南海インベーダーズ




鋼鉄男的半生譚



 翌日から、鉄人と溶子の生活が始まった。
 といっても、十八歳の少年と十三歳の少女ではままごとのようなものだった。父親が忌部家の屋敷を売り払う際に 世話になった弁護士に手を回してもらい、安アパートで同居を始めた。義務教育を受けている溶子は近隣の中学校 に通えるようにしてもらった。鉄人は高校を中退して働き始めたが、なかなか上手くいかなかった。どちらも本家の 御前様に怯えているのと、ほとんど見ず知らずの人間だったからだ。ギター一色の青春を送っていた鉄人は年頃の 少女の扱いなど解らなかったし、溶子は溶子で鉄人の顔色ばかりを窺っていた。周囲には従兄弟同士だと説明して 暮らしていたし、少なからず血の繋がりはあったが、他人同士に過ぎなかった。だから、互いに慣れるまでは些細な ことで行き違ってはケンカを繰り返し、泣き腫らした溶子がアパートを飛び出したことも少なくはない。けれど、根っこの 部分では通じ合うものがあったらしく、ケンカを繰り返しているうちに鉄人と溶子は仲を深めていった。部活帰りの 溶子が仕事上がりの鉄人を迎えに行く頻度も増え、誰にも頼れない寂しさも手伝って手を繋いで帰るようになると、 自然と二人の心は寄り添うようになった。だから、二人が夫婦になるのは、至極当然の結果だった。
 それから四年後、紀乃と露乃が産まれた。双子は二人の様々な部分を受け継いでいて、どうしようもなく愛おしい 存在だった。鉄人は仕事を早めに切り上げてアパートに帰り、娘達に会うのを心待ちにしていた。溶子は慣れない 育児に苦労していたが、むしろ守らなければならないものが出来たことで以前より強くなっていた。その頃になると、 二人は地道に訓練を重ねていた能力の扱いも上達していて、多少のことなら自力で対処出来るようになっていた。 けれど、どんなに訓練を重ねても溶子の料理の腕だけは一向に上達しなかった。どんな料理を作らせても、素手で 調理する以上は能力の影響が出てしまうらしく、ドロドロに溶けてしまうのだ。しかし、今となってはそれもまた妻の 愛嬌だと思えるようになった。双子の娘達も日を追う事に成長していて、将来が楽しみだった。
 そんなある日、家族四人が暮らすアパートに来客があった。仕事を終えて鉄人が帰宅すると、居間では妻と妻に どことなく似た顔立ちの女性が向かい合っていた。玄関には、女性のものと思しきパンプスと子供靴と並んでいて、 双子を寝かせている寝室からは、子供靴の主らしき少年の声が聞こえていて、舌っ足らずだが一生懸命に絵本を 読み上げている。鉄人は女性に挨拶をしてから部屋に上がると、溶子は女性を紹介した。

