南海インベーダーズ




珪素生物回路的自立行動



 波号の目が動くたび、音もなく、街が消えていく。
 超高層ビルの中程が円形に消失し、上半分が落下して崩壊する。曲がりくねった高速道路が土台ごと抉れ、地面と 配管を曝け出す。住人のいないマンションには特に大きな穴が空き、弱い風だけが残る。けたたましいエンジン音を 立てて駆け抜けた戦闘車両の一団が波号の不可視領域に至るのを確認してから、電影は頭の上に抱えていた ガニガニの巨体を下ろした。狭いビル影に押し込まれたガニガニは背中から放り出されたので、八本足をじたばたと ばたつかせていたが、どうにか鋏脚を使って態勢を元に戻した。彼なりにむっとしているのか、長いヒゲの動きが 少しばかり荒っぽい。電影はビルの影から見える道路の反射鏡を使い、波号の視線が消失させた物体と波号本体 との距離を測り、計算し始めた。波号は自身が落下した衝撃で作ったクレーターから這い出したが、スカイツリーの 足元からは移動していないらしい。その証拠に、スカイツリーを中心とした放射状にビルや建築物が消失している。 並列空間との接点は波号には違いないが、並列空間を引き寄せるほどのエネルギー源があったとは思いがたい。 変身後の波号の身体能力が向上するのは、波号が肉体の体積を水増しするために物質を取り込み、エネルギー 変換しているからだ。だが、今の波号はスカイツリーの上半分と周囲のビルを取り込んだ程度でしかなく、並列空間 と通常空間との接点をこじ開けられるほどのエネルギーは生み出せないはずだ。ワン・ダ・バから拝借したであろう 空間転移能力が暴走するにしても、普通であれば、半径五十キロ圏内の通常空間が捻れる程度で済むのだが。

「解せない」

 電影が思考を巡らせていると、ガニガニが呟いた。

『ねえ、電影』

「無用な会話は思考の妨げとなる」

『ああ、うん、そりゃそうだけどね……』

 ガニガニはしょんぼりし、こちこちと顎を小さく鳴らした。電影は不確定要素の特定をするべく、迅速な情報処理と 量子計算を行いながら、同時に波号の様子も窺っていた。円形の反射鏡に映る波号は至る所に目を向け、次から 次へと建造物を消失させているが、消失した建造物には法則があることに気付いた。オフィス街に乱立するミラー ガラスの超高層ビルや大型ショッピングモールは真っ先に目に付くはずなのに、ほとんど消えておらず、逆にそれほど 高さのないファミリー向けのマンションや一戸建てなどがごっそりと消失している。波号の無意識下の行動なのかも しれないが、なぜ、そんなものばかりを並列空間に転移させるのだ。
 あ、とガニガニが反応した直後、街中のスピーカーからノイズが発生した。数秒、チューニング音のような甲高い 電子音が起こり、音源と思しき電磁波が機械を誤作動させたらしく、意味もなく非常ベルが鳴り響き始めた。至る ところから聞こえてくる鐘の打撃音がやかましく、電影は珪素回路に走る電流が若干鈍った。

「くるしい」

 ざ、ざ、ざ、とノイズの合間に、波号の声が混じった。

『はーちゃん! 良かった、まだ意識はあるんだね!』

 ガニガニは二本のヒゲを立てたが、電影はガニガニをぐいっと押さえた。

「その事実は事態の解決には繋がらない」

『え、で、でもぉ』

「先程からガニーはそればかりだ。曖昧な行動を取りたくなければ、状況を的確に判断し、明確な結論を下してから 行動すればいいだけのことだ。それを理解しろ」

『う、うん』

 ガニガニは素直に引き下がり、ヒゲを下げた。電影は波号の呻きが混じるノイズと電磁波を感じ取り、生体電流が 根源である電磁波から生体情報を割り出した。波号のものに始まり、ワン・ダ・バ、ゾゾ・ゼゼと予想通りの結果が 出たが、馴染み深い生体情報も混じっていた。それは斎子紀乃の生体情報であり、ワン・ダ・バの能力を行使する ためには不可欠な部分に上書きされており、これでは生体情報のコピーは出来ても生体情報処理能力を持たない 波号が誤作動を起こすわけだ。考えるに、ゾゾ・ゼゼがワン・ダ・バの能力を竜ヶ崎全司郎に渡してしまわないために 施した措置だろうが、ゾゾ・ゼゼもこんな結果が出るとは思ってもみなかったはずだ。ワン・ダ・バの欠損した生体 情報を補える生体情報の持ち主、通称、龍ノ御子でも利用しなければ、こんなことには。

