南海インベーダーズ




鋼鉄男的半生譚



 我利が忌部家の屋敷を売り払ったのは、鉄人が十二歳の時だった。
 弟の次郎は七歳で、だだっ広い邸宅から狭い民家に引っ越した理由も解らずにきょとんとしていたが、新築の家は 気に入ってくれたようだった。真新しい家に見合った家財道具が運び込まれ、荷物が散乱している家のリビングで ぼんやりしながら、鉄人は黙々と荷解きをする父親を見つめていた。鉄人がこの世に産まれた経緯を話したことを 境に、我利は再び家庭に戻ってきてくれるようになった。それ自体は素直に嬉しかったし、普通の子供らしい体験も いくらかさせてもらったので、父親との距離感は徐々に狭まりつつあった。次郎も同じらしく、それまでは大人達の手で 引き離されていた父親と兄にしきりに甘えてきた。母親だけが抜けていたが、家庭らしさを取り戻していた。
 それから、鉄人と次郎は我利に連れられて自宅と病院を往復するようになった。週に三四度はゆづるの見舞いに 行き、何度となく病床の母親と顔を合わせて会話するようになった。最初の頃こそぎこちなかったが、次第にゆづるも 息子達と夫の相手をするのに慣れてきて、鉄人にも次郎にも笑顔が増えてきた。精神的な支えが出来たからか、 ゆづるの体調も安定していたので、いずれ退院して新築の自宅に帰宅出来るだろう、と医師も言ってくれた。鉄人も 次郎も母親と暮らせることを心待ちにしていたが、一年が過ぎ、二年が過ぎても、ゆづるは退院出来なかった。
 鉄人の記憶の中で最も鮮明な母親の記憶は、死する一ヶ月前に見舞った時のことだった。その日は我利は都合が 悪く、次郎はクラスメイトと連れ立って遊んでいたので、鉄人だけが母親と面会した。顔馴染みになった看護士達に 挨拶してから、角部屋の個室であるゆづるの病室に入った。西日の差し込むベッドの上で座っていたゆづるは、 鉄人に振り向くと笑顔を見せた。鉄人は通学カバンとギターケースを床に置き、椅子を引いて腰掛けた。

「母さん、調子はどう?」

「相変わらずよ。今日は一人なのね」

「うん。父さんも次郎も、他で忙しそうだったから」

 鉄人が答えると、ゆづるは膝の上で青白い手を重ねた。

「そう」

 ゆづるの呟きは寂しげではあったが、安堵も垣間見えていた。母の肩越しに見える街並みが異様に美しく見えた ことを、鉄人は今でもありありと覚えている。無数の窓ガラスの煌めき、線を引いて区切ったように明暗が分かれて いるビル群、遠くから僅かに聞こえた電車の警笛。ゆづるは弱った体の中で唯一力が強い目で、窓枠に填っている 街並みを見下ろしていたが、鉄人が担いできたギターケースに目を留めた。

「音楽、始めたの?」

「あぁ、うん、部活のだよ。軽音楽部ってやつ。エレキギターなんだけど、才能なんてゼロもゼロ、譜面見てコードを 押さえるだけで精一杯、死ぬほど練習しなきゃ弾けやしないレベル。でも、すっげぇ楽しい」

 鉄人が顔を綻ばせると、ゆづるも笑みを返した。

「そう、良かったわね。それで、鉄人はどんなのを弾いているの?」

「ヘヴィメタル。で、俺は手が大きいからってギターやらされたんだけど、他の連中も初心者ばっかりでさぁ。顧問の 先生が昔にやっていたぐらいで、音を合わせる以前の問題なんだ。そのくせ、文化祭で弾こうって練習し始めた曲は 難しいやつで。メタリカってバンドの。下手なくせに身の程知らずだとは思うけどさ」

