南海インベーダーズ




晩夏



 生きている。
 縫合されたばかりの右足から広がる激痛が、否応なしに体を駆け巡る。瞼が眼球から剥がれず、喉が渇き、胃は 空虚だが妙な充足感がある。左腕に繋がれているチューブからは、生命を潤わす液体が脈拍に合わせて一滴ずつ 注ぎ込まれてくる。見ず知らずの他人から採取された血液もまた、失った分と同等の量を緩やかに注がれていた。 酸素マスクの内側でゆっくりと息を吐くと、枕元から看護士が声を掛けてきた。意識の有無を確かめるための言葉 だったが、声色は柔らかく、安心感をもたらしてくれた。白い天井と清潔な空気が、訳もなく嬉しい。

「具合、どうですか?」

 真波に話し掛けてきたのは、水色のガウンを着てマスクを付けている鈴本礼科だった。

「私……死ねなかったみたいね」

 ようやく瞼を開いた真波が掠れた声で答えると、礼科は肩を竦めた。

「それが一番ですよ、真波さん。人生なんて、死にさえしなきゃなんとかなるもんですから」

「白崎君の連絡先を書いた紙、取りに行かないと」

「ああ、それについては心配しないで下さいな。真波さんの私物は我々が回収しています、証拠品としてね」

 礼科は椅子を引き寄せると、真波の命を繋ぐ機材の傍に座った。

「一通り調べて我々が知りたいことを洗い出し終えたら、全部お手元に返しますよ。彼の連絡先もね」

「ありがとう、って言うのも何か変な気がするけど」

「あなたに御礼を言うべきなのは、私達の方かもしれませんけどね」

 礼科はマスクの下で、少し笑ったようだった。短い面会時間を有効活用するためか、礼科は簡潔かつ明瞭に話を してくれた。それは、公安の戦闘部隊に所属する双子の戦闘サイボーグ、高嶺南人と高嶺北人に関する話だった。 五年前、公安の戦闘部隊を編成するためにSATから出向してきた高嶺兄弟は、自衛隊上がりの鈴本礼科による 指揮の下で実戦配備された。どちらも力を持て余し気味の若者で、戦闘センスは抜群だったが勢いが良すぎる点 が否めず、訓練でも実戦でも礼科は冷や冷やし通しだった。調子にだけは乗るな、まずは落ち着いて行動しろ、と 常日頃から言い聞かせてはいたが、重大事件に関係する戦闘で高嶺兄弟は重傷を負い、頭は無事だったが体は 使い物にならなくなってしまった。将来を悲観した二人は礼科に殺してくれと懇願するほどで、礼科も一時はかなり 思い詰めもした。それから一ヶ月後、変異体管理局から公安に移ってきた技術者が礼科にこう言った。あなた方に してみれば恐ろしく怪しい話かもしれないが、二人を生かす術はないわけではない、と。サイボーグ化手術の前例は この世でただ一つしかないが、それ自体は完璧に成功している、とも。資金と資材と人材さえ揃えてくれれば、高嶺 兄弟を再び立ち上がらせることが出来る。礼科も公安の面々も迷いに迷ったが、高嶺兄弟が懇願してきた。どうせ 死ぬのであれば、戦ってから死にたい、と。そして、二人はサイボーグ化手術を受けて見事に蘇った。

「私は、変異体管理局そのものには否定的なんですけどね」

 礼科は笑顔を収め、冷淡に述べた。

「多少なりとも理由があったとしても、一般市民を勝手にインベーダー扱いして拉致、隔離したばかりか、攻撃対象 として認定した挙げ句に殺しに掛かっていたんですから。そりゃ、解りやすい敵を作れば国民の意識をまとめるのは 簡単かもしれませんけど、それに乗っかっていた政治も政治です。一応、この国は民主主義国家なのに、それじゃ 共産主義じゃないですか。世論も操作されていたとはいえ、インベーダーを極端に敵対視する風潮が蔓延している のも良くないですよ。アウトサイダーを蔑視するんじゃなくて、距離感を持って接するようにするべきだったんじゃないか と私は思います。まあ、程度に寄りますけどね」

 礼科の目線が下がり、掛布に隠されている真波の右足を捉えた。

「でも、この一件であらゆる技術が格段に進むのは間違いないでしょう。サイボーグ化手術だって一般的になる かもしれないし、微々たるものでしょうが異星の技術だって流出します。そうすれば、南人と北人みたいにまた 生きられるようになる人も増えるでしょうね。それだけは、いいことだって思います」

