南海インベーダーズ




感傷的迷走道中



 寝心地の悪いベッドだった。
 マットレスは硬く、シーツはざらつき、部屋は冷房が効きすぎて寒々しく、窓の外は一日中騒がしく、飛び交う電波が ヘッドギアを外されているせいで無防備な脳内を無遠慮に掻き乱していった。無数の携帯電話と携帯ゲーム機が 送受信する各種通信電波は一秒も途絶えることはなかった。このスポーツ施設に避難してきた民間人のほとんどは 自分の携帯電話を持っていて、暇潰しのためにメールや電話を交わしているらしく、電波に混在する情報もまた脳を 刺激してくる。大抵は他愛もない内容だが、単語の切れ端だけが頭の中を通り抜けていくのは正直言って気分が 良くない。変異体管理局に、海上基地に戻りたいと思った。今のところ、電波が完全に遮断されているのはあそこ だけだ。衛星通信を経由してみても、無断で東京湾近郊を往く巡視船のレーダーを使用してみても、適当な通信機器 を通じて電波を発信してみても、海上基地から半径二十キロ以内には届かなかった。だから、海上基地に向かえば 煩わしい電波から解放されるだろうが、無理だろう。今の自分は、ただの全身不随障害者だ。
 伊号はコンクリートが剥き出しの天井を仰ぎ見、ゆっくりと息を吐いた。付けっぱなしにされているテレビからは、 同じような内容が延々と流れ続けている。チャンネルを変えても意味はなく、どのテレビ局も竜ヶ崎邸で起きた爆発 と火災を報道し続けている。インベーダーの恐ろしさをこれでもかと言わんばかりに報じ、これまで変異体管理局が 隠し通してきたインベーダーらの個人情報も時間の経過と共に漏れ始めている。これは伊号の想像に過ぎないが、 竜ヶ崎邸に派遣された自衛隊の中には、公安の関係者が混じっていたのではないだろうか。竜ヶ崎全司郎は己の 特異性を存分に利用して絶大な権力と財力を成し得ていたが、かなり汚い手段を使っていた。だから、この機会を 利用して竜ヶ崎全司郎の罪を暴くつもりでいるのだろう。竜ヶ崎は行方不明だと報じられているが、死んではいない はずだ。根拠は欠片もなかったが、そう思えて仕方なかった。
 部屋のドアがノックされ、開いた。伊号が目を向けると、両手に紙袋を下げたかすがが入ってきた。かすがは伊号 に笑顔を向けてから背中でドアを閉めると、伊号が寝かされているベッドに近付いてきた。

「いづる、具合はどう?」

「良くも悪くもねーし」

 伊号はちょっと気恥ずかしくなって顔を背けると、かすがはベッドの端に腰を下ろした。

「いづるの着替え、急いで買ってきたのよ。気に入ってくれるかしら」

「そこまでしてくれなくてもいいし。てか、そのぐらい、自分でどうにかするし」

 伊号が部屋の隅にある万能車椅子に目をやると、かすがは苦笑した。

「ここでその車椅子を動かすと、いづるがインベーダーだと思われてしまうわ。だから、今は我慢してね」

 かすがは近隣のショッピングモールの紙袋を開け、ティーン向けの服を取り出した。伊号の腹部の上に掛けられた タオルケットに重ねるように、派手なプリントが胸元に付いた真っ赤なTシャツ、デニムのスカート、黒のレギンス、 ハイカットのチェック柄のスニーカー、それに合わせた短い靴下、下着類が並んだ。いずれも伊号の趣味に合って いたし、気に入るようなものばかりだったが、母親が買ってきてくれたことが無性に恥ずかしくなった。嬉しいことは 嬉しいのだが、背筋がむず痒くなってくる。伊号がむっつりと黙っていると、かすがは眉を下げた。

「やっぱり、私が選んだ服は気に入らなかったかしら」

「そんなんじゃ、ねーし」

 母親と向き合うことすら躊躇った伊号は、テレビ台に置かれたヘッドギアに目を向けたが破損していた。

「てか、なんであたしのヘッドギアが壊れてんの?」

「私が壊したのよ」

 かすがは、得意げに微笑んだ。

「自衛隊の人から工具を借りて、ひと思いにね。回路の方も壊したわ、たっぷり水に浸けて。バッテリーも抜いたし、 メモリーみたいな部分も全部壊したの。だから、あれはただのプラスチックと金属の固まりに過ぎないのよ」