「てっちゃん。私のお姉ちゃんがね、息子さんを連れてきてくれたのよ」

 スーツ姿の女性は鉄人に向き直ると、一礼した。

「溶子の姉の、鮫島珪子です」

「どうも」

 鉄人は荷物を置いてから座卓に付いたが、怪訝な顔をした。

「珪子さん。あなたは、なぜ俺達の居場所を知っているんですか?」

「あなた方が御世話になっている弁護士さんに無理を言って、教えてもらったのよ。どうしても話さなければならない ことがある、って言って。驚かせてごめんなさいね」

 顔付きは整っているが疲れた顔付きの珪子は、幼い息子の声が聞こえてくる寝室に目をやった。

「鉄人さんと溶子の子供達の顔、見せてもらったわ。可愛いわね」

「ええ、まあ。手が掛かりますけどね」

 鉄人が謙遜混じりに返すと、珪子は日焼けしたふすまをじっと見つめた。

「ねえ。どちらかでいいんだけど、うちの子と取り替えてくれないかしら。甚平はまだ小さいし、きっと大丈夫よ」

「お姉ちゃん、何を言い出すの?」

 溶子が戸惑うと、珪子は虚ろな目でふすまを見続けていた。

「だって、あの子、私と主人の子じゃないんだもの。御前様の子だもの。本家の御前様にお手つきを頂いたのと同じ 時期に主人と付き合ってはいたけど、その頃はそこまで仲は深くなかったから、主人もあの子が自分の種で出来た 子じゃないって気付いている。それに、私、妊娠したのよ。今度はちゃんと主人との子。だから、今、甚平をどうにか しちゃえば、私の家には私と主人の子しか産まれなかったことになるの。ただとは言わないわよ、お金なら言い値で 出してあげる。甚平を引き取ってくれるなら、なんだってしてやるわ」

「種が違っても、甚平君は珪子さんの子供じゃないですか。物みたいに扱わないで下さい」

 人の親らしからぬ言い分に鉄人が苛立つと、珪子は目だけを鉄人に向けた。

「男には解らないわよ。私は主人と一緒になりたかった。主人との間でだけで子供を作りたかった。だけど、本家の 御前様は私に仕込んだ。仕込まれたからには産まなきゃならなかった。高校だって休学させられて、周りには病気に 掛かったって説明されて、実家からも地元からも離れた病院に入院させられて、日に日に膨らんでくる腹を憎んだ けど流れやしなかった。主人との子は一度流れちゃったのに。なのに、あのトカゲの種は、流れるどころか受精して 私の腹の中で人間もどきを完成させた。溶子が逃げたから、その穴を埋めるためにもう一人産まされそうになった けど、甚平が普通じゃないってことで勘弁してもらえたわ。でも、産まされたことには変わりはないのよ」

「お姉ちゃん、ごめんなさい。でも、あの時、私は我慢出来なくて」

 溶子が身を縮めると、珪子は冷淡に述べた。

「いいのよ、そんなことは。過ぎたことだもの。でも、甚平は生きている。普通の人間じゃないって解っているのに、 私はアレを普通の人間として育てなきゃならない。だけど、溶子も鉄人さんも普通じゃないでしょ? だったら、甚平を 育ててくれてもいいじゃない。だって、どっちも普通じゃないんだから」

「お断りします。俺達は紀乃と露乃だけで手一杯ですし、甚平君だって納得しないでしょう」

 鉄人が拒絶すると、珪子はしばらく黙り込んでいたが、呟いた。

「そう」

 珪子は湯飲みを取ると、溶子が入れた緑茶を一口飲んだ。珪子の表情は良くも悪くもならず、本気で頼んでいた わけではなかったのだろう。だが、珪子の無表情の底に宿る諦観は消えず、鉄人は在りし日のゆづるを思い出さず にはいられなかった。溶子は珪子にどんな言葉を掛けたものかと考えているようだったが、世間話も始まらず、鉄人も 話を切り出しづらかった。その間、聞こえてくるのは甚平が絵本を朗読する声だけで、最後まで読み終えるとまた 最初から読み直していた。双子は起きているのか、時折言葉にすらならない声が聞こえるが、紀乃も露乃も甚平の 辿々しい朗読を大人しく聞いていた。それからしばらくして、珪子は甚平を連れて帰宅したが、珪子は一度も笑顔を 浮かべなかった。久々に会えた妹との再会も喜ばず、乳児の姪達を見ても顔を綻ばせず、幼い息子と手を繋いでも 仮面を貼り付けたような無表情を保っていた。そうでもしなければ、珪子は己を保てないのかもしれない。その後、 珪子は時折双子の成長を見に来たが、無表情なのは変わらなかった。種違いの長男である甚平は、多感な時期に 母親から全く関心を抱かれなかったせいなのか、引っ込み思案な性格の少年になっていった。
 双子が二歳になって間もなく、露乃が姿を消した。いつものように鉄人が帰宅すると、真っ暗な部屋の中で溶子は 紀乃を固く抱き締めて号泣していた。母親に抱かれすぎて疲れてしまったのか、紀乃はぐずっていた。鉄人が妻と 長女を抱き寄せると、溶子は鉄人に縋り付いた。お義父さんが来た、露乃を連れていった、すぐに追い掛けたけど どこに行ったのか解らない、露乃がいなくなっちゃった、と、言葉にならない言葉で溶子は繰り返した。鉄人は溶子に ここを動くなと強く命じてから、小遣いを貯め込んで買ったアメリカンバイクに跨ると、夜の市街地を駆け抜けた。 我利が何を思って露乃を連れ出したのか、想像には難くない。恐らく、我利はゆづるの遺骨の時と同じように、本家 の御前様に何かを免除してもらうための交換条件として露乃を差し出したのだ。計り知れない憎悪が無意識に能力を 強化させたのか、全身隈無く鋼鉄と化した。細胞を余さず固めたからか、鉄人はいつになく勘が冴え渡って、街を 走り回るうちに我利の所在が掴めた。今にして思えば、恐らく、鋼鉄と化した肉体で街中を入り乱れる電波の中から 我利の生体電流を捉えていたのだろう。マフラーから爆音を撒き散らした鋼の猛獣が辿り付いた場所は、かつては 忌部家が暮らしていた土地であり、現在は大型ショッピングモールが建設されている場所だった。我利は、フェンス 越しに資材の山と人型多脚重機を眺めていたが、鉄人に気付き、吸いかけていたタバコを足元に捨てた。

