南海インベーダーズ




異形姉弟的幸福論



 竜は、目覚めた。
 二人が生きた証しであるログハウスのウッドデッキに集められた面々は、巨大な花が作り出した泡越しに崩れゆく 忌部島と向き合っていた。以前、紀乃と忌部と甚平が上空二万メートルまで上昇した際に使用した生体兵器を衛星 軌道上から呼び戻したゾゾは、花が分泌する粘液を使用した泡の中にログハウスが建っている崖ごと、皆を入れて 安全を確保してくれた。淡い色合いでありながら、地球上に存在している植物の常識を凌駕する耐久性を誇る花弁が ログハウスと地面を柔らかく包み込み、茎から伸びたツタが宇宙怪獣戦艦とログハウスを繋ぎ合わせていた。
 ゾゾはログハウスの屋根の突端に立ち、腕を組んでいた。事の成り行きを一時も見過ごしてはならないと、単眼を 大きく見開いて尻尾も立てていた。ワン・ダ・バが目覚めていくに連れ、神経を逆立てる感覚が強くなった。何万年も 研究し続けてきたが、宇宙怪獣戦艦であるワン・ダ・バを理解し切れたわけではない。彼とは友人関係ではあるが、 同胞ではないからだ。宇宙怪獣戦艦は、ゾゾの種族とは根本から異なる異種族だ。数十億年もの昔、ゾゾの母星で ある惑星ニルァ・イ・クァヌアイに飛来して息絶えた謎の巨大宇宙生物の生体組織を採取し、構造を丹念に解析して 造り上げた人工生命体である。思考するパターンも違えば摂取する物質も違い、脳の位置も精神構造も何もかもが 異なっている。そのワン・ダ・バを酷使した末に辿り着いた惑星、地球でも、現地調達の生体兵器を酷使してばかり だった。呂号の意見は正しすぎて、胸が痛くなる。故に、今度こそ償わなければならない。
 ワン・ダ・バが上昇するに従って地盤に火山が崩れ、割れた山肌から溶岩が流れ出していく。赤い舌のような溶岩は 地表を伝って海に落下した途端に水蒸気爆発を起こし、白煙が高く上がった。既に廃墟と化した廃校にも溶岩が 及び、程なくして残骸に火が付いた。ガニガニが生まれ育った豊かな森も、皆の日々の生活を支えていた田畑も、 竜ヶ崎一族が栄えた東側の集落も、忌部一族と滝ノ沢一族が栄えた西側の集落も、地面ごと滑落して海面に没して いく。手間暇掛けて完成させた箱庭をひっくり返したかのような奇妙な爽快感と、凄絶な寂寥がゾゾを襲った。
 きっと、紀乃は悲しむだろう。だが、忌部島を本来の用途に戻そうと決めたのも、そのためにこれまで積み重ねて きた平穏な日々を犠牲にしようと決めたのも、ゾゾだ。真っ当な人間として産まれるはずだった紀乃や皆の運命を 歪めてしまった根本的な原因は、自分以外にはいない。やるべきことをするだけだ、と、割り切ろうとしても、単眼は 滲み出してくる体液に濡れてしまう。ゾゾは組んだ腕に爪を立て、呻きを堪えた。ワン・ダ・バは覚醒と同時に蘇った 反重力飛行能力を行使したらしく、地面や木々の落下の勢いが緩み、忌部島を取り囲むように漂った。ず、ず、ず、と 地震に似た震動を起こしながら、堆積物によって海底と一体と化していた腹部を引き剥がしていく。それが収まると、 ログハウス手前の海面が真っ二つに割れ、頭部を失った長い首が持ち上がる。反対側からは首の数倍の長さを 誇る尻尾が、左右からは胸ビレに似た空間操作翼が現れる。珊瑚礁と火山灰が混在した砂をたっぷりと含んだ 一対の水素融合式推進孔も海面から脱した頃には、ワン・ダ・バは海面から数百メートルは上昇していた。地球に 墜落して以降、生命活動が著しく低下していたワン・ダ・バの命を繋げていたのは、ワン・ダ・バの胴体を貫通させて エネルギーの固まりである火山と接続していたからである。頭部と同時に損傷した腹部の大穴に海底火山を刺し、 背部の噴気孔に噴火口が出るように調整し、溶岩に含まれる過剰な熱や硫黄や珪素を摂取させていたおかげで、 ワン・ダ・バは今日この日まで命を長らえたのだ。
 多次元宇宙空間跳躍能力宇宙怪獣戦艦ワン・ダ・バ。その全景は、中生代の地球で繁栄していた首長竜に似た シルエットを持っていた。首も含めた全長は五万メートルに近いが、頭部と頸部の三分の一は地球に墜落した際に 大気圏摩擦で欠損したため、現在はその長さに少々足りていない。左右の胸ビレの後方には水素融合式推進孔が 備わり、宇宙空間、或いは大気中から摂取した水素を融合させて莫大なエネルギーを生産し、通常空間での航行や 戦闘時に利用することが可能である。そして、ゾゾを含めた全員と物資が収まるログハウスは、ワン・ダ・バの首の 付け根辺りに、花の生体兵器によってしっかりと結び付けられていた。
 ワン・ダ・バが太平洋南海から離脱し、飛行を始めてから一時間が経過した。だが、その質量の巨大さ故に速度を 出せないため、移動速度は紀乃のサイコキネシスに比べて遙かに遅かった。小笠原諸島に近付いた頃には朝日が 東側から昇り始めていて、翠は巨大化してしまわないかと危惧したが、花の泡が紫外線を全て遮ってくれるので 大丈夫だと甚平が落ち着かせてくれた。呂号はエレキギターを膝に乗せていたが、弦を押さえていなかった。その 代わりのように、指先が動いてテーブルを叩いていた。甚平は呂号の隣に椅子を運び、腰掛ける。

