一瞬、あたしは目を疑ってしまった。 新聞のテレビ欄を開いてその中を見ても、更に数ページめくっても、記事を舐めるように見ても。 あると思っていたはずの記事が見当たらず、悪化する世界情勢や景気、ひどい事件の記事が並ぶばかりだ。 思わず、昨日の純白のアドバンサーは夢だったのかな、とか変なことを考えてしまった。 新聞を広げたままダイニングテーブルに座っていると、背後からインパルサーが新聞を覗き込んできた。 「見事なものです」 「何が? 昨日の事、絶対出てると思ったんだけどなぁ…」 「だからです」 インパルサーは少し首を動かし、ゆっくり記事を読んでいく。日本語は、しっかり読めているようだ。 数ページめくって社会面を開いてから、隅っこの小さな記事を指した。あたしは身を乗り出す。 「あ、ありましたよ」 「ロボット工学の天才少女科学者、マリー女史来日?」 粒子の粗い白黒の写真の中で、マリーが笑っている。なんか、変な感じだ。 事実とかなり違うぞ。それどころか、科学者って何よ。マリーさんは軍人じゃないのか。 もしかして、これが法に違反しない転校の方法なのか。あたしはそう思いながら、読み上げていく。 「空中飛行が可能な大型ロボットは、定期的に試験飛行している。その際には、純白の塗装を施された美しい姿を拝めることだろう…。大型ロボットと共にマリーの手によって生み出された五体の人間大ロボット達は、その人工知能を更に高めるため、都内某所の高校へ彼女と共に転入することが決定した…?」 「つまり、アドバンサーも僕達も、この星で造られたことになっているんですよ」 インパルサーは顔を上げ、腕を組む。多少腑に落ちていないらしい。 あたしは振り返って見上げると、パルはふう、と息を吐いた。 「だから、わざわざ大立ち回りをしたんですよ、マリーさんは。一度害がないと示してしまえば、後は楽ですから」 「よくアニメとかであるパターンだけど、実際にやられるとねぇ…」 あたしは、気が抜けてしまった。こうも上手く行くとは。 テレビの前で座り込んでいる涼平が、振り向いた。 「昨日の白いロボット、あれって地球のもんなのか?」 「違うよ。あれを操縦してるマリーさんは異星人でサイボーグで、あの白いロボットはプラチナって言って」 「僕らの強敵でした」 と、インパルサーは付け加えた。途端に涼平は立ち上がり、駆け寄ってきた。 インパルサーを見上げ、弟は目を輝かせる。小学生らしい。 「そんなに強いのか、あの白いの!」 「プラチナは細身ですが中身はほとんど重火器とブースターで、実はウルトラヘビークラスのアドバンサーなんです」 「嘘ぉ。あんなに速いのに?」 と、あたしが呟くと、インパルサーは否定する。 「嘘じゃありません。あれはマリーさんにしか出来ない操縦で、基本的には重心移動と自重で加速しているんです。ヘビークラッシャーと同じ移動方法なんですが、この辺りはマリーさんの勝ちです。その重量もそうなんですが、搭載火器の命中精度が恐ろしく高くて、外れたことなんて数える程しかありません」 「うわ」 思わず、あたしはそんな声を出してしまった。マリーさんが、ちょっと恐ろしくなった。 涼平はマリーを見たことがないので、どんな人か想像しているようだ。 インパルサーは続ける。 「大抵、ウルトラヘビークラスは自重のせいで格闘戦が苦手なんですけど、マリーさんは別です」 「…凄いの?」 「はい。凄いですよ。結構間合いを取っていたのに、一瞬で詰めて上段キックと裏拳二発。一度に喰らいました」 あれは痛かったです、とインパルサーは首元を押さえた。また外れそうな気でもしたのか。 あたしはその様子を思い浮かべたが、あれだけ速いパルがすぐに殴られ蹴られ、なんてことは想像出来なかった。 