 苦笑する鉄人に、ゆづるは痩せた指で細い髪を整えた。

「私はそうは思わないわ。やりたいことを思う存分やれるんだもの、鉄人は幸せだわ」

「母さんだって、これからやればいいよ。退院して家に来たら、俺達と一緒に暮らすんだし、その時にでも」

「そうね。そんな夢を、数えるのもうんざりするぐらいに見たわ」

 ゆづるは細くため息を吐き、ベッドから足を出して窓に向いた。

「私は健康な体で産まれて、我利さんと当たり前に出会って、普通に結婚して、あなたと次郎を設けるの。誰にも邪魔 されずに、なんてことのない家庭を築くのよ。私はあなた達の世話で忙しく働いて、外に仕事をして家計の足しに するの。我利さんは会社勤めで、残業も多いけどちゃんと家に帰ってきてくれて、休みの日になれば私達を遊びに 連れ出してくれる。あなたと次郎はたまにケンカもするけど仲の良い兄弟で、私の作った料理をおいしいって言って 食べてくれて、一緒に買い物に行ったり、公園にお散歩に行ったり、映画を見たり、遊園地に行ったり、家族四人で 旅行にだって行ったりするの。けれど、それは全部夢なのよ」

 ゆづるの口調は平たく、諦観しか宿っていなかった。

「だから、私は目を覚ましていたくないわ。ずっとずっと眠っていたいの。出来ることなら、夢を見たまま死んでしまい たいと思っているの。そうでなければ、ほんの少しでもいいから夢を現実にしたい。一度でもいいから、あなた達に 御飯を作ってあげたい。手を繋いで、外を歩きたい。どんなに小さなことでもいいから、思い出を作りたい。だけど、 それすらも夢。夢を抱くことすらも夢なのよ」

「そんなこと」

 ない、と言おうとした鉄人に、ゆづるは異様に澄んだ目を向けてきた。

「だから、鉄人は思い切り足掻きなさい。私が出来なかったことを、我利さんがしたくても出来なかったことを、鉄人 なら出来るはずよ。我利さんから聞いているわ、鉄人には能力があるんですってね」

「……これのこと?」

 鉄人は躊躇いながら、花瓶に生けられた花に触れて念じた。触れた部分から花が変色し、鋼鉄と化した。

「そう、それ。今はまだ上手く使えないだろうけど、うんざりするほど練習して思い通りに使えるようにしておきなさい。 そうすれば、いつか、私達のように理不尽な目に遭ったとしても対処出来るわ」

 ゆづるは鋼鉄と化した花を見、褒めた。

「その色、凄く綺麗ね」

「そうかな。頑丈な花なんて変だよ」

 鉄人は花から指先を離したが、鋼鉄化はすぐには解けなかった。

「昨日、我利さんがかすがさんを連れてきて下さったわ」

 ゆづるは左手の薬指から抜け落ちそうな結婚指輪を撫で、目を伏せた。鉄人は驚き、椅子から落ちかけた。

「えぇ!?」

「かすがさんは、鉄人よりも一つ年下の子なのね。私なりに覚悟を決めていたつもりだったけど、実際にお会いする と戸惑ってしまったわ。でも、良い子だったわ。滝ノ沢家の娘さんだから、本家の御前様に逆らえない立場だけど、 逆らえないなりに頑張ってみるって言ってくれたわ。鉄人と次郎のことも、母親にはなれないだろうけど兄妹のように 支えたいって。我利さんとも仲良くしてくれるって。私が出来なかったことを、全部、するって」

 ゆづるは伏せた目を大きく見開き、重力に任せて雫を落とした。

「きっと、我利さんは私のことを忘れてしまうわね。かすがさんみたいな若くて綺麗な子と一緒になったら、私みたいな 出来損ないの人間のことなんて覚えておくはずがないわ。すぐにあなた達の弟か妹を作って、暖かい家庭を作る に決まっているわ。やっぱり、あの時、本家の御前様からお手つきを頂くべきだったのかもしれないわ。そうすれば、 もしかしたら、本家の御前様のお力で私の体も人並みに丈夫になっていたかもしれない。産まれてくるのも今と 同じ鉄人だったかもしれない。我利さんに迷惑を掛けずに、我利さんと結婚出来ていたかもしれない。竜ヶ崎家とも 忌部家とも折り合いよくやっていけたかもしれない。あの時、私が怖がりさえしなければ、全部、全部、全部……」