「え?」

 かすがらしからぬ行動に伊号は面食らうが、かすがは清々しげだった。

「私ね、ずっと前からそうしたいって思っていたのよ。御前様……竜ヶ崎には逆らえなかったし、私はいづるや皆とは 違って何の能力もないし、度胸もなかったから、竜ヶ崎に奪われたいづるを取り戻そうとしなかったわ。自分からは 何もせずに、ただ、流されているだけだったのよ。ゆづるさんのお骨のことだって、そう。私さえちゃんとしていれば、 悪くならずに済んだことは一杯あるのよ。だから、もう、何も躊躇わないの」

 かすがは伊号の肩に手を掛け、引き寄せる。

「戦いが落ち着いたら、一緒にお父さんのお墓に行きましょう。次郎君とも鉄人さんとも会って、家族になりましょう。 出来れば、翠とも会わせてあげたいわ。同じ家で、ずっと一緒に暮らしましょう」

「でも、あたしは……局長のものだし。生体兵器だし。だから、ママの子供じゃ、ねーし」

 伊号は母親から遠のこうとするが、首以外は動かず、顔を背けるだけに止まった。

「あなたは私の娘よ、いづる。だけど、あなたは誰のものでもないわ」

 かすがは伊号を抱き寄せ、ツインテールを解いた髪を丁寧に撫でた。間近から感じる母親の匂いは、十年以上も 離れていたはずなのに忘れてはいなかった。髪を梳いた指はひび割れていて、手も硬かったが、温もりは幼い頃と なんら変わらなかった。父親が死んだ直後、監視カメラの映像の中で吸っていたはずのメンソールのタバコの匂い はしなかった。だとすれば、やはり、あのかすがは偽物のかすがだったのだ。そして、このかすがが本当のかすが なのだ。かすがの手付きはとても優しかったが、力強く、伊号を抱え込んだ。

「うあ、あぁ……」

 恥ずかしい。情けない。暖かい。嬉しい。辛い。怖い。切ない。様々な感情が一度に押し寄せた伊号は、熱の塊が 込み上がり、涙の粒が目尻に膨らんだ。喉が詰まり、震えが起きる。動かないはずの手足を動かして母親に縋ろうと するが、首が捩れるだけだった。状況と関係のない記憶まで蘇り、理不尽なまでに泣けてくる。幼い自分を育てる ために働き詰めで留守がちだった母親、いつも外を駆けずり回っているのでほとんど一緒に暮らせなかった父親、 顔も見たことがなかった二人の兄、一人の姉、西日の差し込むマンションのリビング、積み木で作ったお城を自分 で壊して泣き腫らしたこと、閉め切った窓から見える空の高さ、冷蔵庫から出して一人で食べた食事の冷たさ、リンゴ ジュースの甘さ、そして首を折られた時の音。長らく心を戒めていた意地の糸が爆ぜ、伊号は泣き出した。

「あぁ、あぁああああっ!」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 かすがは何度となく謝り、伊号をきつく抱き締める。伊号は母親の肩に頭を預け、だくだくと涙を流す。

「あ、あたしぃ、あたし、がっ頑張ったんだよぉ、お留守番も、病院も、訓練も、戦いもぉ」

「ええ、知っているわ」

「で、でね、あたし、一人でね、お留守番していたんだよ。ちゃんとね、ちゃんと良い子にしていたんだよ。そしたら、 ママが帰ってきてね、お帰りなさいってするために玄関に行ったんだ。そしたら、そしたらぁ」

 玄関の鍵が開いてドアが開いた途端、母親を出迎えに来ていた伊号の側頭部にハイヒールを履いた足が飛んで きた。ごぎ、との鈍い音がして頸椎が砕け、ハイヒールが頭皮を削り取って髪も抜けた。汚物を見るような目で伊号 を見下してきたのは、母親に良く似た別人だった。メンソールのタバコの匂いがした。濃い化粧の匂いもした。その時の 記憶がこれまでの穏やかな日々の記憶を蹂躙した結果、かすがは男遊びをしていたと思い込んだのだろう。

