南海インベーダーズ




儀来河内



 今頃、彼らはどうしているだろうか。
 寝起きの頭でぼんやりと考えながら、汗ばんだ寝間着を脱ぎ捨てた。彼らに関わる夢を見ることは少なくないが、 目が覚めるたびに寂寥感に駆られる。あのまま合体を解除出来なかったら、どうなっていただろうかと。広大な宇宙 を行く首長竜の如き宇宙怪獣戦艦となり、次元と空間を飛び越えながら、暗黒物質の詰まった空間を彷徨う。重力と 放射線を浴びながら、腹の中の居住臓器に友人を宿し、命の限りに星の海をたゆたうのだ。旅立ったら旅立ったで ホームシックに駆られるかもしれないが、やはり惜しかったと思ってしまう。どこもかしこも平凡極まる自分が宇宙に 行ける機会など、そうそうあるものではないからだ。そんなことを考えていると、自室のドアが乱暴に叩かれた。

「さっさと起きやがれ、クソ兄貴!」

 次女の殺気立った罵声に、末継純次は言い返した。

「なんだ、車でも出して欲しいのか?」

「そんなんじゃねーし。てか、起きてんなら、さっさと下に降りてきやがれ」

 荒っぽくドアを開けた手にはブレスレットが何本も付けられ、不満げに目を据わらせた顔には丹念に濃いメイク が施され、脱色された長い髪はヘアアイロンで巻かれて派手に盛られている。二次性徴が終わったばかりなのでまだ 脂肪の付き方が半端だが、充分女らしさを得た手足が惜しげもなく曝されている。寝起きからげんなりした純次は 妹の格好を上から下まで見回すと、次女、末継いづみは不服げにたっぷりと膨らんだ胸を反らした。腹が出るほど 丈の短いキャミソールにベストを着てダメージジーンズのホットパンツを履き、日に焼けた太股を露わにしている。

「んだよ」

「日に日にひどくなるな、お前の格好は」

 純次が嘆くと、いづみはなぜか得意げに笑った。 

「人生をマジ謳歌してるだけだし! ママも姉貴も反対しねーし!」

「俺は反対だ。大体なんだ、その、ギャル系のテンプレートみたいな格好は。ちったぁ個性を出せ。それと、あんまり 腹を冷やすのは女の体には良くないんだぞ。後々困るのは自分なんだから、気を付けろ」

 純次が妹の額を小突くと、いづみはむくれた。

「いちいちうるせーし」

「で、何の用だ。俺は今日は午前休講だが、遊び歩くのに付き合う時間はないからな」

「あたしだってそんなもんねーし。てか、とっとと単位取れよ? でねーと、あたしの方が先に卒業しちまうし」

「それが冗談に思えないのが怖いんだよな」

 純次はぼやきながらジーンズのベルトを締め、手を払った。

「で、いづみ、本題はなんだ。さっきから脱線しまくりじゃないか、さっさと言え。でないと俺も動きようがない」

「あー……あの、さぁ」

 いづみは厚くファンデーションを塗った頬に付け爪を貼り付けた指を添え、グロスをたっぷりと塗った唇を曲げて、 しばらく黙り込んだ。訝った純次が近付くと、いづみは後退って壁際まで下がってしまった。それから更に数十秒間 いづみは黙り込んでいたが、視線をしきりに彷徨わせた後、純次を見上げてきた。

