南海インベーダーズ




異形姉弟的幸福論



 ログハウスから見下ろした海は、朝焼けに煌めいていた。
 二人の家を建てた崖は島の南西側なので、太陽は後方から昇りつつある。穴の底から這い出した後に見る朝日は 格別の美しさだったが、ワン・ダ・バの酸性の体液に浸っていた六本足は塗装がすっかり剥げ落ち、土砂と体液の 飛沫に汚れたメインカメラ越しでは爽やかさは半減していた。空は高く、雲の切れ端が風に流されている。潮風の 匂いは解らなかったが、きっと生命の匂いがするのだろう。小松は頭部を一回転させて背後のログハウスに向き、 窓の中で忙しく動き回るミーコに視線を据えた。あれから一睡もしていないのにいつも以上に元気で、慣れない仕事を しながら調子外れの歌を歌っている。小松は背筋に虫が這うような気恥ずかしさを覚え、思わず目を背けた。
 ワン・ダ・バの心臓の蘇生手術を終えた小松は、ゾゾが以前に紀乃の能力を模倣して会得したサイコキネシスに よって無事に地上に引っ張り上げられた。だが、当の本人であるゾゾはサイコキネシスを使ったことで疲弊したのと、 ワン・ダ・バが小松の珪素の脳やミーコの寄生虫を代用品として受け入れることが出来るのかを調べるために 穴の底に残り、今も尚作業を続けている。小松は穴を出てからすぐに砂浜に行き、海に入って外装を腐食する体液 を洗い流したが、それが金属製の体にとっていいはずがない。だが、給水塔に溜め込んである雨水は他の面々の 飲み水なので、無闇に浪費するわけにはいかない。それに、この体との付き合いは、今日限りなのだから。

「建ちゃーん」

 板を填め込んだだけの窓から顔を出したミーコは、外したエプロンを振り回した。

「出来たよ、よ、よ、よー」

「またフナムシじゃないだろうな」

 小松は前後を反転させて窓に近付くと、ミーコは不満げにむくれた。

「違うもん、もん、もーん。ちゃーんとしたお料理だもん、もん、もーん」

 ミーコは窓から体を引っ込めると、小走りに駆けて崖側に面しているウッドデッキから出てきた。その手には、白い 湯気を立てる白飯のおにぎりが十個ほど載っていた。小松は潤滑油が剥げ落ちたためにシリンダーの滑りが悪い 六本足を縮め、這うような姿勢になり、得意げに胸を張るミーコとそのおにぎりを見比べた。

「それだけか。もっと他にないのか」

「だけって、ひどい、どいどいどいどーい! お釜で御飯を炊くのって難しいし、ゾゾから教えてもらったのはこれだけ なんだもん、もん、もん、もーん! そりゃ、時間があれば他にもお料理を覚えたかったし、ここの台所で一杯一杯 作って建ちゃんに御馳走したかったけど、でも」

 ミーコは盆を引っ込め、舌を出した。

「文句言うなら、建ちゃんにはあげない、ないないなーい!」

「すまん。悪かった」

「本当にそう思ってるぅ? うー?」

「というか、実際問題、血糖値が足りない。だから、単純にそれが喰いたい」

「……むー」

 ミーコは小松の答えが物足りないのか、唇を尖らせ、盆を背中に隠した。

「もっと、何か言うことってないの? の? の? の?」

 体格差の都合もあるが、ミーコは上目に小松を睨み付けた。子供っぽく膨らませた頬は綺麗な小麦色に焼けて、 尖らせた唇は中身が寄生虫だとは思いがたいほど柔らかく、血色も良かった。色褪せて擦り切れる寸前のTシャツの 胸元は豊かに膨らみ、そのくせ腰は細く、丈の合わないTシャツの裾から出ている腹部は引き締まっている。一度 溶解して肉体を再構成したから、以前、小松が水死体も同然の彼女を開腹してガスや水を抜いた後にワイヤーで 縫合した手術痕は残っていなかった。手足は長く肉も付ききっているのに、顔立ちは未だに幼さが垣間見えるのは 単純に言動が足りていないからではない。十八歳で死んだ頃のままの姿を、止めているからだ。今更ながらそれに 気付いた小松は、機体の奥が冷え込むのと同時にセンサーしか入っていない頭の中が熱した。

