Metallic Guy




第十二話 夏の、終わる日



巨大ロボの前で仁王立ちする神田は、辛そうだった。
その右手にはマリーがしていたのと同じ、腕時計っぽいものが付けられている。どうやら、コントローラーらしい。
あれがなければ、リモートコンシャスネス、要するに意識を飛ばして操縦することが出来ないんだそうだ。
ついさっきマリーが軽く動かして歩かせてみたりしていたときは簡単そうに見えたけど、そうでもないようだ。
かれこれ三十分、神田はずっと黒いアドバンサーを睨んでいた。


「リモートコンシャスネスが上手く行かないなら、直に操縦したらいいんじゃないでしょうか」

マリーの家の屋根に乗って座っているインパルサーは、黒いロボットとその手前の神田を見下ろした。
あたしもなぜかここに連れてこられ、リボルバーと鈴音も来ていた。見物のためらしい。
ほぼ真下の玄関先に立っていたマリーはあたし達を見上げ、首を振る。

「それは出来ませんわ、ソニックインパルサー。葵さんは、私達の言語を一切読むことが出来ませんもの」

「読み方を教えたらどうにかなる、というほど単純なものでもないですしね」

と、インパルサーは納得したように頷いた。巨大ロボを動かすのは、見た目以上に面倒なようだ。
胡座を掻いて腕を組みつつ、リボルバーはじれったそうに息を吐く。

「葵ちゃん、一歩もあいつを動かせねぇな。訓練つったって、もうちょい出来るだろうが」

「仕方ないでしょ。葵ちゃんは今の今まであんなもの動かしたことなかったんだし、当然よ」

鈴音は座り込んだリボルバーの肩に、軽く座った。高さが丁度良いからだ。
あたしは鈴音の横顔を眺めつつ、大きな影の周囲で動き回る、クラッシャーと涼平を眺めた。
なんだかんだ言って、結局二人で遊んでいる。また何かケンカしているのか、やかましい声が聞こえてくる。
ディフェンサーは遊びにもギャラリーにも加わらず、離れた場所で不機嫌そうにしている。
あたしはそれが、妙に気になった。

「パル、ボルの助。ディフェンサーって、いつもああなの?」

「違います。ちょっと気が強いですけど、いい方ですよ」

「じゃ、なんであたし達を避けてるんだろ」

と、あたしはパルを見上げる。パルは、細い道路の手前に座るディフェンサーを見下ろした。

「彼は彼で、過去を気にしているんでしょう。知っての通り、僕達は元々戦闘専門のマシンですから」

「一般社会にぶち込まれて、きちんと堅気の暮らしが出来るかどうかも不安なのさ」

リボルバーが続けた。兄弟だから、そういうことはよく解るらしい。
体を斜めにした鈴音は彼を覗き込み、少し笑った。その拍子に、髪が広がる。

「結構繊細なのね。鋼鉄のボディしてるくせして」



「あ」

ふと、インパルサーが顔を上げた。
その先を見ると、黒いロボットがゆっくりと、本当にゆっくりと、右腕を上げていく。
ぎりぎりと関節が軋む硬い音がやかましく、広がっていく。赤い目が、ぎらりと輝いている。
高く上げられた右手はがしりと握られ、またゆっくりと下ろされた。凄いぞ、葵ちゃん。
黒いロボットの前で、神田が座り込んでいた。片腕を上げるだけでも、相当消耗したようだ。
荒い息を繰り返しながら、満足げに笑っている。ぐいっと片手を突き出し、親指を立ててみせる。
だけど声はせず、それだけだった。意識だけでアドバンサーを動かすことは、かなり疲れるようだ。
しばらくしてから、やっと神田は声を上げた。凄く、嬉しそうだ。

「…ぅ動いたぁーっ!」

ぱちぱちと拍手の音がし、元を辿るとそれはマリーだった。軽く手を叩きながら、神田に近寄る。
彼女は金髪をなびかせながら、座り込んだ神田の前にしゃがみ込んだ。

「一度動かせれば、後は楽ですわ。体で操縦方法を覚えてしまえば、もっと楽に動かせるようになりますわ」

「マジすか!?」

「ええ」

と、マリーは微笑んだ。神田は勢い良く立ち上がり、またじっと黒いロボットを見上げた。
すると今度は、その黒いボディが反り、背中に乗った四枚の翼がじゃきんと開いた。
神田がぐっと拳を握ると、アドバンサーはゆっくりながらも右足を前に出した。神田は、歩かせるつもりのようだ。
ゆっくりと上がった大きな足が、ずん、と降りた。もう一方の足も上がり、その足を追い越す。
バランスを取るためなのか両腕が広げられていて、その指先が変に開いている。手を握っていない。
かなりゆっくりで妙ちきりんな格好ながら、神田操るアドバンサーは歩いていく。凄い進歩だ。

