南海インベーダーズ




甘味的愛情表現



 台所はゾゾの世界だ。
 だから、普段は近寄りがたい場所だった。板を組んで作った棚は天井に届くほどの高さがあり、炒め鍋や深鍋や セイロなどが順序よく並べられている。包丁はゾゾの腕力に合わせた大きさらしく、さながら中華料理で使う包丁の ように刃が分厚く、持ち手自体も大きい。まな板も分厚い一枚板で、紀乃の腕力では到底持ち上げられそうにない。 使い込んで摩耗したらその都度削っているのか、まな板の表面と側面では色が違う。レンガを組んで作ったかまど は右側が飯炊き専用なので常にお釜が填っていて、左側が炒め物などの料理を作るための場所なので、そちらには 程良い幅で鉄格子が並んでいる。ちなみに、魚を焼く時には七輪を使って裏庭で焼いている。レトロ極まる台所に あまり馴染まない冷蔵庫は業務用サイズで、大方漁船から奪取してきたものだろう。ゾゾが毎日身に付けている 似合わないエプロンは洗濯されていて、物干し竿に引っ掛かってはためいていた。

「うーん……」

 紀乃は台所をぐるりと見渡し、唸った。

「小麦粉はあるでしょ、卵もあるでしょ、砂糖も黒糖だけどあるでしょ、食用油もあるでしょ。でも、あれがない」

「あれとはなんですか、紀乃さん」

 台所に隣接している居間兼食堂から、ゾゾが尋ねてきた。

「フライパンとフライ返し。それと、泡立て器」

 紀乃は振り返りながら答え、眉を下げた。

「で、ゾゾは何してんの?」

「まあ、色々とですね」

 ゾゾは単眼を細め、はぐらかした。その手には甚平曰く生きている銅鏡が握られていたが、テーブルに伏せられ、 ごとりと重たい音がした。その答え方に引っ掛かるものを感じながらも、紀乃は自分がやるべきことに気を戻した。 炒め鍋はフライパンの代わりにはならないし、かといって小松にフライパンを作ってもらうのは気が進まない。機械 油にまみれてしまっては、料理に使う以前の問題だからだ。だが、本土まで気軽に買い物に行ける身分と住所では ないので、ありものでなんとかするしかない。紀乃は腕を組み、人差し指で二の腕を小突いた。

「フライパン……がないのは妥協する。百歩どころか一万歩譲って炒め鍋で焼く。で、フライ返しがないのも、この際 妥協するしかないか。なんだったら、サイコキネシスでひっくり返せばいいし。でも、最大の問題は泡立て器なんだよ なぁー……。作るにしたって、針金を曲げても上手く出来るとは限らないし、そんなことをしてたら日が暮れちゃう」

「茶筅じゃダメか? 翠の持ち物の中にあったぞ」

 宙に浮いているフンドシから声を掛けられたが、正体は解り切っているので紀乃は普通に受け答えた。

「似てはいるけどダメだよ。お茶は点てられるかもしれないけど、メレンゲは泡立てられないじゃん」

「メレンゲ?」

 忌部が訝ると、紀乃は組んでいた腕を解いて髪を掻き乱した。

「そう、メレンゲ。ホットケーキを作りたいの」

「おやおや、それはそれは。そうならそうと早く教えて下さればよろしいのに」

 ゾゾはすぐさま立ち上がると、紀乃の脇を通り過ぎて棚の下に突っ込まれている箱を引き摺り出し、うきうきと 尻尾を左右に振りながら木箱の中を探って竹製の道具を取り出した。

「はいどうぞ、紀乃さん。これでよろしいと思いますよ?」

 ゾゾが紀乃に手渡してきたのは、竹製の泡立て器だった。

「なんでまたこんなものがあるの? ゾゾの料理って、泡立て器なんか使わないものばっかりじゃない」

 ありがたく使わせてもらうけど、と紀乃は受け取りつつも変な顔をすると、ゾゾはにたりと口元を緩めた。

「本来は、米研ぎや味噌を溶く時に使う道具なんですよ。便利でしてね」

 確かに、泡立て器にしては棒の本数が少なく、これでは含ませられる空気の量も制限されてしまうだろう。けれど、 これ以外に道具らしい道具はないので、紀乃はその泡立て器状の道具を持って台所に入った。