「だとしても、結果が解せない」

 龍ノ御子は、生まれ持った生体情報がワン・ダ・バに近しいからこそ龍ノ御子の資格を得る。だから、ワン・ダ・バ に生体情報を混入させたところで、バグに似た症状を作り出せるとは思いがたい。むしろ、龍ノ御子はワン・ダ・バの 生体情報と馴染み、コピーした波号の能力を安定させるはずであり、異物として認識するのは不可解だ。電影は 疑問を払拭するべく、東京湾方面をズームしてワン・ダ・バを目視し、微弱に放出されている生体電流を感知した。 電影に代わる珪素回路の存在とワン・ダ・バが欠損した情報伝達物質に代わる生体組織の存在は感じ取れたが、 ワン・ダ・バと他の生体情報を融和させるためには不可欠な、免疫抑制機能を持つ中和物質を発生する珪素生物、 チナ・ジュンの存在が感じ取れなかった。生体電流からして、竜ヶ崎ハツの代用である新たな龍ノ御子は斎子紀乃 だと理解すると、ゾゾの考えが多少は理解出来た。
 ゾゾはワン・ダ・バに斎子紀乃を混入させて生体情報を乱し、波号のコピー能力を故意に暴走させ、竜ヶ崎全司郎 を陥れようとしているのだ。だとすれば、納得が行く。波号はいずれ、竜ヶ崎に助けを求めるはずだ。苦痛に負けて 竜ヶ崎の元へ向かえば、間違いなく視界に収まり、竜ヶ崎は並列空間に飛ばされる。そうでなくとも、竜ヶ崎がいるで あろう竜ヶ崎邸に目を向ければ、竜ヶ崎もろとも変異体管理局の戦力を大幅に削ることが出来る。敵の生体兵器を 利用してくるとは、悪辣ではあるが効率的だ。

「くるしい、くるしい、くるしいよぉおおおお……」

 街中のスピーカーを使って途切れ途切れの嗚咽を発しながら、波号はぐるりと頭を動かす。すると、波号の周囲に 存在していたビルや店舗が切り取られるように消失し、空虚な地面だけが残る。

「たすけて、パパ、いいこにしたよ、がんばってるんだよぉおおおお……」

 鉄骨とコンクリートで固めた腹を引き摺りながら、波号はレンズを融合させた複眼で空を見る。雲に穴が空く。

「わたしががんばれば、パパはよろこんでくれるんだよねぇえええええ……」

 一歩、一歩、這い進むたびに、背中から生えた鉄骨の翼が剥がれていく。

「だから、おねがい、いいこだよ、えらいねっていってぇええええ……。でないと、でないと、でないとぉ……」

 ごぎ、とコンクリートと窓を寄せ集めた顎がアスファルトの端に引っ掛かり、外れる。

「ぜんぶ、きえちゃうよ」

 波号の言葉が鮮明になり、スピーカーからもノイズが消えた。暴風に似た空間湾曲現象が発生し、波号を中心に ビル群が大きく抉られた。湾曲した空間が元に戻る際に発生する衝撃破を浴びたが、電影は足を踏ん張って堪え、 ガニガニも両のハサミをアスファルトに突き立てて凌いだ。割れた窓ガラスや紙を巻き上げた風がビルの合間から 噴き上がって回転し、上空でざらついた渦を巻く。それが収まると、コンクリートも鉄骨もアスファルトも土塊も全てを 吸収した波号が立ち上がり、鉄骨を巻いて作った尻尾の尖端で地面を叩くと、ひび割れが走った。