「歩けぇ、歩けぇ! オレの相棒ーっ!」

どぉん、と大きな足が降ろされるたびに凄い音がする。でっかいからだ。
涼平が半ば呆然としながら、変な格好でどったんばったん歩いていく巨大ロボを見上げている。
赤土の上を一週して、アドバンサーはまた最初の位置に戻ってきた。今度は片足を曲げ、膝を付いた。
その手前に立ち、神田は胸を張った。かなり自慢気だ。

「いよぉし、偉いぞ!」

「素晴らしいですわ、葵さん。この子を走らせられたら、搭乗してもよろしいですわよ」

「走らせられたら、乗っていいんすか?」

「はい、よろしいですわよ」

マリーは頷き、黒いアドバンサーを見上げ、微笑んだ。
その笑顔と、目の前で膝を付いているアドバンサーを見比べていたが、神田はすぐに頷いた。
無表情の相棒へ向き直り、神田が叫ぶ。にやりと笑い、妙な自信に満ち溢れている。

「やったろうじゃないか!」


まるでキャラが違う。ていうか、テンション高過ぎだ。
あたしは必死になってアドバンサーを歩かせる神田を見つつ、そう感じていた。
ちょっと前までは結構控えめにあたしに近付いてきていたのに、アドバンサーには凄い勢いで迫っていく。
つまり、神田にとっての巨大ロボは、恋じゃなくて愛する相手のようだ。ボルの助みたいに、かなり強烈だけど。
かなり不格好ながら、アドバンサーは歩いている。その様子は、歩き方を覚えたばかりの子供のようだ。
その周りをするする飛ぶクラッシャーは、その歩き方を邪魔しない程度に距離を開いている。
インパルサーは、大股開きに歩いていくアドバンサーを眺めていた。

「葵さん、頑張りますね」

「だがあの兄ちゃん、大丈夫か? リモートコンシャスネスに慣れてねぇんだろ?」

少し心配げに、リボルバーが神田を見下ろした。見ると、神田は足を踏ん張っていた。
なんとか立っているだけのようで、かなり辛そうだ。集中力が切れてきたようだ。
しばらくすると、とうとう限界が来たようで、どっかりと座り込んでしまった。きつそうだ。
途端にアドバンサーもよろけ、どがっしゃーん、と派手に前から転んだ。見事に連動している。
神田は額の辺りを押さえながら、唸っている。

「あまり無理をなさらない方がいいですわよ、葵さん。一日で、走らせることは出来ませんわ」

マリーがそれを覗き込み、苦笑した。

「リモートコンシャスネスを使用出来ただけでも、上出来ですわよ」


「ちくしょー…」

背中を丸めて目元を押さえた神田の手元を、マリーが軽く操作した。
すると、黒いアドバンサーは途端に姿勢良く立ち上がった。今度は、マリーが操作しているのだ。
あのぎこちない歩き方をしていたロボットと同じものとは思えないほど、滑らかに走る。綺麗なフォームだ。
ふわりとジャンプし、じゃきんと背中の翼を伸ばしてブースターを三つ出してから、空中に飛び上がった。
黒いボディがあたし達の頭上を抜け、また戻ってきた。赤くて鋭い目が、じっとこちらを見下ろす。
その姿に鈴音が感嘆の声を上げたので、リボルバーは表情を歪めた。妬いたのか、アドバンサーに。
機影はゆっくりと上空を巡ってから、開きっぱなしの格納庫の上にぴったりと着地した。見事だ。
弱い風に長い髪を広げながら、マリーはあたし達を見上げた。

「そろそろ日も落ちますわ。今日はいらして下さって、ありがとうございました」

気付くと、西の空は真っ赤だった。いつのまに。
つい先日と同じオレンジ色の光に照らされたマリーは、にっこり微笑んだ。




薄暗くなりつつある道路を、神田はずるずる歩いていた。まだ、集中力は回復していないようだ。
あたしは最後尾の神田を眺めていたが、また視線を前に戻した。前には行きと逆で、鈴音とボルの助だ。
リボルバーはクラッシャーにまとわりつかれていたが、結構楽しそうだ。鈴音も、楽しげにしている。
それをどこか羨ましげに涼平は見ていたが、あたしに気付かれたせいで、目を逸らした。素直じゃない。
隣を歩くインパルサーの横顔が、すっかりオレンジに染まっていた。レモンイエローが、ぎらりとしている。
並んでみると、今更ながら身長差を感じた。二メートル以上あるパルは、やっぱりでかい。
足の長さも相当なもので、あたしの胸と腰の間くらいまであったりする。座高、低いんだろうなぁ。
つい眺めてしまっていると、インパルサーが唐突に振り向き、目が合った。

