南海インベーダーズ




反逆者的生体兵器奪取作戦



 山吹が総指揮を執る、波号奪取作戦の概要はこうである。
 変異体管理局現本部である竜ヶ崎全司郎邸は千代田区南端の永田町にあり、国会議事堂や首相官邸を始めと した主要な官庁が立ち並んでいることもあって警戒は極めて厳重である。先日、ゾゾが竜ヶ崎邸に入ったのは伊号に よる誘導の結果であり、それがなければ有無を言わさず射殺されていただろう。竜ヶ崎邸を固める戦闘車両は、 単純計算でも三十台以上、その全てが伊号の管理下にあるのは間違いない。上空は戦闘機や武装ヘリコプターが 飛び交っていて、真上から攻めても良い的になるだけで良策ではない。
 この作戦で肝心なのは、いかにして竜ヶ崎に真意を悟られずに、竜ヶ崎邸に接近するかということだ。竜ヶ崎邸に 集結している戦力を分散させ、誰も死なない程度にダメージを加え、それでいて行動不能に陥らせて、他の目的が あるかのように思わせなければならない。もちろん、それはそう簡単に思い付くものでもなく、竜ヶ崎邸付近の地図と 海上基地の残存兵器とインベーダー達の能力を突き合わせ、皆が頭を悩ませて捻り出した作戦だった。率先して 提案したのは意外にも呂号で、付き合いが長い波号を、呂号なりに心配していたようだった。夜を徹して話し合った 結果、竜ヶ崎側から見ても筋が通るであろう作戦が出来上がった。
 表向きの目的は、都心の高圧線から電力を引っ張ってワン・ダ・バに注入する、というものだ。生体電流と人間が 作った高圧電流では性質が違うのでワン・ダ・バはその全てを摂取出来ないのだが、生体エネルギー値が全体的に 低下している今、まるきり不要というものではない。宇宙に出て暗黒物質に混在している反物質を摂取するまでは 生体エネルギー値は最低レベルのままなので、体に馴染まない電気と言えども、多少は腹の足しになる。だから、 竜ヶ崎の目から見てもそれほど不自然ではない。最初に行動を起こすのは紀乃とガニガニで、竜ヶ崎邸とは掠りも しない場所に移動し、高圧線をサイコキネシスで引き剥がし、ガニガニに電流を操らせて海上基地へと送り込む。 行動を起こす場所はワン・ダ・バのジャミングの圏外であり、伊号の衛星ネットワークに早々に感付かせるために、 いつも以上に派手なことをする。紀乃とガニガニの行動より少し遅れて、竜ヶ崎邸に真正面から向かうルートで虎鉄と 芙蓉が地上部隊を蹴散らしていく。戦闘車両や重機を徹底的に破壊させ、撤退するように仕向けるためである。 最後に人型軍用機に搭乗した山吹と人型多脚重機に搭乗した秋葉が同時に出撃し、遠回りするルートで竜ヶ崎邸に 向かい、戦闘を行いつつ波号を救出するという手筈である。別行動を取る甚平と呂号は、自衛隊の注意を充分に 引き付けた頃合いを見計らってワゴン車に乗り、目的地に向かうことになっている。
 作戦の内容を口に出して確認しながら、紀乃はガニガニと共に移動していた。紀乃らが向かう先は横須賀港から 程近い京浜急行の駅で、電車の架線を引き剥がし、ガニガニの帯電体質を利用してワン・ダ・バに高圧電流を注ぐ 予定である。本当なら、ちゃんと電線を引っ張っていった方がいいのだが、横須賀から海上基地まで届くほど長い 電線を調達している暇はない。ガニガニを浮かばせて横須賀港上空まで来た紀乃は、ちょっと物足りなさを感じた。 広い港には米軍の空母どころかイージス艦の一隻もなく、退役して久しい戦艦三笠が展示されているだけだった。 ひとまず、ガニガニを三笠公園に下ろしてから紀乃も着地した。伊号のクローゼットから拝借したゴスパンクの服は、 太いストライプのニーソックスが暑苦しかったが、それがなければ締まりがないので我慢した。ブラウスの襟を 広げて汗を拭ってから、腰に両手を当てて胸を張った。

