南海インベーダーズ




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 気が付くと、呂号は布団に寝かされていた。
 現実逃避をしすぎた末に寝入ってしまったらしく、頭がぼんやりしている。目を瞬かせると粘り気がまとわりつき、 瞼の端に乾燥した体液がこびり付いている。光量は変わらずに多く、視界は真っ白だ。胃袋にたっぷり詰め込んだ 沖縄そばは時間と共に消化されたらしく、心なしか手足の力が回復している。だが、頭の芯には鈍い痛みがあり、 身を起こすと目眩に似た気分の悪さが起きた。単に寝過ぎたのだろう、と思いたかったが、ゾゾが言っていたことも 具合の悪さの一因だった。だが、考えてみれば、竜ヶ崎全司郎については知らないことの方が多い。

「あ、起きた?」

 自分の声に似通った声が、すぐ傍から掛けられた。呂号が音源に向くと、声の主は何かを差し出してきた。

「はい、これ。顔、拭いたら気持ちいいよ」

 呂号の手のひらに載せられたのは、しっとりと濡れたタオルだった。それについては異論はなかったので、呂号は そのタオルを広げて顔を拭いた。目元と口元を清めてから、べっとりと汗が滲んだ額と首筋を拭い去ると、気化熱に よる爽やかな冷たさが感じられた。そのタオルをどうしようかと握り締めていると、引っ張られた。

「まだ使うだろうから、濯ぐね」

 呂号がタオルを握り締めていた手を広げると、手中から抜き去られた。足元からはじゃぶじゃぶと水音が聞こえ、 飛沫が飛んで床板に落ちる音もする。布地を絞る音が三回続いた後、また濡れたタオルが渡された。

「喉乾いたでしょ? お水、飲む?」

 ぎしり、と木組みが軋む音が聞こえると、声の主が呂号の右側に腰を掛けていた。布団だとばかり思っていたが、 ベッドの上だったらしい。呂号が頷くと、彼女は水差しを傾けて器に注ぎ、差し出してきたが、その場から腰を上げた 様子はなかった。器を手にしても、彼女の手が呂号の指先に触れることもなかった。寝起きと長旅の疲れのせいで 頭の回転が悪くなっていたからだろう、声の主が斎子紀乃だとはすぐには解らなかった。喉越しが良く、冷たい水を 飲み終えた呂号は、湯飲みと同じ手触りの器を紀乃に向けた。紀乃はそれを受け取ったが、今度は手を使った。

「呂号。私のこと、解るよね?」

 緊張と戸惑いが感じ取れる息遣いと声色で、紀乃は身を乗り出してきた。呂号は濡れた唇を舐め、答えた。

「……ああ」

「今も、私のこと、嫌い?」

 おずおずと問い掛けてきた紀乃に、呂号は顔を背けた。

「解らない」

 それは、紛うことなき本音だった。斎子紀乃が姉だと知ったのは、ついこの前のことだからだ。甚平のように淡い 好意を抱きたい気持ちはないわけではなかったが、誰かに好意を抱けば、好いたら好いた分だけその相手に心を 開かざるを得なくなって無防備になる。戦うために張り詰めてきた弦なのだ、そう簡単には緩められない。
 斎子紀乃は忌まわしいインベーダーである。変異体管理局に乙型生体兵器として引き取られていながら裏切り、 インベーダーと行動を共にしている。何度となく本土を侵攻し、破壊活動を行い、小松建造と共に一度は捕獲された ものの、変異体管理局を破壊して逃亡した。他にも余罪はいくらでもある。そんな相手に好意を抱くのは、甲型生体 兵器として大いに間違っている。そして、兵器でしかない自分が特定の相手に対して執着を持つのも間違っている。 だから、これからも斎子紀乃のことは嫌いでいなければならない。家族だとしても。

