南海インベーダーズ




温泉地獄卵



 一つ、二つ、三つ。
 校庭の隅の草むらに埋もれている新鮮な卵を、紀乃は拾い集めていた。赤茶色の殻を持つ大きめの卵はほのかに 温かく、産み立てだ。朝方に景気良く鳴いている野生化したニワトリ達が産み落としている卵を奪ってしまうのは、 少しばかり罪悪感はあるが、あのおいしさには変えられない。紀乃は卵を割らないように気を付けて、カゴに入れて いった。十五個ばかり集めてから、ゾゾの待つ台所に向かいかけたが足を止めた。

「あ」

 普段はなんとも思っていない火山の頂上から、うっすらと蒸気が立ち上っていた。そういえば、昨日の夜に一度だけ 地面が揺れたような気がした。噴煙はなく、火山灰も舞い上がっていないが、水蒸気に混じる硫黄の匂いが風に 乗って運ばれてきた。その匂いで初めて島に来た日のことを思い出したが、また別のことも思い出した。

「温泉卵」

 子供の頃、家族旅行で連れられた温泉地で食べたのだ。蒸気と霧が立ちこめる山に登り、その途中にある売店で 売っていた硫黄の匂いがする卵から、驚くほど柔らかな白身に包まれたとろとろの黄身が出てきた。山登りの疲れ もあったのだろうが、それがやたらにおいしかった。だから、その後に両親がせっかく連れて行ってくれた動物園の ことなどすっかり忘れてしまい、絵日記に書いたのは温泉卵のことだけだった。先生に提出して戻ってきた絵日記を 見た両親は、微笑ましいやら残念やら、といった顔をしていた。

「また食べたいなぁ、ここでも作れるかなぁ」

 ゾゾに聞いてみれば解るんじゃなかろうか。紀乃は足早に校舎に戻った。勝手口で靴底の泥を払い落としてから 居間兼食堂に入ると、ゾゾは湯気の昇る釜をしゃもじで掻き回していた。

「紀乃さん、卵は取れましたか」

「ねえゾゾ、温泉卵って作れるかな!」

 紀乃がカゴを持って駆け寄ると、ゾゾはしゃもじを蓋に置いた。

「温泉……ですか」

「そう、温泉卵! だって、ここは火山島だし、温泉ぐらい湧いてるでしょ! だから、出来るよね!」

「出来ないことはないでしょうが、紀乃さんでは死んでしまいますよ?」

「え?」

 紀乃がぎょっとすると、ゾゾは卵の入ったカゴを受け取り、表面を軽く水洗いしてから器に割り入れた。

「この島の火山からは、常時火山ガスが噴出しているのですよ。普段は潮風のおかげで平地には及ばないのですが、 風が止んでしまう時は危険なのです。幸い、島の周囲はざっと一千キロ以上が海なので、潮風が止む日がない ので、紀乃さんはガス中毒に陥らずに済んでいるのですが、山に登るとなるとまた別です。確実に死にます」

「ぐ、具体的には?」

 ちょっと怖くなった紀乃がゾゾのエプロンの裾を掴むと、ゾゾはフライパンに卵を流し入れた。

「二酸化硫黄亜硫酸ガスでは気道と肺が粘膜障害を起こし、呼吸困難の後に死亡します。硫化水素ガスでは細胞の 内呼吸を行っているシトクロムcオキシターゼを阻害し、高濃度では数呼吸で肺の酸素分圧が起きることで呼吸 麻痺を起こし、呼吸中枢が活動出来なくなり、昏倒し、死亡します。二酸化炭素ガスでは炭酸ガス濃度が高まり、 酸素が排出されて酸欠となり、死亡します」

「でも、私とゾゾは一緒に山の中を歩いてきたじゃない」

「あの時はふもとでしたし、私も傍にいましたからね。最初にお話ししたように、私は硫黄と窒素と僅かな酸素化合物を 吸気して生存活動を行うことを前提として進化した生命体ですので、私の肺は硫黄を吸って酸素を排出するように 出来ているのです。ですから、紀乃さんは私の傍にいる限り、硫黄ガスで中毒を起こすことはないのです」