「えー、その、朝飯が冷める前に喰ってくんね? 今日のは、その、姉貴のでもママのでもねーから」

「お前の手料理か、そりゃ珍しい。九割九分の確率で宇宙怪獣が降ってくるな」

「ウッゼェ黙れ馬鹿兄貴! 喰わねーとマジ承知しねーし、てかもうあたしは大学行く時間だし! じゃあな!」

 いづみは教科書やノートが詰まったバッグで純次を張り倒し、どかどかと足音を立てながら階段を下りていった。 強かに殴られた横腹を押さえた純次はその場に座り込み、しばし悶絶した。妹をからかいすぎた自分が悪い。が、 面と向かって好意を示すのが恥ずかしいのはどちらも同じなのだ。つくづく俺達は兄妹なんだなぁ、と文字通り痛感 しながら、純次はその辺からTシャツを取って被った。脇腹の痛みが引くのを待ってから階段を下りると、玄関では 長女と母親がいづみを送り出していた。いづみはまだ怒っているらしく、自転車の漕ぎ方もいつも以上に荒かった。 ばつが悪くなった純次が階段を下りかけたところで突っ立っていると、長女、翡翠が振り返った。

「おはようございます、御兄様」

「おはよう、スイ」

 純次が苦笑混じりに挨拶すると、母親、はるひは眉を下げた。

「純次君、もうちょっとあの子を褒めてやりなさいよね? 今日の朝御飯、凄く頑張って作っていたんだから」

「そうでしてよ、御兄様。埋め合わせをなさいませんと、いづみさんは拗ねてしまいますわ」

 藤色の浴衣を仕立て直したワンピースを着ている翡翠は、長い髪をかんざし一本で器用にまとめていた。

「どうにも上手くいかないんだよ、俺もいづみも」

 顔洗ってくる、と言ってから、純次は洗面所に向かった。汗と皮脂でべとついた顔を洗い流してからタオルで拭い、 自責の念で存分にため息を吐いてから上体を起こした。鏡には、父親の面影が薄らいでしまった自分の顔が映る。 生体洗浄を受けたことで透明化しなくなったのは良かったが、血の繋がりを感じさせるものまでが洗い流されたのは 勿体なかった。何も知らなかった若い頃はむやみやたらに父親と長兄を恨んでいたが、全てを知った今となっては 血の繋がりに愛おしさを感じる。中途半端に伸びたヒゲを当たってからダイニングに向かうと、テーブルには純次の 分だけが揃っていた。はるひも翡翠もいずみも、早々に食べてしまったようだ。
 麦茶を入れてからテーブルに付いた純次は、素直に感心した。勉学と化粧以外は不得手ないづみにしてはかなり 頑張った方で、不揃いに切られた野菜入りマカロニスープにトマトと卵の炒め物に焦げ気味のトーストが添えられて いた。冷蔵庫にはフルーツヨーグルトもあり、余程気合いを入れたと見える。それに対してあの態度とは、いづみで なくとも腹を立てて当然だ。まず謝ろう、その後で埋め合わせをしよう、と猛省しつつ、純次は朝食を食べ始めた。
 忌部次郎が末継純次となり、滝ノ沢翠が末継翡翠となり、伊号、すなわち、忌部いづるが末継いづみとなり、忌部 かすがが末継はるひとなってから久しい。生体洗浄を終えて元に戻ったばかりの頃、忌部は家族と同居することは、 全く考えていなかった。中退扱いになっている大学をちゃんと卒業しようと考えていたことと、女性ばかりだった ので気が引けていたのと、一時ではあったが翠と深い仲になってしまった負い目が理由である。かすがと翠は忌部 の気持ちを汲んでくれたのだが、意外なことに伊号が大反対した。父親とほとんど暮らせなかったのが長年の不満 だったのと、療養所での日々で伊号は次兄の忌部にすっかり懐いてしまったからである。といっても、普段の態度が 捻くれているので解りづらすぎたため、忌部は伊号には嫌われているものだとばかり思って身を引こうとしたのだが、 伊号は必死になって忌部を引き留めた。その結果、四人はややこしい家族として暮らすことになった。その際、 忌部は以前通っていた大学の単位を引き継いで近隣の大学の経済学部に再入学し、今度こそ思いのままに人生を 歩むための準備を重ねている。
 外から見れば、この一家は歳の離れた兄妹に見えるだろう。だが、その実は違う。はるひは翡翠といづみの母親 であり、純次ははるひの再婚相手である父親の次男である。その辺の関係は忌部時代から変えていないのだが、 新しく出会う人々に説明するのが本当に面倒臭い。だから、いっそのこと、はるひは自分の姉扱いしてもいいのでは と思う瞬間もあるが、純次より四歳年上の継母であるはるひは、娘達の前ということもあり母親らしい態度を取る。 おかげで未だに純次は君付けで呼ばれているし、はるひも母親と呼べと言ってくる。異性ではなく家族として接する ためには必要なことだが、純次は感覚的に納得出来ず、はるひを母親と呼べたのは数えるほどでしかない。

