南海インベーダーズ




喪失、或いは消失



 継ぎ接ぎの屋根からは、星空が垣間見えた。
 眠っている間に涙が出ていたのだろう、目尻に乾いた塩が貼り付いている。頭の中が海水になったかのように、 不定形な重たさが満ちている。首を少しでも動かせば、中身が零れてしまいそうだ。海底に十二時間もいたせいか、 細胞の隅々に海の感覚が染み付いている。水、塩化ナトリウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム、塩化 カリウム、そして数多の有機物。柔らかくも重たい世界、冷たくも厳かな闇、溶けた彼に似た潮の匂い。
 海に浸りすぎて脳がとろけたのではないかと危惧しながら、紀乃はそっと頭を横たえた。瞼の裏側に溜まった涙が 重力に従って下り、ざらついた枕に吸い込まれた。折れた材木を掻き集めた焚き火は盛大に燃え上がり、暗がりを 追い払っていた。木が爆ぜると火の粉が散り、砂地に落ちて消える。長時間海に浸っていたために冷え切った体を 温めようと、甚平が焚き火の傍で膝を抱えていた。ほとんどサメに近い構造の肉体だが、甚平はそこかしこが人間 なのだ。紫外線アレルギーが原因で巨大化してしまった翠を治療するため、紀乃は海底に巨大な空気の泡を作り、 ゾゾは少々荒っぽい方法だと言いつつ彼女を治療した。その間、紀乃は海底と海上を何度も行き来して、泡の中の 空気を入れ換えた。甚平は紀乃が減圧症に陥らないように付き添ってくれ、自分だけは空気を吸う必要がないからと 言って、十二時間のほとんどを海水の中で過ごした。ゾゾの治療の結果、翠は元の姿を取り戻し、意識も戻ったが、 巨大化した際に体力をひどく消耗したために今は眠っている。そして、紀乃も疲れ果てていた。

「目が覚めましたか?」

 燃え盛る焚き火を背にして、ゾゾが近付いてきた。

「うん……」

 紀乃は掠れた声で答え、浅く息を吸い、細く吐いた。

「本当に、お疲れ様でした」

 ゾゾは紀乃が横たわるベッドに腰を下ろすと、紀乃の寝乱れた髪を優しく撫でた。普段であれば邪険にするところ だが、今はそんな気力もなかったし、猛烈に寂しかった。

「翠さんは」

「忌部さんが付いておられますから、大丈夫ですよ」

「うん」

「小松さんも大丈夫ですよ。きっと」

「うん」

「ですから、紀乃さんはゆっくりお休みなさい」

 ゾゾは紀乃の首筋に浮いた汗をタオルで拭い取り、額と頬も拭ってから、ぽんぽんと肩を叩いてきた。

「ゾゾ……」

 紀乃はゾゾの腕に指を掛け、呼吸音よりも小さな声で呟いた。

「はい、なんでしょうか」

「ゾゾは、いなくなったりしないよね?」

「紀乃さんが望むのであれば、いくらでも傍にいますよ」

 ゾゾの単眼が細められ、紀乃の手の上に大きな手が重なった。紀乃はその包容感に、僅かに気が休まった。

「あのね」

「はい」

「私ね、あの子のこと、本当に好きなんだよ。一人っ子だったからってこともあるけど、動物を飼ってみたかったの。 でも、お父さんもお母さんも許してくれなかったし、仔イヌも仔ネコも拾ったことがなかったし、ずっと夢だったんだよ。 それとね、兄弟が欲しかったの。お兄ちゃんでもお姉ちゃんでも弟でも妹でもいいから、一緒に遊んだり、笑ったり、 してみたかったの。だから、ガニガニはね、ガニガニはね……」

 そこまで喋った紀乃は、嗚咽が込み上げて背を丸めた。

「どうして守ってやれなかったんだろう! どうして戦えなかったんだろう! 本当に本当に大好きなのに!」

 ゾゾの腕を強く握り、紀乃は震える。

「強くなりたいよぉ……」

「大丈夫、大丈夫ですよ」

「全然大丈夫じゃないよ、だって、あの子、あ、あんなに溶けちゃったんだよ!? 絶対、もう……」

 ゾゾは嗚咽するあまりに咳き込む紀乃の背をさすり、穏やかに言った。

「ガニガニさんも、ミーコさんも、芙蓉さんの能力によって分子構造を固体から液体に変換されてしまっただけです。 虎鉄さんとは違って芙蓉さんの能力は物質に対する影響力が大きいようで、忌部島から離脱して十二時間以上が 経過しても物質の修復が始まる兆しはありませんが、お二人の生体反応はしっかりと残っています」