「ゾゾ、しばらく台所使うね。でも、火加減とか解らないから、その辺は教えてね」

「紀乃さんの申し出とあれば喜んで」

 ゾゾはにんまりしながら、居間兼食堂と台所を繋ぐ敷居に立った。紀乃は例によって翠が仕立ててくれたエプロン をセーラー服の上から付け、サイコキネシスで体を浮かばせて棚を覗き、上段に置かれていたボウルに似た木鉢を 取り出した。それを両手で持ってみると予想以上に重く、粉練りが専門の器だとすぐに解ったが、木鉢の他に都合の 良さそうなものが見当たらなかった。仕方なく、木鉢を調理台に置いてから、今度は食器棚を見渡した。メレンゲ とは別に卵黄と油を混ぜて泡立てるための器が必要なのだが、そちらは木鉢ほど大きくなくてもいいだろう。普段は 煮物などを盛り付けている大きい素焼きの鉢を見つけたので、それも料理台に置いた。

「しかし、なんでまたホットケーキなんだ? 自分で喰うためか?」

 忌部は手伝う気は更々ないらしく、台所と居間の中間地点に立っているだけだった。

「違うよ」

 ぞんざいに返しながら、紀乃は小麦粉の詰まった麻袋を開き、茶碗に小麦粉を掬っておおよその量を量った。

「では、私達に日頃の労いを込めて作って頂けるのですか?」

 期待を込めて身を乗り出したゾゾに、紀乃は鬱陶しげに一瞥をくれた。

「それも違うよ」

「じゃあ、何なんだ」

 忌部が再び問うと、食用油を詰めた瓶を傾けて小皿に大さじ一杯分程度を入れ、紀乃ははにかんだ。

「呂号、甘いもの好きかなぁって思って」

「生憎だが、あいつは甘いものは大っ嫌いだぞ。量産型アイドルの薄っぺらい流行歌と同じぐらいにな」

 忌部が透き通った肩を竦めると、紀乃は声を裏返した。

「えぇ?」

「俺が知る限り、呂号は辛党だ。伊号と波号はそれなりに子供らしい味覚なんだが、あいつだけは変なんだよ。今も 充分ガキだが、本当のガキの頃から子供らしい食べ物が嫌いだったんだ。オムライスだのナポリタンだのは当然で、 カレーライスもグラタンもシチューも嫌いでな。ろくに食べもしないんだ。いつもそんな調子だからデザートなんて 以ての外で、味付けも呂号のものだけ変えていたぐらいなんだ。だから、ホットケーキなんて喰わんぞ」

 忌部が並べ立てた絶望的な言葉の数々に、紀乃は気後れした。

「そんなんじゃ、私が作ったものなんて絶対に食べてくれないかなぁ。ゾゾの御飯だって、結構残しているし」

「いえいえ、そんなことはありませんよ紀乃さん! たとえ呂号さんが紀乃さんの可愛らしい手で作ったホットケーキに 手を付けて下さらなくとも、私が食べます! 全部食べます! 木鉢に付いた種さえも舐め取ります!」