「まずい!」

 電影は立ち上がりかけたが、さながら石の竜人と化した波号が右腕を振ると、衝撃破で空間が割れた。

「誰も、誰も、誰も、誰も誰も誰も誰も誰も!」

 断裂した空間の先で、レンズの目を見開きながら波号は猛る。

「私という人間をっ!」

 波号が左腕を振ると、更に空間が断裂し、波号の周囲の空間が完全に独立する。

「見ようとしないどころか、私という個人が存在しないと思っている!」

 コンクリートを固めて作った腕で顔を覆い、波号はめきめきと鉄骨の翼を歪める。

「それなのに私は私を上書きし、私は私を処理出来ず、私は私を知らず、私は私となれない!」

 体格が成長したからか、大人びた声色で波号は叫び続ける。

「それどころか、私自身も私を認識出来ない! ああ、ああ、ああ、ああああああああ!」

 レンズの複眼から廃液らしき濁った液体を垂らし、波号は吼える。

『はーちゃん……』

 ガニガニはビルの影から出て、波号に複眼を向けた。波号は己の顔を覆い続けていたが、自分自身の両腕すらも 消失させ、恐怖と絶望で更なる絶叫を放った。電影も、束の間、情報処理を忘れた。独立した空間の中で巨体を 縮める波号は、孤独に怯えるあまりに攻撃衝動すら持っているようだった。空間を断ち切った際に独立空間の中に 取り込んだスカイツリーの根元や、近隣の雑居ビルを破壊しては消失させ、叫び散らしている。

『電影。どうやれば、あの中に入れる?』

 ガニガニは一歩踏み出し、昆虫の羽と魚のヒレを混ぜたようなハネを広げた。

「無理だ。空間を断裂、或いは湾曲させた上で近付かなければ、空間同士の反発力で破壊される」

 電影が簡潔に述べるが、ガニガニはハネを震わせた。

『要するに、はーちゃんは寂しいんだ。その気持ち、よく解る。だから、行ってあげなきゃ』

「ガニー。お前の行動はつくづくいい加減だ。斎子紀乃に謝るのではなかったのか。ゾゾ・ゼゼの側に付くのでは なかったのか。竜ヶ崎全司郎を裏切るのではなかったのか。それなのに、波号を助けようというのか」

『うん。だって、皆、大事な友達だもん。僕に出来ることがあるのなら、やらなきゃ!』

 待て、と電影は制止するが、ガニガニは飛び立っていった。電影は毒突いて、ガニガニの後を追う。スラスターを 全開にして近隣のビルの側面や屋上を蹴り、鈍い羽音を立てながら独立空間に向かうガニガニに追い付いた。

「思い直すんだ、ガニー! 放っておいても波号は一時間以内に自滅する! 波号の持つ生体エネルギーでは独立 空間を維持出来なくなるからだ! 都心部の八割は消滅するかもしれないが、退避すれば巻き込まれずに済む!  だからガニー、電影の言うことを聞いてくれ!」

 珪素回路が乱れ、過電流が弾ける。電影はガニガニの青黒い外骨格を掴むが、ガニガニは止まらない。

『嫌だ! 僕だって役に立ちたいんだ、皆のために戦いたいんだ、そのために強くなったんだ!』

「お前はもう、充分役に立っている!」

 電影はガニガニの前に立ちはだかり、スラスターを最大出力まで上げて押し戻す。ガニガニも負けじと羽ばたきを 増して電影を振り切ろうとするが、互いの力で相殺し合うだけだった。ガニガニの外骨格から流れ込んでくる電流は いきり立っていて、波号に対する同情が溢れている。その気持ちは解る、痛いほどに解る、けれど。
 ばちり、と一際強い電流が電影の胸元で爆ぜ、高度な演算を繰り返していた珪素回路が痺れた。演算能力と共に 向上した理性が弱まり、語彙が鈍る。ガニガニの外骨格をマニュピレーターで握り締めながら、電影は喚いた。

「電影はいくらでも換えが利くんさー、でもガニーはそうじゃないんさー!」

『電影!?』

 電影の語彙が元に戻ったことに驚いたガニガニが羽ばたきを弱めると、同時に投げ飛ばされた。

「ガニーはいっつもいっつもいっつもそうなんさー、自分ばっかり我慢すれば全部丸く収まるなんて思ってるんさー! でもそうじゃないんさー、そんなわけがないんさー、ガニーが我慢すればするだけ、他の誰かが良い思いをする だけなんさー! そんなん、ガニーがでーじちむいんさー!」