「御兄様といづみさんの仲の良さには、私、少し妬けてしまいましてよ」

 レースカーテン越しに注ぐ日差しを浴びながら、翡翠は微笑む。生体洗浄で不要な因子を排除したことで、彼女は 人間の姿を得た。目鼻立ちはすっきりと整っていて、控えめな表情と立ち振る舞いから清楚な雰囲気が漂う、今時 珍しい日本美人である。今では着物だけでなく洋服も着るようになったが、全体的な頻度で言えば着物を着ている 日数が多い。それもそのはず、自己流だった和裁をきちんと習って手に職を付けようと翡翠は和裁の専門学校に 通っているからであり、実習で作った着物を自分で着たり、はるひやいづみに着せたりしている。たまに純次もその 恩恵に与るが、翡翠の和裁の腕は明らかに上達している。長年苦しめられた紫外線アレルギーは消え失せたが、 鮫島甚平に次いで生体汚染がひどかった翠の肉体から汚染因子を全て抜き取ってしまうと、染色体や遺伝子など が欠損するおそれがあった。そこで、ゾゾとワン・ダ・バは考慮し、翠のアレルギーを反転させた。その結果、一定量 の紫外線を浴びることで人間体が保たれるようにはなったが、紫外線を浴びなければ竜人の姿に戻ってしまう弊害 が残った。けれど、翠はそれでも充分だと言った。思う存分太陽の下に出られるのであれば、再びあの忌まわしい 姿になろうとも苦しくはありませんわ、と。

「それを食べ終わったらいづみにメールでもしてやりなさい、お兄ちゃん」

 はるひは紅茶を傾けながら、澄ましている。純次はトーストの切れ端を囓り、嚥下する。

「解ってるさ。ついでに、適当に埋め合わせもする」

 次女、末継いづみは、現在大学三年生である。生体洗浄と生体復元を受けたおかげで、脳に埋め込まれた肉片 も摘出されて全身不随も完治した伊号は、これまでの鬱憤を晴らすかのように運動して体を鍛えながら勉強に勉強 を重ねた。元々の頭の出来の良さと努力が功を奏し、あっさりと理数系の大学に合格した。それどころか、呆気なく 飛び級してしまった。やっとの思いで再入学した純次は学年を追い抜かれ、大学生活では妹が先輩という妙な構図 が出来上がった。ワン・ダ・バと関わった際に触れた宇宙物理学に魅了されたいづみは、かなり挑戦的な理論を 次々と立ち上げては学友や教授達と論争を繰り広げている。それなのに、格好はいかにも頭の悪そうなギャル系の 服装なのでギャップが大きすぎる。けれど、それでいいのだろう。いづみ自身が選んだ人生なのだから。