 ゾゾは拳を固めて力説しながら紀乃に詰め寄ってきたので、紀乃は反射的に顔を背けた。

「気持ちだけはありがたいけど、生理的に物凄く嫌」

「なんとご無体な御言葉……。けれどそれもまた素敵ですよ紀乃さん……」

 ゾゾはしょげながらも尻尾を揺らしたので、忌部は呆れた。

「お前は本当に変態だな」

 紀乃は翠の着古した着物をリメイクしたエプロンを握り締めて、足元を見つめた。物事を単純に考えすぎていたの かもしれない。紀乃と呂号、すなわち露乃が双子だと言っても、どちらもまるで違う環境で生きてきた人間同士だ。 顔形が似通っていても、人格も趣味も嗜好も全てが異なる。少し変わっているが愛情溢れる両親の元で育てられた 紀乃と物心付く前に家族から引き渡された末に甲型生体兵器と化した呂号では、共通点を探す方が難しいだろう。 音楽の趣味も正反対で、紀乃は明るくてテンポが良いだけのJ−POPが好きだが、呂号は知っての通りメタル全般 に傾倒している。紀乃は放っておけば喋り通すタイプだが、呂号は話し掛けられなければ一言も喋らずにひたすら エレキギターを弾いている。紀乃は風呂の時間が無駄に長いが、呂号はカラスの行水だ。紀乃は甘くふわふわした 御菓子が大好きだが、呂号は甘いもの自体が嫌いだ。そして、インベーダーと生体兵器だ。

「私んちね」

 紀乃は調理台に向き直り、ホットケーキを作りたくなった経緯を吐露した。

「子供の頃は貧乏でさ、物心付いた頃からお父さんとお母さんは外で働いていたの。今は借家暮らしなんだけどね。 遊びに行こうにも、その頃はなんでか知らないけど友達が少なくてさ、仕方ないからずっと家で留守番していたの。 あ、家って言っても、すんごい古いアパートでね、木造二階建ての一階の六畳二間。狭くて暗くて湿っぽかったけど、 お父さんとお母さんが帰ってくると明るくなって暖かくなるから、そんなの全然気にならなかった。大人しくしていると 良い子だねって褒められたし、本当にたまーにだけど、お土産を買ってきてくれたんだ。近所にあるケーキ屋さんの シフォンケーキ。それが一番安いのだって解っていたけど、ふわふわで甘くておいしかったし、私が喜ぶとお父さんも お母さんも喜んだ」

 中流家庭であるクラスメイトの家庭環境からは程遠い生活だったが、それ故に濃密で、存分に愛されていた。

「うちが貧乏な理由は、なんとなく解ってた。うちのお父さんとお母さんは、他のうちのお父さんとお母さんよりも凄く若い んだ。私が小学校に上がった時、お父さんは二十八歳でお母さんは二十三歳だった。で、それだけじゃなくて、私は 一度もお父さんとお母さんの実家に連れて行ってもらったことがないんだよ。お母さんのお姉さんで、甚にいの お母さん、つまり伯母さんは甚にいを連れて何度か来てくれたんだけど、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも見たことも ない。だから、うちのお父さんとお母さんは、たぶん、若い頃に私と呂号が出来て結婚したせいでどっちの実家とも 疎遠になっちゃったんだと思う」

 両親は物凄く仲が良かった。子供の目から見ても、深く、強く、愛し合っていた。

「だから、たまにだけど悲しくなった。お父さんは下手くそで傍迷惑だけどエレキギターを弾くのが大好きで、お母さんは カレーも煮物も煮付けもドロドロに溶かしちゃうほど料理が下手だけど美人だし、どっちも若いし、好きなこととか やりたいこととかもあったと思う。だって、お母さんが私と呂号を産んだのって、逆算してみると十七歳だもん。今の 私とは二歳しか違わないんだよ。ちゃんと学校に行きたかっただろうし、友達とだって遊びたかっただろうし、もっと お洒落だってしたかっただろうし、将来の夢もあったはずだよ。なのに、お母さんは平気な顔をしてお母さんしている から、それが申し訳なくなって一人きりの時に泣いた。留守番が寂しいのもあったけど、自分がいちゃいけない人間 みたいに思えて仕方なかったから」

 幸せだけど、幸せすぎて、息が詰まることも多かった。

「で、また五年生の時なんだけど、家庭科の調理実習でホットケーキを作ったんだ。お父さんとお母さんにも分けて あげようって家まで持って帰ったんだけど、その日に限って二人とも帰りが遅くて、冷蔵庫の中に晩御飯もなくって。 でも、お店に買いに行けるほどお金も持っていなくてさ。我慢しようって思っていたんだけど、どうしようもなくお腹が 空いたから、せっかく作ってきたのを食べちゃったんだ。その日は結局二人共帰ってこなくて、仕方ないから一人で 寝たの。朝起きると、お父さんもお母さんも帰ってきていて、おはようって言ってくれて、昨日は帰りが遅れてごめんね って言ってくれて。私は怒ってないよ、寂しくなかったよ、って言って。でも、ホットケーキを一人で食べちゃったことは 言えなかった。罪悪感もあったし、怒られちゃうような気がしたから」

