南海インベーダーズ




ウェルカム・ホーム



 聞こえる音の幅が、明らかに狭くなっている。
 少し前の自分なら、ヘッドフォンを被ってヘヴィメタルを大音量で聞いていても周りの音は嫌でも耳に入ってきた。 その上、手に取るように物事が感じ取れた。空間の広さ、物体の形状、物体の質量、声の個体差、ありとあらゆる 言語、あらゆる情報が音だけで理解出来ていた。それなのに、音が遠い。廃棄処分されたのは妥当だったのだ、 と、呂号は諦観を混ぜながら自嘲した。以前から存在していた世界と自分の間にある隔たりが、厚みを増した。
 どこを歩いているのかも解らず、どこに向かっているのかも解らなかった。頼りになるのは、呂号が右手で掴んで いる甚平の裾と足の裏に擦れる熱い砂だけだった。波の音は遠のき、潮の匂いに別の匂いが混じり始めている。 つんとした刺激を伴う鉱物の匂いで、あまり好きではなかった。採光ゴーグルで目に入ってくる光量を調節出来ない ため、視界はただひたすらに白いだけで変化も何もない。海面よりも照り返しが強く、肌が焼けるようだ。

「あ、うん、もう少しだから」

 甚平は呂号の歩調に合わせて歩きながら、振り返った。

「あ、でも、足、熱くない? 僕は平気っていうか、サメだし、皮が厚いけど、露乃ちゃんは違うっていうか」

「どうでもいい」

「あ、うん、そう」

 甚平は所在なげに瞬膜を開閉させてから、また進行方向に向いた。まだ本名で呼ばれることに慣れないせいで、 態度が無意味に尖ってしまう。呂号は若干罪悪感を覚えたが、それきり喋らなかった。この数日間で甚平は呂号の 調子にすっかり慣れた、というより、甚平もまた他人と距離を置きがちな性格だったおかげで二人は適度な距離感 を保っていられた。それが上手くいかなければ、忌部島までの道中は穏やかには進まなかっただろう。
 変異体管理局の保養所という名の別荘が建てられている、沖縄近海の無人島に、保護施設に廃棄処分予定の 呂号を乗せたCH−47チヌークが墜落した。しかし、それは偶然でも事故でもなく、隔離されていた呂号と面会した 虎鉄と芙蓉が事前に手を加えておいたために起きた出来事だった。それだけでも充分面倒な事態だったが、その チヌークには宮本都子の実弟である阿左見が同乗していた。宮本都子が死んだことにより、本家の御前様からの 寵愛を受けられなくなって家族が崩壊したことと自分の素行の悪さを棚に上げて、呂号を文字通り抱き込んで利用 しようという浅はかな考えを並べ立て、挙げ句の果てには同乗していた自衛官達を躊躇なく銃撃した。それが甚平 の逆鱗に触れ、強かに殴られて海に投げ飛ばされた。その後、呂号は二度目のフィールドワークをしに来た甚平と 一緒に地底湖のある洞窟に身を潜め、自衛隊と変異体管理局が現場検証や事後処理を終えたのを確認した後、 別荘に備え付けられていた緊急避難用ボートを使って忌部島に向かった。だが、それも簡単なことではなく、海上を 監視するヘリコプターに見つかりかけたのは一度や二度ではなく、その度にルートを変えて海流から外れてしまい、 当初の予定の倍近い時間を掛けた末に忌部島に辿り着いた。おかげで、呂号はすっかり日に焼けてしまい、肌の 至る所がひりついている。一度も着替えなかったので拘束衣のままだが、白い布地は汚れ切っていることだろう。
 緩い坂道を昇り終えると、甚平は足を止めた。呂号も足を止めると、また新たな匂いが潮風に混ざり合ってきた。 人でもなければ動物でもない、不可解な匂い。格納庫などで頻繁に嗅いだ、機械油の臭気。覚えのある、人間の男の 匂い。女のようだが女ではない、奇妙な匂い。地下から立ち上ってくる、甘く艶のある女の匂い。そして、同じ年頃の 少女が醸し出す匂い。いずれも、複雑だが特徴的な匂いだった。

