南海インベーダーズ




根の国、底の国



 岩に刻まれた文字を、丹念に指の腹でなぞる。
 愛する女性の首筋の如く、情欲を押さえ切れぬ相手の太股の如く、何度となく。底冷えする湖水に没している岩の 冷たさが全身に染み渡った頃、高ぶっていた神経が落ち着いてきた。同時に盛りが付いていた男の部分も収まり、 どくどくと脈打つ鼓動も平常時に戻った。ごぶり、と肺に残っていた空気を吐き出してから、湖水に溜まっている酸素 を気管支を通じて吸収する。エラは付いていないので排水が面倒だが、そのためだけに皮膚を切り裂いてしまうと 後が面倒だ。その傷を塞ぐために余計な体力を使ってしまうし、地底湖の澄んだ湖水が自分の血で濁ってしまう。 蛋白質と硫黄と鉄分と多数の有機物が入り混じった体液の匂いは我ながら強烈なので、湖水に漂う彼女の残滓が 塗り潰されてしまいかねない。今一度、口を開けて湖水を吸い、湖底に淀む過去を味わった。

「ハツよ」

 ぐぶ、と口の端から湖水を噴き出しながら、竜ヶ崎全司郎は石造りの社を見渡した。

「今しばらく、待っていておくれ。やっと、お前を迎えに行けるのだ」

 八百マデ數エルモ、ソノ先ハ數ヘマホカラズ。女の腕力で分厚い石の壁に刻み込まれた文字は薄く、形もいびつ なので読み取りづらい。天井近くに刻まれているのは、水中で浮かびながら刻んだからだろう。御丁寧に鳥居まで 備わっている石の社の床には、何百年も前に削り取られた石の粉が堆積している。社の中にはハツが使っていた 物が今も尚手付かずで残されていて、欠けた食器や折れた箸、ゴザを敷いただけの粗末な寝床、水を吸って文字が 読み取れなくなった経文が没していた。日差しにも曝されなければ、腐敗もしなかったため、それらは当時の面影を 一切損なっていなかった。竜ヶ崎はハツの寝床だったゴザに手を添えると、ふやけきった藁が途端に解れた。
 一ノ瀬真波の生体組織を中和剤として摂取したおかげで、竜ヶ崎の肉体はようやく波号の肉体を己の一部として 認識してくれた。波号に融合しているヴィ・ジュルが竜ヶ崎の生体認証情報を削除していたせいで、免疫が拒絶反応 を示してしまい、波号の能力はおろか生存活動すら危うい状態だった。だから、真波の居所を突き止めて内股の肉 を食い千切った。波号を産み落としたこと以外はこれといって役に立たない子孫だと思っていたが、こんなところで 役に立つとは、生かしておいた意味があった。ニライカナイに至るためには、波号の生体情報を完全に融和させた 上でワン・ダ・バの生体組織を摂取して肉体を水増しし、情報処理能力を上げなければ、膨大な距離を一瞬で超越 する次元乖離空間跳躍航行技術は上手く使用出来ない。戦い続けてきた肉体が疲弊していたこともあり、竜ヶ崎は 変異体管理局の保養所が建っている慶良間諸島の無人島に瞬間移動した。公安の目もここまで届いていなかった らしく、監視されている様子はないが、見つけられるのは時間の問題だ。二日、いや、一日でも時間を得られれば体を 改造出来る。そして、ニライカナイへ。

「ああ……」

 次元と空間を越えた先の、まだ見ぬ母星。その地で長らえているハツが出迎えてくれる様を思い描いただけで、 竜ヶ崎は身悶えするほどの愛おしさが溢れ出した。ハツは宇宙だ。ハツこそが命だ。ハツだけが愛だ。
 両腕を曲げてがりがりと上腕を引っ掻き、尻尾をぐねぐねと曲げる。湖水が滲みる単眼を瞬かせ、体の奥底から 込み上がってくる性的衝動に息を荒げる。甘き娘の味が舌に蘇り、優しき匂いの錯覚が鼻腔を抜け、柔らかな肉の 手応えが腕の間に。反り返る尻尾を岩に突き立てると、洞窟全体を成している石化した竜の肉片、すなわち、ワン・ ダ・バの肉塊が赤黒い肉の姿を取り戻した。無造作に食らい付いて貪りながら、竜ヶ崎は肩を揺すって笑った。
 理想郷は、目の前だ。