「露乃をどうしたぁあああっ!」

 アメリカンバイクを止めると同時に駆け出した鉄人は、我利に掴み掛かってフェンスに叩き付けた。

「逃がした。だが、いずれ、本家の御前様のものになる」

 襟首を掴まれている我利の目には、珪子と同じく諦観しか浮かんでいなかった。

「なんで、そんなこと、しやがったんだぁあああっ!」

 二度、三度、と父親の体をフェンスに叩き付けた鉄人が激昂すると、我利は顔を背けた。

「……俺の娘のためだ」

「父さんの? それじゃ、かすがさんとの間に子供がいるのか?」

 鉄人は父親の襟首を掴む手をやや緩めると、我利は答えた。

「いづるだ。お前達の娘よりも二歳年上の、可愛い子なんだ。かすがはゆづるの名前から取って、いづると名付けて くれたんだ。だが、いづるは、頭を蹴られて首の骨を折られた。かすがじゃない、かすがは絶対にそんなことをする 女じゃない。かすがの振りをした他の奴がやったんだ。いづるは病院に搬送されたんだが、すぐに退院させられて、 変異体管理局に保護されて、かすがは逮捕された。全部、全部、竜ヶ崎全司郎の仕業だ」

「だが、それと露乃は何の関係があるんだよ!」

 鉄人が再び怒りを滾らせると、我利は鉄人の鋼鉄の拳を掴んで叫んだ。

「全身不随になったいづるを生かしてほしければ、双子の片方を差し出せと言ってきた! 生体改造手術の実験台 にさせられたくなかったら、いずれ竜ヶ崎の手に入るようにしておけと指示されたんだ! そうしなければ、いづるは 訳の解らない手術を受けさせられて生体兵器にさせられるとな!」

「生体……兵器?」

「そうだ、生体兵器だ! 竜ヶ崎がインベーダーとやらと戦うためだけに、俺の娘を改造すると言ったんだ! だが、 双子の片方さえ奴にくれてやれば、いづるは障害は持っても普通の子供として生きられるんだよ! だから俺は、 露乃をくれてやった! 娘と孫を天秤に掛けて孫を売ったんだ! 俺が憎いなら殴れ、この場で殺せ、さあ!」

 我利は鉄人に詰め寄り、捲し立てた。鉄人は我利の襟首を掴んでいた手が震え、後退った。

「どうして……そんな……」

「どうして、こうなっちまうんだろうなぁ。俺はかすがといづるを幸せにしてやろうとしたんだ。そのせいで次郎からは 物凄く嫌われたが、いずれ弁解して仲直りしようと思っていたんだ。お前と溶子さんの行方も捜し出していたから、 いつか、顔を合わせようと思っていたんだ。今度こそ、なんとかなるような気がしていたんだ。なのに、俺は、お前にも 露乃にもいづるにもかすがにも取り返しの付かないことをしちまった」