「おやおや、お帰りなさいませ、甚平さん」

 尻尾を引き摺りながら近付いてきたのは、渋谷で交戦した異形の生物、ゾゾだった。

「そちらは……呂号さんのようですが?」

「あ、うん、ただいま。えと、その、経緯を話せば長くなるんだけど、でも、その前に」

「ええ、ええ、解っておりますとも。お二人ともお疲れでしょう、少し早いですがお昼にしましょうか」

 ゾゾが頷いたらしく、ウロコの張った皮が伸縮する音がした。

「やったやった、った、った、ったー! お腹空いた、た、た、たー!」

 上機嫌な歓声を上げたのは、巨大な機械の上にいる女のようで女ではない生き物だった。続いて鈍い駆動音が 響き、地面を軽く揺らしながら、その機械が建物らしき遮蔽物に向かって歩いていった。

「甚平が帰ってきたのはいいことだが、そのちゃちな兵器には何の興味もない」

「小松がそれならそれでいいさ。誰も無理に仲良くしろとは言わん」

 聞き覚えのある声がして、足音が目の前にやってきた。忌部だった。彼は呂号の前に立つと、腰を屈めた。

「久し振りだな、呂号。考えてみれば、ゴーグルとヘッドギアを外した顔を見たのは初めてかもしれないな」

 そう言いながら、忌部らしき汗ばんだ手が呂号の頭を押さえ、更に顔を寄せてきた。

「おい、どうした? 眼球が全然動いていないぞ? もしかして、お前、俺がどこにいるのか解らないのか?」

「……うっ」

 一目で解るほど能力が衰えたのか、と、臆した呂号が身を引いて忌部の手から遠のくと、甚平が取り繕った。

「あ、ああ、えと、その、あんまり触っちゃダメっていうか、怒るから。そういうの、嫌なんだよ、彼女」

 甚平が忌部を押し退けると、忌部は後退った。

「あ、ああすまん、久々過ぎたからちょっと忘れてた。ごめんな、呂号」

 忌部はすぐさま謝ってから、甚平と呂号の傍から離れた。その足音が向かった先では誰かに声を掛けていたが、 相手は一言も喋らなかった。こちらを見ている気配と浅く息を吸った音はしたが、近付いてくる様子もなければ声を 掛けようともしない。消去法で考えれば、あれが斎子紀乃であり姉なのだろう。だが、呂号から紀乃に近付く勇気は なく、校舎に向かって歩き出した甚平の服の裾と、ケースに入れたフェルナンデスのZO−3を強く掴んだ。
 無性に、縋るものが欲しかった。