「それはない!」

 鉄人が声を張り上げて立ち上がると、ゆづるは目を丸めた。

「え……?」

「俺は父さんから全部聞いた! 母さんが逃げ出すのも当然だ、だって本家の御前様は母さんと血が繋がっている んだろう、そんな相手と子供を作るなんて非常識だ! 悪いのは全部、本家の御前様じゃないか!」

「ありがとう、鉄人」

 ゆづるは涙を拭うと、泣き顔ではあったが笑みを見せた。

「そうよね、本家の御前様の種から産まれるのは鉄人じゃないものね。我利さんが相手じゃなかったら、私を怒って くれる鉄人にはならないものね。色々な出来事があったけど、やっぱり、あの時、ああして良かったのよ。それに、 我利さんを誘ったのは、私の人生の中じゃ大冒険だったわ。凄くどきどきしたもの」

 妙に幼い表情で恥じらったゆづるは、血の気の薄い頬を赤らめた。 

「すぐには納得が行かないだろうけど、鉄人も次郎も、かすがさんとは仲良くしてね。新しいお母さんなんだから」

「年下なのに?」

「年下でも、よ」

 ゆづるは恥じらいを残しながら笑み、結婚指輪を填めた左手を大事そうに覆った。その仕草は父親の仕草と良く 似ていて、初めて二人が夫婦らしいと感じた。気分が良くなったからか、ゆづるは珍しく饒舌に喋った。我利と寄りを 戻すまでの経緯から、次郎が出来るまでの経緯を包み隠さず語られてしまい、鉄人は大いに困惑した。だが、母親が 楽しそうなので邪魔をするのは憚られたので、面会時間が終わるまで鉄人はゆづるの思い出話に付き合った。 出会った経緯は普通ではなかったが、我利とゆづるは出会うべくして出会っていたのだと確信した。見た目には解り づらくとも、我利とゆづるは互いを思い遣っている。それを愛と言わず、何と言うのだろうか。家族にはなれなかった かもしれないが、少なくとも、両親は夫婦になれたのだ。一層、母親の退院を願わずにはいられなかった。
 だが、その願いは叶わなかった。




 鉄人が十八歳になった頃、ゆづるは静かに息を引き取った。
 ゆづるが新しい家に上がることが出来たのは、棺の中に収まってからだった。冷え切って硬直した母親の体は、 すっかり細くなり、乾き切っていた。死に顔が穏やかだったのが、せめてもの救いだった。葬儀は粛々と進められ、 親戚はほとんど顔を出さず、弔問客の数は呆れるほど少なかった。母親の両親である竜ヶ崎家の人間すらも顔を 出さず、焼香したのは父親の会社の同僚ばかりだった。次郎は母親の死を理解してはいたが終始呆然としていて、 出棺の際も突っ立っていただけだった。なんとなく初七日が過ぎ、四十九日を迎えた。
 鉄人は母親の軽すぎる遺骨が入った骨壺を抱え、父親の後に続いて歩いていた。次郎も行きたがったのだが、 運の悪いことに風邪を引いて寝込んでしまった。いつもであれば病気一つしない弟にしては珍しく高い熱が出たのは、 母親を亡くした辛さや葬儀の疲れが出たからだろう。様々な家名が刻まれた墓石の間を通り抜け、古さに比例して 一際大きい忌部家の墓に辿り着くと、先客が忌部家の墓に手を合わせていた。制服姿の少女だった。