「俺も、お前も、本当はとっくの昔に死んでいるんだよな」

「うん、そうだね、ね、ね、ね」

 ミーコは幼い表情を消し、おにぎりを載せた盆をウッドデッキのテーブルに置いた。

「死んでいるんだ。生きてはいないんだ。ここにいる俺も、ミーコも、ただの名残なんだ」

 小松は右腕をミーコに伸ばすと、ミーコはマニュピレーターにしがみついてきた。

「でも、建ちゃんはずっと建ちゃん。宮本都子は好きになってくれなかったけど、ミーコが大好きな建ちゃん」

「そうだ。だが俺は、ミーコが好きだってだけで、山吹丈二や色んな人間を殺しちまった」

 太く硬い指先を曲げた小松は、指の角を使ってミーコのざんばらの髪を梳いた。

「それでも、俺が好きなのか」

「うん。だって、ミーコだって、建ちゃんのものにしかなりたくなくて、一杯一杯、親戚の人を殺しちゃったもん」

 ミーコは小松の太い指に甘えながら、殺戮の記憶に震えた。

「建ちゃんは、そんな私でも好き?」

「好きだ」

 小松は手中にミーコを抱き寄せると、精一杯背を屈めて顔を近寄せた。ミーコは破顔し、かかとを上げた。

「うん。大好き」

 半球状の頭部にミーコの顔が寄せられ、メインカメラの真下に彼女の唇が接した。センサーが詰まっているだけの 何も感じないはずの頭部がひどく熱し、ガソリン以外のものがエンジンに込み上がる。どるん、と背中の排気筒から 黒煙を一つ噴いた小松は、ミーコを離すまいと腕を引いた。ミーコも小松から離れるまいと、頭部に腕を回す。

「姉さん」

 小松は心中から込み上がったものを吐き出すと、ミーコは小松の単眼に擦り寄った。

「建ちゃんは、私がお姉ちゃんだから好きなの? なの? なの?」

「それもある。でも、それだけじゃない」

 姉さん、と、再度小松は呟いてから、ミーコを見つめた。久々に間近に見たミーコは、小松の強張った世界の中で 最も暖かく、最も柔らかく、最も優しい存在で在り続けている。物心付く頃には珪素生物の目線で世界を見ていた 小松には、生身の人間はミーコしかいなかった。人間ではないからこそ一番人間らしく見えていた。その正体が世にも 恐ろしい寄生虫の固まりでしかなくとも、女王寄生虫によって統率された無数の寄生虫が成している群体の意志に 近い人格の持ち主だとしても、竜ヶ崎全司郎に対する抗体としての本能に駆られて血族達を殺戮していたとしても、 小松が抱く感情は揺らがなかった。むしろ、執念に近かった。ミーコを愛していれば、思っていれば、自分は今でも 生き物らしくいられると信じられるからだ。珪素の脳と機械の体を持つ小松もまた、生きているからだ。

「今度産まれてくる時は、どんなのがいいかな? かな? かな? かな?」

 小松に持ち上げられたミーコは、操縦席の上に乗せられながら尋ねてきた。小松はミーコを離さずに、返す。

「俺は、別に人間じゃなくてもいい。ただ、ミーコが傍にいてくれればいい」

「うん。私も。建ちゃんが建ちゃんなら、それが車だって、ロボットだって、石だって、なんでもいい、いい、いい」

 ミーコは頷きながら、小松の操縦席に体を寄せる。

「でも、次はちゃんとお姉ちゃんしたいかなって思うこともある、る、る、る。呂号ちゃんと仲良くなってきた紀乃ちゃん とか、翠さんと仲良くしている忌部さんとか見ているとね、羨ましくなっちゃうの、の、の、の。だけど、お姉ちゃんって ことは、建ちゃんはやっぱり私の弟ってことになるから、それは良くないね、ね、ね、ねー」