その前に避けちゃうんじゃないか、とか思うけど、避ける前にマリーさんは攻撃したようだ。プロだ。 涼平は空中に裏拳を出しつつ、インパルサーを見上げた。あたしと同じことを思ったらしい。 「でもさ、パル兄って結構速いんだろ? そんなにすぐ、当たっちゃうもんなのか?」 「当たりますよ。プラチナは重心移動で姿勢を動かしていますから、動きが予想外で…」 少し情けなさそうに、パルは笑った。 「何度も不意打ち喰らいました。僕がプラチナを倒せたことなんて、ありませんよ」 「他の兄弟は?」 そうあたしが尋ねると、インパルサーは指折り数える。 「フレイムリボルバーが完全大破、フォトンディフェンサーが翼二枚と頭部、シャドウイレイザーが右腕一本ですね」 「それじゃ、パル兄はどこまで行けたのさ」 「えーと…僕は、一度コクピットを奪っただけですね。それ以外は、ありません。大したことないですよ」 と、彼は頬を掻いた。いや、それも充分大したことだと思う。 涼平もそう思ってるらしく、変な顔をしている。なんだ、パルってやっぱり強いんじゃないか。 ふと、インパルサーが顔を上げた。軽く踏み出してリビングの窓に駆け出し、勢い良くカーテンと窓を全開にした。 ふわっとした風がカーテンを広げ、少し中の空気がぬるくなった。 直後。 黒くて小さなものが、開け放した窓から降ってきた。 ソファーの上を通り越したそれは、インパルサーが後ろから抱えるように捕まえた。 パルに捕まえられた小さなもの、それは昨日の少女ロボット、クラッシャーだった。なんで降ってきたんだ。 細身の腰を抱えられながら、彼女は上目にインパルサーを見上げた。 「なんで開けちゃうの、兄さん?」 「いいですか、ヘビークラッシャー。ここは戦場じゃありませんし、沢山あるおうちはこの星の方々の物なんですよ」 「だーけどさぁー」 「壊したりしたら、由佳さん達に迷惑が被るんですから。壊しちゃダメですよ」 「はーい」 あまり面白くなさそうに、クラッシャーは返事をした。 インパルサーが彼女を放すと、ふわんとした動きでフローリングの上に降りた。足が付いていない。 常に重力制御で浮かんでいるようで、その足元にあるティッシュ箱が巻き添えを食ってふよふよ浮かんでいる。 インパルサーはそのティッシュ箱や浮かびそうになるソファーやテーブルを押さえて、飛ばないようにしていた。 「申し遅れまーしたぁ」 クラッシャーは子供らしい笑顔になると、多少手の角度が高い敬礼をする。 「元コズミックレジスタンス第五攻撃隊所属のヒューマニックマシンソルジャー、ブラックヘビークラッシャーでぇす」 「こんにちは」 あたしは、とりあえず挨拶した。この口調と声に、まるで名前が合っていないから違和感が凄い。 涼平は仰々しい名前の割に小さなクラッシャーを眺め、呟いた。 「…ガキじゃん」 「それ言うなぁ!」 と、クラッシャーは涼平に近寄り、Aカップくらいの胸を張った。 ショッキングピンクの目を更に吊り上げ、声を上げる。 「私はいつかナイスバデェなおねーさんになるんだし、もう五年も稼働してるんだからガキじゃないもん!」 「僕は今のままが好きですが」 と、インパルサーが多少浮かれた声で言った。シスコンなのか、あんたは。 あたしはじりじりと涼平に迫るクラッシャーを見、尋ねた。 「ところで、なんでうちに来たの?」 「ん、ああ」 クラッシャーは今更思い出した、と言うように、顔を覆う尖り気味のヘルメットを掻いた。 「なんか、つまんなくって。マリーさんもおうちの片付けに忙しいし、ディフェンサー兄さんはずーっと不機嫌だし」 「シャドウイレイザーは?」 