南海インベーダーズ




温泉地獄卵



 待つこと十五分。
 小松の多目的作業腕のマニュピレーターに引っ掛けた生卵入りのカゴは、火口から立ち上る超高熱で有毒性の 高い蒸気に曝されていた。その間、紀乃は火口と斜面を何度となく見比べてしまった。どちらに転げ落ちても、簡単に 死ねる。火口に落ちれば落下の衝撃と溶岩の熱で、斜面に転げれば冷えた溶岩で頭が割れたり骨が折れたり、と 嫌な想像ばかりが頭を過ぎった。だが、せっかくここまでやってきたのだから、せめて景色は楽しまなければ。
 小松の足にしがみつきながら、紀乃はガスマスクのゴーグル越しに目を凝らした。ゴーグルの内側は紀乃自身の 体温と汗で曇りがちだったが、景色は見えなくもない。へっぴり腰で見下ろした紀乃は、感嘆した。

「わお」

 真上から見た忌部島は、美しかった。地球の丸みに沿って湾曲したエメラルドグリーンの水平線に四方を囲まれ、 鮮やかすぎて気後れしてしまう青空には雲一つなく、珊瑚礁の砂浜は日差しを撥ねて輝いている。さざ波は宝石の粒の ように煌めいて、濃密に茂った森には生命が凝縮されている。四人と一匹と目に見えない誰かの居住区である平地には、 ゾゾが丹誠込めて育てた野菜が並んでいる。日常生活を送る廃校は真上から見ると小さく見え、集落に残った 民家の傷み具合と比べると廃校はよく手入れされている。トタン屋根にはコールタールを何度も塗った跡が付いて いるし、板張りの壁も補修されているようだ。大方、小松の仕事だろう。

「ん、あれ?」

 紀乃が何の気なしに東側に目を向けると、そちらにも集落があった。普段暮らしているのは西側で、島を二分する 火山には道らしい道も付いていないので、ガニガニと散歩をしても東側には足を向けなかった。だから、今の今まで 知らなかったし、他に集落があるなんて想像したこともなかった。

「ねー、小松さーん。あっちにも集落があるんだね」

 紀乃が東側を指すと、小松は卵入りのカゴを落とさないように気を付けながら頭部を回した。

「そうだ。だが、俺は行ったことはない」

「なんで?」

「用事がないからだ」

 小松の真っ当な答えに、紀乃は納得した。

「そりゃそうだよね」

 東側の集落にも、人間が暮らしていた痕跡が残っていた。崩れかけた民家、何かを祭っていたらしい社、田畑、 道、陸に引き上げられた船の残骸。民家や壊れた船にはツタが絡み付いていて、長い年月で風雨に曝されていた ためか、今にも崩れそうなほどに風化していた。田畑も、上から見ているから畝や畦の凹凸がうっすらと残っている のが解ったほどで、下から見たのであれば単なる草原だ。見たところ、西側の集落から東側の集落に向かうための 道は山崩れで塞がっているようだが、砂浜を通っていけば行けそうだ。徒歩ならば半日掛かりそうだが、ガニガニと 一緒なら小一時間で済む。この島にもまだまだ探検する余地があると知り、紀乃は心が浮き立った。

「紀乃」

 ぐるんと上半身を半回転させた小松は、過熱した卵入りのカゴを下ろした。

「あ、もう十五分経った?」

 紀乃が手袋を填めた手で卵入りのカゴを受け取ると、小松はメインカメラのシャッターを開閉させた。

「経った。帰るぞ」

「はーい」

 紀乃は卵入りのカゴを抱えて小松の操縦席に戻り、ドアを閉めてシートベルトも締めた。小松は回転数を緩めて いたエンジンの回転数を上げ、六本足を動かして斜面を下ろうとしたが、最後部の右足が踏んだはずの斜面が 崩落し、小松の巨体は右後方に大きく傾いた。

「あ」

 本人のリアクションが大人しかったために紀乃はすぐには実感がなかったが、フロントガラスに映る景色が 灰色の斜面から爽やかな青空に一転し、ほんの僅かな時間、体が浮き上がったような錯覚を覚えた。