「あの、それ、何?」

「聞こえるんだ。音が」

 呂号は素っ気なく返してから、再びテーブルを小突き始めた。とん、とん、とん、とん。とん、と、と、とん。と、とん、とん、 と。強弱を付けて鳴らされる音は、何かの信号のようだった。ウッドデッキの端で座り込んでいた山吹は、呂号の指が 奏でる音を聞き取っていたが、マスクフェイスを上げた。

「コマツ、ミーコ、ゲンキ。モールス信号っすね、それ」

「なんだ。解るのか」

 呂号がちょっと感心すると、山吹は腰を上げ、呂号の傍に歩み寄った。

「そりゃまあ、これでも現場監督官っすから。大抵の通信用語は頭の中に入っているっすよ。んで、ロッキー、どうせ 本土に着くまでは暇っすから、その信号に返してくれないっすか? 二人も音ぐらいは聞こえると思うっすから」

「仕方ないな」

 呂号がエレキギターを構えると、山吹は銀色の指でテーブルを小突いてモールス信号を打った。山吹より小松へ、 末永くお幸せに。呂号は一度聞かされただけで正確に信号を覚え、音階を付けずにエレキギターを鳴らした。単調な 音色ではあったが、山吹からの言葉が籠もった音は花の泡を震わせた後にワン・ダ・バの体表面に染み渡った。 それがワン・ダ・バと一体となった二人に伝わったかどうかは定かではないが、山吹は心のつかえが取れたらしく、 呂号に礼を言い、笑ってくれた。甚平は少々臆しながらも山吹に近付くと、話し掛けた。

「えと、その、山吹さん。本土に着いたら、どうするんですか?」

「俺はむーちゃんと合流するっす。小松建造とのことは決着が付いたとは言い難いっすけど、でも、これで区切りは 付いたっすから。小松もそう思ったから、ミーコと一緒にワン・ダ・バの中に行ったんすよ、きっと」

 山吹は甚平と向き合い、マスクフェイスを陰らせた。

「あれから、俺も色々と考えてみたんすよ。俺が変異体管理局に入ったのはむーちゃんを守るためであって、本当は あんた達を殺すことでも倒すことでもないんすよね。御大層なサイボーグボディをもらって、人型軍用機に乗ったり したから、俺はどこかで勘違いしていたみたいなんす。俺の腕が届く範囲なんて狭いもんすから、むーちゃんを守る だけで精一杯なんすよ。それなのに、ヒーローを気取ろうとして、だけど、あんた達を憎みきれなくて。どっちつかずに なっちまっていたっすけど、これからはもう大丈夫っす。俺は俺で、局長と戦うっす。たとえ、むーちゃんに裏切られて いたとしても構わないっす。俺はむーちゃんのために生きるって決めたんすから」