「それもそうだな。だったら、無難に幼馴染み辺りにしておくか」

「だけど、それじゃ普通すぎてつまんない、ない、ないないなーい」

「それもそうなんだが、どっちつかずってわけにもいかないだろう」

 小松は少しだけ声色を上擦らせると、ミーコは両足を揺らして小松の錆び付いた外装を叩いた。

「それよりもさ、建ちゃん。おにぎり食べよう、冷めちゃうよ、よ、よー!」

「だな」

 小松はミーコを掴んでウッドデッキに下ろすと、ミーコは軽やかに着地した。テーブルに放置されていたおにぎりの 盆を取るかと思いきや、ログハウスの中に駆け戻っていった。空腹が極まり始めていた小松は不満に思いながら、 体を捻るようにして窓の中を覗き込むが、ミーコの様子はよく解らなかった。大きな布を広げたような音から始まり、 何かを踏んで転んだ音、悪戦苦闘しているらしい声が聞こえていたが、なかなか外に出てこなかった。そうこうして いるうちにおにぎりから立ち上る湯気は完全に消えてしまい、小松の血糖値は深刻なレベルに下がりつつあった。 若干苛立ちながら辛抱強くミーコを待ち続けていると、ウッドデッキにミーコが転げ出てきた。

「建ちゃーん!」

 白い布をたっぷりと身に纏ったミーコは、思い切り跳ねて小松に飛び掛かってきた。

「なんだ、その格好」

 小松は戸惑いながらもミーコを受け止めると、ドレスのような衣装を着たミーコは白い布の裾を持ち上げた。

「お嫁さーん! あのね、翠さんがね、作ってくれたの、たの、たの、たのー!」

「だが、俺達がああするって決めてから半日もないぞ。さすがに翠さんでもドレスを縫う時間はないと思うが」

「だからね、突貫工事! これね、翠さんの持っている白い襦袢なの、なの、なの! ほら、見て見て見て!」

 ミーコは遠慮なくドレスのような服の裾を捲り上げ、中を見せてくれた。小松はズームして中を確認したが、確かに 突貫工事でその場凌ぎのドレスだった。ぱっと見では、ミーコのドレスはなかなか立派だ。上半身は襟元を大きく 広げてあり、肩と胸元が露出している。そのすぐ下に白地に金糸の鶴の帯を締めてあるので、胸元が更に強調され、 腰回りの細さも引き立てている。襦袢なのに胸元が透けていないのは、突貫工事ではあるがちゃんと裏地を当てて いるからだろう。帯から下は裾が割れているが、その中には襦袢で作ったらしい白く薄い布のドレープがたっぷりと 詰め込まれてウェディングドレスらしくスカートを膨張させている。足元だけは間に合わなかったらしく、足袋に草履 だった。和装と洋装を中途半端に混ぜた衣装だが、それらしく見えるのはひとえに翠の才能だ。ミーコはドレープを 作っている襦袢の布ごと裾を持ち上げると、小松の手の上でくるくると回ってみせた。

「どう? どう? どう? お嫁さんでしょ、でしょ、でしょー!」

「いや、全然」

「あー、建ちゃんひどーい!」

 回転を止めたミーコが拗ねると、小松は咳払いをするようなつもりで排気してから、歩き出した。その間も手の上 ではミーコが文句を言っていたが、出来る限り気を逸らして聴覚センサーも心持ち落とした。海に面した崖に沿って 生い茂っている森を覗き込み、すぐに目当てのものを見つけた。小松は森の中に半歩踏み込み、左腕を伸ばして 赤い花を枝ごと千切り取った。エンジンが焼き切れかねないほど照れ臭かったが、小松は野生のハイビスカスの花を ミーコに差し出し、裏返りそうな声を必死で押さえ付けた。