「あのね」

 紀乃は躊躇いがちに口を開き、自分の服を握り締めたのか、衣擦れの音がした。

「ひどいこと、一杯言っちゃってごめんね。そりゃ、誰だって、自分の趣味を否定されたら怒るよね」

 紀乃の声色は不安定で、上擦り気味ながらも詰まっていた。

「それと、その、服、借りっぱなしでごめんね。出来れば返したかったんだけど、変異体管理局の基地に近付いたら 攻撃されちゃうだろうから、返すに返せなくて」

「ああ……あれか。僕の部屋の壁をぶち抜いたついでに着ていった服のことだな」

 少し間を置いてから思い当たり、呂号は紀乃に向いた。

「だったら後で僕に返してくれ。この服も悪くないんだが裾が長くていちいち面倒なんだ。短い方が楽なんだ」

「えと、怒って、ない?」

「僕の服を返してくれるのなら。二度とメタルを罵倒しないのなら。僕は無益に怒りはしない」

「うん、うん、解ったよ! ありがとう!」

 紀乃は呂号の両手を掴み、ぶんぶんと上下に振った。

「何をする」

 呂号は戸惑って両手を引くと、紀乃は苦笑した。

「だって、ずぅーっと気掛かりだったんだもん。でも、良かった。ちゃんと話せて、許してくれて」

「僕やお前の身に起きていることに比べれば些細なことじゃないか」

「でも、大事なことじゃない」

「僕にはそうは思えない。随分と気楽なんだな。お前という奴は」

 紀乃の明るさに辟易した呂号が毒突くと、紀乃は両足を投げ出したのか、床にかかとが当たる音がした。

「そうでもないよ。今だって、どうしたらいいのか全然解らないよ。ゾゾや甚にいは難しい話をしているし、忌部さんや 翠さんもあれで大変な状況だし、小松さんとミーコさんは落ち着いてきたけど、まだまだって気がするし。ガニガニと だって仲直りしたいけどそう簡単にはいかないだろうし、ゾゾの友達が目を覚ましたら物凄いことになりそうだけど、 どう凄いのかなんて見当も付かないし。他にも、色々と気になることだってあるし」

 背を丸めたのか、紀乃の体が遮る光の形が変わった。

「だからね、出来ることからしていくしかないの。私なんて、何も出来ないから」

「マッハで空を飛べるのにか。ミサイルを戦闘機の尻の穴にぶち込めるのにか。僕の音すらも歪められるのにか」

「それはそれ、これはこれだよ」

 ごろりとベッドに寝転がったのか、紀乃の声の位置が下がった。

「だって、私はゾゾがどれだけ大変そうでも何もしてやれないんだもん。龍ノ御子じゃないし、なれそうにもないし」

「龍ノ御子か。甚平もそのことを話してくれた。だが甚平もそれについてはよく知らないと言っていた」

「私も全然知らないよ。龍ノ御子になった人がどんな人だったかってことも、ゾゾとどういう関係だったかってことも、 龍ノ御子になれば何が出来るのかってことも。ニライカナイに行けたら、全部解るんだろうけど」

「ニライカナイは理想郷だと甚平は言っていた。理想だというのならば全てが叶うのだろうな」

 もしも、その理想郷に行けたら。呂号は言葉を切ってから、しばし考え込んでしまった。まず最初にこの目を治して 厄介な持病も治し、健康な体を手に入れる。音楽で満たされた世界を作り、音という音に浸る。まだ姉のことを好きに なれるほどの心の余裕はないが、両親を捜し出し、姉も含めて一緒に暮らす。家族をやり直す。
 紀乃は呂号の傍に寝転がっているうちに気が緩んだのか、お喋りは途切れ、呼吸には何度もため息が混じった。 誰かを思うあまりに悩んでいるようだったが、誰が相手なのかは想像だけに止めておいた。呂号は紀乃に触れるか 触れるまいかを散々迷ってしまったが、結局触れられず、所在をなくした両手はシーツを握り締めた。ニライカナイ がどんな場所なのか、世界なのか、色なのか、空気なのか、匂いなのか、感触なのか、明るさなのか、暗さなのか、 など、呂号は想像力を駆使して思い描いた。だが、形にすらならず、呂号はニライカナイを作り上げることを断念し、 気怠さの残る体を再びベッドに横たえた。窓から差す光の幅が変わり、上半身に影が掛かると瞼が下がった。
 二度目の昼寝は、朧気な夢を見るほど深く寝入った。




 潮風の肌触りが違う。
 冷たいばかりか、匂いも違う。目に入る光量も格段に減り、空気も厚みを持っている。呂号は履き慣れたブーツの つま先で砂混じりの地面を踏み、空を仰いだ。薄い光が差している。その周囲には細かな光が散っている。これは 月光であり、あれは星々の光だ。図らずも紀乃と一緒にしてしまった二度目の昼寝から目覚め、呂号の服を返して もらい、浴衣から着替えて外に出ると夜になっていた。あれほど長く、深く、眠ったのは久し振りかもしれない。
 建物から外に出ると、いやに広さを感じた。戦闘機の爆音も聞こえず、護衛艦の汽笛も聞こえず、都市部の喧噪も 聞こえず、局員達のざわめきも聞こえない。代わりに虫の音と波音と風音と木の葉が揺れる音が重なり合って、 少し遠くなった耳に届く。メタルほどの激しさはなかったが、悪い音ではなく、繊細で絶妙な音楽だ。J−POPでさえ なければ、大抵の音楽は好きなのだ。ピンヒールが小石を踏み、靴底に弾ける。汗ばんだ肌に貼り付いたレザーの ホットパンツから伸びた足を動かし、慎重に歩いていく。今はまだ杖は必要ないが、いずれは入り用になるだろう。 だから、助けがなくとも自由に動き回れる今のうちに歩いておこう、と、呂号は緩やかな坂道を下った。
 