 地球時間に換算して、二万年前。
 ゼン・ゼゼは、朧な意識を成した。覚醒した瞬間から自分が何なのか理解していた。惑星ニルァ・イ・クァヌアイを 主とする宇宙規模の侵略国家ナガームンに属しているイリ・チ人の科学者、ゾゾ・ゼゼの生体分裂体であることを。 侵略国家ナガームンの歴史、形態、組織、規模も考えずして理解した。ナガームンとは、単眼甲鱗人であるイリ・チ 人が構成する国家であり、惑星ニルァ・イ・クァヌアイではそれほど権力も地位も高くはない国だったが、数百年前 に自国の領土に墜落した巨大宇宙怪獣を解剖し、研究したことによって歴史は激変した。ナガームンは以前から発達 していた生体改造技術を目覚ましく発展させ、宇宙怪獣の生体組織を利用した宇宙怪獣戦艦の開発を皮切りに、 宇宙航行技術は確立していたが頭打ちだった宇宙進出を遂げたばかりか、理論は出来上がっていたが汎用には 程遠かった恒星間跳躍航行技術を完成させ、領土拡大を図るために外宇宙に攻め入っていった。その結果、惑星 ニルァ・イ・クァヌアイはナガームンの独裁状態となり、生体改造技術に長けたイリ・チ人は他の種族を容易に生体 改造して配下に置くようになった。だが、それだけでは飽きたらず、好奇心と欲望のままに宇宙怪獣戦艦で外宇宙に 繰り出しては、単細胞生物が増殖するように他の星系を侵略しては国土を拡大する侵略国家となった。
 覚醒したゼンは、粘液がまとわりつく単眼を開いた。柔らかな肉の中からずるりと長い尻尾を引っ張り出し、前に 踏み出すと、ゼンの周囲を包んでいた泡が爆ぜて内用液が溢れ出した。鼻腔から吸った空気で肺を膨らませると、 硫黄の匂いが立ち込める。足元を這い回る太い管は絶え間ない重低音と共に脈打ち、体液をどこかに送り届けて いる。脳に酸素と硫黄が回るのを待っていると、剥き出しの鼓膜に足音らしき空気の振動が届いた。

「お目覚めですか?」

 ゼンの傍らに、ゼンと全く同じ姿の男が立っていた。当然だろう、この男を元にしてゼンが産み出されたのだから。 紫の肌に長い尻尾と赤い単眼を持つイリ・チ人の男は、尻尾の先で脈打つ管を刺激すると、ゼンの足元に溜まって いた内用液が消え失せ、爆ぜた際に辺りに飛び散った泡の破片も消えた。男の背後に単眼の焦点を合わせてみる と、足元の管よりも遙かに太い管が森を作っていた。どれもこれも赤黒い色合いで、鈍色の光沢を帯びていたが、 何本かは青黒い色合いをしていた。赤黒い森の手前では、硫黄の匂いの根源である湖が浅く波打っていた。湖の 周囲には原色の植物が生えていて、イリ・チ人が好んで食する果実が熟れていた。
 居住臓器だ、とゼンは認識した。イリ・チ人は宇宙怪獣戦艦を開発した際に居住区となる内臓を生まれ持つように 改造し、果実の種も内臓の内壁に埋め込み、適度な養分を吸収して育つように生体操作されている。内圧も空気も 湿度も光量も何もかも、イリ・チ人に適した空間に仕上げられている。この居住臓器の役割は食料の生産と空調が 主立ったもので、科学者であるゾゾ・ゼゼの研究施設となる居住臓器はまた別にあり、そちらは珪素生物ばかりが 生えているのだ、と、ゼンは認識した。ゼンが産まれた生体プラントは植物の群れと併設されていて、ゼンが今し方 まで埋もれていたのは肉の花だった。赤黒くも艶めかしい花弁が幾重にも広がり、泡の内用液が滴り落ちる中心には 外殻のない卵が収まっていて、ゼンと肉の花を繋げていた管が垂れ下がっていた。