 ぬるま湯の風呂に入り、服を着替え、久し振りにまともな食事に有り付いた。
 風呂に入れてくれたのは、女のようで女ではない生き物、ミーコだったが、呂号が知るミーコとは懸け離れていた。 明るく快活な性格であり、明確な理性を持っていて、呂号に当たり障りのないことを話し掛けてきた。長時間日差しを 浴びていたのと、漂流に近い状態だったのと、保存食ばかり食べていたために心身にストレスが溜まってしまい、 ベーチェット病の症状の一部である炎症がひどくなっていた。そのせいで、せっかく風呂に入れてもらったのに、ろくに 体も洗えずに終わった。一応髪は洗えたが、それ以外は擦るわけにはいかないので、お湯を掛けただけだった。 徹底的に洗いたい気分だったので消化不良だったが、炎症を広げてしまうので我慢するしかない。風呂上がりには 滝ノ沢翠が仕立て直したという襦袢と浴衣を着付けてくれたが、柄が解らないのが残念だった。
 そして、昼食を摂ったが、ゾゾが気を遣って他の面々とは部屋を別にしてくれた。甚平は呂号に付き合ってくれて、 呂号の隣に座っていかにも消化に良さそうな沖縄そばを啜っていた。栄養だけはあるが口当たりの悪い保存食とは 違い、沖縄そばは歯応えも柔らかくて滑らかで、出汁の利いたスープも薄めの醤油味でおいしかった。伊号と波号 と共に大きなテーブルを囲んで食べる食事は、どんな味付けをされていてもおいしいと思ったことはなかった。空腹 だったのと疲れ果てていたのが理由なのだろうが、まともに味を感じたのは恐ろしく久し振りだ。だから、妙に新鮮な 気持ちで箸を動かしたが、音の跳ね返りも解りにくくなっていたので、上手く麺を掴み取れなかった。
 苦労して食事を終えた呂号の前には、知らない匂いの湯気が立ち上る器が置かれた。汁気の残る口元を手の甲で 拭ってから、指を伸ばしてなぞり、その物体の形を探った。ざらりとした表面の円筒形の物体で、中には熱い液体が 入っている。湯飲みのようだ。取っ手がないので口の辺りを指で囲んで持ち上げ、底に手を添え、中身を啜った。 紅茶とも緑茶とも麦茶とも違う味のお茶だったが、嫌いではない。甚平に寄れば、ドクダミ茶というらしい。

「さてさて」

 椅子を引いて向かい側に座ったのは、ゾゾだった。ことり、と硬い音がしたのは、盆を置いたのだろう。

「変異体管理局の生体兵器であるあなたが、いかなる事情でこちらにいらしたのですか、呂号さん?」

「あ、その、えっと、僕から言った方が楽、なんだろうけど、でも」

 呂号の隣に座っている甚平は自分の湯飲みを置き、呂号を見たのか、硬い肌が布地に擦れる音がした。

「僕から話す。僕の話だ」

 呂号は中身が八割方残っている湯飲みをテーブルに置き、浴衣の膝の上で両手を握り締めた。

「僕は変異体管理局から廃棄処分された。能力値が低下した末に活動限界を迎えた結果だ。僕自身も能力の低下は 認めている。戦闘に値する能力を失った兵器など兵器ではないからだ。僕もそれについては異論はない。だから 僕は大人しく保護施設に移送されるつもりでいた。しかし状況が変わった。変異体管理局から移送される前に面会に 訪れた虎鉄と芙蓉が僕に伝えてきたんだ。輸送用のチヌークに細工をしたから墜落次第脱出しろと。武器になる エレキギターも積んでおいたと。それは事実だった。そして僕が乗ったチヌークは慶良間諸島の無人島に墜落した。 それは夏の盛りに僕や伊号や波号が休暇のために訪れた島だった。そして三十九号……いや……甚平だ。甚平は その島にある遺跡を調べに来ていた。そのおかげで僕は生き延びた。そしてここにいる」

「よく解りました。さぞお疲れになったことでしょう、ごゆるりと休んで下さい」

 ゾゾは深く頷いてから、身を乗り出し、呂号の頭に手を添えた。

「御心配なさらず、嫌だと仰るところには触りません。少し調べるだけですので」

 冷たく硬い手が、髪から頬、頬から首筋、首筋から項をなぞる。呂号は身を固くしていると、ゾゾの手が離れた。

「案の定ですね。あの男らしい、下衆なことをされていたようですね」

「僕は誰に何をされたというんだ」

 髪や頬に残る冷たさが気色悪く、呂号が袖で擦っていると、ゾゾは椅子に座り直したのか木材が軋んだ。

「呂号さん。あなたは竜ヶ崎全司郎と名乗るクソ野郎により、頭の中に彼の肉片を埋め込まれているのですよ」

「局長が? 誰の肉片を?」

 呂号が困惑して頭を押さえると、甚平が言った。

「えと、それは、たぶん、この島そのものっていうか、忌部島の肉片じゃないのかな。八百比丘尼の洞窟にあった岩と 忌部島の匂いは全く同じだし、あの地底湖にある遺跡も同じ匂いがした。だから、きっと、そうなんだ。でも、腑に 落ちないのは、石化した肉片をどうやって元に戻して埋め込んだのか、っていうこと。どうなの、ゾゾ?」

