Metallic Guy




第十五話 騒乱、運動会



観客席の傍で、クラッシャーは不満げにしていた。
グラウンドの中央では、学年ごとに別れて綱引きをしていた。これに参加させてもらえなかったからだ。
首にリボン結びにした赤いハチマキを結び直してから、クー子はむくれる。

「だから私、このボディきらーい」

「ヘビークラッシャーが参加したら、問答無用で勝利ですものね」

力一杯太い綱を引き合う紅組と白組を見つつ、マリーは五本目の缶コーラを飲んだ。よく飲むなぁ。
赤い缶を両手の白い指で包んで持ち上げ、こくんとまた傾けた。
あれだけ高かった日差しは弱くなってきていて、グラウンドを通る風も少し温度が下がった気がする。
観客も多少まばらになっていて、運動会はもう後半だ。
あたしはフィルムの終わったカメラを巻き戻し、ケースに入れた。中身はほとんど、涼平とクー子だ。
その後ろで腕を組み、リボルバーが突っ立っている。上の空で、大方鈴音のことでも考えているのだろう。
イレイザーは一人任務を遂行し続け、撮影を続けていた。その横顔は、真剣だ。

「ね、いっちゃん」

あたしはなんとなく、こう呼んでみた。イレイザー、よりは堅苦しくなくて好きだ。
彼は横顔のまま、答える。集中しているのか、あまり声に感情がない。

「なんでござるか、ブルーコマンダー」

「お願いだから、そういう呼び方やめてくんないかな」

振り返り、ディフェンサーにあたしは顔を向ける。

「ディフェンサーも」

うえ、とディフェンサーは変な声を洩らした。眠りそうだったのか、体を伸ばして息を吐く。
ぎしりと背筋を真っ直ぐにしてから、あたしへ振り向いた。

「なんでだよ。別にどうだっていいだろ、そんなもん」

「どうでも良くない」

あたしは二人へ向き直り、胸を張る。

「あんたらはパルの兄弟ってことは友達ってことなのに、役割で呼ばれたら堅苦しくて嫌なの」

「赤の兄者は」

「ボルの助はもう諦めたよ。ボルの助がまともに名前呼ぶのって、あんたらと鈴ちゃんだけだもん」

と、あたしはあらぬ方向を見ているリボルバーを見上げた。仲の良いクラスメイトでさえ、名字だし。
リボルバーは頷き、にっと笑う。すぐにまた顔を逸らして、鈴音のことを考えることに戻ってしまった。
ディフェンサーは面倒そうにしていたが、仕方なさそうに言う。

「解ったよ。んで何がいいのさ、ブルーコマンダー」

「だーから…」

なんとか言いくるめたいけど、なかなかいい言葉が出てこない。
あたしが答えに詰まっていると、インパルサーが間に入る。

「由佳さんは下の名前の方が好きなんです」

「それでは、由佳どのと呼べばよろしいのでござるか?」

顔を向けないまま、イレイザーが言った。ディフェンサーは腕を組み、顔を上げた。

「由佳ねぇ。なんか面白みはねぇけど、ま、どうしてもっつーんならそう呼ぶけど」

「それでよろしい」

あたしは頷く。インパルサーはあたしを見上げ、少し首をかしげた。

「良かったですね、由佳さん」

「うん」

あたしは自分の主張が通ったことが嬉しくなりながら、パルへ笑った。
ふと、ディフェンサーは何か思い出したような顔をする。

「なぁ、ブルー…じゃなかった、えと、由佳?」

「んー?」

「下の名前で呼ぶのって、いいことなのか?」

「あたしはこっちの方が好き。名字だとなーんかよそよそしいし、友達って感じじゃなくてさぁ」

「じゃ、なんで永瀬は由佳と鈴音を名字で呼ぶんだよ」

不思議そうに、ディフェンサーは顎へ太くて大きな指を添えた。
言われてみれば、結構付き合いが長いのに、まだ律子はあたし達のことを名字で呼んでいる。
クラスが違うから、気を遣われているのかもしれない。そんなこと、しなくてもいいのになぁ。
ディフェンサーは難解そうにしていたが、後頭部で手を組んで体を逸らした。

