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竜神温泉に行こう



マイクロバスが停車した道路沿いには、古めかしい温泉旅館が建っていた。
年季の入った木造建築で、手狭な玄関には看板が掛けてある。見事な筆書きで、竜神温泉旅館、とある。
鬱蒼とした森を背負っており、何度か増築しているのか、目の前の建物に比べて新しい建物が繋がっている。
その建物の更に後ろ、斜面を登った先には、渡り廊下の繋がったこぢんまりとした小屋、露天風呂があった。
温泉の独特の匂いを、穏やかな風が運んできていた。だが、彼らはそれを感じることもなく、突っ立っていた。

「死ぬかと思ったぁ…」

虚空を見つめながら小さく呟いたのは、短いツノが生えた少女だった。両手から荷物を落とし、膝を付く。

「じゅうにじかん…じゅうにじかんはきついよぉ…。深夜バスなんて…いやぁ…」

その背後に立っている長身の男も、青い顔をしていた。

「なんだって、ここに来るまでにあんなに遠回りをしなきゃならんのだ」

「そりゃあ、あなたがサイコロの目の六を出したせいですよ、レオナルドさん」

幼さの残る青年はよろよろと歩いてくると、男を見上げて頬を引きつらせた。男は項垂れ、額を押さえる。

「それを言うな…それを…」

マイクロバスから頼りない足取りで出てきたセーラー服姿の少女は、一度、マイクロバスの中に向いた。
すると、やはり疲れ果てた形相の、紺色の制服姿の少女と青い装甲を持った長身のロボットが出てきた。
二人が出てきてから、迷彩柄の戦闘服を着込んで自動小銃を担いだロボットと、黒衣の少女が続いて出た。
セーラー服姿の少女は旅館の方へ向くと、ボストンバッグをずるずると引き摺りながら、口元を歪めた。

「リアルで水曜どうでしょうはやばい、やばすぎる」

「大体、誰なのよ、こんなことやろうって言い出したのは。見るからにきついって解るじゃんかー…」

辛うじて前に進めていた足を止めて、紺色の制服姿の少女はぼやいた。その背後で、青いロボットが手を掲げる。

「僕ではありません。断じて違いますからね、由佳さん」

「自分でもないぞ!」

戦闘服姿のロボットが胸を張って言い張ると、セーラー服姿の少女がちらりと彼を見上げた。

「別にあんたには聞いてないって」

竜神温泉旅館、と車体に書いてあるマイクロバスから離れた黒いワンピース姿の少女は、ポケットを探った。
濃緑の長い髪を一括りにして背中に流してあり、その頭には二本のツノが生えており、赤い瞳を持っている。
透き通りそうなほど白い肌は滑らかで、目鼻立ちは美しく整っている。彼女は、ポケットからハガキを出した。
そのハガキには、目の前の旅館の写真が印刷されており、宛名にはフィフィリアンヌ・ドラグーン様、とある。
黒衣の竜の少女、フィフィリアンヌはハガキを睨んでいたが、顔を上げた。足早に歩き、青年の元に向かう。

「行くぞ、カイン。ここにいてもどうにもならんし、さっさと入ってしまおう」

「あ、はい。そうですね」

青年、カインが彼女に続いて歩き出そうとすると、玄関の戸が開いた。というより、吹っ飛ばす勢いで開いた。
ばしゃんっ、とガラスを揺さぶりながら全開になった玄関の中には、にこやかに笑っている男が立っていた。

「いらっしゃーい!」

丸メガネを掛け、緩く編んだ三つ編みを肩に垂らした男、グレイス・ルーだった。カインは、思わず立ち止まる。
カインの前で足を止めたフィフィリアンヌは、目元を押さえてため息を吐いた。面倒そうに、グレイスを見上げる。