「それじゃ、俺も行ってくるよ。スイ、ちょっと付き合ってくれないか」

 デザートのフルーツヨーグルトまで食べ終えた純次は、自分の分の食器を浸してから長女に声を掛けた。

「あら、御兄様は午前休講ではありませんでしたの?」

 翡翠が母親似の目を丸めたので、純次は苦笑した。

「その時間で埋め合わせを見繕おうと思ってな。だが、俺のセンスじゃいづみをまた怒らせかねん。だから、スイが 一緒に選んでくれないか。その方が安全だ」

「まあ! それでは、午前中は御兄様とデートですわね!」

 嬉しゅうございますわ、でしたらお洒落しませんと、とうきうきしながら、翡翠は自室に向かった。

「全くもう、純次君はあの子達ばっかり可愛がるんだから」

 はるひが不満を零すと、純次は口籠もった。 

「そりゃまあ、か……母さんと妹は違うから」

「でも、今日のところは許してあげるわ。母さんって言ってくれたんだもの」

 さてとお洗濯しなきゃ、と言い残してから、はるひは足取りも軽く脱衣所に向かった。純次は四歳しか年が違わない はるひを母さんと呼んだ照れ臭さが全身に襲い掛かり、再び悶絶した。脇腹の痛みまでも蘇ったような気がする。 色々な意味で居たたまれなくなりながら、純次は出かける支度をするために階段を昇った。この状況は山吹に 伝えていないが、教えた場合のリアクションは容易に想像が付く。これなんてエロゲっすか、と言うに決まっている。 純次だってそう思う瞬間がないわけではない。だが、それも何年続くだろうか。
 月日が流れれば、いづみも翡翠も大人になって純次以外の男を知って、広い世界に飛び立つ。はるひにしても、 いつ、誰と再婚するかも解らない。純次も例外ではなく、結婚したいと思う女性に出会うかもしれないのだ。だから、 この騒がしくもややこしい家族でいられるのはほんの僅かな時だ。これまでの人生を埋め合わせるためにも、存分に 楽しまなくては。自室のカーテンを開けると、かつて先祖が見ていたであろう海が一面に広がっていた。
 海峡の先では、紀伊半島が横たわっていた。




 校門を出ると、少し寂しくなった。
 一ヶ月と二週間はここに通えなくなるのだから。背中に担いだエレキギターのケースの重みを感じつつ、末継露子は 校舎を見上げた。カトリック系の私立高校に相応しい十字架がそびえ立ち、夏休みの始まりに浮かれる生徒達を 見守っていた。同年代の少女達は夏休みの予定を言い合っては、一夏の冒険に期待している。半袖ブラウスから 出ている腕やチェックのプリーツスカートから伸びた素足は、二学期には日焼けしているだろう。石畳を学校指定の ローファーが叩く足音が幾重にも連なり、中央に女神像の彫刻が屹立している噴水からは涼やかな水音が聞こえ、 校内に茂る木々が風に弄ばれる葉音が混じり合う。それらを際立たせているのはアブラゼミの鳴き声で、海面から 吹き上がってきた潮風が山間から下りてきた夏の匂いと絡み合い、色彩の濃い季節を強調している。能力を失って からも感覚が衰えなかった幸運を、内心で喜んだ。季節の移り変わりを人一倍鮮やかに感じられるのだから。

「ごめんあそばせ、露子さん」

 その声に露子が振り返ると、同級生の鍬原桐香が優雅な笑みを浮かべていた。

「さようなら。桐香」

 露子が挨拶を返すと、桐香は小首を傾げた。

「紀子さんはいかがなさいまして?」

「お姉ちゃんは部活のミーティングがある。だから私は先に帰るんだ」

「まあ、そうでしたの。存じ上げませんでしたわ」

 露子が答えると、桐香はしなやかに指先を曲げて頬に添えた。舞台女優のように計算し尽くされた仕草は、桐香 の並外れた美貌でなければ滑稽に思える。逆に言えば、桐香だからこそ作り出せる気品だった。

「でしたら、お先に失礼いたします」

 桐香は露子に深々と頭を下げると、校門の外に出ていた二人の女子生徒が戻ってきた。

「キリ、さっさとしろよ、じゃねーとこれから遊ぶ時間が減るだけだし!」

 高校二年生にしては小柄な女子生徒、蜂矢ののみはキーホルダーが大量に付いた通学カバンを振り回す。

「大丈夫だってば、のんちゃん。今日は私もキリちゃんも御稽古事はないんだし、焦らなくても平気だよ」

 ののみのカバンを押さえながら諌めているのは、見るからに大人しげな風貌の女子生徒、兜谷繭里だった。

「いいか、学校を出た瞬間から夏休みってのは始まってんだからな!」

 ののみは余程遊びたいのか、桐香に歩み寄ってくる。気圧された露子が一歩下がると、桐香は微笑む。

「ええ、承知しておりましてよ。ですから、校舎を出るまでは、まだお休みではありませんのよ。御学友の皆さんとは きちんと挨拶をしてお別れをしてこそ、楽しいお休みが始まりましてよ」