「せいぜい頑張れ。僕はお前と田村の行く末には興味なんかない」

 モールス信号を弾き終えた呂号が吐き捨てると、山吹は可笑しげに笑った。

「そりゃどうも。ロッキーらしいっすねぇ」

「紀乃さんもですけれど、御兄様は御元気かしら」

 紫外線が遮断されていると解っていても日光に恐怖心があるため、翠は屋内から外を見上げた。窓際の椅子に 腰掛けて膝を揃えて座っている翠は、縦長の瞳孔を持つ金色の瞳で怖々と空を覗いた。虎鉄と芙蓉による襲撃を 受け、地上に引き摺り出されて巨大化させられた際に目にした空の色も鮮やかで美しかったが、その時に比べると 今の空の色は僅かに淡くなっていた。太陽の位置もほんの少しずれているが、降り注ぐ光の鮮烈さは変わらない。 翠は反射的に体を影に引っ込めたが、日光は冷たく硬い肌に人並みに温度を与えてくれた。恐怖と好奇心の狭間に 揺れ動きながら、翠はおずおずと窓から差し込む光の中に手を差し入れると、眩しい温もりに頬が緩んだ。
 刻一刻と、忌部島、もとい、ワン・ダ・バは本土に迫る。竜ヶ崎全司郎と名を変えた生体分裂体、ゼン・ゼゼの手中に 落ちたワン・ダ・バの首と、紀乃と忌部、そして虎鉄と芙蓉を救い出すために。ぎゅいいい、きゅいいい、ぎゅい、 ぎゅい、ぎゅい。地球で言うところのクジラの鳴き声に近い音声を発しながら、ワン・ダ・バは己の首を求めている。 ゾゾはワン・ダ・バの生体電流に混じる思念を受け取りながら、狂おしく高ぶる情念と戦った。
 犠牲を出したからには、必ず、竜ヶ崎を滅ぼさなければ。




 所要時間、十時間程度。
 ワン・ダ・バが東京湾に進出した頃には、再び日が陰り始めていた。鮮烈だった日差しは低い位置から差し込み、 鮮やかに海面と地表を切り裂いている。宇宙怪獣戦艦の影が東京湾に落ち、薄暗い波間が更に暗くなる。都市部は 既に避難勧告が出ているのか、街明かりもなく、死んだように静まり返っている。唯一明かりが付いているのは、 因縁深き場所、変異体管理局海上基地だけだった。ゾゾは思念を込めた生体電流で指示を出すと、ワン・ダ・バは 緩やかに降下を開始した。最初に着水したのは尻尾で、その次に一対の水素融合式推進孔、胸ビレ、最後に頭部 のない長い首だった。木更津側に通じる連絡通路を断ち切ると人間達の退路を塞ぎかねないので、川崎側の上に 長い首をしなやかに落とし、巨体を腹這いにさせた。ゾゾは花の泡とログハウスをそのままにして、海上基地全体に 目を配らせた。滑走路は煌びやかな照明に照らし出されているが、発進シークエンスに入った戦闘機はなく、戦闘 車両らしき駆動音も聞こえてこない。海上基地全体に生き物の気配はなく、ワン・ダ・バもざわめかなかった。これは 罠か、或いは竜ヶ崎が早々に逃げ出したのか、と、ゾゾが考えを巡らせていると、ぎゅいいい、とワン・ダ・バが一声 鳴いた。すぐさまゾゾは花の泡から飛び出して翼を広げ、身構えると、海上基地の中で最も高い建物の上に人影が 見えた。西日によって長い影を帯びている影は三つあり、そのうちの二人はヘルメットを被っていた。

「遅かったじゃないか」

 絶え間なく海風が襲い掛かる屋上で難なく直立しながら、虎鉄はゾゾに声を掛けた。忌部島を襲撃した時と同じく フルフェイスのヘルメットで顔を隠し、鋼鉄の素肌をライダースジャケットで覆っていたが、声がくぐもっていた。