「そんなことだろうと思っておったぞ」

「ようこそ竜神温泉旅館へー! リアル水曜どうでしょうっつーか、サイコロの旅はどうだったかなー?」

にこにこしながら彼らの元へやってきたグレイスに、男、レオナルドがぎょっとして声を上げた。

「あれは貴様の仕業だったのかぁ!」

その声の大きさにびくっとした短いツノの生えた少女、フィリオラは立ち上がると、半泣きになって叫んだ。

「本当に、本当に死ぬかと思いましたよ! こっちの世界に来たと思ったら、いきなりサイコロと行き先を書いてあるフリップを渡されて、これで行き先を決めろって言われて、仕方ないからサイコロを振ってみたら、速くて楽な新幹線とかじゃなくて深夜バスとかフェリーばっかり出ちゃって、ここに来るまで三日も掛かっちゃったんですからね!?」

「しかも魔法が使えないと来ているものだから、空間転移魔法が使えなくて、楽も出来なかったしな」

さすがに疲れているのか、フィフィリアンヌの声から覇気が失せていた。カインは苦笑いする。

「前回、というか、カニを食べに来た時は魔法がちゃんと使えたんですけどねぇ…。不思議ですね」

「まぁ、細かいことは気にするな。今回は温泉で行楽なんだから、魔法なんざ使ったら興醒めしちまうだろ?」

上機嫌に笑うグレイスに、セーラー服姿の少女、礼子が、戦闘服姿のロボット、北斗を指した。

「温泉旅館に自動小銃なんか持ってきた馬鹿がいるんですけど、その辺は突っ込まないんですか?」

「それ、実弾入ってんの?」

グレイスが自動小銃を指しながら北斗に尋ねると、北斗はヘルメットを押し上げて自慢気に笑う。

「当然だとも! 自分は礼子君を守るためにやってきたのだ、弾を入れなくてなんとする!」

「物騒にも程がありますよ、北斗さん!」

北斗の背に、青いロボット、ブルーソニックインパルサーが叫んだ。なにおう、と北斗は振り返る。

「自分は国家機密であり治外法権なのだ、民兵如きにつべこべ文句を言われる筋合いはない!」

「ロボットの叫び声って、車酔いの頭に響くなぁ…」

紺色の制服姿の少女、由佳はやりにくそうに漏らした。その呟きに、礼子は頷く。

「ですねぇ」

インパルサーは必死になって、北斗の自動小銃を取り上げようとしているが、北斗は頑として離そうとしなかった。
その向こうでは、怒り心頭のレオナルドがへらへらと笑うグレイスに掴み掛かり、矢継ぎ早に文句を言っている。
疲れたこととレオナルドの叫び声に驚いたフィリオラは涙目になってしまい、フィフィリアンヌに慰められている。
カインはと言えば、すっかり呆れ果てているのか、愛想笑いを浮かべていた。由佳も礼子も、そんな気分だった。
由佳は制服のスカートのポケットを探り、フィフィリアンヌが出したものと同じハガキを取り出して、眺めてみた。
表には、美空由佳様、と宛名があり、差出人は竜神温泉旅館となっている。裏には、旅館の写真と文面があった。
竜神温泉旅館へのご招待。日頃、物語の主役を張っている皆様に安らぎと癒しを与えたく思い、御招待致します。
尚、この招待に拒否権はありません。どんな理由があろうとも、旅館に来なかったら、問答無用で呪います。
と、いうものだった。当然ながら、このハガキはインパルサーにも来ていて、やはり同じ文面が書かれていた。
由佳は呪いというのは冗談だと思ったが、インパルサーは本当だと言って譲らず、なんだかんだで来てしまった。
本当は鈴ちゃんと買い物行きたかったんだけどなぁ、と由佳は親友に思いを馳せながら温泉旅館を見上げた。
礼子は由佳の横顔を見上げていたが、騒ぎ続ける面々に目を向けた。このメンバーの半分は、異世界の住人だ。
サイコロの旅の出発時に自己紹介されているので、誰が誰だか解っていたが、今一つ理解しきれていなかった。
傍目に見れば、フィリオラとフィフィリアンヌは姉妹にしか見えないが、末裔と先祖という関係だと説明された。
だからカインとフィリオラのファミリーネームが同じなのだ、とも言われたが、余計にこんがらがってしまっていた。
何はなくとも喧嘩腰のレオナルドと、自動小銃を担いできた北斗は、何度となく深夜バスの中で言い争っていた。
といっても原因は全て北斗で、理由も下らなかったのでいちいち覚えていない。礼子は、北斗の背を見上げた。
北斗はついにインパルサーから引っぱたかれて、叱られている。いいですか、いけないんですよ、と言われている。
よろめいたまま固まっている北斗は、情けない顔をしていた。まるで、母親に叱られた子供のような表情だった。
グレイスを散々罵倒して気が晴れたのか、レオナルドはグレイスの胸倉を離すと、泣き伏せるフィリオラに向いた。
ありがとうございますー、とフィリオラが泣き笑いの顔になると、レオナルドはやりづらそうに文句で返していた。
だがレオナルドは、決して嫌そうではなく、むしろ嬉しそうだった。この人ツンデレだ、と礼子はちらりと思った。
そして、隣を見上げてみた。礼子よりも頭半分ほど背の高い由佳は、紺色の制服の胸元が大きく迫り出していた。
体形良いなぁ、と礼子は思ったが口には出さず、スポーツブランドのロゴが入っているボストンバッグを担いだ。