「じゃ、山に登るにはどうしたらいいの?」

 温泉卵への欲望を捨てきれない紀乃が食い下がると、ゾゾは火の通った卵をくるくると巻いた。

「それはもちろん、私が排気した酸素を紀乃さんにマウストゥマウスで直接」

「普通に嫌」

「おやおや、それはそれは。でしたら、私が山に登って温泉卵とやらを作ってきましょうか?」

「それもなんか嫌。言い出したのは私だから、自分でなんとかしたいもん」

「では、どうしましょうかね」

 卵焼きをまな板に出したゾゾは、包丁で切り分けた。

「小松さんに連れて行ってもらう、ってのはどうかな。小松さんなら、火山ガスがあっても平気そうだし」

「それはそうですね。小松さんは私が改造した吸排気フィルターを装備しているので、硫黄を吸って酸素に変換して 己の脳に回せる装置を持っています。ですが、紀乃さんが吸う酸素をまかなえる、というわけではないので……」

「じゃ、やっぱりダメか」

 紀乃が残念がると、ゾゾは太い指で顎をさすった。

「私の記憶が正しければ、倉庫にアレがあったはずなのですが。朝食の後にでも捜してみましょう」

 ゾゾは卵焼きを皿に盛り付けると、柔らかく炊き上がった白飯をおひつに移した。紀乃はゾゾにはあまり期待せずに、 なんだったら半熟の茹で卵を作ろう、と考えていた。茹でる時間さえ気を付ければ、普通の茹でても黄身がとろけた 状態になる。上手く出来たらガニガニにも食べさせてあげよう。人数分の箸とおかずの器を食卓に並べていきながら、 紀乃は目に見えない五人目の箸も並べようかと迷ったが、箸立てに戻しておくことにした。
 その方が、面倒なことにならずに済むからだ。




 火山登山の話をすると、小松は難色を示した。
 ミーコの手を借りて朝食を食べ終えた小松は、半球状の頭部のメインカメラに付いているシャッターをがしゃがしゃ と開閉させて瞬きした。居間兼食堂の窓を開けて身を乗り出した紀乃は、必死に愛想笑いを浮かべていた。小松は ただでさえ解りづらい男だし、どこで機嫌を損ねるか知らないので、こちらが愛想良くしておくしかないのだ。小松の 操縦席の上では、ミーコが足をばたばたと揺らしていた。二人が馴れ合う理由は想像も付かないが、傍目から見る 分には仲が良さそうに見える。見える、というだけなのかもしれないが。

「火山……」

 小松はぐりんと頭を一回転し、蒸気を漏らす火山を一瞥してから紀乃に視線を戻した。

「温泉卵?」

「そう、温泉卵。この辺には温泉が湧いている場所がないらしいから、山まで登らないと作れないかなぁって」

「温泉卵」

「もちろん、皆の分もちゃんと作ってくるよ。卵も一杯集めてあるし。無理に、とは言わないけど」

「温泉卵……」

 小松が思い悩むように多目的作業腕を組むと、ミーコがばんばんと小松の外装を叩いた。

「温泉卵タマタママゴマゴマゴマゴ!」

「塩か、醤油か、ダシ汁か」

 小松がマニピュレーターを一本ずつ立てたので、紀乃は足をぶらぶらさせながら答えた。

「私はお醤油が好きだけど、それは各自の自由で良いと思うよ」

「解った」

 小松はマニピュレーターでミーコの襟首を掴み、地面に下ろすと、六本足を上下させて歩き出した。

「準備をしてこい。俺も給油してくる」

「ありがとう、小松さん!」

 紀乃は小松に手を振ってから、校舎を出てガニガニの巣に駆け寄った。

「ガニガニー、小松さんが手伝ってくれるってさー! 温泉卵、一緒に食べようねー!」

 紀乃が声を掛けると、薄暗い洞窟のような巣の奥から体長八メートルの巨大ヤシガニが這い出してきた。紀乃が ヒゲの先端を撫でてやると、ガニガニは嬉しそうに顎を擦らせた。昨夜の散歩の名残である砂が、ガニガニの鋭い 足の先端に付着していたので払ってやった。ぎちぎちぎち、と聞きようによっては鳴き声のようにも思える外骨格の 摩擦音が巣の内壁に反響し、飛び出した複眼が純粋な眼差しで紀乃を見下ろしていた。