 ビルの屋上をぶち抜いて仰向けに転げたガニガニの上で、電影は頭を抱える。

『だけど、電影。僕は君がいなくなるのだって嫌だ、だから僕がはーちゃんのところに行って、今度こそちゃんとした 友達になるんだ! そうすれば、はーちゃんだって!』

 ガニガニが身を起こして反論すると、電影はガニガニに飛び付いてきた。

「電影はガニーの同士なんさー、だからガニーを助けたいんさー! ガニーの方こそ、皆と仲直りしなきゃならないん さー! ガニーがインベーダーの皆を好きなこと、よぉーく解っているんさー!」

『だけど!』

 ガニガニは電影を押し返そうとするが、電影はガニガニの分厚い外骨格にきつく腕を回していた。

「電影とは違って、ガニーは自由な生き物なんさー。だから、でーじ羨ましいんさー。でーじ好きなんさー。でーじ大事 なんさー。生まれて初めての同士なんさー。……大好きなんさー」

『僕も、君が大好き』

 ガニガニは電影を抱き寄せ、かちこちと顎を弱く鳴らした。

「だから、解ってほしいんさー。電影がはーちゃんをなんとかするんさー。電影がはーちゃんの生体組織に取り込ま れれば、はーちゃんの不完全な能力だって補えるし、元通りに戻せるはずなんさー。ゼン・ゼゼの生体認証を削除 しなきゃ処理能力が足りないけど、四の五の言っている場合じゃないんさー」

 電影はガニガニから離れ、ぽんぽんと頭を叩いてきた。ガニガニは触角を下げたが、頷いた。

『頑張ってね、電影!』

「言われなくてもチバるんさー!」

 電影は半壊したビルの屋上を踏み切り、跳躍した。ガニガニは電影の後ろ姿を見送り、ばちんばちんばちん、と 盛大に鋏脚を打ち鳴らして鼓舞してくれた。電影も手を振り返してから、通常空間と独立空間の境界の前で制止し、 過電流を放出して演算能力を取り戻してから波号を視認した。独立空間の中で暴れ続けている波号は、人工物で 形成した仮の肉体が崩壊を始めていて、コンクリートと鉄骨の破片が散らばっていた。電影は波号が目線で大穴を 開けたビルから鉄骨を引き抜き、スタンガンを作動させた左腕に突き刺した。過電流如きでは断裂した空間に穴は 開けられないが、波号なら出来る。電影はガニガニに指示を出して波号の視線の射線から退避させると、最大限に 出力を上げた過電流を流した鉄骨を空間の断裂部分に突き刺した。鉄骨の尖端が異空間に触れた瞬間に反物質 と化したのか、空間越しでも機体が揺さぶられるほどの衝撃破が発生する。それが晴れると、異変に気付いた波号が 崩れかけた顔を上げて電影に向こうとした。素早く電影が身を下げると、波号の視線が断裂した空間を貫通し、 空間自体に大穴が開いた。電影は左腕から鉄骨を引き抜いて穴の中に放り込むと、波号が視線をそちらに向けた 一瞬、空間の穴から独立空間に飛び込んだ。瓦礫の海に転げ落ちた電影は、波号の背に飛び掛かる。

「おまえ、やだ。すきじゃない」

 ぎりごりぐりがり、とコンクリートと鉄骨を重ねた首を捻り、波号は電影を視界に捉えようとしてくる。電影は右腕から 飛び出しナイフを出して波号の首筋に突き刺し、捻り、不安定な融合を崩した。長い首が根本から落ちた波号は 鈍い呻きを漏らしていたが、手足、翼、尻尾と一気に崩れ始めた。電影は瓦礫を掻き分け、掻き分け、コンクリートと 鉄骨の竜の中心部に埋もれていた波号の本体を見つけ出した。ケーブルや電線に絡め取られている小さな体を 両手で抱えた電影は、瓦礫を蹴り飛ばして遠のけた。その勢いで薄い肌に埋まっていたケーブルが千切れ、波号 の肌からは血が迸り、最も多くケーブルが埋まっていた首筋の皮に至っては、ほとんど剥がれてしまった。電影は 両手を広げて全裸も同然の波号を見下ろすと、波号は震える瞼を開こうとする。