「とりあえず、行きましょうか」

「だね。ここに突っ立ってても、どうしようもないもんね」

由佳は淡いピンクのボストンバッグを肩に担ぎ、礼子と並んで歩き出した。礼子は、セーラーの襟をつまむ。

「ていうか、なんで私らは制服なんでしょうかね? 温泉に行くのに、制服である意味も理由も皆無なんですけど」

「あたしもそう思うけどさぁ、日程がねぇ…。学校出た直後に温泉に直行って、有り得なくない?」

由佳が苦笑いすると、礼子は変な顔をした。

「家に帰る暇もなく連れてこられちゃいましたからねぇ。荷物はなぜか出来ていたけど、着替えはなかったし」

「うちに帰ったらクリーニングに出さないとなぁ。深夜バスなんかに乗っちゃったせいで、スカートがよれよれ」

由佳は折り目の付いた紺色のスカートを引っ張り、顔をしかめた。礼子も、膝丈のプリーツスカートを伸ばした。

「せめてジャージだったらなぁ…」

「色気ないけど、その方がマジで楽だよねー」

由佳は、ようやく笑った。礼子もそれに釣られて、少し笑う。

「あれが一番楽な恰好ですよね」

二人が話している間に、玄関前の騒ぎは多少落ち着いた。結局、インパルサーは北斗の自動小銃を取り上げた。
北斗はインパルサーに引っぱたかれたヘルメットを押さえて、しょぼくれていた。幼い子供のような反応である。
グレイスは開け放たれている玄関に戻ると、誰かを呼んでいる。だが、一向に出てこず、彼は中に入っていった。
嫌だぁ、誰が行くかぁ、叩っ殺すぞてめぇ、ていうか触るんじゃねぇ、という、かなり凄絶な絶叫が響いてきた。
フィフィリアンヌはその声に聞き覚えがあったので、カインを見上げると、カインは反応に困って苦笑している。
レオナルドとフィリオラも気付いて、顔を見合わせた。どちらも、なぜここに彼が、というような顔をしていた。
絶叫は次第に玄関に近付いてきて、その発生源が放り出された。鮮やかな布を纏った固まりが、地面に転がる。
がしゃっ、と金属のぶつかる激しい音をさせて転倒したそれは、背中に巨大なバスタードソードを背負っている。
銀色の頭部には、ニワトリのトサカに似た赤い頭飾りが付いていたが、首から下がかなり違和感のある姿だった。
桜色の着物を着ていた。きっちりと着付けてあって、帯も綺麗に締めてあり、転んでも着物ははだけていない。
フィフィリアンヌはあまり正視したくなかったが、なんとか視線を彼に据えた。口元を引きつらせ、言い放った。