「由佳さんて、結構小さいんですね」

「そうでもないよ。百六十はあるし。そりゃあまあ、平均よりは下の方だけど」

「じゃ、僕が大きいってことになりますね」

と、どこか楽しげに、インパルサーが首をかしげた。少し体を屈め、あたしに視線を合わせる。
あたしは頷き、慌てて目を逸らした。これ以上はもうダメだ。

「そうなる。パル、でかいもん」

「嬉しいです」

「何が?」

「こうして外に出られて、弟達にも会うことが出来たんです。後でマリーさんに、お礼をしないといけませんね」

凄く、嬉しそうな声だ。きっと、マスクの下はいい笑顔になっている。
あたしが薄雲が綺麗に染まった空を見上げると、彼も同じようにした。その中を、飛行機雲が抜ける。

「だね」

「あと、マスターコマンダーにも少しは感謝しないといけませんね」

と、インパルサーが言うと、途端にリボルバーとクラッシャーが振り返る。
信じられないような顔をしたリボルバーが何か言おうとする前に、インパルサーは続けた。

「僕らを造り出して、僕らをこの星に招いてくれたんですから」

「違いねぇ」

間を置いてから、リボルバーが笑った。クラッシャーは何も言わず、前を向く。
ざあ、と少し強い風が吹き抜け、周囲の木々がざわめいた。セミの声が、弱まる。
あれほど暑かった空気が少しひんやりしていて、じっとりした夏の匂いが薄まっていた。
秋は、確実に近付いていた。




あたしの部屋に入り込む風も、ひんやりしていた。
レースカーテンが揺らいで、ふわふわしている。その隙間から、少しだけ外が見えた。
窓の下に座るインパルサーは、あたしが貸した教科書をめくっては、熱心に読んでいる。面白いのか。
やっぱり進まない宿題には、何度もシャーペンで突いたせいで、小さな細かい点がいくつもある。
それを後で消さないとなぁ、と思いながら、解答用紙を埋めていく。そろそろ予習も始めないと。
二学期の始めにあるテストを転けてしまうのは、あまりにも情けない。せめて、まともに出来るようにはしておこう。

「パル」

「はい?」

「どうせなら、数学とかも読んでみる? ていうか、そんなに歴史の教科書面白いの?」

インパルサーは、足元に置いた歴史の教科書から顔を上げた。
またぱらぱらとめくりながら、頷く。

「はい、面白いです。何千年も昔の出来事ですけど、凄いことばかりですから」

興味深げに活字を覗き込むインパルサーの横顔を見つつ、思った。これが、うちの高校に来るのか。
机に座る姿や廊下を行き来する様子やらとにかく色々想像してみるけど、まるで合わない。
違和感がありすぎて、浮きに浮いてしまう。そんなんで、本当に大丈夫なんだろうか。
そんなことをぐちゃぐちゃ考えていると、インパルサーは歴史の教科書を読み終えていた。
ぱたんときちんと閉じてから、あたしへ向き直る。

「由佳さん」

「ん?」

「大丈夫、なのでしょうか」

不安げに、インパルサーはゴーグルを陰らせた。

「僕は、皆さんに受け入れて頂けるのでしょうか」


怯えたように、背中の翼がへたっていた。俯いた頭部が、つやりと光っている。
そうだよ。考えてみたら、あたしがロボットだらけの中に放り込まれるのと同じなんだ。逆だけど。
今までパルが知り合ってきたのは、鈴ちゃんとか神田とか、いい人ばっかりだった。だから、余計に不安なんだ。
あたしも不安だ。妙な偏見を持たれたりしたら、それこそ嫌だ。

「パル」

「はい」

「怖がっちゃダメ。そんなに悪い人間なんて、そうそういるもんじゃないし」

「はぁ…」

と、インパルサーは不安げに呟いた。たまにいる、と受け取ったのだろう。
逆効果だったようだ。あたしはどう言えばいいのか、解らなくなってしまった。
そうそう励まし方なんて知らないし、下手にけしかけると余計にダメになるかもしれない。
しばらくして、あたしはお風呂に入るよう、母さんに言われたので行くことにした。
インパルサーはまだ落ち込んだままで、顔を上げようともしなかった。
彼にしては、重傷だ。



