れてからハシゴを昇り、職員室 の床に上がったところで、あ、と小さく声を上げた。ハシゴを登り掛けた忌部を見下ろし、翠は懇願した。

「御兄様、悪いんですけれど、私の着替えを取って頂けませんこと? 湯浴みに参りますの」

「解った。で、どれだ?」

「そこの襦袢と浴衣と帯ですわ。お手数掛けて申し訳ございません、御兄様」

「気にするな。大したことじゃない」

 忌部は地下室に戻り、翠が言う通りに襦袢と浴衣と帯を取った。浴衣も着物と同様に地味な紺で、若い娘が着る にしては色気が足りない。着物も浴衣も枚数はあるのだが、どれもこれもそんな調子だ。来月の一時帰投の際には、 都心に出て翠のために明るい柄の浴衣でも買ってこよう。きっと、滑らかな緑の肌に似合う色があるはずだ。

「ありがとうございます、御兄様」

 忌部から浴衣一式を受け取った翠は、足袋を履いた足に草履を突っかけた。

「みっどりさーん!」

 職員室の引き戸が開き、風呂道具を周囲に浮かべた紀乃が飛び込んできた。

「お風呂行こう、お風呂!」

「ええ。参りましょう、紀乃さん」

 翠が笑みを返すと、紀乃は宙に浮くフンドシの本体である忌部を睨んだ。

「兄妹だからって覗かないでよね? てか、私もいるんだし」

「馬鹿なことを言うな。さっさと入ってこい」

 忌部が急かすと、紀乃は翠の滑らかな手を掴んで引っ張った。

「解ってるって。行こう、翠さん! ここのお風呂はね、硫黄が溶け出した水を湧かしたお湯だから温泉と同じなの!  だから、すっごく気持ちいいんだよ!」

「まあ、楽しみですこと」

 紀乃のはしゃぎぶりに、翠は柔らかく頬を緩めた。忌部は二人のお喋りが過ぎるのを待ってから、妹の地下室の 蓋を閉じようと取っ手に手を掛けた。日中に籠もった空気には妹の息吹が存分と混じっていて、芳しい女の香りや 常人よりも控えめな体温が流れ出してきた。二日ほど離れていたせいか、それを強烈に感じてしまった忌部は蓋を 閉められなくなった。換気するという名目で開け放した蓋の傍に腰を下ろした忌部は、自分の情けなさに恥じ入って しまったが、思春期に戻ったような高揚は心地良かった。これまで生きてきた中でも女性経験はあったが、翠ほど 艶めかしく女を感じる相手はいなかった。種も腹も違えども兄妹であるという事実が煽り立ててくるからでもあるが、 見た目とは裏腹の幼さが優越感に似た庇護欲を駆り立てる。妹としての翠も好きだが、女としての翠もまた好きで たまらない。どちらも含めて思えるようになりたいが、難しいだろう。家族と恋人は似て非なるものだ。
 心身の高揚が落ち着いてから、忌部は居間兼食堂に向かった。台所ではゾゾが忙しく働いていて、かまどからは 湯気が立ち上っている。覗くなと言われているし、覗くつもりも毛頭ないが、なんとなく風呂場が気になってしまった。 忌部はテーブルに付き、夕方のニュース番組が映しっぱなしになっているテレビに目を向けていたが、すると今度は 音が気になって仕方ない。紀乃と翠のガールズトークはまるで話題が噛み合っていなかったが、どちらも同性と会話 することに飢えていたので明るく弾んでいた。年甲斐もなく紀乃に嫉妬しそうになり、また情けなくなった。

「処理をなさるのでしたらお早めにどうぞ。ですが、手はちゃんと洗って下さいね」

 似合わないエプロン姿のゾゾは、忌部に菜箸を突き付けた。忌部は後退り、取り繕った。

「馬鹿言うなよ、その辺の中学生でもあるまいし!」

「私からすれば、忌部さんは青臭くて生臭くてガキ臭い思春期真っ直中ですよ」

 ゾゾはあからさまに呆れ、半目になった。

「それ以前に、翠さんとの間柄は普通の兄妹ではありませんよね? ついこの間までは妹さんなんておられません でしたのに、どうして急に妹さんが出来るのですか? 翠さんがミュータントであることには特に疑問はありませんし、 そうでなければ島にはいらっしゃらないですが、それにしても忌部さんは翠さんに構いすぎではありませんか? お歳を聞けば二十歳だと仰るのに、忌部さんは何かに付けて翠さんを構おうとしてばかりでしたねぇ。昼間は 翠さんのおられる地下室ばかり気にしておられて、塩田のお仕事も上の空でしたし」