「ギルディオス。なんだ、その恰好は」

「…女将」

そう呟いて、着物姿の甲冑、ギルディオスは起き上がった。泣き出したいのか、ヘルムの目元を擦っている。

「オレ、女将になっちまってんだよぉ! 気付いたら、この恰好でここにいたんだよ!」

「脱げば良かろうに」

フィフィリアンヌが眉根を歪めると、ギルディオスは帯を掴んで引っ張った。だが、隙間は少しも開かない。

「脱げねぇんだよこれが! たぶん、グレイスの野郎が呪いか何か掛けやがったんだ!」

「そう、そうなんだよねぇ」

にんまりしながら、グレイスはギルディオスの後ろに立った。甲冑の首に腕を回し、顔を寄せる。

「よく似合ってるじゃねぇか。可愛いぜ、ギルディオス・ヴァトラス」

「近付くなぁああああ!」

ギルディオスは慌ててグレイスを振り解き、駆け出そうとしたが足が縺れてしまい、その場で真正面から転んだ。
だが即座に起き上がり、着物の裾を広げて必死に逃げた。それを、グレイスが笑いながら追いかけ回している。
フィリオラはなんともいえない気分になって、また泣き出してしまいそうになった。とても、情けなくて仕方なかった。

「ああ、小父様が…」

「オレも出来れば見たくない。だが、この状況では嫌でも目に入る」

レオナルドは、逃げ惑う甲冑から顔を背ける。カインは、旅館の玄関を指す。

「なんでもいいですけど、さっさと中に入ってしまいましょうよ。そうしないと、話が前に進みませんよ?」

「そうですよね。行きましょう、由佳さん」

インパルサーは北斗の自動小銃を肩に担ぎ、由佳に手を差し伸べた。由佳は少し照れたが、手を伸ばす。

「うん」

「行きましょ、レオさん」

フィリオラは自分の荷物を抱え、レオナルドの腕を掴んだ。レオナルドはぎくりとしたが、頷いた。

「あ、ああ」

「それでは僕らも行きましょう、フィフィリアンヌさん」

カインがフィフィリアンヌの手を取ると、フィフィリアンヌは驚いたように目を見開き、反射的に身を引いた。
不意に手を繋がれて戸惑っている彼女を見下ろし、カインは笑んでいる。フィフィリアンヌは、目を逸らした。
手を振り解こうとしたが、逆に握られてしまい、フィフィリアンヌは目線を彷徨わせた。肩を縮め、顔を伏せる。
インパルサーと並んだ由佳が隣を過ぎ、礼子に引き摺られた北斗が隣を過ぎ、フィリオラとレオナルドも行った。
だが、彼女は微動だにせず、固まっている。白い頬はほんのりと朱に染まっていて、薄い唇をぎゅっと締めている。
カインがフィフィリアンヌの手を軽く引いてやると、フィフィリアンヌはおずおずと目線を上げ、彼の手を握り返した。

「急に、握るな。困ってしまうではないか」

「すいません」

カインは平謝りしてから、歩き出した。フィフィリアンヌは引っ張られる形で、彼に続いて歩き出していった。
手を包んでいるカインの手の温かさを意識してしまったため、フィフィリアンヌはかなり気恥ずかしくなってきた。
背後ではぎゃあぎゃあとギルディオスが悲痛な叫びを上げているが、それが耳に入らなくなってしまうほどだった。
人前だから、いつにも増して恥ずかしい。フィフィリアンヌは照れ臭さで逃げ出したかったが、体が動かなかった。
カインは、顔を逸らして真っ赤になっているフィフィリアンヌが微笑ましくて可愛らしくて、目を離せなかった。
そのせいで、足元が疎かになった。玄関の段差にけつまずいてしまい、姿勢を直すより前にバランスが崩れた。
フィフィリアンヌは一緒に転ぶかと思われたが、手を放された。カインは、どしゃっ、と土間に真正面から倒れる。
いきなりの衝撃と痛みに混乱しながら起き上がったカインは、かなり情けなくなりながら、背後の彼女に向いた。
フィフィリアンヌは少し照れを残していたが、無表情に戻っていた。土間に座り込んでいるカインの傍を、過ぎる。

「さっさと立て!」

擦れ違い様、フィフィリアンヌはハンカチを投げて寄越してきた。カインはそれを受け取ると、はぁ、と頷いた。
まだ新しい白いハンカチを握りながら、カインは、スリッパを鳴らしながら廊下を歩く、彼女の背を見上げていた。
小さなドラゴンの翼が生えた背は、途中で立ち止まった。フィフィリアンヌは彼に振り向くと、やけに乱暴に言う。