「さて、やるか!」

『だけど、局長、本当に騙されてくれるかなぁ?』

 戦艦三笠の傍にあるスピーカーにヒゲを当てたガニガニが不安がると、紀乃は眉を下げた。

「私だって、上手く行くとは思わないよ。でも、頑張るしかないよ」

『うん』

 ガニガニは片方のヒゲと触角をぴんと立て、黒い複眼に紀乃を映した。

『僕だって、電影の命を無駄にしたくないもん。電影は僕の代わりにはーちゃんを助けてくれた。だから、はーちゃんを 助けるってことは、電影も助けることになるんだから。僕はもう、余計なことを考えない。紀乃姉ちゃんと一緒に、 局長と戦うよ。そう思えるようになるまで、ちょっと遠回りしちゃったけどね』

「しばらく見ない間に、すっかり男らしくなっちゃったね」

 紀乃がガニガニの鋏脚を撫でると、ガニガニは触角をちょっと下げて照れた。

『えへへへ……』

「全部終わったら、また南の島に行こうね。忌部島は元の姿に戻ったからなくなっちゃったけど、代わりの島なんて いくらでもあるし。そこで、皆で一緒に暮らそう。浅瀬で遊んだり、アダンの実を集めたり、魚や貝を捕ったり、色んな ことをしよう。ガニガニは、インベーダーとか、ミュータントとか、関係ない世界で暮らすのが一番似合うもん」

 紀乃が頬を緩めると、ガニガニはこちこちと顎を小さく鳴らした。笑っているのだ。ガニガニと目が合うと、紀乃は 心中のわだかまりが解れる心地良さを味わった。ガニガニが変異体管理局側に付いた事情も、ガニガニ本人から 聞かされたが、それを責める気持ちはない。自分が同じ立場になったとしたら、同じことをしていただろう。彼なりに、 忌部島と住人達を守ろうとした結果なのだから。どれほど巨大になろうとも、特殊能力を得ようとも、ガニガニに 出来ることは限られている。それは紀乃も同じだ。だから、今、やるべきことをやるしかない。

「行くよ、ガニガニ!」

 紀乃が身構えると、ガニガニは人型に変形し、ばっちぃいいん、と盛大に鋏脚を打ち鳴らした。紀乃はガニガニを 伴って急上昇すると、横須賀港近郊を走る京浜急行の架線にサイコキネシスを放った。一瞬、暴風を受けた電線は 激しくしなってヒューズが飛ぶ。架線を支えている鉄塔を根本から引き抜くと、電線を止めていたビスを弾け飛ばし、 何本もの電線を宙に浮かび上がらせる。紀乃はそれを絡め合わせてから、ガニガニに向けた。

『よおし、いっくぞー!』

 紀乃が束ねた電線を鋏脚で受け止めたガニガニは、全身が青白く発光するほどの過電流を巨体に蓄積させた。 周囲の空気が静電気を帯び、紀乃の毛先が僅かな痒みと共に浮かび上がる。ヒゲや触角と言わず、青黒く分厚い 外骨格の尖った部分からいくつものヒューズが散り、広げたハネも薄く発光する。ガニガニは限界近くまで蓄積した 電流を鋏脚に集中させると、太く大きな両足をアスファルトにめり込ませて踏ん張り、東京湾に横たわるワン・ダ・バ 目掛けて発射した。落雷に酷似した稲妻が爆音と共に真横に駆け抜けると、一秒と立たずにワン・ダ・バに着弾し、 電流が駆け抜けた海上には裂け目のような筋が残る。そして、ぎゅいいいいい、との鈍い声が響いた。