「そしたら、今度は局長があたしを迎えに来て、海上基地に連れて行って、凄い能力を使えるようにするためだって 言って、書類に名前を書かせて、手術したんだぁ」

 いんべいづる。生体改造手術承諾書に、口で銜えたサインペンで書いた下手くそな字は今でも覚えている。

「そ、それからね、それからね、あたしね、良い子になったんだ。ママだって褒めてくれるぐらい、お父さんだってうちに 帰ってきてくれるぐらい、強い子になったんだ。戦闘機だって何十機も飛ばせる、戦車だって何百台も動かせる、 ミサイルだって撃てる、人工衛星さえあれば世界中のどこで何が起きているかもすぐに解るよ。あたしは世界一の 兵器なんだよ、凄いでしょ? でもね、でもね、でもね」

 伊号は母親の肩に顔を埋め、嗚咽と共にこれまで胸中に凝り固まっていた心情を吐き出した。

「あたしは、もう人間じゃない……」

 生体兵器としては有効な能力を得たが、その代償として、人間としての機能の大半を損なっている。首から上しか 動かず、誰かの手を借りなければ生きていくことすら危うい。それが心底嫌だから、自力で万能車椅子を設計して 技術者に作らせた。誰かに頼るのが嫌だった。ただ呼吸するだけの人形になりたくなかった。だから、竜ヶ崎に執心 し、命じられるままに戦って竜ヶ崎の一番になろうとした。誰かに好かれていれば、それだけで自分が人間としての 価値を損なわずに済むような気がしたからだ。だが、竜ヶ崎の一番は伊号でもなければ呂号でもなく、波号だった。 竜ヶ崎は最初からそのつもりでいたのだと理解したのは、竜ヶ崎が波号の能力だけを拡張した時だった。伊号には 何も与えてくれず、命令も格段に量が減った。呂号のように活動限界を迎えたわけでもないのに。
 兵器らしくしていれば、人間らしく生きることに憧れずにいられた。家族を求めずに済んだ。夜中、目が覚めても、 両親の姿を探して泣きじゃくることもなかった。動かせないせいで日に日に痩せ細っていく手足を恐れずに済んだ。 思うがままに機械を操れる能力に屈せずに、最前線でインベーダーと戦えた。だが、不安と恐怖で潰されそうになる から、我が侭に振る舞って横柄な態度を取った。そうすれば、多少は人間っぽくなれる気がしたからだ。