「早く来んか。傷を治してやると言っているのだ」

「心配なら心配だと言って下さればいいのに」

カインは立ち上がると、服に付いた汚れを払った。フィフィリアンヌは顔を背けたが、彼が来るまで待っていた。
靴を脱いで揃え、旅館のスリッパを引っ掛けたカインは、階段の前に突っ立っている彼女の背後までやってきた。
フィフィリアンヌはちらりとカインを見上げたが、すぐに歩き出した。心なしか早い足取りで、階段を昇っていく。
カインは、照れくさそうな彼女が可愛くて仕方なく、にこにこしながらフィフィリアンヌに続いて階段を昇った。
それを、礼子はぼんやりとしながら眺めていた。玄関では、北斗がジャングルブーツを脱ぐのに苦労していた。
ええいくそぅ、という北斗の力の入ったぼやきを聞き流しつつ、あの人もツンデレなんだなぁ、と思っていた。
カインに対する態度は常につんけんしているが、その度に照れくさそうに頬を染めて、愛らしいことこの上ない。
しかも、見た目が美少女だから、照れている様が一層可愛らしかった。なんとも、微笑ましいハーフドラゴンだ。

「いいなぁ」

ぽつりと礼子が漏らすと、ジャングルブーツの片方を脱ぎ捨てた北斗が、見上げてきた。

「何がだね、礼子君」

「ん、別に」

礼子はボストンバッグを肩に担ぐと、北斗を一瞥してから歩き出した。

「なんでもない」

「なっ、まっ、待ちたまえ礼子君! 自分を見捨てていくのか!」

急に慌てた北斗が変な恰好で身を乗り出すと、礼子は面倒そうに振り返った。

「あんたが靴脱ぐの時間掛かりそうだから、先に部屋に荷物を置いてこようって思っただけだよ。それぐらいのことで、いちいち騒がないでよ」

んじゃね、と礼子は言い残して階段を昇っていった。北斗は伸ばしていた手を下ろし、ああ、と項垂れた。
その様子を、足の裏を拭いていたインパルサーは眺めていたが、傍らの由佳に向いた。由佳は、荷物を担ぐ。

「んじゃ、パル。あたしも置いてくるね」

「あ、はい。僕も後から行きます」

頷いたインパルサーに、由佳はちょっと気恥ずかしげに笑った。

「夕ご飯の前に、温泉入ってこようと思ってるんだけど、覗いたりしないでね?」

「やろうと思えば出来ますが、神に誓ってやりません!」

雑巾を持った手を掲げ、インパルサーは宣言した。由佳は、また後でね、と手を振りながら階段に向かった。
インパルサーは、するはずがないじゃないですかもう、とやけに上擦った声で言いながら、また足の裏を拭いた。
北斗は二階に繋がる階段をぼんやりと眺めていたが、インパルサーを見上げると、不可解そうに口元を曲げた。

「なぜだ」

「はい?」

片足を持ち上げているインパルサーが首をかしげると、北斗は声を上げる。

「お前達はああだというのに、なぜ自分と礼子君はそうはならんのだ!」

「ああ、言われてみればそうですね。礼子さんって、結構淡々とした人ですよね」

中学生なのに、とインパルサーが言うと、北斗はジャングルブーツを脱いだ片足だけを床に乗せて立ち上がった。

「違ぁう! お前達と同じ状況にいるにも関わらず、なぜ礼子君は自分にベタベタして来んのだ!」

「…は?」

インパルサーは、レモンイエローのゴーグルの奧で瞬きした。北斗はもう一方のジャングルブーツを、引き抜いた。
それを玄関に放り投げたが、きちんと揃えて置き直した。そして、インパルサーを見据えると、苦々しげに言う。