「あなた、ノリちゃんの妹さんだよね」

 繭里はいきり立つののみとそれを受け流す桐香を横目にしつつ、露子に話し掛けてきた。あまり面識がない相手 だったので、露子はどういう態度を取ればいいのか少し迷ったが、普通に答えた。

「うん。そうだけど」

「軽音部でギターを弾いているんだよね? てことは、学園祭でコンサートをするの?」

「するよ。こいつで最高にクールな音楽を聞かせてやるから」

 露子がエレキギターを指すと、繭里は感嘆した。

「なんか格好いい……」

「マユもぼさっとしてねーで、さっさと来いよ! じゃーな、末継妹! ちなみにあたしはメタルは大好きだ!」

 ののみは繭里を引き摺って校門を出たが、一旦振り返って挙手した。それに対し、露子は手を振り返す。

「ありがとう。頑張るよ」

 ののみに引き摺られる繭里と、涼しげな笑みを浮かべながら二人を追っていく桐香を見送った後、露子も生徒達に 混じって校門を出た。性格がまるで合わないのに毎度連んでいる三人は、どこに遊びに行くか話し合いながら、 坂道を下っていった。三人とも生粋の御嬢様なのだが、こうも育ちが違うのか、といつもながら思ってしまう。大物 政治家の一人娘の桐香は品行方正な御嬢様を体現していて、寸分の隙もない。大企業の経営者の末娘である繭里 は御嬢様らしさが欠片もなく、良くも悪くも庶民的だ。大富豪の孫娘であるののみは奔放に育ちすぎた結果、礼儀 もないが遠慮もない性格の少女だ。けれど、三人には奇妙な共通点がある。それは、昆虫だ。桐香も繭里もののみも やたらに昆虫を愛していて、特に甲虫に執心している。だから、この夏は三人揃って昆虫採集に精を出すのだろう。 桐香が捕虫網を持って野山を駆け回る様を想像してみたが、違和感が拭えず、露子は一人で笑いを堪えた。
 湘南の海を見下ろす坂道をゆっくりと下った露子は、遠回りをして帰ることにした。日中の蒸し暑い空気に負けて 自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲みながら、海に寄り添う街並みを見渡した。海沿いに伸びる線路を江ノ電 が通り過ぎていき、その窓がちかりと日光を撥ねている。沖には烏帽子岩がぽつんとあり、ウィンドサーフィンの帆や ヨットの船影が海面を滑っている。日々目にしていても、この街の景色は見飽きない。学園祭に向けて日々練習 している曲を鼻歌にしながら、露子は防波堤に昇って歩いた。すると、その下から呼び止められた。

「露子。今、帰り?」

「あ……」

 露子が立ち止まると、防波堤に沿って吹き上がった潮風が届いた。途端にスカートが翻り、中身が曝された。

「ああ、ああ、ごめんごめんごめん!」

 赤面して硬直した露子に謝罪の言葉を繰り返しながら、彼は慌てて手近な階段を昇ってきた。露子はスカートの裾を 押さえて俯いていると、大柄な青年は露子との距離を測りながら近付いてきた。