「そうですね」

「今後の処置については、また追々説明に来ますよ。一日でも早く、白崎さんに電話して下さいね。あの人、ずっと 待っているはずですから。それこそ、携帯を壊しかねないほど握り締めて」

「ええ、もちろん」

 真波が笑い出しそうになると、礼科は十分間の面会時間が終了したので腰を上げた。

「では、これで失礼します。お大事に」

 看護士に挨拶してから、礼科は集中治療室を去っていった。真波はその背中を見送っていたが、ぼんやりした頭 では能力は発動しないらしく、礼科や看護士達からは何一つ情報が得られなかった。竜ヶ崎からコピーした情報も 大半が出血と共に流れ出してしまったらしく、ほとんど残っていない。竜ヶ崎に内股の肉を食い千切られた後、礼科 を始めとした公安の人間によって福井県内の病院に運び込まれたのだろう。ここがどこなのかは、適当な看護士に でも尋ねてみれば解るだろうが、今はそこまでする気力はなかった。集中治療室にはテレビはないので、外の情報 は掴めそうにないが、当分は竜ヶ崎のことを忘れていたい。少しでも思い出すだけで、嫌な汗が滲む。
 目だけを動かして窓の外を窺うと、ブラインドの隙間から病院の中庭が見えた。日差しは地面が白むほど強烈で、 重たく熱い風が木を揺さぶって通り過ぎる。容赦なく注ぐ熱を浴び、花壇では花が頭を垂れている。目を惹いたのは 背の高いヒマワリで、皆、黄色い花弁は萎れて力なく項垂れていた。
 もう、そんな季節なのか。この十数年間、季節など気にしたこともなかった。変異体管理局で戦い続けていると、 色々なことがどうでもよくなっていたからだ。実家に帰ることもなかったから丸一年を海上基地で過ごし、たまの休暇 も溜まった仕事の処理にばかり負われていた。今年の夏は忙しかったから、尚更だった。惜しむらくは、忌部島が 健在だった頃に一度も行かなかったことだ。真波は小さな悔いを胸に収め、色味の濃い空を見上げた。
 山の向こうでは、入道雲が誇らしげに膨らんでいた。




 意識を電子の海に浸し、膨大な情報を演算していた。
 都心の機能が死んでいる今こそ、やりたくても出来なかったことをやらかしてみる絶好の機会だ。兄に作戦として 提案してみたところ、難色は示したが承諾してくれた。伊号の作戦の有効性は理解してくれたし、やり方はどうあれ 竜ヶ崎全司郎の動きを封じる手段があるとないのでは大違いだからだ。けれど、そのためには準備が欠かせない。 ゾゾから言い渡された猶与は今日だけなのだから、フルに活用しなくては。都合の良いことに都心は空っぽなので、 ありとあらゆるサーバーやネットワークを外部記憶容量として利用し尽くして計算に計算を重ねているが、まだまだ 終わりそうにない。この分だと、準備が整うのは戦闘開始直前といったところか。
 意識の半分以上を機械遠隔操作に向けている伊号は、ぼんやりしていた。だから、種違いの姉のされるがままに なっていた。日中なので紫外線防止用に黒い包帯を全身に巻き付けている翠は、機嫌良く伊号の髪を梳いていた。 翠が使っているのは伊号のヘアブラシではなく、見るからに値の張りそうな柘植の櫛だ。上品な桜の彫り物が翠の 指の間から垣間見え、翠は包帯の隙間から覗いた金色の目を糸のように細めていた。伊号のだだっ広い部屋には 軽い摩擦音が繰り返され、大きな窓は遮光スクリーンに塞がれていて、伊号が無造作に流し込む大量のデータが 滝のように流れているモニターだけが眩しく光っていた。