「花嫁には、花が必要だろ」

「……うん」

 枝葉の付いたハイビスカスを受け取ったミーコは、頬を染めて頷いた。

「それはそれとして、メシを喰おう。血糖値が下がりすぎた」

 自分で自分が恥ずかしくなった小松が早足で駆け戻ると、ミーコは受け取ったばかりの花を振り回した。

「あーもう、建ちゃんってばー! もうちょっとあるでしょー、もうちょっと、とー、とー、とー!」

 あるにはある。だが、恥ずかしすぎて気が狂いそうだ。小松は花を渡してからというもの、花嫁姿のミーコを直視 出来なくなり、ログハウスに戻っても上の空だった。ミーコはぐちぐちと不満を零しながら、小松に冷めたおにぎりを 食べさせてくれた。建ちゃんは女心を解っていない、だの、もっと新婚っぽいことしたかった、だの、ドレス着たのに 綺麗だとか似合うだとか言ってくれなかった、だの、小松の男のプライドを抉る言葉を並べ立ててきたので、小松は ミーコへの愛情と良心の呵責と羞恥心の板挟みになりながら、辿々しくミーコの花嫁姿を褒めた。ミーコは赤い花を 髪に挿してから、一応納得してはくれたが物足りなさそうだった。次はないと解っているのにどうしてこう自分は度胸 がないんだ、と小松は自責しながら、ミーコを頭部の傍に乗せて視線を合わせて海を見下ろした。
 その時が来るまでの間、小松とミーコは取り留めのない話をした。子供の頃のこと、学生時代のこと、体が人間で なくなってしまってからのこと、忌部島に来てからのこと、最近のことを。嫌だったことも、辛かったことも、悲しかった ことも、振り返ってみればいい思い出だ。塗装の剥げかけた半球状の頭部に寄り掛かったミーコは、何度となく小松に 好きだと語り掛けてきた。小松も同じ分だけ、好きだと言った。日が沈みかけた頃、ようやく小松は言えた。
 姉としても、女性としても、ミーコを愛していると。




 積み重ねてきた時が失われるために必要な時間は、ほんの一瞬だ。
 ログハウスから帰ってきた小松とミーコが目にしたのは、廃校の残骸だった。以前、紫外線アレルギーの影響で 巨大化した翠が破壊した時と同じか、それ以上の惨状だった。小松や皆が苦労して建てた廃校は瓦礫と木材の山 と化していて、その真下の地面が真っ二つに割れている。小松が心臓を探り当てるために掘り起こした穴より更に 深く、底は見えない。家財道具や図書室の本やその他諸々の生活用品は、小松の工作場から運んできたと思しき 漁船の中に詰め込まれている。廃校から追い出された格好の甚平は困っていて、呂号は相変わらずエレキギターを 掻き鳴らしていて、日没後なので外に出てきた翠は甚平以上に困り果てていて、山吹丈二の姿はなかった。
 小松はミーコを伴って穴に近付き、目を凝らすと、底が見えた。地表から数十メートル下の亀裂の底には、赤黒い 肉が覗いており、その下には大理石の岩盤に似た骨が見える。小松がライトを照らすと、ゾゾらしき影が動いている のが解った。小松とミーコが落ちかねないほど身を乗り出していると、甚平が独り言のように喋った。

「あ、えとね、その、この亀裂はゾゾがやったっていうか、ゾゾがワン・ダ・バにやらせたっていうかで。昨日の夜中に 心臓の蘇生手術が成功したから、体液の循環が良くなって、神経系統もある程度は復活したんだ。で、だから、ゾゾは 脳の傍の筋肉を伸縮させて地割れを起こしたっていうか、一万年近い年月の間に堆積した地面を割って表皮を 出したっていうかで。あ、それで、おかげで解ったことがある。この島には教師がいないのに学校があるのは変だと 思っていたんだけど、うん、それは僕の見当違いだったの。脳の真上に学校が建てられていたってことは、つまり、 学校そのものが教師だったんだよ。たぶん、その頃はまだワン・ダ・バも元気だったんじゃないかな。だから、皆に 色々なことを教えられていたんだと思う。その辺のことも、ちゃんと調べてみたいところだけど」