スカイブルーのお湯が、生温かった。
窓を細く開いているせいで蒸気が抜けていて、浴室の視界は悪くない。
あたしは足を伸ばしてから肩を沈め、軽く体を浮かせた。結局、今年はプールに行けなかった。
あんなに不安に駆られているとは、考えてもみなかった。鈴音の言葉が、やけに頭に残っている。

「鋼鉄で出来てるくせして、ホント、めちゃめちゃ繊細じゃない」

多少変えてしまったが、ほとんど意味の同じ事を言ってみる。
伸ばしていた足を縮めて抱え、膝の上に顎を乗せる。ゆらゆらと、空色のぬるま湯が浴槽で揺らいだ。
薄い湯気が湯船から漂って、視界を遮っていく。
いい加減に髪を洗わないと、放っておいたら十一時を過ぎてしまうだろう。だけど、なんか出る気がしない。
とん、と軽く浴室の磨りガラスが叩かれた。輪郭と色からして、クラッシャーだろう。
しばらくすると、恐る恐るドアを開けて覗き込んできた。少し目の色が弱い。

「おねーさん」

「どしたの、クー子」

少し黙り込んでいたが、クラッシャーは顔を上げた。

「おねーさんとこで、私も寝てもいい?」

「いいけど、眠れないの?」

あたしが尋ねるとクラッシャーは俯き、後で話す、と呟いてぱたんとドアを閉めてしまった。
昼間の元気な姿から懸け離れたその様子に、心配にならないわけがない。
パルもクー子も、揃って不安に駆られているようだ。原因が同じだとは限らないけど、たぶん似たようなものだろう。
本当に、繊細な戦闘ロボット達だ。戦いとはまるで違うから、余計に不安になってしまうんだろう。
あたしは二人の心境を考え、どっと落ち込んでしまった。
だけど、一番大変なのはあたしじゃない。当人達だ。



髪を乾かしてから部屋に戻ると、クラッシャーがちょこんと座っていた。いや、座った姿勢で浮いていた。
その隣で、インパルサーが先に眠っていた。頭を前から突っ込ませた、あの姿勢で。
インパルサーを横目に見、そしてクラッシャーはあたしを見上げた。大事そうに、タオル地のうさぎを抱えている。
あれは、あたしのベッドに置いてあったものだ。相当心細かったらしい。
ふわふわしたうさぎを抱きかかえたクラッシャーの前に座ると、そのうさぎが少し歪んだ。抱き締めたのだ。

「おねーさん」

「パル、寝ちゃってたね」

「うん、だから。インパルサー兄さん、起こすの悪いと思って」

「クー子は優しいね」

そうあたしが笑うと、クラッシャーは俯いた。
じわりと涙を滲ませながら、何度も首を横に振る。うさぎの胴が、ぎゅっと更に歪んだ。

「優しくないもん。一杯一杯、色んなアドバンサーもロボットも、兵器も船も壊してきた私が、優しいわけがないよ」

大きな装甲を乗せた肩が、震えている。このままでは、うさぎが破れてしまう。
そう思い、軽くうさぎを引っ張って出してやった。すっかり綿が片寄り、腰がくびれていた。
クラッシャーはそれに気付き、ごめんね、とうさぎを撫でた。撫でながら、また俯いた。

「この星に来て、マリーさんにアンチグラビトンコントローラーのリミットレベルを上げてもらって、やっと解ったの」

ぼろぼろ泣いているせいで、声が詰まってきていた。

「わたし、ずっと、こわいちからのかたまりだったんだって」

「クー子」

綺麗なカーブを描いている、彼女のヘルメットを撫でてやる。パルと同じで、冷たいけど温かい。
しゃくり上げているせいで、それは何度も震える。彼女は更に俯き、ごしごしと目元を擦る。

「だいじょーぶかなぁ? 私、ガッコウ壊したりしないかなぁ? エモーショナルリミッター、切れたりしないかなぁ?」

「大丈夫だよ。パルとボルの助が一度だけ戦ったんだけどね、二人とも切れなかったよ」

「兄さん達は違うもん。私より、ずっと経験が多いから違うんだもん」

と、クラッシャーは首を横に振ってしまった。あたしの慰めは、あまり役に立たないようだ。
ぐすっと鼻を啜ってから、クラッシャーは顔を上げた。目元から胸元まで、涙の筋が付いている。
クー子は子供だ。パルはただ思考とか感覚が子供っぽいだけで、本当の子供じゃない。
パルがちょっとだけ洩らした不安の全部を、言わなきゃ気が済まないんだ。
近くにあったティッシュで涙を拭いてやると、やっとクラッシャーは落ち着いてきたようだった。
ふう、と深く息を吐いて、多少落ち着いた口調になる。