「やっぱ、わっかんねー奴だなぁ」

「今度聞いてみるかな。もう名字じゃなくていいのになぁ、りっちゃんも」

と、あたしは返してからグラウンドへ視線を戻すと、綱引きは赤組の勝利に終わっていた。
プログラムを広げると、この次が父兄参加の百メートル走になっている。あのゴタゴタの発端だ。
でもさすがに先程のことで懲りたのか、兄達は何も言ってこなかった。さすがに学習しているようだ。
結局、最初の予定通りこの競技には父さんが出た。でも、その順位はあまり言いたくない。
色んな意味でひどかったのだ。いわゆる、娘心だ。




校舎側に立てられた得点の札が、担当の子によってめくられた。
各学年の子供達が戦い抜いて集めた点数が集計され、両軍の戦果を目に見えるように示している。
赤組が合計七十五、白組が合計八十二。これは、白組の圧勝だ。
色に別れて二分した子供達の様子も二分していた。だけど、負けた方もそれほど悔しげではない。
この点数による勝ち負けは単なる形で、実際のところは、運動会はまず参加したことに意義があるのだ。
クラッシャーもそう感じているのか、優勝旗を掲げる白組のキャプテンを見、満足そうに笑っていた。
また長い教師の話と校歌斉唱で、運動会の幕は、掲揚されていた校旗と共に下ろされた。
体操服姿のまま、子供達はそれぞれの親の元へ戻り、何かしら報告している。
それはこちらも同じで、クラッシャーは元気良く戻ってきた。兄達の前に止まり、角度の高い敬礼をする。

「負けちゃった!」

そうは言いながらも、クラッシャーは凄く嬉しそうだった。本当に、運動会が楽しかったんだろう。
涼平はその様子があまり腑に落ちない様子だったが、それでも満足げにしている。
リボルバーは吹き出し、またぐいっとクー子を撫でた。しゃがみ込み、視線を合わせる。

「負けちまったんなら、なんでそんなに嬉しそうなんだよ?」

「だって、楽しかったんだもん」

と、クラッシャーは笑った。

「これで兄さん達が暴走しなきゃ、もーっと良かったんだけど」

「しっかり釘を刺されましたわね」

荷物をまとめたマリーが立ち上がり、微笑んだ。
兄達はちょっと困ったようにしていたが、インパルサーはクラッシャーを見下ろす。

「了解しました。今度はもっと、押さえるように努力しますから」

「努力だけじゃダメー。ちゃんと押さえてもらわないと、今度は狙い外さないからね!」

「御意。ヘビークラッシャーの攻撃は、拙者の装甲など一発でござるからな」

イレイザーが苦笑するとクラッシャーは意外そうな顔をしたが、満足げに頷く。

「解ってきたじゃない」


「ほら、教室行くぞ」

そう涼平が急かすと、クラッシャーはくるっと背を向けて手を振りながら校舎へ向かった。
二人の後を、何も言わずにさゆりが付いていく。さゆりは一度振り返ると、イレイザーへ少し笑う。
そして、空いてしまった距離を詰めるようにとんとんと軽く走っていった。
イレイザーは側頭部に繋げていたケーブルを外してウエストポーチを締め、腕を組んでにやりとした。