「えと、あの、その、僕はそういうつもりじゃなくって、その、えと」

「……解っている。仁にそんなことは出来ない。でも」

 露子は動揺が収まってから、メガネの位置を直して青年を見上げた。

「どうせならもっと気合いを入れた下着を見てほしかった。今日のは普通すぎるだろうが」

「あ、いや、うん、そんなことはないかなぁ……。ああ、その、可愛かったよ、水色の」

 青年、鰐淵仁は口籠もりながらも、露子を窺った。

「あ、えと、紀子ちゃんは?」

「お姉ちゃんは部活のミーティングだ。だから今日は帰りが別なんだ。そういう仁は大学があるんじゃないのか」

 露子は火照った頬を気にしつつ、通学カバンでスカートの裾を押さえた。

「あ、まあ、そうなんだけどね。昨日の夜、気晴らしに散歩をしていたら、うっかり海に落ちちゃって、それで、行くに 行けなくなっちゃったっていうかで」

 仁が情けなさそうに短く切った髪を乱すと、露子は察した。

「そうか。だったら仕方ない」

「じゃ、その、どこかでお昼でも食べていく?」

「それがいい。お腹が空いた」

 露子が手を出すと、仁は躊躇いもなく握ってきた。露子はちょっと駆けて仁に追い付くと、並んで防波堤を歩いた。 身長が百九十センチ以上もある仁と、百五十センチ少々しかない露子では、歩幅が違いすぎる。普通に歩くだけで かなりの間が空いてしまうので、二人でいる時は必ず手を繋ぐようになった。最初は照れ臭かったが、今では手を 繋いでいなければ不安になるほどだ。露子の手に比べて、仁の手は本当に大きい。そっと握る力を強めると、仁も 露子の手を握り返してきてくれた。しばらく歩いた二人は、海岸沿いのハンバーガーショップに入った。
 露子はサルサバーガーとアイスコーヒーを、仁はダブルバーガーとコーラを、二人で一緒に食べるためのポテトも 頼んだ。それらがテーブルの上に揃ったので食べながら、露子は仁を窺った。夜中に海に落ちてサメ人間になって しまったのなら、見に行けばよかった。人間の姿の仁は体格も良く、顔付きも凛々しいが、サメ人間でいてくれた方が 余程しっくり来る。ブラックのままでアイスコーヒーを啜りながら、露子は内心で残念がった。
 鮫島甚平から鰐淵仁になった従兄弟は、ワン・ダ・バから生体洗浄を受けても因子を排除しきれないほど、生体 汚染がひどかった。生命活動に不可欠な因子を残して汚染因子を排除した結果、一定量の海水に浸かると以前の サメ人間に戻ってしまうという、厄介な体質になった。なんでも、地球の海水にはワン・ダ・バの生体情報がほんの 僅かに混じっているのだそうで、それがの生体情報に反応してしまうのだそうだ。海に近付かなければ特に問題は ないのだが、そのくせ仁は海に関わる進路を選び、大学も海洋学科のある大学に進学した。インベーダーともワン・ ダ・バとも関わりの深い海を、徹底的に知りたいから、だそうだ。ちなみに下の名前の読みはジンで、名字共々本人 が付けたものだ。仁とは他人への親愛の情を意味する文字なので、実に彼らしい名前である。