「あなたの名は……そうですね、ゼンです」

「ゼン」

 ゼンがゾゾの言葉をなぞると、ゾゾは頷いた。

「ゼン・ゼゼ。それが、私の生体分裂体たるあなたの名です」

 ではこちらに、と、ゾゾは目覚めたばかりのゼンを隣接した居住臓器に促した。内臓同士を接続している太い管を 通ると、かすかに波打っている内壁がざわめき、ゾゾとゼンは自動的に進行方向に運ばれた。小川のように一筋の 体液が端を流れ、小さく水音を立てている。光源はなかったが、双方の居住臓器から発せられる赤っぽい光が充分な 視界をもたらしてくれていた。二人を運んでいた管の繊毛運動が収まると、もう一つの居住臓器に到着した。ゾゾが 先に踏み込んだので、ゼンも続く。先程の居住臓器にはなかった硬さが足元に伝わり、空気も全体的に冷たく、 光の色合いも青味掛かっている。居住臓器の至るところから六角柱が生えていて、赤、青、緑、と透き通った原色 が重なり合っていた。ゾゾの研究施設らしき珪素の小屋は、六角柱を円形に並べて組み立てたもので、居住臓器の 中心に建っていた。ゾゾは一足先に小屋に入ると、六角柱を切断した椅子に腰掛け、ゼンも座らせた。

「この五十ミグイほど、私は一人でしてねぇ」

 ゾゾは雫型の果実の殻の器に水差しを傾けて塩酸溶液を注ぎ、ゼンに渡してきた。

「五十ミグイは長い」

 そう呟きながら、ゼンは塩酸溶液を口にした。強い刺激が舌と喉を焼き、内用液が残る胃に入るとじんわりと熱を 帯びた。胃の形状が解るほどの熱量に若干不安になったが、内用液と胃液に混じり、馴染むとおのずと熱も消えて いった。ミグイとは惑星ニルァ・イ・クァヌアイが一公転した周期の単位で、地球時間に換算して一千年に相当する。 つまり、ゾゾは五万年も一人で過ごしていた計算になる。膨大な年月を怠惰に過ごすのは長命のイリ・チ人の習性と しては珍しいものでもないが、五十ミグイはさすがに長すぎる。余程孤独を愛しているか、もしくは長期の侵略作戦を 行っているか、のどちらかである。だが、ゾゾは軍人ではなく、生粋の科学者だ。紫の肌はイリ・チ人の知的階級 であることを示す証で、赤い単眼は文官の証だ。研究に没頭していたにしても、宇宙怪獣戦艦の駆動に欠かせない 反物質の調達や母星への定期報告を行うはずだが、至近距離で感じるゾゾの脳波にはそれらの記憶はなかった。 そして、記憶には蓋がされていた。記憶中枢に触れようとすると、生体電流が乱れて読み取れなくなる。

「生憎ですが、それは軍事機密なのです」

 ゼンが記憶を読み取ろうとしたことを感知したのか、ゾゾは少し笑い、塩酸溶液を啜った。

「私にはその記憶は搭載されていないのか?」

 ゼンが問うと、ゾゾは指先で側頭部を小突いた。

「残念ながら。私はナガームン軍総督閣下であるジジ・ズズより密命を受けておりまして、恒星間航行技術に代わる 新たな技術を開発する任務にあるのです。ですので、生体分裂体と言えども、教えるわけにはまいりません」

「それを完成させれば、どうなるんだ」

「我らが祖国、ナガームンの侵略する速度も規模も飛躍的に向上するでしょう。さすれば、私の科学者としての地位も 安泰です。この先何百ミグイが過ぎようとも、私の生体情報は処分されずに優れた科学者を産み出すための基礎 情報として活用されることでしょう。ああ、ぞくぞくします」

 ゾゾは単眼を細めながら、塩酸溶液を揺らす。ゼンは塩酸溶液をもう一口啜り、尋ねた。

「では、その技術はどこまで開発出来たんだ?」

「そう、それなんですよ。理論は完璧なんですよ、理論は」

 ゾゾは尻尾の先を上げ、ぱしんと神経質な仕草で珪素の壁を叩いた。ゼンが何の気なしに音源を辿ると、ゾゾの 叩いた珪素の壁には隙間なく計算式が書き込まれていた。ゼンの脳にはゾゾの知識もたっぷりと詰まっていたので 難なく解読出来たし、ゾゾの理論の正しさも理解し、足りていないものもすぐに見当が付いた。