「じゃ、じゃあ」

「お二人は完全に死んだわけではありません。ですが、通常の生存活動が可能な状態ではないのです。生体組織を 一つ残らず回収して再生措置を行えばなんとかなるかもしれませんが……。いえ、ええ、大丈夫ですね。彼がそう 仰るのでしたら、間違いありません」

「彼って、誰?」

「私の古い古い友人ですよ」

 ゾゾは紀乃をベッドに横たわらせると、薄い掛布を掛け直してくれた。

「彼を信じて下さい。私を信じてくれるのならば」

 どこをどう信じればいいのだろう。あんなにドロドロに溶けてしまった二人が、元通りになるとは到底思えなかった。 紀乃は否定する言葉が喉の奥まで迫り上がってきたが、ゾゾの眼差しには躊躇いはなかった。ガニガニもミーコも まだ死んだとは思いたくないし、もう一度会いたい。ゾゾがそう言うのならば、きっとそうだ。これ以上泣くのも、胸が 潰れそうになるのも、寂しすぎて息が出来なくなるのも嫌だ。だから、信じよう。紀乃は頷き、ゆっくりと瞼を下げた。 二度三度深呼吸した後、紀乃は沈むように寝入った。
 ゾゾは紀乃を起こさないように気を配りつつ、ベッドから腰を上げた。尻尾をゆらりと振ってから、今朝までの光景を 思い出すために廃墟と化した廃校を見渡した。築数十年の木造平屋建ては、地下室の中で巨大化した翠により 下から突き上げるように壊され、土台も柱もひっくり返っている。コールタールを塗ったトタン屋根は逆さまになって、 地面に接している。職員室の机は四方八方に飛び散り、空っぽの引き出しが転げ落ちている。ガラス窓は窓枠ごと 外れ、粉々に砕けて雑草を切り裂いている。紀乃の部屋であった衛生室も壁が倒れ、紀乃が大事にしている服が 泥まみれになっている。ベッドが無事だったのは不幸中の幸いだったが、部屋の中では寝かせられないので、小松 が外に引っ張り出してくれ、短時間で掘っ立て小屋も建ててくれた。彼も気を紛らわせたかったのだろう。図書室は 中身が多い分被害が甚大で、甚平が丁寧に読み込んでいた本が一つ残らず本棚から吐き出された。そのうちの 何冊かは芙蓉の能力で溶けた地面に埋まってしまっていて、掘り出せたとしてもろくに読めないだろう。忌部の私物が 少ない部屋も、ミーコのぐちゃぐちゃな部屋も、ゾゾが自室にしていた校長室も、居間兼食堂も、台所も、便所も、 離れの風呂場も、昇降口も、原形を止めていない。古い壁や屋根には小松が補修してくれた跡があり、台風の時期が 過ぎたら、また手直しする予定だったが、当分はその必要はないだろう。直せないほど壊れたのだから。

「うぅ……」

 焚き火の前で膝を抱えていた甚平がくぐもった声を漏らし、背を丸めると、背ビレが作業着を突っ張らせた。

「どうかしましたか、甚平さん」

 ゾゾが甚平の傍に膝を付くと、甚平はがりがりと硬い肌を引っ掻いた。

「あ、うん、その、ええと」

「急がなくてもよろしいですよ、時間ならいくらでもあります」

 ゾゾは甚平の隣に腰を下ろし、胡座を掻いた。甚平は躊躇いつつ顔を上げ、丸い目を向けてきた。

「あ、えと、こんな時に考えることじゃないんだろうけど、その、僕らみたいなのの力って何なんだろう、っていうか」

「能力のことですか」

「あ、う、はい。えと、僕は見ての通りだし、泳げないけど海の中なら普通の人よりも大分自由が利くし、体力も腕力も 前よりはちょっとだけ強くなっているから、それが僕の能力なんだと思う。あぁ、えと、紀乃ちゃんはサイコキネシス だし、小松さんのはなんていうのかなぁ、生体部品と電子機器との融合とでもいう感じので、ミーコさんのは寄生虫を 利用した不死身さと、自分の虫を寄生させた生物の生体改造っていうか。忌部さんは単に体が透明なだけだけど、 それも充分能力って言えば能力っていうか。翠さんは見た目はドラゴンで紫外線アレルギー持ちっていうのも、それも やっぱり立派な能力っていうか。うん。後は、今朝来て大暴れしていった虎鉄って人と芙蓉って人だけど、あの人達は 言うまでもないっていうか。突然変異なんだけど、超自然的っていうのは、なんかこう、うん……」