「ほう」

 小松が甚平の慧眼に感心すると、甚平は照れた。

「あ、でも、うん、僕がそう思ったってだけであって、根拠はこれから探す必要があるんだけど」

「翠さん、ドレスありがとう! とっても素敵素敵素敵!」

 小松の肩の上でミーコがはしゃぐと、翠は気落ちした面差しではあったが笑顔を見せた。

「よくお似合いですわ、ミーコさん。喜んで頂けたようで、大変嬉しゅうございますわ」

「呂号。一つ、リクエストしていいか」

 小松が呂号に向くと、呂号は弦から指を外した。

「何だ」

「この前弾いていた、レッド・ツェッペリンの天国への階段を弾いてくれないか」

「引き受けた。最高の演奏で天国まで送り届けてやる」

 呂号は快諾し、リクエスト通りの曲を滑らかに弾き始めた。今回は呂号も腹に力が入っているらしく、ちゃんと歌を 付けていた。淀みなく連ねられる英語の歌詞とギターの音色を背に受けながら、小松は皆を見渡した。だが、あまり 惜しむと決意が鈍りかねないので、六本足を力強く伸縮させて穴の真上に跳躍した。廃校の規模よりも遙かに広い 穴は縦に裂けていて、忌部島が積み重ねてきた歴史である地層が露わになっていた。火山灰と珊瑚礁の層の下には 倒れた木々の層もあり、岩だらけの層もあり、色とりどりだった。数秒間の空中遊泳の後、小松は脳の真上らしき 皮膚の上に着地した。凄まじい金属音と共に六本足が上下して衝撃が吸収されると、視界の隅でミーコのドレスが 舞い上がって白い花が咲いたように見えた。既に溜まり始めていた体液が波打ち、小松の肌を焼く。

「ゾゾ、来たぞ」

 地層と皮膚のクレバスの底を進み、小松が声を掛けると、脳を守る骨に触れていたゾゾが立ち上がった。

「良い歌ですね」

「そう思ったから、呂号に頼んだんだ」

 小松は頭上を仰ぎ、遙か彼方の地上から聞こえてくる少女の歌と演奏に耳を澄ませた。

「じゃあね、ゾゾ。今まで御世話になりました、した、した、した」

 ミーコが笑いかけると、ゾゾは左手に携えていた体液まみれの銅鏡を拭いながら返した。

「いえいえ、こちらこそ。あなた方がいらしてくれたおかげで、随分と面白可笑しく暮らすことが出来ました」

「ああ、俺もなかなか楽しませてもらった。他の連中には、よろしく言っておいてくれ。紀乃と忌部にもな」

 小松は六本足を広げて這い蹲ると、下半身が体液に没して煙が上がった。

「かしこまりました。他に、何かお伝えしたいことは?」

 ゾゾが了解すると、襦袢のドレスを脱ぎながら、ミーコが毒突いた。

「本家の御前様に伝えておいて。地獄にはあんた一人で行け、って、て、て、て」

「ええ、それはもちろん。全力で伝えておきますとも」

 ゾゾは少し笑ってから、ミーコに手を差し伸べた。健康的な裸身を曝したミーコは名残惜しげに小松の頭部に唇を 付けてから、素足で焼けた外装を蹴り付け、一息に跳んだ。綺麗な弧を描いてゾゾの立っている場所に着地すると、 ミーコの足元で赤い体液が荒く波打ち、波紋が広がる。ゾゾは岩盤のような脳蓋骨に空けた穴にミーコを導くと、 ミーコは蛋白質のような柔らかさと珪素のような手応えを兼ね備えた脳の上に立った。