「乖離可能空間を発見出来ていないのか」

 ゼンが答えると、ゾゾは頷いた。

「ええ、そうです。この技術は空間そのものを使用しますから、乖離可能空間がなければ実験しようがありませんし、 一定の条件を満たしていなければ、どれほど実験したところで反物質の無駄遣いで終わってしまいます。ですので、 ゼンには乖離可能空間を見つけ出して欲しいんです」

「と、言うと」

「ゼンはワン・ダ・バのゴ・ゼンとして作りましたので、ワンと合体した状態で空間を調べて頂ければ、それほど時間を 掛けずに見つけられるかと。そうですね、十スットゥミグイ程度で」

「十スットゥミグイは短くはないか」

 スットゥミグイは惑星ニルァ・イ・クァヌアイにおける一日であり、地球時間に換算すると四十年に相当する。

「というか、総督閣下から言い渡された研究の期限が十スットゥミグイなんですよ。だから、ワンにもゼンにも出来る 限り急いでもらいたいのですよ。あなたを作った理由も、そこにありましてね。私が生体接続しても良いのですが、 私はゴ・ゼンではありませんから、作業効率は上がるどころかワンに異物反応が出てしまうんです。ですから、ゼン はゴ・ゼンとして作ったんです」

「そうか。ヴィ・ジュルは何機が使用可能だ?」

「現時点で運用可能なのは、この十機です」

 ゾゾは珪素の柱に触れて板をずらし、その中から赤い球体を十個取り出した。

「その間、私もカ・ガンを使ってあなた方の観測を補助しますし、それだけあれば充分だと思いますよ」

 ゾゾはゼンの手の上に十個の赤い球体を載せると、別の柱から平たい円盤を取り出し、鏡面に触れた。

「ゼンと生体同調率の高いヴィ・ジュルは、取り込んでおいて下さい。その方が生体接続率も演算効率も上がります から、乖離可能空間を発見するのが容易になるはずです。では、よろしくお願いしますよ、ゼン」

「今からか」

「ええ、もちろん。あなたの出来は保証しますとも、この私がね」

 ゾゾはにたりと単眼を細めると、塩酸溶液の入った器をくるりと回した。ゼンの腰掛けている六角柱の側面から、 きしきしと軋みながら珪素生物の触手が伸びてきた。ゼンは塩酸溶液の残る器を珪素のテーブルに置くと、珪素の 触手が頸椎に突き立てられ、ゼンの神経に直接珪素回路が接触した。それはワン・ダ・バが内部操作用に使用して いる触手で、ゼンの脳内に、ワン・ダ・バが見ている景色や肌で触れている宇宙空間の様子が流し込まれてきた。 産み出された時点でゾゾの知識があらかじめ与えられているとはいえ、脳を行使した時間は皆無なゼンにとっては 過剰な刺激だった。胃を焼き付かせる塩酸溶液の刺激も相まり、全身の神経と細胞が隈無くざわめくような感覚に 陥ったゼンは体を折り曲げた。ゾゾは器をテーブルに置くと、立ち上がり、悠長に尻尾を振った。