「忌部島が目覚めて動き出したおかげで、変異体管理局も政府もしっちゃかめっちゃかになっちゃって、上へ下への 大騒ぎだったのよね。だから、私達は楽に逃げ出せたのよね。御礼を言わせてもらうのよね」

 虎鉄の背後に立つ芙蓉は、安堵と怯えが混在した顔の娘を抱き締めていた。人形のような格好をさせられている 紀乃は、ゾゾとワン・ダ・バの巨体を視界に収めたが、唇を薄く開いただけで言葉は発しなかった。

「ですが、電磁手錠は……」

 ゾゾは翼を傾けて滑空し、三人の待つ屋上に下りると、虎鉄は右手首に填ったままの電磁手錠を掲げた。

「ああ、こいつか。俺が長話をしている間にバッテリーが切れたらしくて、能力が使えるようになったんだ。もっとも、 そうなると解っていたら、前歯が全滅するほど噛み付かなかったんだがな。おかげで、自分の血の味を嫌と言うほど 味わう羽目になっちまったよ」

「次郎君も元気よ。ほら」

 芙蓉が滑走路に面した格納庫を示すと、人型に似た形態に変形した竜の首が這い出してきた。

「やっと本体が来やがったか。随分と待たせてくれたな」

「忌部さん、御無事で!」

 ゾゾが呼び掛けると、忌部を宿した竜の首は筋を絡み合わせた腕を振ってみせた。

「なんとかな。ワンの本体が動き始めたら、竜ヶ崎のクソ野郎がまたワンの首に合体しようとしてきたんだが、本体が 拒絶してくれたおかげで制御系統を俺が掌握出来たんだ。それもこれも、ゾゾとワンが首都圏を恐怖のどん底に 陥れてくれたからだ。だが、後で一度分離させてくれよな。翠に会いたいし、兄貴とも色々と話がしたい」

「イッチーとはーちゃんはどうした。それと局長も」

 泡を擦り抜けて外に出てきた呂号が叫ぶと、虎鉄が答えた。

「あいつらはとっとと逃げちまったよ! 紀乃を放り出してな!」

「そうか」

 呂号は軽く落胆したが、エレキギターを担ぎ、ワン・ダ・バの上を歩き出した。

「それはそれとして僕の部屋は無事だろうな。さっさと着替えたいんだ。スカートは好きになれない」

「あ、いや、僕は結構似合うと思うけど。ああ、でも、待って待って。危ないから、先導するから」

 甚平は慌てて呂号の後を追い、海上基地の広場を押し潰す形で接岸している胴体を歩き出した。忌部島だった頃の 名残である土塊や溶岩の固まりがごろごろしているにも関わらず、大股に進んでいく呂号に追い付いた甚平は、 呂号の腕に手を掛けた。呂号は一瞬立ち止まったが、甚平の歩調に合わせて歩き続けた。傾斜がきつい場所 では、甚平は呂号を抱えて下りてやり、無事に海上基地の広場まで辿り着いた。そこにも、虎鉄と芙蓉が戦った痕跡 である溶けた拳銃や固まったコンクリート片が散らばっていて足場が悪かったので、結局、甚平は呂号を建物の中 まで連れて行ってやることにした。能力の衰えを自覚しているので、呂号も甚平の好意は無下にしなかった。

「山吹!」

 竜の首は元上司の名を呼びながら上昇すると、腕を差し伸べた。

「な、なんすか?」

 中身が忌部だと解っていても若干臆した山吹が後退ると、竜の首は地下駐車場の方向を示した。

「お前の車とキーは無事だ。だから、さっさと田村を追い掛けてやれ。ほら、乗れ」

「そんなこと、忌部さんに言われるまでもないっすよ!」

 山吹は竜の首の手中に登ると、竜の首は皮を張り詰めただけの翼を窄めて降下し、男子寄宿舎の屋上に山吹を 置いた。山吹は竜の首に手短に礼を言ってから、屋上のドアを蹴破り、慌ただしく駆けていった。竜の首は彼に 軽く手を振っていたが、泡の中に入っているログハウスから外を窺っている妹に向いた。