 紀乃はエプロンを握り締めていた手を緩め、布地に擦り付けて拭った。

「でも、やっぱり、食べさせたくて自分で作ろうとしたけどホットケーキの素を買うお金がなかったの。お小遣いなんて 一ヶ月に五百円だったし。だから、家にあるものでなんとか出来るんじゃないか、って思ったから、図書館に行って、 御菓子作りの本を一杯読んで調べてみた。そしたら、出来そうなのがあったから、それを学校のノートに書き写して 作ることにしたの。小麦粉はあったし、卵もあったし、砂糖もちょっとだけあったし、サラダ油もあったし、フライパンは 焦げ付くけどあったし。だから、作ろうとしたんだけど、メレンゲが全然出来なくてさ」

 紀乃は苦笑しながら、採り立ての生卵を浮かび上がらせた。

「メレンゲって卵白を泡立てて作るんだけど、これがまた粘っこくて重たいの。それが小学五年生の腕力だと尚更で、 どれだけ混ぜ返そうが、本で見た通りのふわふわにはならないの。卵黄とサラダ油と水でホットケーキ種の半分は 作ってあったから、絶対に作らないと材料が無駄になるって思って一生懸命掻き混ぜるんだけど、ちっとも空気が 入らなくてさぁ。疲れてくるし一人きりだから誰にも頼れないしで半泣きになっていると、丁度近所のケーキ屋さんの 息子さんが通り掛かったのね。一階の台所だから、外から丸見えだったし。兎崎玲於奈っていうお兄さんで、その時 二十三四歳で家業を継ぐために修行中の身だったかな。端から見ると美少女にしか見えないぐらい華奢で美形で、 表情も声も可愛いし着る服も女物が多いから、小さい頃は女の人だとばかり思っていた。まあ、それはどうでもいい んだけど。で、その玲於奈お兄さんが私に声を掛けてくれて、窓越しにメレンゲの立て方を教えてくれたの。玲於奈 お兄さんも忙しいはずなのに、私がホットケーキを焼いて盛り付けるまで付き合ってくれて、そのおかげで小学生の 料理の割には立派なものが出来たんだ。で、それをお父さんとお母さんに食べてもらったんだけど」

 卵を手の中に落とした紀乃は、素焼きの鉢の縁にぶつけて割り、白身と黄身を分けた。

「褒められて、怒られた」

「勝手に火を使ったからだろ?」

 忌部が言い当てると、紀乃は頷いた。

「うん。玲於奈お兄さんが見てくれた、とは言ったけど一緒にいてくれたわけじゃなかったしね。でも、怒られたことで、 凄くほっとしたの。お父さんとお母さんは私を邪魔に思っていないんだな、大事にしてくれているんだなぁって」

 紀乃は懐かしさと共に胸が締め付けられ、目元を擦った。

「で、それからは、お父さんとお母さんと一緒にそのホットケーキを作るようになったの。お母さんが作ると、玲於奈 お兄さんが教えてくれたみたいなふわふわのメレンゲは出来なくてネトネトでドロドロになっちゃうし、お父さんが作ると 歯が立たないぐらいガチガチになっちゃうしで、結局は私一人で作った方が出来が良かったしおいしかったんだ。 でも、一緒にいられることが嬉しかったから、どんなに拙くても皆で全部食べちゃうの」

 だから、呂号にも。紀乃は深呼吸して気持ちを落ち着け、竹製の泡立て器を取った。

「食べてくれなかったら、何度も作ればいい。食べてくれても、何度も作る。呂号は、私のこともホットケーキのことも 好きになってくれないかもしれないけど、私は呂号を好きになりたい。だって、妹なんだから」