「来てくれたのか」

 我利が声を掛けると、少女は一礼した。

「はい。それがせめてもの礼儀だと思いまして」

「体の方は、もう大丈夫なのか?」

「はい。あの子を産んだのは去年のことですし、産後の肥立ちも悪くありませんでしたから。ですけど、一度もあの子を 抱かせてもらえませんでした。それだけが心残りです」

「そうか……。いつか会えるさ、生きてさえいれば。鉄人、紹介しよう。滝ノ沢かすがさんだ」

 我利は忌部家の墓の敷地内に水桶と仏花の花束を置き、私立高校の制服姿の少女に近付いた。

「滝ノ沢かすがです。以後、お見知りおきを」

 かすがは両手を揃え、丁寧な仕草で鉄人に頭を下げた。

「忌部鉄人です」

 鉄人も一礼して名乗ると、かすがは鉄人の抱えている骨壺に目を留めた。

「それが、ゆづるさんのお骨なんですね」

「ゆづるは元から華奢だったんだが、すっかり小さくなってしまってな」

 我利が寂しげに骨壺を見やると、かすがはスカートの前で重ねていた手に力を込めた。

「本家の御前様は、ゆづるさんのお骨を御所望です」

「そうか。それで?」

 我利は動揺を見せないように努めたようだったが、声色は強張っていた。

「それだけです。最初から最後まで、御弔問の言葉もありませんでした」

 かすがは二人と目を合わせられないのか、石畳を睨み付けていた。

「そんなところだろうと思ったよ。ゆづるの遺骨を持って帰れなければ、君は何をされるんだ?」

 我利が問うと、かすがは羞恥と嫌悪で唇を曲げた。

「……言えるようなことではありません」

「いつものことだが、下劣な男だよ。本家の御前様は」

 我利は俯いたかすがの肩に手を添え、慰めながら、鉄人に向いた。

「あの野郎は、俺にかすがさんを宛がったくせにちょっかいを出しているんだ」

「なんで? だって、本家の御前様が父さんにそうしろって言ってきたんだろ?」

 二人の会話の意味を薄々感じ取りながらも納得出来ず、鉄人は聞き返した。

「そうだ。だが、本家の御前様は、どうあっても俺が良い思いをするのが許せないらしい」

 我利は肩を震わせて涙を堪えるかすがを支えてやりながら、最も古い墓石を仰ぎ見た。

「というより、俺達一族が良い思いをするのが許せない、と言った方が正しい。屋敷を売り払う時に俺なりに忌部家 の歴史を調べてみたんだが、忌部島から本土に渡ってきたのは忌部家が最初だったんだよ。次に滝ノ沢家、最後 に竜ヶ崎家、という順番だった。だが、それは俺が忌部家の蔵で見つけた古文書の中だけの話で、御前になった時 に竜ヶ崎家に保管されている古文書を読んでみたら、順番が逆だった。竜ヶ崎家、滝ノ沢家、忌部家、とな。それを 見てから、ずっと俺は変だと思って調べ回ってみたんだ。そうしたら、まあ、出てくる出てくる」

 我利は、忌部継成、という名の先祖が眠る墓石を眺めながら語った。

「どんな手柄も、どんな名声も、どんな稼ぎも、どんなに細かい慶事でも、忌部家に関わったことは一つ残らず竜ヶ崎家 の手柄に移し替えられていて、滝ノ沢家から掠め取った手柄も少なくなかったんだ。御三家とは名ばかりで俺達も かすがさんの一族も竜ヶ崎家に搾取されるだけの分家だったんだ。忌部島の所有権を押し付けてきたのは、単なる 厄介払いだろうな。観光資源にもならんだろうし、事実上、政府の管理下にある島だから金にはならん」

「忌部島、って何?」

 初めて聞く名だったので、鉄人が尋ねると、我利ではなくかすがが答えた。

「忌部島とは、小笠原諸島南洋にある火山島です。私やあなた様方の家の御先祖が住まわれていた離島です」

「話に寄れば、そこにはインベーダーが隔離されているそうだ。突然変異体、つまり、ミュータントとは違うらしいが、 俺には細かい違いは解らん。だが、そいつが俺達には関わりが深い人物であるのは間違いない。ミュータントと して政府に捕獲されて隔離されている人間の経歴を洗ってみたが、どいつもこいつも俺達の遠縁だった。でなければ、 名字は違うが御三家絡みの私生児だった。それがどういうことだか、解るな?」