「マリーさんちに帰ってきても、隅っこでずーっと震えちゃってるの。外、怖くないのに」 と、クラッシャーは不満げにインパルサーに返した。イレイザー、あんたはパルより情けないぞ。 インパルサーは眉間と思しき部分にマリンブルーの指先を当て、深くため息を吐いた。いつか胃に来るかもね。 あたしはそんなパルに同情しつつ、ふと、うちの前の道路にまた何か突っ込んでくることに気付いた。 黒いマウンテンバイクが激しいブレーキ音を鳴らしながら、うちの門の前で止まった。神田だ。 神田はあたしに気付いたようで、片手を挙げた。凄く嬉しそうな笑顔だ。 あたしは思わず、手を振り返していた。 神田は物珍しそうに、きょとんとしながらふわふわ浮かぶクラッシャーを眺めていた。 あたしは昨日と同じように、神田と対面して座っている。涼平は、あたしの隣だ。 ソファーに座ってアイスコーヒーを飲んでから、フローリングに正座しているインパルサーと見比べた。 「ちっさいなぁ」 「ですが、ボディの重量はヘビークラッシャーが一番重いんですよ」 と、インパルサーが神田に返すと、クラッシャーはむくれた。気にしているらしい。 そう言われて、やっと納得が行った。常に浮かんでいるのは、その重量で床を壊さないためだろう。 彼女はインパルサーの上辺りで止まると、細い腕を組む。 「そういえば、リボルバー兄さんはまだ来ないの?」 「もうちょっとしたら、鈴ちゃんと一緒に来ると思うよ。もうすぐ十時だし」 あたしは、掛け時計を見上げた。昨日の帰り際、そう約束していたのだ。 クラッシャーはしばらく時計を見ていたが、あたしとインパルサーを交互に見、にっこり笑った。 「おねーさん」 「はい?」 微妙に嫌な予感がした。 クラッシャーはあたしの前に滑り込むと、ずいっと顔を寄せた。 「インパルサー兄さんと、どこまで行った?」 「どこ、って」 あたしはその質問の意味は大体見当が付いていたが、まともに答える気はなかった。 はぐらかそうと考えている間にも、クラッシャーは迫ってくる。満面の笑みだ。 「教えて教えてー。おねーさぁん」 あまりにもクラッシャーが近付いたため、体がふわりと軽くなってきた。 そのせいでスカートが開いたので、慌ててそれを押さえてから顔を上げた。ああもう、恥ずかしい。 浮かんでいきそうになる体が、何かに防がれた。見上げると、インパルサーがあたしの肩に手を当てている。 彼はもう一方の手を出し、人差し指を立てた。 「ヘビークラッシャー。そういうことは、あまり詮索しない方がいいですよ」 「じゃー兄さんが教えて」 「ダメですよ。それに、教える程の事は起きていませんし」 「うっそだぁー。だって、兄さんあんなにカッコ付けたこと言ってたくせにぃ」 「あれはあれです…って、聞いてたんですか」 インパルサーは、ちょっと語気を強めた。 「それに、僕と由佳さんはイッセンを越えていないんですから、邪推される程の事にはなっていませんよ」 あたしは、逃げ出したくなった。 パル、何もこんなときにそんなことを言うこともないじゃないか。恥ずかしい。 恐る恐る顔を上げると、神田は変な顔をしていた。そりゃそうだろう。 涼平は一線の意味が解っているのか、げんなりとあたしを見ている。ませ過ぎだ、弟よ。 クラッシャーはきょとんとしながら、インパルサーを見上げた。 「兄さん、そのイッセンてなあに?」 「えと、そうですね…」 と、インパルサーが説明しようとしたので、あたしはそれを遮った。 「パル!」 「はい?」 「それ以上言っちゃダメ。でもって、これからもそういうことを妹に教えたりしない!」 ええー、とクラッシャーが抗議の声を上げた。いや、あんたもあんただよ。 