「色々あるんだよ、俺にも。それに、翠はこの前まで隔離されていたんだから、外の世界をまるで知らないんだ」

「色々、ですか。過保護と愛情は違うんですからね、忌部さん」

「お前がそれを言うのか?」

 忌部はゾゾの開き直った態度に、呆れ返してしまった。ゾゾもゾゾで、紀乃を徹底的に溺愛しているではないか。 デザートを要求されればその通りのものを作り、何かにつけて構って、些細なことでも褒め称えている。行き過ぎて 紀乃から邪険に扱われることもあるのに、懲りずに同じ轍を踏んでいる。言っていることは尤もらしいのだが、ゾゾの 日頃の態度を考慮すると説得力がない。忌部が見えないのを良いことに複雑な顔をしていると、二人が風呂から 上がったらしく、明るい声が一層高くなった。風呂場のランプの光が移動して勝手口に来ると、タオルを頭に被った Tシャツとハーフパンツ姿の紀乃と浴衣に下駄を引っ掛けた翠が戻ってきた。

「たっだいまー!」

 紀乃が満面の笑みで駆け込んでくると、翠は慎ましく一礼した。

「良いお湯を頂きました」

「あのね、ゾゾ、翠さんって凄いんだよ!」

 紀乃はランプをテーブルに置くと、風呂場でのテンションを保ったまま、ゾゾに話し掛けた。

「お風呂にね、メロンが二つ浮かんじゃうの! 着物を着ているから解らなかったんだけど、マジでスタイル良過ぎ!  腰もすっごい細いし、足も超なっがいし、尻尾と翼も超色っぽいし!」

「あら、まあ……」

 紀乃の褒めように、翠は目元を赤く染めて俯いた。

「メロンですか」

 ゾゾは一度瞬きすると、紀乃は真顔で力説した。

「そう、メロン! それも5Lぐらいありそうな大玉ね!」

「メロン……」

 居間兼食堂の引き戸を半開きにしている甚平が、湯上がりの翠を見まいと目を伏せ、その場で固まった。

「では、今晩のデザートはメロンにいたしましょうか。丁度冷蔵庫で冷えておりますしね」

 ゾゾが自然に話題を変えると、紀乃は呆気なく引き摺られた。

「わーい。昼間から楽しみだったんだぁ、あのメロン」

「メロン……」

 甚平は入るか入るまいか迷った末、丸まりがちな背中を更に丸めて頭を抱えた。すると、背ビレの生えた背中が 後ろからどつかれ、甚平はその勢いに負けてつんのめり、強かに転んだ。

「あ、う、え」

 床に転げた甚平が戸惑っていると、転ばせた犯人であるミーコが飛び跳ねていた。

「ミーコのミーコをミヤモトミヤコ! メロンがメロンのメロンでロンロンロンロンローン!」

「そんなに喰いたいのか、メロンを」

 風呂場のかまどを掻き回して火を緩めていた小松が、頭部を半回転させてメインカメラを向けた。途端にミーコは 窓から飛び出して小松の足の一本を駆け上がり、今度はそのボディの上で飛び跳ねた。黄色と黒に塗られた外装 ががんがんと打ち鳴らされ、やかましかったが、小松は以前ほどミーコをぞんざいに扱おうとはしなかった。ミーコは 相変わらず訳の解らないことを並べ立てながら、小松に貼り付いている。翠は自分の体型を褒められたことをしきり に恥じらっていて、浴衣の襟元を何度となく直している。紀乃は人数分の食器を棚から取り出し、サイコキネシスで 浮かばせてテーブルに並べている。甚平はばつが悪そうに起き上がり、作業着に付いた埃を払ってから、汚れた手を 洗うために廊下に出ていった。ガニガニは中の騒がしさが気になるのか、かちこちと顎を控えめに鳴らしながら、 黒い複眼で覗き込んでいた。忌部は翠のスタイルの良さを褒められたのがいやに嬉しく、あの肢体の素晴らしさを 知っているのは自分だけだという自負も手伝い、無性に誇らしくなった。
 食後のメロンが楽しみだ。