 甚平は小石を拾い、地面を引っ掻いて頭の中に散らばる考えを書き出していった。

「えと、僕と紀乃ちゃんは従兄弟で、忌部さんと翠さんは直接の血の繋がりは薄いけど兄妹で、小松さんとミーコさんも 従兄弟で、たぶん、きっとあの子もそういう感じの関係で、だとすると……」

 名前を書き、線を引き、簡単な家系図が出来上がっていく。

「ミュータントは、凄く血が濃い」

 がり、と一際深く線を引いた甚平は、瞬膜を開閉させた。

「えと、となると、あっち側っていうか、変異体管理局側もそうなんじゃないのかな。それと、僕らが知らないだけで、 僕と紀乃ちゃんはこの島の出身者と繋がりがあるんじゃないだろうか。小松さんとも、ミーコさんとも。だって、うん、 どう考えてもおかしいんだよ。ミュータントが同じような血筋から何人も出てくるなんて、異常なんだ。ミュータントって いうのは突然変異体ってことだから、家系とか関係なしに生まれてくるものじゃないかって思うんだ。でも、ここまで 近親者ばかりが集まると、そう言うのはおかしいような気がするっていうか。……ゾゾは変だと思う?」

 甚平は不安げに同意を求めると、ゾゾは単眼を逸らした。

「そうだと思うのなら、心行くまで調べたらよろしいでしょう。知らない方が良かったと思われるでしょうがね」

「あ、その、ゾゾは、何かを知っている?」

「知っていることを知っているからといって、どうにかなるものでもありませんよ」

 ゾゾは細く嘆息し、尻尾の先で地面を叩いた。

「でも、知らなきゃ、何も解らない」

 小石を握り、甚平は丸めていた背中を少しだけ伸ばした。

「解ったところで、その先はどうするのですか。あなた方に手に負えるとは思えませんが」

「あ、えと、負えなくても、解ることを解れば、どう動けばいいのかぐらいは、解るような気がするっていうか」

「悪いことは言いませんよ、あの男に近付くのだけはお止めなさい。変異体管理局側に接触を試みるということは、 実質、あの男を誘い出しているようなものです。紀乃さんはともかく、甚平さんに戦う力はありませんし、捕まったら 逃げ出す術はないでしょうし、忌部さんのように近しい家系の女性を宛がわれてしまうでしょう」

「あの、それって……」

「あの男が一族に求めているのは、繁栄でもなければ財産でもありません。龍ノ御子です。たったそれだけのために、 何人もの人間の人生を狂わせてきました。現に今も、忌部さんと翠さんの人生が狂わされております。ですが、 私にそれを阻む術もなければ力もありません。ああ口惜しや」

「龍ノ御子……って、やっぱり、ミュータントなんだ」

「甚平さんは御存知でしたか。かつて、この島にはいたのですよ。本物の龍ノ御子が」

 ゾゾは遠い昔を懐かしむと共に哀切に浸るように、目を細めた。

「ですが、彼女はニライカナイに行ってしまいました。二度と会うことはないでしょう」

 ニライカナイ。一時だが妄執を抱いた名を聞き、瓦礫の中から私物を漁っていた忌部は顔を上げた。だが、一昨日 まで感じていた焦燥混じりの渇望は綺麗さっぱり消え失せていた。当面連絡を取るつもりはないが、使えそうだと 判断して無線機を引っ張り出し、ゾゾが調子に乗って何枚も仕立てたフンドシを取り出した。しばらくは廃校の残骸の 片付けをしなければならないので、服を着なければならないだろうが、そればかりは仕方ない。海岸を見やると、 小松がぼんやりと佇んでいた。六本足は微動だにせず、メインカメラは水平線を映したままだ。翠が海底で治療を 受けている最中、小松は一人で黙々と廃校の残骸の片付けをしていた。だが、ミーコがいなくなったことで集中力 を大いに欠き、作業効率は恐ろしく悪かった。忌部の進言で、今晩寝るための掘っ立て小屋を建て、紀乃が休むため にベッドを掘り出してくれたが、それ以外はまともに作業すら出来なかった。押し黙っているのと表情が見えないの とで平静に見えるが、そうではない。小松の放った慟哭は鼓膜にこびり付き、当分は忘れられそうにない。
 無傷だった給水塔から真水を汲んだ忌部は、バケツをぶら下げながら、翠の元に向かった。木の根本に敷いた 布団の上に寝かせられている翠は、忌部が地下室から回収した朱色の着物を掛布代わりに掛けられていた。胸元は ゆっくりと上下し、呼吸は落ち着いている。制服を羽織って包帯をまだらに巻いた忌部が近付くと、翠は薄く瞼を 開き、金色の瞳を上げて忌部を捉えると頬を緩ませた。