「いづるさん」

「んー?」

 気もそぞろに伊号が返すと、翠は微笑んだ。

「髪の毛を梳くのって、こういう気持ちなのですわねぇ。さらさらしていて、とっても楽しゅうございますわ」

「んー、まあ、悪いもんじゃねーし」

 伊号は意識を浮上させて演算の八割を外部ネットワークに任せ、翠に気を向けた。

「これの使い道がずうっと解りませんでしたけれど、こうやって使うものなんですわね」

 赤いメッシュの入った伊号の髪にするりと櫛を通した翠は、その髪を硬い手のひらに載せる。

「あのさ」

 伊号は頭皮に残るくすぐったさを感じつつ、首を捻って振り向いた。

「なんでそんなにあたしに構うん? あたしはあんたの妹かもしれねーけど、初めて会ったのって昨日だし。それに、 あんたは兄貴の方が好きなんじゃねーの?」

「御兄様は心からお慕いしておりますわ。殿方としても、家族としても。ですけれど、今は御兄様もお忙しゅうござい ましてよ。御邪魔をしては悪うございましてよ」

 翠はツゲの櫛を襟元に差し込むと、伊号の髪を二つに分けていじり始めた。

「御兄様と同じくらいに、いづるさんのことも知りとうございましてよ。いけませんでしょうか?」

「別に、いけなくはねーけど」

 伊号は首筋に時折触れる姉の指がむず痒かったが、言った。

「あたしら、明日になれば全員死ぬかもしれねーじゃん? 局長に勝てるって保証もねーし、局長があたしらのことを 生かしてくれるとも思えねーし。次元乖離空間跳躍航行技術だって、未完成だし。理論が立証されてねーんだもん。 ゾゾから理論を教えてもらったから、ネットワークを利用した演算能力で何度かシミュレーションしてみたけど、あれ じゃ宇宙を飛び越えるどころじゃねーし。下手をしたら、並列空間ごと通常空間まで崩壊しかねねーし。成功すれば ニライカナイまで飛べるかもしれねーけど、そんなん仮説でしかねーし。ワープ空間に成りきれなかった並列空間が 崩壊したら通常空間にもマジ影響出るし、そうなっちまったらこの間のはーちゃんの暴走の非じゃねーし。そしたら、 この基地も東京も吹っ飛ぶし、最悪地球の半分ぐらい持っていかれるかもしれねーし。だから、さぁ」

「心残りなど、ございませんわ」

 翠は伊号の髪を短い三つ編みに結ぶと、根本をリボンで結わえた。

「存分に御兄様から愛して頂きましたし、御兄様を愛しましたもの。長年の夢でした、外に出ることも叶いましたし、 ほんの一瞬でしたけれどお日様の下に出ることも出来ましたわ。皆さんと一緒に楽しく暮らせましたし、物事も沢山 教えて頂きましたし、嬉しいことばかりでしたの。ですから、後はいづるさんと仲良くなるだけなのですわ」

「ママには、会いたいって思わねーの?」

「私は、御母様から捨てられてしまいましたもの。だから、御母様は私のことなどお忘れになられて」

「んなわきゃねーし! ママはあんたのこと、忘れてなんかいねーし!」

 思わず伊号が声を張ると、翠は目を丸めた。

「まあ……」

「ママは、本当にあたしらのママなんだよ! あんたはママのこと覚えてないかもしんねーけど、ママは忘れるわけが ねーし! そんなんママに言って泣かしてみろ、あたしが許さねーし! それが姉貴でも!」

 かすがに抱き締められた温もりを思い出した伊号は、万能車椅子を反転させてまくしたてる。

「あんたも、一度で良いからママに抱っこされてみりゃいい! そしたら、そんなこと絶対に言えなくなるし!」

「本当ですの? 御母様は、私のこと、忘れておりませんの?」

 膝を付いた翠は、伊号の動かない手を取った。伊号はその低い体温に戸惑ったが、姉を真っ直ぐ見返す。

「ママのことで嘘なんか吐かねーし」

「でしたら、教えて下さいまし。御母様はどんな御方ですの?」

「どんなって……」

 伊号は姉の手を握り返せないのが歯痒かったが、母親のことを話した。

「ママはさ、必死な人なんだよ。あたしを育てることもそうだったし、兄貴達のお母さんのお骨を取ったのだって自分が 生きるために必死だったからなんだ。あたしの首の骨を折ったことにされて服役したのだって、そういうことだし。 だから、ママはあたしらのこと、必死になって育ててくれるはずだし。これまで出来なかった分、余計にさ」