 我利に話を振られ、鉄人は骨壺を抱えている自分の手に目線を落とした。

「なんとなくは」

「更に言えば、ミュータントの一切合切を取り仕切っている変異体管理局の局長は竜ヶ崎全司郎なんだ。またの名を 本家の御前様だ。素人考えでも、これが恐ろしいことだと解る」

 我利は気持ちを落ち着けようとしたのか、喪服のポケットからタバコを抜いて銜えたが、火は灯さなかった。

「世間を脅かすと言われているミュータントは、変異体管理局を統べる竜ヶ崎全司郎の手で作られているんだ。これは 俺の想像に過ぎないが、竜ヶ崎全司郎は出来の善し悪しでミュータントを選別しているんじゃないだろうか。出来 が良かったり、自分に従順であれば御三家の御前に祭り上げて良いように使う一方で、出来が悪かったり、反抗的 であれば、変異体管理局を使って捕獲して隔離する。想像が外れていることを願いたいが」

「じゃ、じゃあ、忌部の御前様にさせられた次郎はどうなるんだよ! 本家の御前様の道具になるのか!?」

 鉄人が動揺すると、我利は語尾を濁した。

「だからって、俺にどうにか出来るわけじゃない。今だって、ゆづるを……」

 不意に、骨壺が手中から抜けた。鉄人がぎょっとすると、泣き顔のかすががゆづるの骨壺を抱えていた。かすがは しきりに、ごめんなさいごめんなさい、と謝りながら、鉄人と我利の元から走り去った。鉄人はかすがに追い縋ろうと 手を伸ばしたが、その手を我利に掴まれた。我利は苦痛と屈辱が入り混じった凶相で息子の腕を握っていたが、 手を緩め、顔を覆った。嗚咽を殺して泣き出した父親と、墓地から出ていくかすがの背中を見比べていた鉄人は、 強烈な怒りの衝動に駆られた。どうして、そこまでして本家の御前様に屈するのか。嫌だと思うなら、死に物狂いで 抵抗しないのか。空っぽの墓石を前に、鉄人は両の拳を固めて歯が折れそうなほど噛み締めた。
 体の芯が、鋼鉄と化すのが解った。




 その夜、鉄人は自宅を飛び出した。
 鉄人はアルバイトで稼いだ端金で買ったエレキギターを背負い、無我夢中で自転車を走らせていた。目的地など なかったが、父親と空間にいるのが耐えられなかったからだ。中学二年生の頃、鉄人が見舞った時に母親は父親 と出会えたことを嬉しがっていた。出会った経緯は異常でも、家族らしい家族になれなくても、好意を寄せている男と 交わって産まれた息子を慈しんでいた。そして、父親を、我利を手探りながらも愛していた。本家の御前様に従わずに 生きたことを多少悔いてはいたが、我利と添えたことを幸せに思っていた。それなのに、誰よりも母親に愛されて いる我利が母親を裏切った。遺骨を墓に納めてやらないどころか、後妻となることが決められている少女に遺骨を 奪わせ、本家の御前様に渡るようにしてしまった。それが、家族四人で暮らすことを夢見ては現実のやるせなさに 打ちひしがれていた母親に、一度も自宅に帰れずに亡くなった母親に対する仕打ちなのか。
 ペダルが折れかねないほど強く踏み締めすぎて、ハンドル操作を誤ってしまい、鉄人は道路脇の草むらに前輪を 突っ込んだ。浮き上がった後輪がからからと空回りし、背中に乗せたエレキギターがずり落ちかける。汗とも涙とも 付かない体液を落としながら、鉄人は呻いた。自転車を引き摺って街灯の明かりの下に入るが、自転車を駐輪する だけの気力すらなく、冷たいアスファルトに座り込んだ。憂さ晴らしに下手くそなギターを掻き鳴らすつもりだったが、 ハンドルを握り締めすぎて指の力加減がおかしくなっている。鉄人は荒い呼吸を整える努力をしつつ、エレキギター のケースを見下ろした。結局、母親には一度もギターを聴かせてやれなかった。退院したら演奏してやろうと思い、 練習を重ねていた。腕はちっとも上がらなかったが、下手なら下手なりに笑ってくれるだろうと思っていた。しかし、 それも全て無駄な努力だった。次郎がお母さんに見せるんだと言って集めていたガラクタも、食器棚の中に揃って いる母親の分の食器も、寝具も、服も、何もかも。そう思った途端に泣けてきて、鉄人は顔を覆った。