インパルサーはしばらく渋っていたが、仕方なさそうに敬礼した。 「…了解しました」 あまり背の高くない杉の木に挟まれた細い道を、ロボット三体人間四人で歩いていた。 最初は飛んでいこうかという話だったけど、人数が合わないのでこうなっている。遠足のようだ。 セミの声は騒がしく、まだまだ暑い。アスファルトの照り返しが、ミュールを引っかけただけの足には少しきつい。 住宅造成地へ向かう坂を昇りながら、鈴音がおかしそうに笑った。リビングでの出来事を、涼平が話したのだ。 リボルバーも吹き出し、その背後を付いてくるクラッシャーがむくれている。まだ一線の意味を知りたいようだ。 鈴音はひとしきり笑い、あたしの隣を歩くインパルサーを見上げる。 「だーけどブルーソニック、どこでそんな言葉覚えるのよ」 「えと、確かアイアルヒビで、ナツエさんが言っていたんです」 パルはあたし達を見下ろした。それは、再放送されている昔のメロドラマのタイトルだ。 タイトルを聞いた途端にリボルバーは表情を歪めたが、また笑った。 「よりによってそれかよ…ありゃあ一度流し見したことあるが、相当えげつねぇドラマだったなぁ」 「昼メロ、見てんのかよ…」 と、神田が嫌そうに呟いた。その背には、大きく膨らんだデイパックが乗せられている。 あたしはとりあえずインパルサーの名誉のため、フォローを入れておいた。 「母さんに付き合ってるの。母さん、結構パルを可愛がってるから」 「ねえねえ、んーと、葵ちゃん」 と、クラッシャーが神田の前に滑り込んできた。 ふわりと高さを合わせ、荷物を指した。 「これ、なあに? 中身は液体っぽいけど」 「マリーさんへの賄賂だよ」 神田はにやりとした。賄賂って。 一番後ろにリボルバーと並んで歩いている鈴音は、腕を組む。 「てことは、コーラ満載か。何本?」 「二リットルを四本」 神田は重そうに、デイパックを担ぎ直した。合計で八キロだから、重くて当然だ。 涼平はそれを少し羨ましそうに見ていたが、すぐに前を見据えた。やけに表情が硬い。 なにやら真剣な弟に、あたしは尋ねた。 「何怖い顔してんの」 あたしが訝しむと、涼平は声を上げた。 「オレはコマンダーになるんだ!」 「…はあ?」 思わず、そんな声が出てしまった。皆、振り返る。 涼平は真剣そうに、深く頷いた。本気なのか、弟よ。 「だけど涼君、これで結構大変なのよ、コマンダーって」 鈴音は、涼平を後ろから見下ろす。 頬に手を添え、少し目を伏せた。また、あのしとやかな口調になる。 「いちいち暴走しそうになるボルの助を、止めなきゃならないんだから」 「慣れれば楽だけどさー…」 あたしは、最初の頃の苦労を思い出してしまった。 「慣れないうちは、あたしもパルも随分苦労したんだから。涼、あんたは知ってるでしょうが」 「オレはアドバンサーパイロットになる!」 聞いてもいないのに、神田が声を上げた。うん、あんたはそうなるだろうね。 涼平はインパルサーとリボルバーを交互に見、そして最後に、クラッシャーへ目を向けた。 クラッシャーはするりと降りてくると、ぷいっと顔を逸らした。 「私はいーやー」 「誰もお前なんて言ってねぇだろ」 「言ってなくてもいやー」 と、クラッシャーは言うだけ言って、涼平に背を向けた。その背には、大きな長方形のブースターが二つあった。 涼平は彼女に突っ掛かるためなのか、追いかけていく。クラッシャーは、けらけら笑いながら逃げている。 どんどん走っていく二人は、あっという間に残り少ない坂を登り、姿が見えなくなる。 インパルサーは軽く地面を蹴り、体を浮かばせて坂の上を見た。 「あれですね」 「マリーさんちが見えるの?」 「見ますか?」 