「成功……かな?」

『うん、成功だよ。だって、ワンがそう言っている』

 両の鋏脚を突き出したままの格好で、スピーカーにヒゲを当てたガニガニが答えると、紀乃は首を傾げた。

「どうしてガニガニや忌部さんは、ワンの意志まで解るの? 私はワンの首を地下から引っ張り出す時に、ちょっと だけそれらしいのを感じたけど、それっきりなんだもん。ねえ、どんな感じなの?」

『なんて言えばいいのかなぁ。なんとなく感じているだけだから、具体的に説明するのは難しいんだけどね』

 ガニガニは鋏脚の尖端で頭をごりごりと掻いてから、考えあぐねた。

『ええと、そうだなぁ……。僕は紀乃姉ちゃんとお話しする時、紀乃姉ちゃんに僕の声が聞こえるようにスピーカーを 使って脳波の生体電流を音声に変換しているんだよ。でも、ワンはそうじゃないんだ。僕達の体をスピーカー代わりに するっていうか、自分の生体組織に電波みたいに変換した生体電流を飛ばしてきて、僕や忌部さんの脳に意志を 受信させるんだ。僕も忌部さんもワンの生体組織をもらっているから、聞こえるんだ』

「音叉みたいなものか」

『オンサが何なのかは解らないけど、紀乃姉ちゃんが納得するんなら、きっとそうだね』

 ガニガニはうんうんと頷いてから、再度発射姿勢に入った。そして、二度、三度、四度とワン・ダ・バに電流を放射 したが、ヘリコプターのローター音どころか戦闘車両のエンジン音すらも聞こえてこなかった。いつもであれば、五分 と経たずに変異体管理局は出動するはずだ。非常事態宣言発令中であることを踏まえても、動きが遅すぎる。紀乃 はガニガニの作業を一旦中断させ、感覚を広げた。陽動だと気付かれたのでは、と思ったが、静かなのは横須賀 近辺だけではなく、他の面々の戦闘の様子も感じ取れなかった。空気も至って穏やかで、硝煙の匂いすらしない。 紀乃はガニガニの上に下りると、息を詰めて感覚を研ぎ澄ませた。ガニガニも放電を中断し、紀乃の見つめる方向に 複眼を据えていたが、ぴんとヒゲを立てた。

『……あれ?』

「どうしたの、ガニガニ」

『おかしいよ、これ。え、何、電影の声が聞こえる……? そうか、ワンを経由して僕に……』

 ガニガニはヒゲと触角を交互に動かし、空中を飛び交う生体電流を感じ取っていたが、ぎょっとした。

『まずいよ、紀乃姉ちゃん!』

「陽動に気付かれたの?」

『違う、そうじゃない。もっとまずいことになっている!』

 行こう、とガニガニはハネを広げ、震わせ始めた。

「ちょっと待ってよガニガニ、何がまずいの!?」

 紀乃は浮上し始めたガニガニを追い、サイコキネシスを高めた。ガニガニは手近なスピーカーからヒゲの尖端を 離したので、それ以上の言葉は聞こえなかったが、ガニガニはがちがちと顎を強く打ち鳴らしていた。横須賀港から 内陸部に入ったガニガニは、ある一点を睨んでハネを羽ばたかせている。紀乃は若干高すぎるガニガニの高度を 下げさせてから、平行して飛び、進行方向を見定めた。無数の民家が建ち並ぶ住宅街の先には横浜の高層ビル群が あり、更にその先には東京の都心が控えている。動揺したガニガニを落ち着かせようにも、紀乃には事の次第が まるで解らない。歯痒くなりながら、紀乃は飛行速度を速めて一直線に進んだ。
 ビル群の背後には、国会議事堂の屋根が見えていた。