「なんで、そうなるんだよ……」

 どうして、誰も彼も逆らわない。何をされても、堪えている。

「何が本家だ、御前様だ、そんな奴のためになんで俺達が我慢しなきゃならないんだよ!」

 振り上げた瞬間に鋼鉄と化した拳をアスファルトに叩き付けると、抉れ、ひび割れた。

「俺だったら戦う! 誰がなんと言おうと戦う! あの野郎をぶっ飛ばして、ぶっ殺してやる!」

 二度、三度と殴り付けると、アスファルトの破片が飛び散って肌を掠めていった。

「畜生……」

 鉄人は土とアスファルトにまみれた拳を力なく下ろし、肩を怒らせた。だが、当の本家の御前様がどこにいるのか 解らない。竜ヶ崎家の本邸の住所は知っているが、我利とゆづるの件が尾を引いているので忌部家の人間は門前 払いされるだろう。戦いを仕掛けたところで、勝ち目があるかどうかも怪しい。鉄人は十八歳の子供でしかないが、 竜ヶ崎全司郎は政治家とも大企業とも濃密な付き合いのある有力者だという。単純に突っ掛かっていったとしても、 逆にやり込められてしまうだろう。だが、何もせずにいたくない。弟だけでも、まともな人生を送らせたい。

「あの」

 不意に声を掛けられ、鉄人は心臓が跳ねるほど驚いて振り向いた。街灯が灯っていても真っ暗な道路の先には、 同じように自転車に跨った少女がいた。少し離れた学区の公立中学の制服を着ていたが、下校途中とは思いがた かった。時間も遅すぎるし、この道路は一山を越えるので学生の通学路ではない。思い詰めた表情の少女は唾を 飲み下し、震える手でハンドルを握り直してから、喉の奥から言葉を絞り出した。

「本家の、御前様って、言いましたか」

「……そうだけど」

 鉄人が訝ると、少女は自転車を放り出して道路に座り込み、絶叫した。

「お願いだから見逃してぇええええっ! 私、嫌、絶対に嫌、本家の御前様なんて会いたくない、子供なんて産みたく ない、どんなことだってするからそれだけはしないでぇえええええっ!」

 長い髪を振り乱しながら泣き喚く少女に、鉄人は唖然としながらも、凄まじい同情を感じた。彼女の境遇は、我利が 語って聞かせた昔話の中の母親と寸分違わなかったからだ。恐らく、彼女は鉄人が本家の御前様が差し向けた 人間だと勘違いしているのだ。だから、心の底から怯え切っている。鉄人はその間違いを正して安心させてやろうと、 立ち上がって声を掛けようとすると、少女はアスファルトを蹴り付けながら後退った。

「や、や、やぁ……」

「俺は何もしないよ。それに、俺は本家の御前様なんて奴から、君を探し出せって言われたわけじゃない」

「嘘だ! 本家の御前様のことなんて、関係ない人が知っているわけがない!」

「名前を見れば、解るだろ」

 鉄人は草むらに突っ込んだ自転車を引っ張り出すと、逃げ腰の少女の前に押し、防犯登録のシールを見せた。

「忌部……?」

 その名を見て涙に濡れた目を丸くした少女は、鉄人を見上げてきた。

「じゃあ、あなたも、御三家の?」

「そういう君は、どこの家の子なんだ」

「りゅ、竜ヶ崎家の分家の、斎子。私の名前は、斎子溶子」

 溶子と名乗った少女は多少落ち着きを取り戻したのか、ハンカチで顔を拭った。

「そんなに嫌なら、逃げればいい」

 鉄人は溶子を支えてやりながら、自分自身にも言い聞かせるように語気を強めた。

「だから、家から逃げてきたんだ。昨日の朝、私のお姉ちゃんが本家の御前様の子供を産んだんだけど、そしたら、 お姉ちゃん、別の人みたいになっちゃって、怖くなったの。あ、あんなに、明るくて元気だったのに、笑うどころか ちっとも喋らなくなって、お見舞いに行っても何も言わないし……。でも、私に行く当てなんかないし、お父さんとお母さん とか、親戚の人に見つけ出されたら、今度こそ本家の御前様にお手つきされて、そしたら……私は……」