「では、頼みましたよ」

 そう言い残し、ゾゾは珪素の小屋を後にした。その間にもゼンはワン・ダ・バに浸食され、完成して間もない肉体に 珪素の楔が突き立てられる。最も敏感な尻尾の尖端には針の如く尖った触手がねじ込まれ、単眼の裏の視神経も 珪素の触手に断ち切られてワン・ダ・バの視神経と直結させられる。痛みを感じている暇もなく、ゼンは珪素の触手に よって引き摺られていった。研究施設である居住臓器と他の臓器を接続している管の中を運ばれ、体液と血液と 粘液にまみれながら進み、ワン・ダ・バの内へ内へと向かっていく。
 大動脈を泳ぎ、肺の間に収まる脳を一巡し、肋骨の内側を抜け、脊椎を辿り、頸椎に沿って上昇し、感覚器官が 集中している頭部に到達する。ゼンを運んでいた珪素の触手が断ち切られると、ゼンは頭部に集中している神経の 束にめりこみ、手足も尻尾も自由を奪われた。触手よりも一回り太い肉の筋がうねると、細分化し、ゼンを隙間なく 包んで分厚い肉の中に引き摺り込む。出来上がって間もない肉体を溶解されると、今度は同じように血流に乗って 運ばれてきた珪素回路が次々にゼンの溶けた肉体に突っ込まれ、馴染まされる。十個のヴィ・ジュルを得たことで 演算能力も思考能力も数万倍に拡張したゼンは、ワン・ダ・バと意識を同調させると、宇宙怪獣戦艦の巨大な単眼を 開かせた。銀河系の端なのだろう、視界に入ってきた暗黒空間には目映い光の川が横たわっていた。
 近くの恒星から発せられる放射線が、プラズマを帯びて輝く。暗黒物質に入り混じる微細な反物質は数百万光年も 先で発生した超新星がもたらしたものだ。真空の世界は冷たいが絶え間なく飛び交うエネルギーは熱く、この星系を 律している恒星が作る重力は神経をひりつかせる。デタラメな電波を感じ取るたびにワン・ダ・バの脳波が小さく 跳ね、刺激に喜んでいる。ワン・ダ・バも、長きに渡る旅に退屈しているのだ。
 ゼンはゾゾの生体分裂体ではあるものの、ワン・ダ・バの生体部品として産み出されたものだ。生体部品は一定 の思考能力と自我は持つが、個性は持たぬように設定されている。本来、生体分裂体は生体情報の持ち主の予備 の肉体として作られるものであり、脳を収めるためのスペースを確保するために脳も備わっているが、大抵はすぐに 切除されるので知能も自我も持たないように設計されて、脳内伝達物質も少なく、神経も必要最低限で、脳細胞 自体も脆弱だ。今回はゾゾの目的が目的なので、脳の強度も上げられてそれ相応の知識と知能を与えられたが、 役割を終えたらワン・ダ・バの内に戻される。ワン・ダ・バと一体化しているゼンは、ワン・ダ・バの脳から生体分裂体 の製造履歴を照会してみると、これまでにも何度か生体分裂体が産み出されてはワン・ダ・バの中に戻されている。 それは失敗作であったり、ゾゾが与えた役割を満足に終えたからであったり、事故で致命的な損傷を受けたり、と 様々だったが、どの生体分裂体も例外なく死んでいた。だが、それについてゾゾは何も感じない、と、ワン・ダ・バを 通じて知った。それは当然だ、イリ・チ人は生体分裂体に死を与えることで己の死を回避し、怠惰な生を満喫する 種族なのだから。生殖能力を持たないのも、単純に進化の過程で失われたからではない。生殖活動を行って子孫を 成すよりも、優れた遺伝子を選り分けて生体分裂体を造る方が、余程効率的だと理解しているからだ。手間も暇も 掛かるが、それを何百ミグイも繰り返してきたので本当の優良種だけがイリ・チ人という種族を構成している。
 ワン・ダ・バが蓄積しているナガームンの歴史と、己の生体情報を重ね合わせたゼンは、己が大した優良種では ないことを認識した。だから、乖離可能空間を発見次第、ワン・ダ・バとの合体は解除されずにそのまま吸収されて しまうのだろう。痛みもなければ苦悩もなく、悔恨もなければ哀切もない。単なる部品に自我は不要だからだ。
 それから、五スットゥミグイが経過した。ゼンはただひたすらに、ワン・ダ・バに至る無数の情報を計算し、空間の 密度、空間に含有する物質の量、空間に集積する重力を解析し、乖離可能空間を発見しようとした。だが、思った ように効率が上がらない。調査宙域を変えてみても結果は変わらず、八スットゥミグイを過ぎた頃からゾゾが焦れて きた。それまでは不干渉だったゼンに対して直接命令を下すようになり、カ・ガンによる遠隔操作でゼンの生体電流 が調節されたが、やはり変わらない。時間ばかりが無益に過ぎ、十スットゥミグイを越えた頃、ワン・ダ・バは恒星間 跳躍航行技術を少々失敗して通常空間に出た際に水素融合式推進孔を負傷した。対重力制御を損なった状態で 近隣の惑星の重力に引かれたワン・ダ・バは、大気圏摩擦で頭部を欠損しつつ落下した。
 それが、地球だった。





 


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