 都内某所。虎鉄と芙蓉もまた、異変を感じ取っていた。
 千代田区内の幹線道路の真ん中にアメリカンバイクを止め、周囲の様子を窺う。虎鉄はアイドリングするバイクの イグニッションキーを回してエンジンを止めると、腰に回された腕が解けて妻が降りた。続いて虎鉄も降り、さながら ゴーストタウンと化したビジネス街を見渡した。放置されたタクシーや乗用車が並ぶ道路は夏の暑さを残した日差しに 炙られ、薄い陽炎が揺らいでいる。街路樹では数匹のアブラゼミが命を振り絞って鳴いていたが、人気のなさも 相まって物寂しさを掻き立てる。虎鉄は一番最初に目に付いたタクシーのドアを開け、とりあえずエンジンを掛けよう としたが、イグニッションキーは抜かれていた。舌打ちした虎鉄に、芙蓉は右手を絡ませて夫の鋼鉄の手を溶かして イグニッションキーの穴に滑り込ませた。形が定まると、虎鉄は右手首を捻ってエンジンを作動させた。

「無線でも傍受するつもりなの?」

 芙蓉が尋ねると、虎鉄はカーラジオのチューナーを回した。

「そのつもりだったら、次郎が寄越してくれた無線機を使っているさ。こういう時は、こっちの方が手っ取り早い」

 しばらく雑音が続いていたが、周波数が合った途端に音声が流れ出してきた。

「あ、聞こえた聞こえた」

 芙蓉が身を乗り出すと、虎鉄はカーラジオのボリュームを上げて耳を澄ませた。

『……繰り返し、お伝えします。対インベーダー作戦の主要機関である変異体管理局の局長、竜ヶ崎全司郎邸宅で あり、変異体管理局臨時本部である竜ヶ崎邸で発生した爆発事故は、インベーダーによるものと発表され、死傷者 数は未だ不明です。非常事態警報発令中につき、今後も危険区域には絶対に近付かないで下さい』

「おかしいな。山吹と秋葉が到着するまでには、まだ時間があるはずだぞ」

 虎鉄が首を捻ると、芙蓉も不思議がった。

「変って言えば、紀乃とガニガニが横須賀で暴れていることにも触れていないのは変よ。あの子達の方が私達より 目立つはずだし、あそこは軍港も近いから、すぐに出動が掛かるはずなのよね」

「だとすると、誰がクソ野郎の屋敷で暴れているんだ?」

「いづるちゃんでも波号ちゃんでもないとすると、御本人ってことかしら? でも、まさかねぇ」

 芙蓉は半笑いになったが、虎鉄を指を引き抜き、タクシーから離れた。

「いや、有り得なくもないな。だとすると、さっさと動いた方が良さそうだ」

「でも、自分の陣地で御屋敷よ? そんな場所を壊したって不利になるだけで、有利になんて」

 足早にアメリカンバイクに戻っていく虎鉄を追い、芙蓉は駆け出した。

「不利だろうが有利だろうが、あの野郎には関係ないんだろうよ!」

 虎鉄はアメリカンバイクに跨るとイグニッションキーを回し、エンジンを荒く鳴らした。芙蓉は夫の右手を元の形に 戻してから、再び後ろに跨った。雷鳴のような排気音を轟かせたアメリカンバイクは死んだ街の中を駆け抜けると、 一直線に永田町を目指した。高層ビルの隙間からは、ニュースが真実だと知らしめるかのように、きな臭い黒煙が 噴き上がっている。派手な破壊音と同時に戦闘車両らしきものが吹っ飛び、ビルの端を削りながら転げ落ちてくる。 ひしゃげた金属を引き摺りながらアスファルトに墜落した装甲車は、ガソリンが漏れていたのか、数秒もせずに爆砕 した。金属片とアスファルト片がたっぷり混じった爆風を真正面から浴びた虎鉄は、爆風に煽られかけたアメリカン バイクのバランスを取って走らせながら、真っ直ぐに竜ヶ崎邸を目指した。
 作戦を変更せざるを得ない。