「ママ、ちょっと、外に出て」

 伊号は首を上げ、母親の耳元に口を寄せた。

「あたし、着替える」

「あら、だったら手伝うわ」

 かすがは伊号をベッドに横たえようとしたが、伊号は首を横に振り、部屋の隅にある万能車椅子を見やった。

「やだ。それぐらい、自分で出来るし。部屋の中だったら、あれ、使っても平気だろ?」

「そうね。でも、他の人に見られないように気を付けるのよ」

 終わったら声を掛けて、とかすがは微笑んでから、伊号の涙に濡れた服に構わずに部屋を後にした。伊号は万能 車椅子に意識を送ると、独りでにキャタピラが動いて近付いてきた。長年伊号の手足として働いたロボットアームは 滑らかに動き、伊号をベッドから持ち上げてくれた。座り慣れた万能車椅子に身を収めると、マットレスが硬いベッド で寝かされているよりも余程落ち着いた。ロボットアームを曲げて上半身から脱がし、素肌を曝すと、汗が出ていた のでかすがが置いていった紙袋の中を探り、タオルを取り出した。洗面台でタオルを濡らして絞り、汗を拭き取ると、 少しはさっぱりした。本当ならシャワーでも浴びたいところだが、生憎、ここに耐水仕様の万能車椅子はないし、 万能車椅子が入れるようなバスルームもない。上半身に肌着とTシャツを着てから、今度は下半身の服を脱いで、 そちらも丁寧に拭いてから、新品の下着を身に付けてレギンスを履いて、その上にデニムのスカートを着た。靴下と スニーカーも履いた。かすがはブラシとシュシュも買ってきてくれていて、そちらも紙袋から取り出し、鏡に向かって 髪を梳いた。泣き腫らした自分の顔と、自分の手の代わりに赤いメッシュの入った髪を整えるロボットアームを見て いると、卑屈な笑いが頬を歪めてくる。自分は生きているのではない、機械に生かされているだけだ。こんな自分が 傍にいても、かすがは幸せになりはしない。一緒に暮らしても、いつか必ず気味悪がられる。そうでなくとも、世間の 人間が伊号の能力に気付いたら、かすがは伊号と同様に蔑まれる。想像しただけで、脂汗が出るほど耐え難い。 一時期は心の底から恨んだ相手なのに、今は少しでも嫌われるのが怖いほど愛おしい母親になっていた。本当に かすがを思うなら、インベーダーと相打ちになる覚悟で戦って果てるべきだ。
 伊号はドアの外の様子を窺ってから、ロボットアームで窓を開けた。窓の外は薄暗く、日が落ちている。避難所と 化している芝生のグラウンドが望め、自衛隊が建てたミリタリーグリーンのテントがずらりと並んでいた。その中で 人々が言葉を交わし合い、配給所からは夕食の匂いが漂い、臨時の街と化していた。伊号は力任せに窓を外して ロボットアームを窓枠に噛ませ、コンクリートを削りながら強引に外界に出ると、ひさしの上に万能車椅子を載せた。 目を配らせ、自衛隊のヘリコプターの位置を探った。グラウンドは避難所になっているので、駐車場奥に降ろされて いた。まずはヘリコプターの通信設備を使って内部状況を探り、搭乗員が一人もいないことを確かめてから、伊号は 高めた意識を送った。途端に電流を帯びたヘリコプターの回路が反応し、ローターが回転し始め、女王の命ずる ままに浮き上がった。何事かと騒ぎ出した自衛隊や民間人の声が騒がしかったが、それらを全て無視し、伊号の元に 向かわせた。ばらばらと空気を切り裂きながら近付いてきたヘリコプターは、開け放った窓のすれすれに浮遊し、 ハッチを開けて伊号を出迎える態勢になった。ロボットアームを伸ばしてヘリコプターの着陸脚を掴み、外した窓を 足場代わりにして乗り込もうとすると、騒音に気付いたかすがが部屋に飛び込んできた。

「いづる! どこに行くの!」

 かすがは今にも泣きそうな顔をして、伊号に追い縋ってくる。

「あたし、戦ってくる」

 伊号はヘリコプターの中に乗り込むと、かすがに振り返った。

「馬鹿言わないで、あなたはここにいていいの! お願いだから、もうどこへも行かないで!」

 かすがは窓から落ちかねないほど身を乗り出し、手を伸ばしてくる。

「ねえ、ママ」

 ローター音に掻き消されそうになりながら、伊号は声を張り上げた。

「大好き!」

 伊号の言葉が無事聞こえたのだろう、かすがは目を見開いた。伊号は出来る限りの笑顔を浮かべてから、ハッチを 閉めてローターの回転数を上げ、急浮上した。かすがも避難所も遠ざかり、自衛隊からの焦った通信が無線機を 壊しかねないほど飛び込んできたが、伊号の耳には届かなかった。脳にはざらざらとした硬い異物が混入してくる が、そのどれもが伊号の心を掻き乱さなかった。抱き締められた余韻が暖かすぎて、神経が凪いでいたからだ。
 ヘリコプターの燃料が許す限り飛行しながら、伊号は都内近郊の駐屯地と米軍基地の軍備を確認し、火力も確認し、 インベーダーと戦えるかどうかを思案した。一対多数でやり合うにしては、ちょっと物足りなかったが、四の五の 言っていられる状況ではない。いざとなったら、迎撃用に配備されている各地のパトリオットミサイルを使用すれば いいだけのことだ。インベーダーに殺されるか、或いは能力の限界を迎えてショック死するかのどちらかだろうが、 不思議と怖くはなかった。それどころか、胸を張りたい気分だった。
 ヘリコプターは順調に進み、窓明かりの一つもない都心へと接近していく。ヘリポートでも構わないが、道路に着陸 させるのも面白そうだ。そう思いながら、サーチライトを照らして下界を見下ろしていると、忌部家の墓地がある寺院が 目に留まった。どうせ死ぬのなら、先に旅立った父親に挨拶しておくのも悪くない。伊号はヘリコプターの高度を 下げていき、着陸したが、ローターの回転数が落ちていくに連れて喉が絞られるように息が詰まった。
 戦うのは怖くもなんともない。けれど。





 


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