「もう、いいんだ」

 電影は比較的損傷の少ない右手で胸部装甲を掴み、強引に開き、中枢部に手を突っ込んだ。激痛に似た過電流に 襲われながら、勾玉を収めている中枢部を己の手で握り潰し、小さな赤い勾玉を引き摺り出した。勾玉が中枢部から 離れた瞬間に機体の制御を遠隔操作に切り替え、電影は指先に挟んだ勾玉を波号の額の上に置いた。

「前管理者の生体認証を削除。新規管理者の生体認証完了。使用者登録完了。情報処理能力、生体接続と同時に解放。 生体機能、及び能力の安定化処理、生体融合と同時に開始。君が、電影の新規管理者だ」

 外装が剥がれかけているマニュピレーターの尖端から自分の本体が離れると、青白い電流が小さく弾けた。電影が 自分が平常ではないと認識したのは、人型軍用機のメインカメラを通じて自分自身を目視してからだった。任務を 思い出したはずなのに、本来の自分を取り戻したはずなのに、なぜこんな行動を取ってしまったのか。ガニガニを 守りたいがために、ガニガニが守ろうとする波号を救いたいがために、自分が犠牲になる理由なんてどこにもない はずなのに、体が止められなかった。それが無性に誇らしくもあったが、珪素生物回路としての行動からは逸脱 した行為だ。そもそも、珪素生物回路には、個体差はあれど個性は必要ない。強いて言えば、人格も知性も無用の 長物だ。ガニガニと共に過ごしてきた日々の中で、電影の内には確固たる人格が出来上がっていたらしい。それに 気付くのがもう少し早ければ、と後悔したが、もう遅い。けれど、悪い気分ではない。

「電影もガニーも、君の同士になる。だから、寂しいことなんてないんだ」

 波号の物質吸収能力が作用され始め、赤い勾玉が分子レベルで分解されていく。

「寂しいことなんて、ない」

 二度目は自分に言い聞かせ、電影は波号の肌に溶けていく己を見つめた。斎子紀乃から感じ取っていた感情の 機微がガニガニとの交流で増幅された末に出来上がった電影という名の人格は、我ながら呆れるほどに幼かった。 知識も経験もなく、それ故に無防備で無遠慮で無謀だった。けれど、だからこそ、出会った当初は敵対関係だった ガニガニに何の偏見も持たずに付き合えた。ガニガニがいなければ、電影は電影にはなれなかった。今更ながら、 ガニガニと別れなければならない寂しさが生じる。次にガニガニと出会う時は、珪素生物回路などではない全く別の 生命体として生まれて、なんてことのない友達になりたい。電影は骨組みだけの右手でマスクフェイスに触れると、 破損したゴーグルの端から機械油が一筋垂れていた。それが、訳もなく嬉しかった。

「こんにちは、波号。……さようなら、ガニー」

 波号の薄い瞼が開き切ると、波号は本能的に欠損した生体組織を補おうと勾玉を吸収した。途端に電影は制御を 失って転倒するが、波号は反射的に放出したサイコキネシスで浮遊した。波号の意識が晴れていくと、独立空間は 通常空間に戻り、断裂していた空間も元に戻り、波号が並列空間に転送した物質も戻ってきた。ほとんどの建造物は 本来の姿を取り戻したが、波号自身が吸収したスカイツリーだけは上半分が抉れたままだった。
 瓦礫の中に呆然として浮かんでいる波号に、手近なブティックから女物の服を数枚取ってきたガニガニは、ハネを 動かして恐る恐る近付いていった。波号は虚ろな眼球を動かしてガニガニを捉えたが、ガニガニが消失することも なく、波号がガニガニに変身することもなかった。波号はガニガニが差し出した衣服を受け取ったが、どれも大人の サイズなので、薄いブラウスの上にストールを重ね、傷だらけの肌を隠した。