「御兄様……」

「具合はどうだ、翠」

 忌部が翠の顔に触れると、翠は甘えてきた。

「まだ体は重たいですけれど、随分と良くなりましたわ。どこもかしこも、痛くありませんの」

「だったら良かったよ」

 忌部は透明な顔で笑みを見せ、朱色の着物を掛け直してやると、翠は忌部の手を握った。

「御兄様。お話ししておくことがありますの」

「なんだ」

「海底でゾゾさんに治療されている最中に、体もきちんと調べて頂きましたの。そうしたら、今まで変だと思っていた ことの理由が解りましたの。私、見た目はそれなりに大人らしい外見になりましたけれど、いくつになっても月の障りが ありませんでしたのよ。それで、ゾゾさんに隅々まで診てもらいましたら、私には子供を生むための穴はあっても 卵を作る臓器もなければ、子供を育てる場所もありませんでしたの。だから、私は女とは言えませんの。御兄様が どれだけ私を求めて下さっても、答えられないんですの。御前様の御相手なのに、子を成せないなんて……」

 翠は忌部の手を痛むほど握り、枕代わりに丸めた帯に涙を落とした。

「ごめんなさい、御兄様。私、何のお役にも立てませんわ。私が持って生まれた力も、他の皆さんとは違ってまともに 使えるものではございませんでしたし、皆さんを守るどころか、ガッコウを壊してしまいましたわ。御兄様のお仕事を 奪ってしまうことにもなってしまいました」

「いいんだ」

「よろしいことなど何もございませんわ、だって、私は御兄様の願いを叶えとうございますの。ニライカナイに連れて いきとうございますの。それなのに……」

「いいんだ」

 忌部は翠を抱き起こし、嗚咽に引きつる背中をさすった。

「俺が悪かったんだ。いくら寂しかったからって、いきなりアレはないよな。兄妹なのにな」

「そんなこと、関係ありませんわ。だって、私と御兄様は」

「ほとんど血が繋がっていなくても、兄妹は兄妹なんだ。順番どころか、根本から間違えちまったんだ」

 忌部は翠のツノの生えた頭を撫で、妹の体重を受け止めた。

「謝るのは俺だ。やっちゃいけないことをしちまったんだ。ごめんな、翠。無理に子供なんて産まなくても良いんだ、 翠が元気でいてくれればいい。ニライカナイになんて行かなくてもいい、ここにいてくれれば充分なんだ。壊したものも、 皆で直していけばいい。だから、今はゆっくり休んで早く元気になろうな。そしたら、普通の兄妹になろう」

「普通の……?」

「そうだ。同じ場所で暮らして、一緒にメシを食って、色んなことを話したりするんだ。それだけでいいんだ」

「それだけで、よろしゅうございますの?」

「他に何かやりたいことがあるなら、言ってみてくれ。出来る限りのことはする」

「あの、えぇと」

 翠は恥じらいながら、忌部の胸に顔を埋めた。

「御兄様の下さった貝殻、御一緒に探して下さいませんこと?」

「もちろん」

 忌部が頷くと、翠は満面の笑みを浮かべたが目元で膨らんでいた涙の粒が頬を伝い落ちた。頼りない月明かりと 焚き火の明かりを半身に浴びた妹は、薄い襦袢が肢体に貼り付き、艶めかしかった。だが、忌部の内には以前の ような劣情は込み上げてこなかった。愛おしさは変わらないが、一人の女ではなく、妹に向ける愛情になっていた。 それが少し惜しくもあったが、とてつもなく安堵した。まだ自分はまともなのだと、普通でいられるのだと。翠の華奢な 体が奏でる規則正しい鼓動と常人よりも低めの体温は、仲間から切り捨てられた喪失感を埋めてくれた。
 この瞬間を得るために、あらゆるものを失った。





 


10 9/7