 甚平に問われ、ゾゾは答えた。

「それについては簡単です。あのクソ野郎と私は同じ生体情報を有していますから、彼の生体組織を目覚めさせる ために必要な生体情報を接触させればいいのですよ。何をどうやったのかは考えたくもありませんけどね」

「えと、この分だと、伊号って子と、波号って子も?」

「恐らく。ですが、今の私では呂号さん達を元に戻せません。彼を生体洗浄プラントと化すために必要な生体操作に 不可欠な生体情報が欠けているからです。その生体情報を保持しているのは、忌々しくもクソ野郎だけなのですよ。 クソ野郎が死んでくれれば、死体から生体情報を採取し、残った汚物は大気圏摩擦で焼却してやるのですが」

「なんか、うん、ゾゾ。ひどい言い様っていうか、口が悪いって言うか」

 甚平がちょっと臆したが、ゾゾの口調は尖ってきた。

「あれをクソ野郎と言わずして何と言いましょう。私利私欲の固まりです、欲望が皮を被って歩いているのです、骨の 随どころか細胞の蛋白質の一粒まで腐っているのです、いいえ、アミノ酸レベルで汚らしいのです!」

「あ、う、あ……」

 甚平はゾゾを諌めようとするが、ゾゾはいきり立って腰を浮かせた。

「あれは我が種族が持つべきではないものを自前で作り、その上、不干渉が大原則である他の惑星の現住生物と 交配を行い、自分と彼女に生体改造を行って受精するように細工した挙げ句、近親者同士であっても惹かれる ように遺伝子レベルで改造し、おまけに己の血族である女性という女性に手を付けているのですから!」

「あ、ああ、うん、それは確かにクソ野郎だ」

 甚平は納得したのか、ゾゾを諌めずに引き下がった。

「そうでしょうそうでしょう、そう思いますでしょう。もっとも、私はそんなクソ野郎を阻めなかったので、罪深さはあまり 変わらないのですがね。ああ口惜しや、口惜しや」

 ゾゾは大きく首を振ってから、座り直した。呂号は精一杯平静を保とうとしたが、握り締めた手が震えた。

「そ……それが局長なのか?」

「ええ、そうです。それが事実なのですよ、呂号さん。あの男があなたや他の甲型生体兵器の方々をいかに甘やか してくれようと、優しく扱ってくれようとも、そんなのは上っ面に過ぎません。本性は汚物の中の汚物です」

 ゾゾは余程腹立たしいのか、尻尾の尖端で床を殴り付けた。その乾いた音が部屋に反響したが、呂号の耳には ほとんど届かなかった。それどころか、耳が聞こえていることが疎ましい。呂号は無意識に首を横に振ると、両手で 耳を塞いで背を丸めた。甚平が声を掛けてきたが、呂号は両膝に額を押し当てて唇を噛み締め、外界からの刺激を 全て拒絶した。竜ヶ崎全司郎を否定してほしくない。たとえ捨てられたとしても、彼は呂号の恩人だ。呂号を執拗に 虐待する里親の元から救い出し、改造手術を施し、甲型生体兵器としての価値を見出してくれたのだ。けれど、 懸念が欠片もなかったとは言い切れない。あれだけ好意を寄せられたのだから好きでいたい。だが、しかし。呂号は 膝の間の暗闇と両手が作る静寂に閉じこもりながら、喉の奥に迫り上がる胃液の味と戦った。
 何もかもが、苦しかった。





 


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