「私ね、ベンキョウがなんなのか、トモダチがなんなのか知らないの。本当に、なんにも解らないの」

「それを覚えに、学校に行くんでしょ?」

「うん。だけど」

「行ってみて、やれるだけ頑張ってからまた考えればいいじゃない。それからでも、遅くはないでしょ?」

「…うん」

ゆっくり頷き、クラッシャーはあたしを見上げた。
あたしはなんとなくその頬を両手で触れてみると、これが結構柔らかくて面白い。
ぐいっと横に引っ張って口元を上向かせ、無理矢理笑顔を作ってみた。

「クー子、あんまり泣いてちゃ可愛くないぞ?」

手を放すと、突然のことにクラッシャーはむくれていた。やりすぎたか。
だけどなんとか笑顔にし、頷いた。クラッシャーは照れくさそうに笑い、舌を出した。

「…そだね」

「解ればいい。そろそろ寝ようか」

「うん」

クラッシャーはするっと天井に向かい、かちりと蛍光灯の紐を引っ張った。
あたしはベッドに入ってから、暗闇の中で一際目立つ二つのショッキングピンクを見上げた。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

外の街灯の明かりが少しだけ入っている窓際で、ことん、と金属同士の当たる音がした。
見ると、クラッシャーがインパルサーに少し寄り掛かっていた。なんか、可愛い。
あたしはなんとも平和そうな二人を眺めつつ、寝た。
例によって、その後の記憶はない。




朝起きると、既にクラッシャーはいなくなっていた。一階が、やけに騒がしい。
クラッシャーは、元気に涼平とケンカしているようだ。あんたら、いい加減にしたらどうだ。
起き上がってぼんやりしていると、インパルサーが窓を開けて外を見ていた。弱い風が心地良い。
彼はあたしに気付き、振り返った。逆光の中、レモンイエローがぼんやり明るい。

「由佳さん。どうもありがとうございました」

「何が?」

「ヘビークラッシャーを励まして下さって」

と、少し申し訳なさそうに、パルはゴーグルの奥でサフランイエローを細めた。

「僕も頑張ります。知らない世界は確かに怖いかもしれませんが、それから逃げたら情けないですから」

案の定、インパルサーは夜中の出来事を聞いていたらしい。いや、起きてから知ったのかも。
どちらにせよ、彼も立ち直った、というか決心を固めて、元に戻っている。良かった良かった。
なんとなく、嬉しくなる。これできっと、パルはきちんと高校に通えるだろう。


「由佳さん」

インパルサーはあたしに近寄り、見下ろす。

「イッセンというものは、まだ越えるべきじゃないですよね?」

「ん、まぁ、たぶん…」

そう言われて、あたしは察した。

「だからこの間、寸止めだったの?」

くるりとこちらに背を向けた、インパルサーは照れくさそうだった。
顔を少し横へ向け、ゴーグルだけが見えた。その色は、オレンジだ。
気恥ずかしげに大人しい口調で、彼は呟いた。

「はい」


それじゃ僕は、と慌ただしくエプロンを引っ掴み、インパルサーは出て行った。凄く照れくさかったらしい。
どたばったんと乱暴に階段を下り、クラッシャーにぶつかったのか、きゃん、とやけに高い声が聞こえた。
あたしはそれに涼平も含めた騒ぎを聞き流しつつ、立ち上がった。無意識に、唇を押さえてしまう。
いや、寸止めだぞ。厳密にはされていない。それなのに。ああもう、意識しすぎだ。
頬が熱くなるのを感じながら、あたしはふと、窓の外へ目を向けた。
先程から妙に視線を感じていたのだ。
すると。


逆さになったイレイザーが、屋根からぶら下がっていた。


目が合った。イレイザーは慌てて上下を反転させ、片手を屋根に引っかける。
その姿勢のまま、彼は苦笑した。朝っぱらから、一体こいつは何をしているのだろう。
あたしは半ば呆然としながら、とりあえず尋ねた。

「イレイザー…あんた、そこで何してんの」

「あ…いや拙者は、その、あのヘビークラッシャーを…、えと、御免!」

動転したのか上擦った声でぶつぎりの単語を発した後、ひょいっと屋根の上に昇ってしまった。
たんたんたん、と軽い足音が屋根の上を掛け、行ってしまった。あんたもシスコンか。
窓の外は、すかっとした実に気持ちいい快晴だ。以前程ぎらつきのなくなったけど、太陽は眩しい。
そろそろ夏休みも終わりだ。


二学期は、きっと怒濤に違いない。







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