「え、なあに」

 ヒゲの片方が上向いたので紀乃が見やると、ヒゲの先端は火山を指していた。

「ガニガニも一緒に行きたいの?」

 かちかちかち。と、ガニガニは同意を示す軽い音を顎で鳴らした。

「そりゃ、一緒に行けたら楽しいけど、熱いところだからガニガニは茹で上がっちゃうよ」

 かちこちこち。と、ガニガニは残念そうに顎で出す音を弱めた。

「温泉卵が出来たらすぐに帰ってくるからね。それまで、大人しくしていてね」

 がちこちん、とガニガニは顎と同時にハサミを打ち鳴らした。

「よしよし、良い子良い子」

 紀乃はガニガニを褒めてから校舎に駆け戻り、勝手口から居間兼食堂に入ると、ゾゾが倉庫から引っ張り出して きたモノを広げていた。火山ガスの中でも活動可能な防護服一式で、ほとんど新品のガスマスクまでも揃っていた。 中に着るためのアーミーグリーンの作業着もあり、どこからどう見ても自衛隊の官給品だった。

「これ、これですよ、紀乃さん」

 ゾゾが防護服一式を示すと、紀乃は首を捻った。

「準備が良いのはいいんだけど、なんでそんなのがゾゾの手元にあるの?」

「以前、この島にやってきた変異体管理局の調査隊を襲いまして、隊員の一人の身ぐるみを剥いだのです」

「この人でなし」

 紀乃は顔をしかめ、ゾゾが相手では至極当たり前のことを言った。先程、ゾゾから教えられた火山ガスの危険性を 踏まえて考えると、身ぐるみ剥がれた変異体管理局員はどうなったのだ。少なくとも無事ではあるまい。が、あまり 考えてはドツボに填るので、余計な考えを振り払った。何はともあれ、これを装備しなければ話は始まらない。最初に 着るのは作業着だろう、と紀乃は明らかに男物の作業着を取って体に当ててみると、妙なことに手足や胴回りの 寸法が合っていた。紀乃がゾゾを窺うと、耳元まで裂けた口角が緩んでいた。

「こんなこともあろうかと、紀乃さんの身の丈に合わせて仕立て直しておいたのです」

「それもありがたいことにはありがたいけど、いつのまに測ったの?」

「目測ですとも。紀乃さんが寝入っている間にお調べするのも良いかと思ったのですが、それはさすがに紳士的で はないと判断いたしまして。どうです、ぴったりでしょう」

「何それキモい」

「では、無防備にお眠りになる紀乃さんに触れて寸法を測った方が」

「どっちも超キモい」

「それはそれは。心外ですねぇ」

 残念そうに首を横に振るゾゾに、紀乃は背を向けて居間兼食堂を出た。

「当たり前じゃん」

 ゾゾの心遣いは嬉しいが、やり方に問題がある。衛生室に戻った紀乃はセーラー服を脱ぎ、汗を拭き取ってから、 変異体管理局局員が着ていた作業着を着込んだ。大分暑苦しいが吸水性には変えられまい、とアンダーにTシャツを 着てから、丈夫そうだが硬くてごわごわしている作業着のファスナーを上げた。襟元に入った髪を出してから首筋の 汗も拭い、洗面台の古びた鏡で前髪を直した時に、胸元に刺繍されている元の持ち主のネームに気付いた。

「ヤマブキジョウジ、かな」

 山吹丈二。その名を読み上げ、紀乃は苦笑した。

「ゾゾに防護服一式奪われちゃうなんて、運の悪い人だなぁ。でも、有効活用するんだから、いいよね?」

 目的は温泉卵だが。紀乃は少し伸びてきた髪を部活用のシンプルなシュシュで縛り、長靴を履いてから、防護服を 身に付けるべく居間兼食堂に向かった。灯台を改造した石油精製所で給油してきた小松が校舎に向かってくる のが見えたので、紀乃も足を速めた。火山の頂上から溢れる毒性の強い蒸気は、潮風に掻き消されていた。
 世にも下らない動機の登山の始まりだ。





 


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