「あ、ちょっと」

 仁は食べる手を止め、手を伸ばしてきた。露子がきょとんとすると、仁は露子の顎に付いたソースを拭った。

「う……あ」

 なんて恥ずかしいことを。露子が俯くと、仁は指に付けたソースを舐め取った。

「うん、おいしい」

「全くなんてことをするんだ。この」

 僕に、と言いかけてかつての一人称を飲み込んだ露子は、彼の指に拭われた顎を紙ナプキンで丁寧に拭いた。

「あのさ、露子。僕も夏休みに入ったら、その、バイトの休みの日にでも、どこかに行こうか」

 仁の言葉に、露子は鼓動が跳ねたが平静を装った。それはデートではないか。

「どこってどこだ」

「あ、うん。それについては、追々考えようよ。露子も行きたいところもあるだろうし」

「仁が行きたいところでいい」

「あ、え、でも、それじゃつまんなくないかな? 僕が行くところは、その、大抵は」

「海だ。水族館だ。博物館だ。図書館だ。大学だ。だけどそれでいい」

「え、あ、うん。でも、その、僕としては、もっと楽しめるところに連れて行きたいんだけど」

「私は仁と同じものを見てみたい。やっと世界が見えるようになったのだから」

 露子はストローでからりと氷を回し、度の強いメガネ越しに見えるものを見渡した。仁、食べかけのハンバーガー、 結露の浮いたグラス、テーブル、紙ナプキン、店内、他の客達、店員、海沿いの道路を通る車、防波堤、空、海、 窓、自分の手、自分の体、グラスに写った自分の顔。目を閉じているのが惜しくなるほど、世の中には色々なものが 溢れている。生体洗浄によってベーチェット病はほぼ緩解して視力も回復し、通院は続いているが投薬量は随分と 減った。他にも見たいものは山ほどあるが、一番見たいのは仁の見ている世界だ。
 呂号、すなわち、斎子露乃が末継露子になってからは、世界はぐんと広がった。新しい名前は一文字違いなので 違和感はあまりなかったが、それまでの生活と懸け離れた生活に慣れるのが大変だった。カトリック系の私立高校 に入学したばかりの頃は、死に物狂いで勉強したおかげで学力の面では申し分なかったが、人付き合いがさっぱり 解らなかった。同じクラスに双子の姉がいてくれたから、なんとか上手く立ち回れるようになったが、姉がいなければ 今頃は通学すら危うくなっていただろう。不慣れな新生活が大変なのは、姉も同じだっただろうに。おかげで部活にも 入れ、クラスの内外に友人も出来、普通の女子高生らしい生活を送れている。
 自分の隣に置いたギターケースの中では、崩壊寸前の海上基地から回収されたリッケンバッカーのエレキギターが 出番を待ち侘びている。竜ヶ崎との戦闘前に苛立ちを晴らすために壊してしまったギターには、本当に申し訳ない ことをしたと思う。まともに弾ける状態だったのはこのギターだけで、山のようなCDやドラムやベースやアンプなどは 全てダメになっていた。右手首を貫かれた後遺症はほとんどないが、以前のような無茶は出来ないと自覚している。 自分の音楽を武器にして戦うのは懲り懲りだ。これからは、一人でも多くの人間を楽しませたい。

「仁」

 露子はギターケースを一瞥してから、仁に向いた。

「二学期になったら学園祭で軽音部の皆と演奏するんだ。時間があったらでいい。見に来てくれないか」

「ああ、うん、そりゃもちろん。で、何を?」

「決まっている。この世の至上の音楽であるヘヴィメタルだ」

「え、あ、でも、女子校でしょ? 反対されるんじゃないの、校風と違いすぎるって」

「そうかもしれない。だがなんとかしてみせる。それだけの自信があるんだ」

 露子が笑むと、仁は笑い返した。

「そうだね。露子がそう言うのなら、きっと」

 俄然、やる気が出てきた。実のところ、学園祭の曲目をメタル一本に絞れるとは思っていないし、軽音楽部に所属 している他の生徒はメタルに対する情熱が露子ほどではない。皆、明るくポップでコードの簡単な曲を選んでいて、 コードの難しいものを敬遠している。露子のようにエレキギターをオモチャ代わりにしてきたわけではないのだから、 当然といえば当然だし、皆のレベルに合わせるべきだとも思う。けれど、難しい曲こそ、挑戦する甲斐があるのでは ないだろうか。皆と演奏して成し遂げた時の達成感は、一人で演奏している時よりも桁違いに大きい。
 それは、仁との日々も同じことが言える。同じものを見て、同じものに触れて、同じものを感じると、感動は何倍にも 膨れ上がる。だから、夏休みのデートが楽しみで仕方ない。どんな服を着ていこうか、と考えるだけで高揚する。 だが、服のセンスは今一つだと自覚しているので姉に付き合ってもらって買いに行こう。呂号時代の戦闘服だった 好戦的なメタルファッションではなく、普通の女の子らしい流行りの服を。
 今年の夏は、絶対に楽しくなる。





 


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