 これは粛清だ。
 燃え盛る屋敷を背にして、一ノ瀬真波は身動き出来ずにいた。御前会合の時と同じく紋付き袴姿の竜ヶ崎全司郎は 悠々と歩きながら、目に見えない力で降り注ぐ弾丸を防いでいた。弾丸を撃ち尽くした自衛官は慌てて自動小銃を 放り出し、背を向けて逃げ出そうとするが、竜ヶ崎が空中に止めていた弾丸を放たれて頭を抉られた。血と脳漿を 撒き散らしながら吹っ飛んだ自衛官は門に激突し、筆を押し付けたかのように赤黒い筋をずるりと一本引いた。 玉砂利には残った弾丸が散らばり、竜ヶ崎はそれを踏み締めながら進む。上空を飛ぶ武装ヘリコプターからも機銃 掃射が行われるが、斎子紀乃のサイコキネシスをコピーしている竜ヶ崎には無意味だった。手を振り上げて突風を 巻き起こし、武装ヘリコプターを煽った。バランスを崩した機体が墜落しかけると、それを振り回して民放テレビ局の 報道ヘリコプターに激突させる。どちらも紙屑のように潰れ、外れたローターが回転しながら庭に突っ込んできた。 見事な庭木が真っ二つに断ち切られ、樹齢数百年はあろうかという巨木が葉を散らしながら倒れていく。

「さすがは波号だ、私の体に良く馴染む」

 竜ヶ崎は満足げに舌なめずりしてから、煤けたスーツ姿の真波に振り向いた。

「真波。お前には最早興味の欠片もないが、波号を作った腹の良さだけは認めてやろう」

 真波は見開いた目を瞬きすることも出来ず、震える膝を立てておくだけで精一杯だった。右手には今し方まで波号 が身に付けていたシャツワンピースを握っていたが、握り締めすぎて、ひどい汗染みが出来ている。どこもかしこも 強張って、舌も動かず、声すら出せない。それでも、汗が混じった涙が化粧を解かしながら顎を伝っていく。ブラウス の襟もスカーフも汚れているのに、拭う気力すらない。火の粉を浴びたせいで小さな穴が空いたストッキングには、 抵抗した波号の爪痕である伝線が走っていて、赤いみみず腫れがひりついていた。