 ずるりと腰を落として座り込んだ我利は、項垂れた。

「露乃も、いづるちゃんも、母さんや珪子さんと同じ目に遭うのか?」

 父親の絶望と己の絶望が混じり合った鉄人は、立っていられなくなり、砂利に膝を付いてへたり込んだ。

「解らん。だが、いづるも露乃もまともな人生を送らせてもらえるとは到底思えない。すまん、鉄人」

 我利は喘ぐように謝ったが、鉄人はもう何も聞きたくなかった。弁解されればされるほど、我利に対する嫌悪感が 倍に膨れ上がっていくからだ。鉄人は力が上手く入らない鋼鉄の指でフェンスを掴んで立ち上がると、ヘルメットの バイザーを上げ、ショッピングモールの工事現場を見やった。幼い頃に遊び回っていた広い庭や古い土蔵や母屋が どこにあったのか、今となっては思い出せなかった。ゆづるが寝込んでいた離れの位置すらも忘れてしまった自分が 無性に腹立たしく、鉄人は乱暴にフェンスを殴り付けた。途端にフェンスは曲がり、至近距離で砲弾を浴びたかの ように風穴が空いた。鉄人は横倒しになったアメリカンバイクを起こしてから、座り込んでいる我利に問うた。

「次郎はどうしているんだ?」

「あいつなら、とっくの昔に家を出たよ。次郎にだけは普通に生きてほしかったから、俺達一族の事情を話さない でおいた。自力で大学に通っているそうだ。きっと、まともに生きてくれる」

「だが、あいつは忌部家の御前だ。竜ヶ崎のクソ野郎が放っておくと思うのか?」

「俺達を散々弄んでくれたんだ、一人ぐらいは目こぼししてくれるだろうさ」

 我利はへらへらとしながら、ポケットから潰れたケースを取り出してタバコを抜いた。鉄人は居たたまれなくなり、 我利に背を向けてエンジンを掛けた。車通りが減った道路を駆け抜けてアパートを目指しつつ、鉄人は胸中に凝る 戦意を押さえ込んでいた。幼い頃にも願ったが、出来ることなら今すぐに竜ヶ崎全司郎を叩きのめしてしまいたい。 露乃もいづるも救い出し、次郎には平穏無事な人生を送らせてやりたい。鉄人は無力な子供でもなく、ただの男 でもない、父親なのだ。アパートに帰り着くと、溶子が紀乃を抱いたまま泣き疲れて寝入っていた。鉄人は溶子と紀乃の 傍に腰を下ろすと、良く似た寝顔の妻と長女を慈しんだ。鋼鉄と化した体を元に戻すために、限界まで張り詰めて いた神経を宥めながら、鉄人は双子の妹である露乃の安否を心の底から願った。竜ヶ崎全司郎の所有物になる 前に、必ず見つけ出してやろう。本当の家族の元に連れて帰ってきてやろう。そして、また、皆で暮らそう。
 それから間もなく、鉄人は一人になった娘と妻と共にアパートから借家に引っ越した。紀乃を寂しがらせたくないと の思いで露乃の身の回りのものは片付け、露乃という次女はいなかったように振る舞ったが、それは鉄人と溶子に とっては恐ろしく残酷な演技だった。親の意地があるからこそ出来たようなものだった。借家に引っ越してからは、 溶子の姉の珪子も訪ねてこなくなった。娘が一人欠けているが、当たり前の家族らしく過ごせるようになった。紀乃に 知られないように露乃の行方を捜し続けたが、何年経とうとも影も形も見つからなかった。そうこうしているうちに 紀乃は小学校に上がり、中学校に入学し、十五歳の初夏に交通事故に遭った。それが竜ヶ崎全司郎の策略である とはすぐに解ったが、鉄人と溶子が対処する前に紀乃は変異体管理局に隔離され、乙型生体兵器として認定され、 事も在ろうに本土から一千五百キロ以上も離れた忌部島に移送された。紀乃は車に撥ねられた拍子に自己防衛と してサイコキネシスを発現したおかげで軽傷しか負わなかったが、紀乃を撥ねた車の運転手は、宮本都子と種違い の弟、阿左見京輔だった。そこまでやられては、もう、黙っていられなかった。
 それから、鉄人と溶子は手を尽くした。変異体管理局の内側に入り込んで紀乃も露乃も救い出すために、経歴を 偽ってミュータントとしてわざと捕獲され、乙型生体兵器に認定されるように従順な態度を取った。虎鉄と芙蓉という コードネームも付け、竜ヶ崎全司郎の道具として動きながら、紀乃と露乃の行方を知り得た。同時に次郎の行方も 知ったが、案の定だった。力を合わせて変異体管理局の内部で情報を収集し、忌部家の屋敷の敷地だった土地の 地下深くに潜む竜の首の存在を突き止め、竜ヶ崎全司郎の思惑も把握した。そして、戦った。
 だが、その結果は。