「翠、心配掛けたな」

「御兄様こそ、御無事で何よりですわ」

 翠は異形と化した兄に微笑み、近寄ろうとしたが、泡の膜に触れたので後退った。

「申し訳ございません、御兄様。すぐにでもそちらに参りたいのですが、ここを出てしまうと、私の体が」

「ここまで来たんだ、急ぐことなんてない」

 竜の首はログハウスが包まれている花の泡の傍に着地すると、頭代わりの単眼で妹を覗き込んだ。

「元の体に戻ったら、基地と言わず色んな場所を案内してやるよ」

「御兄様の御側でしたら、どんな場所でも素敵ですわ」

 翠が膜の内側に手を添えると、竜の首は赤黒い筋を絡み合わせた指の尖端を翠の手に重ねた。張り詰めた粘液 越しであり、忌部は竜の首の奥底に肉体も精神も収めていたが、ようやく触れ合えた喜びが二人を満たしてくれた。 日没さえすぎてしまえば、また翠の時間が始まる。今すぐにでも妹を抱き締めたい衝動を押さえながら、竜の首は、 忌部は、ワン・ダ・バの本体とごく自然に意識を共有した。その中に入り混じる別物の意識と知性と記憶によって、 忌部島で何があったのかも理解した。ワン・ダ・バと同化している小松とミーコの意識はこの上なく穏やかで、忌部は 二人が死んだのではないと悟った。ほんの少し、常人とは生き方を違えただけであり、これが二人の選んだ幸福の 姿でもあるのだ。それを少し羨ましく思いながら、忌部は宇宙怪獣の首越しに妹の存在を感じ取った。
 フリルとレースがふんだんに使われたピンクのワンピースを着せられている紀乃は、母親である芙蓉に縋っている こともあり、幼子のように見えた。怯えるあまりに強張らせた頬は動かず、グロスが端にこびり付いている唇は悲鳴を 押さえるように引き締められ、母親の腕を掴む手には必要以上の力が入っていた。何があったのかは、想像するだけ でも嫌になる。ゾゾは紀乃に手を差し伸べかけたが、紀乃は顔を背けた。

「お久し振りですね、紀乃さん」

 腰を曲げて視線を合わせたゾゾは手を差し伸べるが、紀乃は母親のバイオスーツを握り締めた。

「助けに来てくれて、ありがとう。でも、私なんかに触らないで」

「……弁えました」

 ゾゾは紀乃の肩に近付けていた手を下げ、身を引いた。

「一度に色んなことがありすぎたもんな。無理もない」

 虎鉄は柔らかな手付きで娘の髪を撫で付け、ヘルメットの下で笑みを見せた。

「さあ、紀乃。まずは御夕飯にしましょうか、何が良い?」

 芙蓉はゾゾに一礼してから、紀乃を促した。紀乃はゾゾを視界に入れまいとしながら、芙蓉に付き添われて屋上 から下りていった。虎鉄もゾゾにこれまでの礼を言ってから、妻と娘に続いた。ゾゾは親子三人に深々と頭を下げて いたが、三人の背が見えなくなってからようやく顔を上げた。アンテナが乱立している屋上はだだっ広く、東京湾が 一望出来た。忌部島から見ていた海とは全く違う色合いの海に身を浸しているワン・ダ・バから、竜ヶ崎全司郎への 戦意に似た執念の思念が零れていた。竜ヶ崎に生体情報さえ分け与えていなければ、ワン・ダ・バも宇宙空間での 自由を奪われずに済んだからだ。ゾゾは尻尾をだらりと垂らしてコンクリートに擦り付けながら、思念でワン・ダ・バに 平謝りした。ワン・ダ・バはゾゾの失態を許してくれそうになかったが、一応納得してくれた。だが、紀乃はどうだ。 あれほど好意を寄せていた相手なのに、道具として利用してしまった。紀乃を好きだと思うなら、愛情を感じるなら、 なぜ全力で守り通してやれなかったのか。それ以外の手段がなかったとはいえ、竜ヶ崎全司郎に差し出してしまう べきではなかった。頭痛がするほどの後悔に苛まれながら、ゾゾは四本指の手で単眼を押さえた。
 いつになく、西日が目に染みた。





 


10 11/30