「え?」

 小松の後ろ左足も外れ、上体が大きく仰け反ったせいで斜面をしっかり噛んでいた中両足が外れ、浮き上がった 前両足が手近な岩を掴もうとするが、その健闘も空しく、小松の巨体は仰向けに火口へ落下した。
 今までになく生々しい死の恐怖に、紀乃は悲鳴も上げられなかった。血液どころか内臓も空中に浮かんだような 感覚が気持ち悪く、空は次第に遠のいていく。小松の操縦席の中にまで入り込んでくる高熱は、汗を掻いた傍から 乾かしてしまう。だから、今まで感じていた暑さは常識の範囲内なのだと思い知った。本当の高熱は、汗を掻く余裕 すら与えてくれないのだから。火口に落ちれば即死だ。思えば短い人生だった。
 走馬燈が駆け巡りかけた瞬間、轟音を伴う衝撃が全身を激しく揺さぶった。そのせいで背中と後頭部を座席と 壁に強かにぶつけてしまい、紀乃は頭を抱えて呻いた。溶岩に落ちてとうとう死んだのだ、しかも小松さんなんかと、と 空しくなっていたが、小松の外装や手足が溶けた様子はなく、溶岩の高熱も襲い掛かってこなかった。

「あ……あれ?」

 ちょっと拍子抜けした紀乃は、頭から手を外して目を丸めた。恐る恐る身を乗り出してみると、小松もまた事態を 把握し切れていないらしく、六本足と二本の腕をだらりと投げ出していた。紀乃は小松のフロントガラスをこんこんと 叩くと、小松も我に返ったのか、慌てて六本足を火山の内壁に打ち込んで左腕からワイヤーを伸ばし、火口付近に フックを引っ掛けて上体を起こした。

「落ちた……」

「でも、なんで助かったのかな」

 紀乃はドアに貼り付いて小松の背中の下を見ると、恐ろしく巨大な異物が火口の内側に貼り付いていた。枯れた 木の葉を丸めて縦長にしたような物体で、節のある膨らんだ部分には二列の突起が並んでいた。全長五十メートルはあろう かというシロモノで、小松が伸ばしたワイヤーの十数倍の太さがある糸でぶら下がっていた。

「さなぎだ。たぶん、ガだ」

 小松はワイヤーを巻き取り、一歩一歩確実に昇る。紀乃は安堵と嫌悪感を感じつつ、呟いた。

「もしかして、これもミーコさんの仕事かな。おかげで助かったけど」

「あいつ以外に考えられるか」

 エンジンを最大限に噴かしてほぼ垂直の火口の内側を登り切った小松は、各関節から蒸気と共に廃熱した。

「うあああああっ!?」

 突然紀乃が悲鳴を上げたので、小松はぎょっとしてまた落ちかけたが踏ん張った。

「ど、どうした!?」

「どうしたもこうしたも……」

 紀乃はアーミーグリーンの防護服を鮮やかに彩る、黄色と白の液体を見下ろして落胆した。小松が落ちた拍子に、 せっかく上手く出来た温泉卵が散らばって割れてしまった。それも、一つ残らず。

「今までの苦労ってなんだったんだろう!」

 紀乃は卵の欠片を掴んで嘆くが、小松は取り合わずに出発した。

「帰るぞ。戻ったら掃除をしておけ、腐ると困る」

「いやあ、私の温泉卵ー!」

「普通に茹でろ。俺はもう二度と来ない」

「温泉卵ぉー!」

 未練がましく紀乃は叫ぶが、小松はそれきり黙り込んだ。温泉卵を作るためだけに火山の火口まで駆り出され、 挙げ句に死にかけたのだから、小松でなくてもうんざりするのが当然だ。だが、温泉卵の味を思い出してしまった せいでどうしても食べたくなっていた紀乃は、簡単に諦めきれなかった。硫黄の匂いに混じる新鮮な動物性蛋白質 の匂いに食欲を掻き立てられるも、ガスマスクを外せば死んでしまうのでぐっと堪えた。自分が食べられなかったのも 悔しいが、ガニガニに食べさせてやれなかったのがもっと悔しい。
 一番の友達に、喜んでもらいたかったのに。