「辛党でも、たまには喰ってくれるかもしれんな。だが、焦るなよ」

 忌部の手が頭に置かれ、紀乃の髪がくしゃりと乱された。

「……うん」

「失敗してもしなくても、俺達にも分けろよな。呂号だけが良い思いをするのは許せん」

 忌部の子供染みた要求に、紀乃は思わず笑ってしまった。

「解ってるって。甘いものは、独り占めしちゃいけないもん」

 忌部の手が外されると、頭にはほんのりと体温が残った。その温もりに若干のむず痒さと照れ臭さを感じながら、 紀乃は素焼きの鉢に分けた卵黄に食用油と水を入れ、掻き混ぜた。忌部は一度は立ち去ろうとしたが、振り返った らしく、宙に浮いているフンドシが紀乃に向いた。

「この際だから聞いておくが、紀乃の両親の名前って何なんだ?」

「あれ、忌部さんは知らなかったの? 知っていそうなもんだと思っていたけど。お父さんは斎子鉄人、鉄人って書いて テツヒトって読むの。お母さんは斎子溶子、溶ける子って書いてヨウコって読むの。ちなみに斎子はお母さんの姓で、 お父さんの旧姓は知らない。子供の私が言うのもなんだけど、二人ともちょっと珍しい名前だよね」

「テツヒト? テツジンって書いてテツヒト? いや、でもな、まさかな。だが、時系列を逆算すると……」

「どうかしたの、忌部さん」

 紀乃が訝ると、忌部は背を向けたらしく、フンドシの尻の側が紀乃に向いた。

「ちょっと考えることが出来た」

「どうぞ、ごゆるりと」

 ゾゾは緩やかに手を振り、忌部を見送った。紀乃も忌部のフンドシに手を振ると、作業に戻った。竹製の泡立て器で 中途半端に混ざった卵黄と食用油と水を掻き回していくと、次第に色が白くなって、カスタードクリームを思わせる 柔らかな色合いに変化していった。ここまでは簡単だが、これから先が大変だ。クリーム状に混ざった卵黄と食用油 と水から泡立て器を抜いて、それを冷蔵庫に入れてから、泡立て器を軽く水洗いした。木鉢に分けた卵白に黒糖を 入れようとしたが、どう見ても粒子が粗すぎる。紀乃は眉根を曲げて卵白も冷蔵庫に入れると、棚に収納されている 擂り鉢と擂り粉木をサイコキネシスで取り出した。ごっとん、と調理台に着地した擂り鉢に粒子の粗い黒糖を入れ、 紀乃は擂り粉木を握ってごりごりと磨り潰していった。その様を横目に、ゾゾはかまどに薪を入れていた。

「そういった作業には、サイコキネシスをお使いにならないのですか?」

「手でやらなきゃ意味がないよ。それに、ズルしたみたいで嫌じゃない」

「それはそれは」

 ゾゾは感心したように頷き、薪の前に焚き付けになる枯れ葉を積み重ねた。紀乃は擂り粉木に体重を掛け、一際 粒の大きい黒糖を押し潰した。ごきり、との鈍い音と共に、擂り鉢自体が傾いてしまい、紀乃も転びそうになったが ゾゾの尻尾がすかさず支えてくれた。テーブルに顔面を強打せずに済んだことは素直にありがたかったが、素足に 絡み付く尻尾の冷たい感触に背筋が逆立ってしまい、紀乃は変な声が出そうになった。それを寸でのところで堪え、 紀乃はまた黒糖を砕いた。呂号がこのホットケーキを食べてくれることを願って作ることだけに集中しようとしたが、 かまどに火を入れているゾゾの視線が気になってどうしようもなくなってしまった。尻尾が触れた右足には違和感が 貼り付いていて、それを拭い去りたいが、あからさまに足を擦るのはなんだか失礼だ。けれど、無性に恥ずかしい。 紀乃は紅潮した頬を誤魔化すためにひたすら黒糖を砕き、砕き、砕いた末、見事な粉砂糖が出来上がった。
 ケガの功名である。





 


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