「私……」

 波号は電影の勾玉を吸収した額を押さえていたが、ぼろぼろと涙を落とし始めた。

『大丈夫だよ、はーちゃん。僕と一緒にゾゾ達のところに行こう、ゾゾがきっとなんとかしてくれる』

 ガニガニは鋏脚を差し出すが、波号はふるふると首を横に振り、後退る。

「ダメだよ、私はパパを裏切れない」

『そんなことないって、ほら』

 ガニガニは今一度鋏脚を差し出すが、波号は袖で涙を拭い、泥まみれの手で前を掻き合わせるとサイコキネシスを 使って飛び去ってしまった。ガニガニはハネを広げて追い縋ろうとしたが、波号の飛行速度が早すぎてガニガニの ハネでは追いつけそうにない。その場に立ち尽くしていると、どこからともなく戦闘機の爆音が聞こえてきた。援軍 かな、とガニガニが楽観していると、航空自衛隊から派遣されたであろう戦闘機は急降下してきた。そして、迷わず ガニガニ目掛けて機銃掃射を始めたので、ガニガニは慌ててハネを広げて駆け出した。

『えぇー!? なんで僕までそうなるのぉー!?』

 裏切る気ではいたが、厳密にはまだ裏切りきっていないのに。大事な友達を失った喪失感すら味わえないまま、 ガニガニは時折送電線で電圧を補給しながら、都心部から脱して海上基地を目指した。波号が散々都心部を破壊 したからか、戦闘機は躊躇なく攻撃を行い、ガニガニは辛うじて銃撃を逃れながら死に物狂いで走った。数十分に 渡る追いかけっこの末、ガニガニは川崎側の連絡通路から海底トンネルに滑り込むと、ようやく攻撃が止んだ。
 外骨格に付いた煤や瓦礫の破片を取り払いながら、ガニガニはほっとした。オレンジ色のライトが連なるトンネルを のんびり歩いていると、今更ながら寂しさが込み上がってきた。だが、複眼からは涙も流せない。走っている最中に スピーカーを落としたのか、声も出せない。気が抜けたからか、電圧も低下し、ヤシガニの姿に戻った。ガニガニは 電影との思い出を一つ一つ思い返しつつ、余力を振り絞って足を進めた。忌部島での慎ましくも幸せな日々や、 変異体管理局に入ってからの心苦しくも遣り甲斐のある任務の日々が、急に遠くなってしまった。ここにいるのは、 ただのヤシガニだ。何の力も持たない、巨大なだけのヤシガニだ。無理矢理にでも波号を引き留めれば良かった、 そうでもしなければ電影が犠牲になった意味がない。悲しさとやるせなさで顎を軋ませながら、前に進み続けると、 急に視界が晴れた。海底トンネルを歩いている間に日が陰ってきたのか、鮮やかな西日が差し込んでいた。複眼に 入る光量の多さはオレンジ色のライトの非ではなく、ガニガニは少々目が眩み、歩みを止めた。

「お帰り」

 聞き慣れた、それでいて強烈に懐かしい声を掛けられ、ガニガニはヒゲも触角も真っ直ぐに立てた。

「随分長いお散歩だったね、ガニガニ」

 逆光の中、笑みを向けてきたのは紀乃だった。紀乃は濡れた体の上に大きなタオルを羽織っていて、ガニガニも 覚えのある色の体液に肌を濡らしていた。紀乃の背後にはゾゾが控え、二人の後方には分厚い肌を開いて赤黒い 生体組織を曝しているワン・ダ・バの巨体が横たわっていた。それを目にし、ガニガニは説明されずとも理解した。 波号のコピーが上手くいかなかったのは、ゾゾがワン・ダ・バに紀乃という異物を混入したからなのだ、ということを。 電影が犠牲になったことも、竜ヶ崎を裏切れないといった波号を取り逃がしてしまったことも、これまでのことも、 色々なことが頭の中を駆け巡ったガニガニは、スピーカーを使って喋るのも忘れてへたり込んだ。
 紀乃は濡れた素肌をガニガニに寄せ、小さな手で汚れた外骨格を撫でてくれた。ガニガニは、こちこちこちこち、と 弱々しく顎を打ち鳴らしながら、鋏脚で紀乃を抱き寄せた。やるせなくてたまらなかったが、まだ折れてはいけない のだと心に誓った。最後の最後まで踏ん張って、生き延びることが、電影との友情に報いられる唯一の方法であり、 自分を責めもせずに待っていてくれた紀乃の愛情に応えられる方法でもあるのだから。
 けれど、今だけは、大好きな人の傍で身も心も休めよう。





 


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