「あら……」

 坂道を下り終えたところで声を掛けられ、呂号は足を止めた。他の者達とは違う足音が、近付いてくる。

「あなたが呂号さんですのね?」

 地面を擦るように歩いてきた女性は、呂号の前で身を屈めたのか、衣擦れの音がした。

「私、滝ノ沢翠と申しますの。乙型生体兵器二号、と言った方が解り易うございますかしら?」

「いや。前者だけで解る」

「まあ、そうですの。御兄様や皆さんが仰っていた通り、呂号さんは紀乃さんによく似てらっしゃいますわ」

「そうなのか?」

「ええ、そうですわよ。同じ兄妹ではありますけれど、私と御兄様とは大違いですわ。それは少うし残念ですわね」

 不意に、翠は呂号の手を取った。その手はひやりと冷たく、肌も常人のそれよりは硬かった。

「忌部とあなたは兄妹なのか」

 呂号は翠の手を振り払おうとしたが、躊躇した。

「ええ。もっとも、私と御兄様は御父様も御母様も違いますわ。見た目も違いますし、御兄様の御顔を拝見した ことはございませんけれど、きっと似ていないことでしょう。けれど、兄妹なのですわ」

「だが僕は……乙型一号を姉だとは」

「呂号さんがそう思われるのでしたら、それでよろしゅうございますのよ」

 翠は呂号の手を両手で包み、壊れ物を扱うような手付きで撫でた。

「浴衣、お脱ぎになりましたのね。お気に召しませんでしたでしょうか?」

「気に入る気に入らないとかじゃない。僕は色が解らないからだ。元々着ていた服の方が落ち着くというだけだ」

「まあ……」

 翠は少し残念がったようだが、呂号の手を離した。 

「それでしたら、仕方ありませんわね。何か、気になったところがございましたら、すぐに仰って下さいまし。御姉妹と 言っても、紀乃さんと呂号さんとでは体の形が微妙に違いますものね。私は時間が有り余っておりますから、すぐに でも手直しいたしますわ」

「あなたもだがこの島の誰も僕を恐れないのか。ついこの前まで敵対していたのに」

「それは御兄様も同じことですわ。一応、この私も」

 ふふ、と翠は恥じらいの笑みを零し、袖で口元を覆ったのか肌と布が接する音がした。

「だがそれは手放しで喜ぶべきことじゃない。僕らとあいつらを区切るものが根本的に希薄だったという証拠だ」

「それも仕方ありませんわよ、本当のことなのですもの。あなた方と私達の違いなんて、些末なものですわ」

「だとしても僕がこれまでしてきた戦いは紛れもない正義だ。よってインベーダーは悪だ」

「ええ、そうでございましょうねぇ」

「能力さえ戻れば僕はすぐにでもあなた方と戦う。そして倒す」

「ええ、ええ」

「なぜ反感を抱かない。甚平もだが」

「だって、それもまた自由なのですもの」

 翠は微笑みを絶やさず、声色も柔らかいままだった。

「ゾゾさんは仰いましたわ、私達は自由なのだと。ですから、呂号さんが私達にどんな思いを抱こうとも、それもまた 自由なのですわ。自由の意味は皆さんで違いますし、私と御兄様だって違いますもの。呂号さんの考える自由も、 違っているのが当然なのですわ。もっとも、自由である代償もございますけれども」

「それは詭弁だ。インベーダーが侵略行為を己に都合良く解釈するための方便だ」

「そうかもしれませんわねぇ」

 翠の態度は一向に変わらず、呂号は苛立ちかけた。

「僕はこちら側に来たつもりはない。来ざるを得なかっただけだ。僕に対する警戒心が薄すぎやしないか」

「では、呂号さんは私達に恐れられたいんですの?」

「それが道理じゃないか」

「少なくとも、私は呂号さんと仲良くなりとうございますわ。御上手なお歌を聴きとうございますの」

 お先に失礼いたしますわ、翠は会釈したらしく、帯らしき硬い布が曲がる音がした。そして、彼女の足音が呂号の 傍を通って緩やかな坂道を上っていった。一歩、一歩、踏み締めるたびに、翠が持っているものが揺れて硬い音を 立てていた。大きさはそれほどでもなく、手のひらに包めるほどのサイズのようだ。恐らく、貝殻だろう。翠の気配が 遠のいていくのを聞きながら、呂号は潮風の風上である海へ向き直った。
 生体兵器だったから、これまで自分を保てていた。脳に訳の解らない肉片を埋められて改造され、擦り切れるまで 使い切られた挙げ句に廃棄処分されたとしても、十年以上慕っていた竜ヶ崎全司郎の正体は汚いスラングが似合う 男だったとしても、誇らしい日々だった。竜ヶ崎や変異体管理局の面々に頼りにされ、強大な敵と戦って国土を守る 盾となっていたのだから。竜ヶ崎の思惑がどうあれ、戦っている最中は胸を張って生きていられた。自分には価値が あるのだと心から思えた。多少歪んでいるが充実していた日々を否定するのは、惜しく、嫌だった。
 潮風と日差しを浴びすぎてぱさつく髪を掻き上げると、自分ではない人間の匂いが混じっていた。紀乃の匂いだ。 近しいものはあるが、食べてきたものも着ていたものも生きてきた環境も大違いなので、呂号とは懸け離れている。 唐突に懐かしさに駆られてそれを吸い込もうとしたが、理性で息を止めた。呂号は紀乃の匂いがうっすらと付いた髪を 乱暴に掻き乱してから、踵を返して翠の足跡が付いているであろう坂道を上り始めた。
 月よりも星よりも強い、光が見えていた。





 


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