 溶子は縋り付くようにハンカチを握り締めていたが、それが急に形を失い、一握の水と化して零れた。

「あっ、やっちゃった」

「それって、もしかして君の能力?」

「あ、うん。でも、何の役にも立たないのね。触ったものがどろどろになっちゃうだけで」

 お気に入りだったのに、と溶子は溶けたハンカチを名残惜しげに見つめていたので、鉄人は元はハンカチだった 液体に触れた。液体は凝結して鋼鉄と化したが、元の形には戻らなかった。鉄人が苦笑すると、溶子は驚いたよう だったが、すぐにそれが鉄人の能力だと理解してくれた。鉄人は溶子を立たせて道路の縁石に座らせてやり、通り道 にあった自動販売機で缶ジュースを買い、持ってきてやった。溶子は何度もありがとうと繰り返して缶ジュースを 受け取ると、鉄人と他愛もない会話をした。非常識なことばかりが身の回りに起きているので、鉄人も溶子も普通に 飢えていた。だから、予想以上に話が弾んでしまい、別れるのが惜しくなった。中学生を深夜の峠道に置き去りに するのは良くないということもあり、鉄人は溶子と連れ立って一旦自宅に帰った。
 午前一時頃に帰宅すると、父親が出迎えてくれた。当然ながら次郎は寝入っていた。鉄人が溶子と出会った経緯を 手短に説明すると、我利は言った。あれからよく考えてみたが、やはりこのままでは良くない、と。ゆづるの遺骨を かすがに渡したのはやりすぎた、今からでもかすがに取り合って返してくれるように頼んでくる、と。そして、鉄人に 一千万円近い額の預金が入った鉄人名義の貯金通帳と必要書類を渡し、溶子を連れて逃げろ、と言った。鉄人も 溶子も戸惑ったが、それ以外の手段では本家の御前様からは逃れられない、と思った。次郎には家出したと説明 しておくと言われ、複雑な気持ちになったが、鉄人は自室に戻って荷物を掻き集めた。エレキギターは荷物になるが 置いていけず、服や下着などを詰め込んだスポーツバッグと一緒に担いだ。その間、溶子は我利と話していたが、 時折泣いていた。本家の御前様の手から逃れるためとはいえ、鉄人も高校生だが、溶子はまだ中学生だ。家族と 完全に別れ別れになる覚悟は、そう簡単に出来るものではない。
 母親の位牌が収まる仏壇に手を合わせ、線香を供えてから、鉄人は溶子を連れて家を出た。明け方の住宅街は 寒々しく、制服の上から鉄人のスポーツコートを羽織っただけの溶子は、鉄人の腕を掴んで離そうとはしなかった。 少なからず血の繋がりがあるとはいえ、初対面の相手の腕を取るのは、溶子が不安でたまらないからだろう。鉄人も また不安でたまらず、指先が冷えた溶子の手を握らずにはいられなかった。家を出たところで、どうやって生きて いけばいいのだろうか。未成年同士では、住む場所を探すだけでも一苦労だ。働き口を見つけなければ、まず食べて はいけない。父親が渡してくれた預金は忌部家の屋敷を売り払って作った金だが、それに頼って暮らすのは良く ない。金の使い方が解らないから、すぐに食い潰しかねない。だから、その金に手を付けるのは最後の手段として 取っておくべきだ。限られた知識と経験を総動員して今後のことを考えながら、鉄人は溶子を窺うと、溶子は白い息を 吐きながら、寒さと緊張と未知の世界への恐怖で強張った頬を引きつらせ、笑顔を作ってみせた。
 どちらからともなく、きつく手を握り合った。





 


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