 足掻くだけ足掻いたら、泥沼に没しただけだった。
 虎鉄は昔話を終えると、口の中に溜まってしまった血と唾の混合物を吐き捨てた。その中には根本から折れた歯が 混じり、硬い音を立てて床に転がった。上も下も前歯はほぼ全滅で、話している最中にも端々が欠けて舌の上を 刺してきた。自分の形相を見るが怖いが、次に鏡を見る機会があるかどうかも怪しいのだから、そんなことを不安 がること自体が無意味なのかもしれない。虎鉄は鉄錆の匂いが鼻を突く息を吐き、妻を見やった。芙蓉は薄い服の 裾をきつく握り、床を射抜かんばかりに睨み付けていた。不意に、ごぎ、と鈍い摩擦音が格納庫内に響き、それまで 微動だにしなかった竜の首の瞼が開いた。巨体の内に宿る弟が、摩擦音で声を発した。

「……悪い、兄貴」

「気にするな、次郎。お前が悪いわけじゃない、説明しなかった俺達が悪いんだ」

 虎鉄は首を横に振るが、その動作には力が籠もっていなかった。

「父さんは俺を見捨てたんじゃなくて、守ろうとしてくれていたのか。それなのに、俺はなんてことを」

 竜の首と同化した忌部は、分厚い瞼を伏せた。

「謝るのなら、お墓の前で謝ると良いわ。きっと、お義父さんは次郎君を許して下さるわ」

 芙蓉は竜の首を仰ぎ、忌部を落ち着かせるように微笑んでみせた。

「田村。これを信じるかどうかは、お前次第だ」

 虎鉄が秋葉を見やると、秋葉は昔話が始まった時と全く同じ位置で直立していた。だが、その面差しは暗くなり、 顔色も心なしか青ざめていた。吊り下げている右腕に左手で爪を立てていて、唇も噛んでいる。この話を全て信じろと 言うのは、まず無理だ。たとえ信じてくれたとしても秋葉は政府側の人間だ。味方になってくれるわけではないし、 赤の他人を巻き込むのは気が引けるので、嫌悪されるぐらいが丁度良い。
 秋葉は虎鉄と芙蓉と竜の首に何度となく目線を走らせていたが、足早に立ち去っていった。一言でも感想を言って くれたら長々と話した甲斐があったんだが、と虎鉄はちらりと思ったが、口には出さなかった。話し疲れていたという こともあるが、ここまでされて一矢報いることすら出来なかった自分に対する無力感が半端ではなかった。きっと、 紀乃も露乃も溶子も次郎も呆れているに違いない。父親どころか、人間としても不甲斐なさすぎる。だから、今一度 立ち上がって挽回しなければ。虎鉄は折れた歯の根本で鎖に喰らい付き、顎に思い切り力を入れた。
 一際、嫌な音がした。





 


10 11/25