「んぁ……」

 真波の手前で、万能車椅子に座る伊号が瞬きした。周囲の騒がしさには鎮静剤ですらも勝てなかったのか、瞼は 重たく開きつつある。真波はハイヒールを引き摺って伊号に近付くと、せめてもの気力で、彼女の顔の上に波号の シャツワンピースを被せて視界を塞いでやった。伊号が戸惑いの声を上げたがそれに答えられる余裕はなく、真波 はがちがちと震える顎を噛み締めて万能車椅子に縋った。これまで竜ヶ崎に感じていた執着や愛情や情念や執念が 隈無く恐怖で塗り潰され、竜ヶ崎に全てを委ねていた記憶が急に生臭くなり、吐き気すら催した。
 竜ヶ崎全司郎は、波号を体内に取り込んだ。波号を連れて竜ヶ崎の自室に来いと命じられた真波は、逆らう理由 もなかったのでそれに従った。だが、波号は見るからに嫌そうだった。いつになく情緒が落ち着いていて、表情からは 薄弱さも取って付けたようなヒステリックさも失せ、十歳児の分別を弁えた顔付きになっていた。竜ヶ崎の自室に 向かう道中、波号はしきりに真波を窺っていた。何度か口を開きかけたが、言葉にはならなかった。これから竜ヶ崎 から寵愛を受けるであろう波号には嫉妬しか抱かなかったので、真波は関心を示さずに波号を引っ張っていった。 そして、竜ヶ崎の自室に到着すると、竜ヶ崎は着流しの前を早々に広げて波号を待ち構えていた。真波が一礼して 下がろうとすると、竜ヶ崎は真波を引き留めてきた。何事かと顔を上げてみると、波号は及び腰で逃げ出そうとして いる。斎子紀乃の時と同じく、押さえ付けておけと言うのだろう。気乗りはしなかったが、そうすることで竜ヶ崎に気に 入られたら自分の番も来るかもしれないと思い、真波は波号を布団に押さえ付けた。波号はしきりに暴れ、真波の ストッキングに爪を立ててくるほどだった。怯えすぎて言葉が出てこないのか、掠れた吐息を口から零していたが、 真波はそんなことには構わずに波号を仰向けにして両腕を封じた。波号は首を横に振って、過呼吸気味の呼吸を 繰り返していたが、潤んだ目で真波を見上げてようやく言葉を発した。助けて、お母さん、と。
 目と目が合っていたからだろう、真波は奇妙な感情に揺さぶられた。幼い頃の自分に良く似た面差しの波号は、 救いを求める目を向けてきた。記憶をコピーした時に真波が母親だと知ったのだろうが、決して呼ばれることはないと ばかり思っていた名に、正直、心中はぐらついた。思い出してみれば、自分が母親のことをお母さんと呼んだことは 数えるほどだ。物心付いた頃には竜ヶ崎の寵愛ばかりを欲していたから、竜ヶ崎の関心を奪い取ろうとする母親 を侮蔑しては、あの女、だの、アレ、だのと呼ぶばかりだった。母親が宮本都子の殺戮に巻き込まれて死んだ後も、 決してお母さんとは呼ばなかった。だが、お母さん、という呼び名に薄い憧れがないわけでなかった。普通の家庭の クラスメイトが無邪気に母親と戯れる様を見ていると、身内に対する嫉妬や憎悪ばかりが渦巻く自分の家庭が嫌で 嫌でたまらなくなった。けれど、母親を愛せるわけもなく、持て余した気持ちの捌け口を竜ヶ崎に求めるものだから、 悪循環に陥っていた。だから、お母さんと呼ばれた途端、真波は混乱して波号の腕を放してしまった。
 竜ヶ崎は真波を責めもせず、抵抗する波号のシャツワンピースを脱がし、レギンスも靴下も肌着も脱がしてしまう と、二次性徴の兆しもない薄く骨張った波号の体を舐めるように見回した。波号のショーツの内側には多量の体液と 血の混じった染みが付いていて、その痛みが波号の恐怖を一層煽っているようだった。竜ヶ崎は尻尾をゆらゆらと 動かしていたが、何を思ったのか、自分の胸に深く突き立てた。分厚く冷たい皮膚が裂けて赤い体液が噴き出し、 腐臭に似た強い酸の匂いが立ち込める。ず、ず、ず、と尻尾は胸から腹に下がっていくと、体液の糸を引きながら 竜ヶ崎の腹部が裂けた。布団も畳も赤黒い体液でしとどに濡れて、真波は気色悪さで込み上げるものがあったが、 無理矢理飲み下して堪えた。波号はあまりのことに気を失う寸前で、顔を覆うことすらしなかった。竜ヶ崎は臓物が はみ出しかねないほど前のめりになると、体液を無益に流しながら、波号の細い体を抱え上げた。だらりと手足を 投げ出している波号を抱えて腹の裂け目に押し込んだ。めりめり、めちめち、ぬちぬち、と異音を発しながら波号が 竜ヶ崎の内に没すると、竜ヶ崎は腹の裂け目を一撫でして何事もなかったかのように塞いでしまった。
 そして、粛清が始まった。波号がこれまでにコピーした能力を全て操っている竜ヶ崎は、能力に死角は一切なく、 児戯のように殺戮を繰り返している。竜ヶ崎は重武装した自衛官を鋼鉄と化した尻尾で薙ぎ払い、一瞬で数人の首 を刎ねた。ボールのように高く宙を舞った首の一つが飛び、真波の横に飛んでくると、柱に衝突して破裂した。脳漿の 一部が顔を掠め、体温が残った脳漿が頬をなぞる。たまらず、真波が吐き戻すと、竜ヶ崎は哄笑する。