 星空の下を、巨大なヤシガニがのんびりと歩いている。
 その背に乗るのは、紀乃と翠だった。紀乃は慣れているので安心しきっていたが、ガニガニに慣れていない翠は 落とされないように気を張るあまりにガニガニの甲羅を強く掴んでいた。浴衣の下で揃えられた太股は強張り、尻尾は 不安げに垂れている。その様を遠くから眺めながら、忌部は近付くべきか否かを迷っていた。近付きすぎては、 紀乃と親交を深めつつある翠の邪魔をしかねない。だが、兄としても翠を思う男としても、翠から片時も目を離して いたくないと思ってしまう。外の世界で自由を思い切り味わわせてやりたいのに、これまでのように狭い箱に収めて おきたくなる。当たり前の家族のように、一歩踏み出した妹を温かく見守ってやるのが一番だ。それなのに、すぐに でもタガを外してしまいたくもなる。この瞬間を大事に思えば思うほど、この島の平穏を穢し尽くしたくなる。このままの 生活を続けても、翠は幸せになるだろう。昼夜が逆転した生活を送るだけで厄介な能力が発動せずに済むだろうし、 紀乃や皆に囲まれて他愛もない日々を重ねれば真っ当な幸せを見出せるだろう。そうなれば、真っ当な価値観も 得て忌部との関係のおぞましさに気付くのかもしれない。俺はそれが怖いのか、と忌部は内心で呟いたが、翠との 関係のいびつさは重々承知している。けれど、その後ろめたさもまた享楽に浸るために欠かせない材料だ。

「あれがわし座のアルタイル」

 砂浜の中程でガニガニが立ち止まると、紀乃が直立して夜空を指した。

「で、こっちがこと座のベガ。で、あっちにあるのがはくちょう座のデネブ。それを結ぶと、三角になるの」

「あら、本当でございますわね」

「夏の大三角だよ。で、北にある柄杓の形をしたのが北斗七星で、Wみたいなのがカシオペア座で、南にある 六つの星が十字の形に並んでいるのが南斗六星で……」

「だぶりゅう、とはなんですの?」

「あ、そっか。そこから説明しなきゃならないか。それはまた明日にでも教えるね。今日はもう遅いから」

 紀乃は座り直し、翠に向き直った。

「ね、翠さん」

「はい、なんでございましょう?」

「この島に来て、楽しい?」

「ええ。皆さん、とても賑やかですし、私の御相手もして下さいますもの。明るいうちは地下室でじっとしていなければ ならないのは退屈ですけれど、それには慣れておりますから。御兄様もおりますし」

「それは良かった。で、その、翠さんって忌部さんと兄妹なんだよね?」

「ええ、そうですわ。御前様のお話に寄れば、私と御兄様は御父様も御母様も違いますけれど、御兄様のお父様と私の 御母様が再婚しておりましたもので、そのような間柄になりましたの。御兄様の上にはもう一人御兄様がおられて、 私の下にも妹が一人いるのですが、どちらもお会いしたことはございませんわ」

「あ……聞いちゃいけなかったのかな」

「お気になさらずに、紀乃さん。私はそのようなものですし、誰かを殺めてしまいかねない力があるのですから、それが 当たり前なのですわ。外に出られたのはとても嬉しゅうございますけれど、恐ろしゅうもございますの。お天道様の 光が私の体をおかしくしてしまったら、紀乃さんもガニガニさんも無事ではいられませんわ。ゾゾさんも、小松さんも、 ミーコさんも、甚平さんも、御兄様も、この島も、壊してしまうかもしれませんの。だから、やっぱり外に出るべきでは なかったのかしらって思ってしまいますわ。こんなにも嬉しいのに」

 翠は俯いたが、忌部からは表情が窺い知れなかった。紀乃は翠の手を取り、励ました。

「大丈夫だって。昼間、外に出なきゃいいだけなんでしょ? だから、そんなこと言わないでよ」

「ですけれど……」

「だって、私、翠さんが島に来てくれて本当に嬉しいんだもん。ミーコさんは見た目は女の人だけど中身は寄生虫が びっちり詰まっているし、他はぜーんぶ男の人でしょ? だからさ、込み入った話なんて出来なかったんだ。そりゃ、 ゾゾも皆もちゃんと話を聞いてくれるけど、何から何まで話せるわけじゃないし。それに、翠さんが一緒なら大っぴら に夜遊び出来るし! 出来ることは限られてるけどね!」

「うふふ、そうですわね」

 翠は浴衣の袖で口元を隠し、微笑んだ。紀乃も釣られて笑い、ガニガニもかちかちかちと顎を鳴らして機嫌の良さを 現した。二人が話し込み始めたので、ガニガニは鋏脚と八本足を広げて砂浜に這い蹲った。潮風に乗って流れて くる華やいだ会話を聞きながら、忌部は背景に似付かわしくない感情と戦っていた。自分に能力が備わっていたら、 今すぐにでも紀乃を引き摺り下ろしてガニガニからも引き剥がして、翠を連れ去ってしまうだろう。翠が他の誰かと 笑みを交わすたびに透明な体の芯が濁り、苛立ちが凝固していく。独占欲は愛情じゃない、と自制しようとしても、 押さえきれないものが喉を低く唸らせた。忌部は二人の会話を耳にするのが耐えられず、足早に去った。
 愛おしすぎて、気が狂いそうだ。





 


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