「では、ミーコさん。彼の元に、参りましょう」

 ゾゾはミーコの背後に立ち、尻尾を振り上げた。ミーコが目を閉じると、頸椎に尻尾の尖端が深く突き立てられ、 薄い皮膚が裂けてワン・ダ・バの体液に似た体液が噴出し、ミーコの髪も、髪に挿したハイビスカスも赤黒く濡れた。 後ろ髪も日に焼けた肌も同じ色に染まり、ミーコの背は周囲に同化していった。体液が抜けていくと、ミーコの膝が 折れ、ばしゃりと座り込んだ。ゾゾが尻尾を引き抜くと、ミーコは両手を差し伸べるような姿勢で俯せに倒れ、途端に 頸椎の傷口から白くうねる無数の虫が噴出した。今度は体液とは違い、ぬめぬめと意志を持って這い回り、次第に 萎んでいくミーコから離れて足元の脳に埋もれていく。寄生虫の行進が終わり、何もかもが抜けて薄い皮膚の袋と 化したミーコはゆらりと体液の海を漂い、そして、溶けた。ゾゾは唯一残った花を拾うと、小松を見上げた。

「では、小松さん」

「ミーコは、苦しんではいないんだよな?」

 ゾゾを見下ろして小松が尋ねると、ゾゾは銅鏡の表面をなぞり、浮かび上がった文字らしきものを読んだ。

「ええ。今のミーコさんはワンの生体組織で出来ていますから、お互いに拒絶反応を起こすこともありませんし、痛み どころか何の苦痛もありません。ミーコさんの生体電流も感じ取っていますが、異変はどこにもありませんよ」

「そうか。だったら、いいんだ」

「御心配なさらずとも、ミーコさんは幸せですよ。小松さんが傍にいるのですから」

「……ああ」

 小松は機能を落とし、脳を収めているクーラーボックスと機体の接続を切断した。ゾゾはミーコが付けていた花を 大事に抱えながら、小松の機内に入ると、全てのケーブルを外してクーラーボックスを取り出した。あらゆる感覚を 奪われた小松は、珪素の脳の端でぴりぴりとした刺激を感じ取っていた。それはワン・ダ・バの生体電流なのだと 直感的に理解したが、ワン・ダ・バが何を言いたいのかは解らなかった。ミーコの意識らしきものはなく、ただひたすらに 巨大で強大な存在が待ち構えている。ゾゾはクーラーボックスを開けて人工体液の中に浸っている小松の脳髄を 取り出し、その代わりにミーコの花を浮かばせてからクーラーボックスを閉じた。呂号が演奏している天国への階段は クライマックスを迎えていたが、音は最早聞こえず、空気の振動として脳の表面を優しくくすぐるだけだった。
 途切れ途切れの記憶と感覚の中、小松は在る声を聞いた。声にはならない声と、朧な意志と、生への貪欲な願望が 入り混じった意識だった。孤独と飢餓と空虚と退屈を絡み合わせながら、ワン・ダ・バは明確に生きていた。小松は 海よりも濃く、体液よりも苦く、生暖かくも生臭い他人の意識に浸りながら、愛する姉を求めた。ミーコはすぐさま 小松の元に至ると、無数の触手のように蠢く細分化した意識を絡み合わせてくれた。姉を通じてワン・ダ・バと記憶と 意識を共有しながら、小松は己の分を弁えた。珪素回路は考える必要はない。ただ、ワン・ダ・バが要求してきた ことを計算して返せばいいだけのことだ。そこに自分の意志は挟めず、ただの部品でしかなくなった。けれど、己の 意識を薄らがせれば薄らがせるほどに、ミーコの意識は重なり合い、馴染んできた。それは、生前果たせなかった 行為であり、果たすべきではない行為に酷似した快感と温もりをもたらしてくれた。意識と意識を融かし合いながら、 小松は緩やかに姉と共に果てた。赤く濁った酸の海の中で、小松建造でも宮本都子でもミーコでもなくなった。
 二人は、ただの生体部品と化した。





 


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