「そうでしたか……。御母様について存じ上げなかったとはいえ、失礼なことを申してしまいましたわ。なんとお詫び 差し上げたらよろしゅうございましょうか」

 翠は伊号の手を掲げ、包帯を巻いた頬に寄せる。その仕草が非常に照れ臭かったが、伊号は堪える。

「ま、まあ、解ってくれたんなら別にいいし? てか、お詫びも何も、生き延びてママに会えばいいだけだし」

「でしたら、私も戦いをお手伝いしとうございますわ」

「んなもん、いらねーし。あたしらみたいに、戦える連中だけでなんとかするし」

「ゾゾさんから、こんなものを頂きましたの」

 翠は帯から根付けを抜き、伊号の前に差し出した。そこには、瑪瑙に良く似た色合いの赤い勾玉が付いていた。

「……ん、なぁ?」

 なぜ、こんなものが。伊号が驚くと、翠はその根付けを帯に戻し、襟元から別の珪素回路を出した。

「ワンさんに合体なさった、ミーコさんと小松さんからの贈り物ですわ。お二方が仰るには、この珪素回路は本来の ヴィ・ジュルの性能を数十倍に向上させたものではあるけれど、それ故に耐久力はかなり低いそうですわ。けれど、 これを使えば意識を保ったまま巨大化出来ますし、皆さんを微力ながらお助け出来ますわ」

「マジ馬鹿だし、そんなんマジしちゃいけねーし! 珪素回路ってのは、生体電流を同調させて増幅させて生体機能 を活性化させるかもしんねーけど、弊害もマジでかいし! あたしらみたいに慣れた人間ならまだマシかもしれねー けど、あんたみてーにひっでぇアレルギー持ちが使ったらマジ命に関わるし!」

「気に掛けて下さいますのね」

「当たり前だし。つか、無茶して死んだら、ママに会おうにも会えねーし」

「いづるさんはお優しゅうございますわね」

 翠が朗らかに笑むと、伊号はつんと顔を背けた。

「普通のこと言っただけだし」

「いづるさんの分の珪素回路もございましてよ」

 翠は腰を上げると、勾玉型の珪素回路を通した髪結い紐を、伊号の三つ編みに結び付けた。

「あたしは別に、そんなん」

 いらねーし、と反論しかけたが、途端に伊号の演算能力が著しく向上した。十数時間は掛かるかと思われていた 通常空間と並列空間の計算や電圧や電極などの計算が瞬時に終わり、伊号自身の脳も晴れていく。珪素回路の 能力がいかなるものかは知っていたが、実際に触れてみると、その威力は凄まじい。紀乃がパトリオットミサイルを 跳ね返せるようになるわけだ、と、伊号は今更ながら納得した。

「お似合いですわ、いづるさん」

 翠は手鏡を持ってくると、伊号の前に差し出した。片方だけの三つ編みには、赤い勾玉に合う小豆色の髪結い紐 が結び付けられて首を動かすたびに揺れた。その後ろに見える翠の帯にも同じ勾玉が付いていて、お揃いなのが なんだか気恥ずかしい。だが、片方だけではバランスが悪い。もう片方をロボットアームで結ぶのは容易いが、それ では翠に気が引ける。かといって、べったりと甘えてしまうのも情けないような。

「あのさ、そのぅ」

 だが、ここで遠慮するのも変だ。伊号は頭を反らし、姉を仰ぎ見た。

「片方だけだと変だから、えと、もう片方もちゃんと結んでくれね?」

「よろしゅうございましてよ」

 翠は快諾し、伊号のもう片方の髪も三つに分けて結い始めた。伊号から頼まれたことが嬉しいのか、翠の機嫌は 一層良くなっている。姉の指は冷たいが手付きは優しく、思い遣りに満ち溢れている。家族だとはまだ思えないが、 この人は、外見こそ普通ではないが姉に違いない。同じ母親から産まれたが、どちらもまともとは言い難い人生を 歩んできた姉妹だ。ほんの一時だけで、互いに自覚もなかったが、敵同士になった時もあった。だけど、翠自身に 敵意を抱いたことは一度もない。かすがに抱き締められた時に感じた穏やかさが、翠の手からも染み入り、伊号は 無意識に力を抜いていた。戦いが終わったら、翠を姉と呼んでみよう。そして、二人で揃って母親に会いに行こう。 決意というにはささやかな願いを抱きながら、伊号は翠の好意に存分に甘えた。
 三つ編みが完成する頃、必要な計算は全て終了した。





 


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