「ふははははははははは! ハツよ、もうしばし待っていたまえ! この私が直々に迎えに行こうぞ!」

「主任……だろ? そこに、いんの」

 波号のシャツワンピースの下で伊号が顔を動かし、舌っ足らずな言葉を発した。

「え、ええ」

 真波が引きつった声で返すと、伊号はがくりと首を落とした。

「きょくちょう……どこ、いんの? てか……あたし、なんで、クスリなんか、打たれたん……?」

「鎮静剤を投与したのは私よ。今は眠っていなさい、伊号。それがあなたのためなのよ」

「や、やだ。あたし、戦う」

「今は眠りなさい、伊号。これは命令よ」

 真波は強く命じると、胸ポケットの内側から鎮静剤の入った注射器を取り出した。一度に多量を投与しては伊号の 命に関わるが、先程投与した分に加えて少しだけ投与するだけなら。真波は息を詰めて手の震えを押さえながら、 伊号の筋肉も脂肪もない腕に針を刺した。痛覚が刺激されて条件反射が起きたらしく、伊号の腕はほんの僅かに 震えたが、ピストンを押し込んで薬液を血管に注入すると伊号はまた意識を失った。真波は万能車椅子の取っ手を 握り、押して歩き出した。すると、竜ヶ崎の前方に見覚えのある人型軍用機が出現し、竜ヶ崎の注意はそちら側に 引き付けられた。まだ動かせる車があってくれ、と願いながら、真波が裏口に向かうと、竜ヶ崎邸の自家用車である メルセデス・ベンツが炎に巻かれつつある車庫で鎮座していた。
 今なら逃げ出せる。この機会を逃せば、死か、束縛のどちらかだ。真波は自分に強く言い聞かせると、運転席の 窓ガラスを割ろうと拳銃を振り上げると、がこ、と音を立てて全てのドアのロックが開いた。同時にイモビライザーも 解除されてエンジンが作動し、ギアもニュートラルから切り替わった。真波が伊号に振り向くと、伊号は意識を全て 失っていたわけではないらしく、万能車椅子の背部に装備されたロボットアームが少しだけ動いている。

「伊号……」

 状況が解っているのか、或いは無意識の行動か。どちらにせよ、ありがたいことには変わりない。真波は伊号を 抱き上げて後部座席に寝かせると、トランクに万能車椅子を押し込み、運転席に座った。両手に滲んだ脂汗をタイト スカートで拭ってからハンドルを握り、アクセルを踏み、急発進した。都心から脱出し、関東近郊に設置されている 避難所に向かい、伊号だけでも保護してもらうのだ。罪滅ぼしにはならないが、それが、せめてもの償いだ。
 真波はコピー能力を制御するために掛けていたメガネを外して伊号を数秒間見て、伊号の機械遠隔操作能力を 必要最低限だけコピーしてからまたメガネを掛け、進行方向を見た。意識するだけでカーナビが作動し、地図と共に 民間人の避難所である公共施設の場所を示してくれた。ここから一番近いのは、練馬区を出た先にある埼玉県の スポーツ施設だ。竜ヶ崎を裏切ってしまった後ろめたさと後悔が胸を締め付けるが、それを遙かに上回る悔恨の念が、 真波を突き動かしていた。制限速度も一方通行も信号も何もかも無視して、ひたすらにベンツを走らせる。
 どうして、今の今まで、気付かなかったのだろうか。母親が自分に関心を持ってくれないから、関心を持ってくれる 竜ヶ崎に付き従っていた。けれど、それは違う。竜ヶ崎が母親の関心を奪う傍ら、真波からも子供らしさを奪い取り、 竜ヶ崎の意のままにされていただけだ。子供ではなく一人の女として扱われ、早くから妾の立場を理解させられて いた。母親をお母さんと呼べなかったのも、竜ヶ崎が母親を下の名前で呼んでいて、事ある事に侮蔑していたからだ。 最も身近な大人であり実の父親でもある竜ヶ崎に、幼い子供だった真波が影響されないわけがない。腹立たしさの あまりに目眩すら感じながら、真波は死に物狂いでハンドルを繰った。
 とにかく、今は逃げなければ。





 


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