「自分と礼子君と、お前達とは何が違っているのだ。同じように深夜バスを乗り継いでフェリーに揺さぶられ、リアル水曜どうでしょうを経験したはずだ。そして、同じように、それぞれの世界から引っこ抜かれて竜神温泉旅館に放り出されているにも関わらず、礼子君は自分にベタベタしてこない! 自分とお前達の違いは何だというのだ!」

「そりゃ、決まっていますよ」

インパルサーは足の裏を拭き終えた雑巾を畳むと、玄関の隅に置いた。

「僕と由佳さんはマシンソルジャーとコマンダーという関係にありますが、それ以前に世間一般で言うところの恋人という関係にあります。見た感じ、フィフィリアンヌさんとカインさんもそのようですし、レオナルドさんとフィリオラさんもそんな様子でした。ですが、北斗さんと礼子さんはそうじゃないみたいですから、礼子さんが北斗さんにいちゃついてくることはないのは当然だと思います」

「コイビト?」

「はい。その辺が、僕達とあなたの違いではないでしょうか?」

それでは僕も行かなくてはなりませんので、とインパルサーは丁寧に頭を下げて、がしゃがしゃと歩いていった。
マリンブルーの翼を付けたマシンソルジャーの姿が見えなくなってからも、北斗はしばらくの間、思考に耽った。
言われてみれば、確かにそうだ。礼子と北斗の関係は友人以上ではあるが、それから先に進んでなどいない。
というより、進む機会がない。たまの休みに面会許可が下り、会うことはあるが、ただひたすら話すだけだ。
それ以前に、恋愛関係にはどう発展させるのか解らない。してみたいという興味はあるが、方法を知らなかった。
メモリーには戦闘に関する情報が詰められ、思考パターンも戦闘重視に作られているので、感情面は不充分だ。
兄弟機である南斗はもう少し感情面が増強されていたが、北斗に至っては、感情回路のメモリー量は少なかった。
陸上自衛隊からの開発援助を受けた高宮重工によって製造された時に、白兵戦向きとして造られたからだ。
最前線で戦うに当たって感情は少ない方がいい、という方針であったためだが、近頃は多少自己進化していた。
それでも、小学生低学年から高学年になっただけぐらいの変化でしかないので、恋愛の機微などさっぱりだ。
だが、コイビトになれば礼子はベタベタしてくるはずだ、という結論に達したので、関係を発展させたくなった。
彼女は、北斗にとっては掛け替えのない大事な女性であり、出来ることなら、もっと近くで接していたい相手だ。
しかし、礼子はドライだ。あの三日間の演習に至っても、滅多なことでは感情を揺らがせなかったほどだ。
そんな礼子を、どうすればコイビトに出来るのか。北斗は、玄関先に突っ立ったまま悶々と悩み始めていた。
それを、ギルディオスは玄関のすぐ前に倒れながら見上げていた。背中には、グレイスが張り付いている。

「…とりあえず、こいつをどうにかしてくれや」

「お前達はコイビトなのか?」

北斗の唐突な質問に、グレイスはにやけた口元を押さえた。

「あ、そう見えるぅー?」

「違ぇよ、誰がどう見たってそんなんじゃねぇよ! ていうかオレもお前も妻子持ちだろうがっ!」

この野郎、とギルディオスがグレイスを引き剥がそうとする姿を見、北斗は不思議がった。

「だが、お前達はベタベタしている。ベタベタしていればそういう関係ではないのか?」

「違うっつってんだろうが!」

ギルディオスが喚き立てると、北斗は訳が解らなくなってしまい、ヘルメットを押さえた。

「どこがどう違うのか、自分にはさっぱりだ」

コイビトの何たるかを悩みながら、北斗は足に比べて遥かに大きさの小さいスリッパを引っ掛け、歩き出した。
ギルディオスはその背に何度も声を上げたが、悩みに集中している北斗は振り返ることもなく、行ってしまった。
北斗なら助けてくれるかと思っていたが、期待しただけ無駄だったらしい。ギルディオスは、地面に突っ伏した。
背中にへばり付いているグレイスは、離れそうにない。きっちりと着付けられている着物も、緩みそうにない。
ギルディオスはこの状況をどうにかすることを諦め、半泣きの声で呟いた。

「…もうやだ、こんな生活」








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