と、インパルサーはあたしの手を取った。いきなり何を。 ふわっと体を浮かばせられたかと思うと例によってお姫様抱っこに抱えられ、同じ目線になる。スカートが心配だ。 彼が軽く顎で示した方向を見ると、そこにはこぢんまりとした未来的な白亜の家が、一軒だけ建てられていた。 その周囲はこの間とまるで変化はなく、その下に宇宙船があるなんて解らない。本当にあるんだろうか。 ふと足元を見下ろすと、リボルバーが、へっ、と吐き捨てるように顔を逸らした。羨ましいらしい。 リボルバーがゆっくりと鈴音へ顔を向けると、鈴音は嫌そうに口元を曲げる。 「ブルーソニックと同じこと、やろうと思わないでよ?」 「まっ、まさかぁ」 と、若干上擦った声を出したリボルバーは乾いた笑いを発した。やろうと思っていたらしい。 行くよ、と先を歩いていく鈴音を、彼は肩を落としながら付いていった。そんなにやりたかったのか。 あたしはさすがに恥ずかしくなってきて、こん、とパルを小突いた。 「いい加減に下ろして」 「はい」 インパルサーは頷いたが、そのままするりと登って坂の上に着地した。結構きざったらしい。 上で待っていた涼平とクラッシャーの後ろに降りると、隣にがっしゃんがっしゃん走ってきたリボルバーが止まる。 その後ろから鈴音と、複雑そうな面持ちで神田が着いた。相変わらず青春してるね、葵ちゃん。 高台の住宅造成地にぽつんと建っている、二階建ての家の前には、マリーが待っていた。 昨日買った水色のワンピースをふわりと風に揺らがせながら、彼女は軽く首をかしげて微笑んだ。 「ごきげんよう」 あたし達は、その白亜の家に通された。玄関のドアがやけに広いのが気になった。 至るところに、マリーの制服と同じエンブレムの付いた箱が、いくつも並んでいる。どれも開けていない。 大量の箱の隙間を抜けるように廊下を進むと、大きな窓が特徴的なリビングがあった。結構広い。 そこにはまだ何の家具もなく、ここもまた箱に埋められていた。どれだけあるんだよ、これ。 壁に埋まっている棚にいくつかの写真立てがあるくらいだが、それは全て伏せられていた。 コルク製のフローリングの床に、あたしは直に座る。ソファーも座布団もないのだから、仕方ない。 マリーは近くの箱を開けて中からポットらしきものとカップや缶を出し、それを抱える。 「キッチンを地球式に造り付けてしまいましたから、使い方がよく解っておりませんの。お手伝い願えます?」 「ついでにこれも切ろうか」 あたしはトートバッグの中を探り、出掛けに母さんが持たせてくれたブランデーケーキを取り出した。 鈴音は立ち上がると、奥のキッチンへ向かうマリーの背を追った。 「そうだね。んじゃ、ちょっと行ってくるかな」 「お手数、お掛けいたしますわ」 マリーはキッチンへ繋がるドアを開けつつ、苦笑した。 あたしは手を横に振り、笑う。 「いえいえ」 涼平と神田は、所在なさげに座っていた。神田は、賄賂を出すタイミングを計っているようだ。 インパルサーは、物珍しげに辺りを見回している。リボルバーは胡座を掻いて腕を組み、じっとしている。 遊び相手がいないクラッシャーは、暇そうにふよふよと空中を漂っていた。結構、楽しそうだ。 真新しいキッチンにも、箱は山のように置かれていた。一体、この中身は何なのだろう。 マリーはグリル付きガスコンロを凝視していて、鈴音はそのガスホースを繋げていた。解らないのか。 あたしはとりあえず蛇口を開けて、しばらく水を流した。まだきっと、鉄臭いだろうから。 だばだばとステンレスに水が広がって大分流れたので、これまた新品のヤカンを手に取る。 「マリーさん、これ使って良いですよね?」 