 ただただ、空しかった。
 温泉卵まみれになった防護服と汗を存分に吸い込んだ作業着とTシャツと下着は洗濯され、物干し竿に掛けられて 海風に揺れていた。風呂に入って汗を流してセーラー服に着替えた紀乃は、自分の情けなさに恥じ入っていた。 温泉卵を作ってくるとガニガニに約束したのに。小松にまで手伝ってもらったのに。なのに、最後の最後で肝心要の 卵が割れてしまうとは。運が悪いとしか言いようがないが、誰を責めるわけにもいかないのが逆に辛い。

「ごめんね、ガニガニ」

 ガニガニの巣を覗き込み、紀乃は謝った。ガニガニは這い出してくると、ヒゲの先で紀乃にそっと触れた。

「今度は標高の低い場所で試してみればよろしいのですよ、紀乃さん」

 夕食の材料を入れたカゴを抱えたゾゾが、二人に歩み寄ってきた。

「蒸気でしたらそこかしこで噴出しておりますし、何も火口に拘ることはなかったのです。というより、最初から火口に まで行く必要はなかったのですよ」

「そりゃそうだけど、なんか、行かなきゃならないような気がして」

 紀乃が蒸気を上げ続けている山頂を仰ぐと、ゾゾは僅かに目を細めた。

「そうですか」

 傾きかけた日が遮られ、エンジンの唸りとシリンダーの駆動音が迫ってきたので、紀乃はガニガニの巣から出た。 温泉卵まみれになった操縦席をゾゾと紀乃が徹底的に掃除したおかげで、ミーコの手形や足形を全て拭き取られた 小松が、ミーコに付きまとわれながら帰ってきた。燃料が切れかけたので、二度目の給油を行ったのだ。

「きゃほはほはははははははははは!」

 いつものように泥と砂まみれのミーコは、小松の周囲をぐるぐると駆け回っている。

「そういえばさー、ミーコさん」

 紀乃が火口を指すと、ミーコはぴたりと止まってにんまり笑った。

「モスラモスラモスモスラララララ!」

「あ、やっぱりそうなんだ。でも、なんであんな場所にさなぎを作らせたの?」

 紀乃が納得しつつも不思議がると、ミーコはその場でぐるぐると回転した。

「火山火山ザンザンザンザン! 熱い熱い熱いアツイツイツイツイ!」

「つまり、高温の場所で成長を促進させて羽化させよう、ということなのですよ。合理的ですね」

 ゾゾが解説すると、ミーコは回転を止めて両腕を大きく広げた。

「羽化羽化羽化カカカカカカカッ!」

「羽化したら、またワンダバか」

 ワンパターンだな、と小松がつまらなさそうにぼやくと、ゾゾは笑った。

「ええ、ワンダバですとも。謎の巨大生物に襲われる首都東京、というのはロマンではありませんか」

「そうかなぁ……」

 紀乃はゾゾの感覚は今一つ解らなかったが、派手なのは確かだ。それが実現したら、被害はとんでもないことに なるのは間違いないが、変異体管理局が東京湾で迎え撃つので大したことにはならないはずだ。だが、何にもなら ないのは、それはそれで勿体ないような。この前の巨大シャコ貝も、変異体管理局の強烈な兵器で海水が沸騰した 挙げ句に爆砕してしまった。今度の子は無事に帰ってきてくれたらいいな、と淡い期待を抱いたが、ガは好きになれ ないかもなぁ、とも思ってしまった。ゾゾが夕飯の支度をすると言って校舎に戻ったので、紀乃もガニガニの夕食分の 餌を調達するために、目も眩むような西日に染まった畑に駆けていった。
 明日は、東側の集落を探検してみよう。






 


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