「よろしくてよ」 ガスコンロの使い方を説明されながら、マリーは頷いた。 あたしはまず中を軽く流し、そして満杯になるまで入れて、二人が睨むガスコンロの上に置いた。 鈴音はガスの元栓を開いてから、その下のスイッチを押して点火させる。 「はい、これで火が点くの。結構単純だから」 「下の部分はなんですの?」 「魚が簡単に焼けるんです。でもその時に、下の部分に水を入れないとダメですから」 と、鈴音は魚焼きグリルを指した。マリーはおもむろに引っ張り出し、じっと睨み付けた。 それをがしゃっと引っ込め、首を捻る。顎に指を添え、呟いた。 「そのうち使ってみますわ。こういったものは、使わなければ解りませんもの」 あたしは、包丁を探そうと流し台の下を開けると、何やら底が見えなかった。真っ暗なのだ。 たぶん包丁だと思われる刃物は扉の内側に掛かっていたけれど、奥の方が気になって仕方ない。 排水パイプは奥の方へ押しやられて、なんとも窮屈そうにしている。一体、これは何なんだろう。 すると、背後からマリーが覗き込んできた。 「ここはいじらない方がよろしいですわ、由佳さん」 「これ、何ですか? 底、全然見えないんですけど」 「アドバンサーハンガーへシューターですの。プラチナのコクピットへ直通ですのよ」 「便利っぽいですね」 「それなりに便利ですわ」 と、マリーは笑み、包丁っぽいものを抜いてから、流し台の下を閉めた。 鈴音は既にまな板を出していて、その上には頂き物のブランデーケーキが開封されて置かれていた。 マリーはガスコンロを止めて、すっかりお湯の沸いたヤカンを下ろした。 ダイニングテーブルに置いてあるクリーム色のティーポットには、何かのお茶の葉が入っている。 あたしはそのお茶の葉が入っていた缶を手に取ってみるけど、文字が解らないので何のお茶かは解らない。 静かにお湯をティーポットに注いで蓋をし、マリーが振り向いた。緑茶っぽい匂いが漂っている。 「リンリンリンガーのお茶ですの」 「リンリン…?」 あたしはつい、その名前を反芻してしまった。鈴音も不思議そうな顔をしている。 マリーは軽く蓋を押さえて、少しティーポットを回す。その度に、ふわりと匂いが広がった。 「そうですわ。お客様にお出しするには、これだと決まっておりますの。一番いいお茶ですのよ」 柔らかい水音と共に、クリーム色のティーカップにリンリンリンガーは注がれていく。匂いは緑茶だ。 だけど、ティーカップに満ちていくお茶の色は、ほうじ茶っぽい焦げ茶色。訳が解らない。 注ぎ終えたリンリンリンガーの入ったそれを、マリーはとんとんと丸い盆に載せ、ついでにティーポットも載せる。 鈴音は思い出したように、ブランデーケーキを切る。それを皿に並べつつ、首をかしげる。 「どういうお茶なのよ」 「んー…」 あたしには、その色と香りよりも名前の方が凄まじかった。最後のガーが、特に引っかかる。 ブランデーケーキの載った五つの皿に、一つずつ細いフォークを添えてから、鈴音は少し笑った。 「もしかして、味は紅茶だったりして」 「まっさかぁ」 と、あたしは鈴音を茶化した。さすがにそれはないだろう。と、思いたい。 するとマリーは意外そうにあたし達を見回し、頷いた。 「あら、よくお解りですこと。リンリンリンガーの味は、昨日由佳さんに飲ませて頂いたコウチャと同じ味ですわ」 盆を持ったマリーはブランデーケーキの皿を並べ、シュガーポットとミルクピッチャーも載せてから出て行った。 あたしは、鈴音と顔を見合わせてしまった。ここまで来ると、もう新手のギャグだとしか思えない。 まるで玉露のようなリンリンリンガーの匂いが、やけにキッチンに残っていた。 宇宙って、不思議すぎる。 04 4/21 |