「全く…さゆりどのには、敵わぬでござるよ」

「みてぇだな。だがオレは、コマンダーなんぞいらねぇや。いたら、厄介なだけだもんな」

校舎へ入った三人を見送り、ディフェンサーは兄弟を見上げる。
インパルサーは弟を見下ろしてから、少し首をかしげた。

「そう思いますか?」

「思うね。第一、あのマント野郎のプログラムが作用しなくなってんだから、もういなくてもいい存在だろ?」

「いや。オレらにとっちゃ、いるべき存在さ」

リボルバーはゆっくり首を振った。そして、にやりと笑う。
片手の親指を立て、がつんと厚い胸にぶつけた。

「面白いぜ、色んな意味でよ」

「別に面白可笑しくなくたって、やっていけるだろうが」

と、呆れたようにディフェンサーは顔を逸らした。
でも、どうなるか解らないぞ。あたしはそう思いながら、校舎から戻ってきた三人を出迎えた。
クラッシャーは先生からもらったらしいノートを誇らしげに掲げながら、するりと近付いてきた。
父さんと母さんははしゃぎまくるクー子を、あたし達の妹のように褒めていた。うん、可愛いもんね。
ふと、さゆりはあらぬ方向を見ていた。その先を見ると、ついさっきまでいたはずの神田の両親がいない。
ついさっき、神田が帰った理由を説明したときと同じような寂しげな表情を、さゆりは浮かべていた。
だがそれをすぐに消してイレイザーを見上げ、すいっと片手を伸ばした。

「帰ろ、いっちゃん」

「御意」

イレイザーは敬礼し、ひょいっとさゆりとランドセルを抱えた。
軽く地面を蹴って浮かび上がると、あたし達を見下ろす。

「それでは兄者方、拙者はこれで」

「またね、さっちゃん」

クラッシャーが手を振ると、イレイザーの腕の中でさゆりは少し嬉しそうな顔で頷く。
漂っていたイレイザーは、空を蹴るようにしながら上空へ向かっていった。その速度は、遅めだ。
ほんのりとオレンジ色に染まりつつある空へ溶け込むようにして、紫の姿が消えていった。
二人の姿が消えるまでクラッシャーは手を振っていたが、完全に見えなくなってからやっと手を下げた。
おもむろに涼平へ振り向き、ノートを持っていない方の手を出した。

「飛ぶ?」

「いいよ。どうせ近いんだし」

と、涼平が嫌そうに返すと、クラッシャーはむくれた。飛びたかったらしい。
マリーはプラチナを呼んだのか、頭上の光が遮られて薄暗くなる。いつのまに。
開いたコクピットの中へ飛び込み、操縦桿を掴んで身を沈めたマリーは軽く会釈する。

「それでは、ごきげんよう。面白いものを見せて頂いて、楽しかったですわ」

「じゃ、また学校でね」

あたしが手を振ると、マリーは少し照れくさそうにしながら振り返した。
ばしゅん、とプラチナの胸元の装甲が閉じ、天使の姿が消える。
あまり風を起こさないようにしているのか、やけにゆっくりと浮上してから、プラチナは加速する。
一直線に、住宅造成地へ向かっていった。西日を浴びたその姿は、とても綺麗だった。
リボルバーも、どん、と地面を蹴って上昇して片手を挙げる。

「じゃな」

「あ、うん。鈴ちゃんによろしくね」

「おう」

それだけ返し、リボルバーは急加速した。一気に高度を上げ、見えなくなる。
ディフェンサーはその後を追うように浮かび上がり、またな、とだけ言って飛んでいった。
その姿が向かった先は、プラチナと同じ方向だ。そういえば、まだ三男だけマリーさんちに居候してたっけ。
いつのまにか荷物を抱えさせられているインパルサーは、あたしを見下ろす。

「それじゃ、僕達も帰りましょうか」

「て、母さんは?」

いつのまにかいない。クー子は、ノートで街の方を指す。

「おとーさんと、夕ご飯の買い物行って来るって。荷物の方、インパルサー兄さんにお願いだってさ」

「抜け目ないなぁ」

と、あたしはつい感心してしまった。なんて手回しの良いことだ。
涼平は所在なさげにしていたが、歩き出した。クラッシャーは、すぐさま黒いランドセルを乗せた背を追う。
あたしは一度インパルサーと顔を見合わせてから、二人に続く。
運動会は、実にあっけなく終わってしまった。イベントを過ぎる時間は、いつだって早い。




歩いていくうちに、涼平とクラッシャーから引き離されてしまった。
だから、あたしはパルと二人で歩いていた。彼は荷物をごってり抱えているが、まるで辛そうには見えない。
どれも落ちないようにしっかり持っていて、この分だとうちまでは大丈夫そうだ。
西日はすっかり傾いて、徐々に夜が近付いてきていた。日が落ちるスピードも、随分早くなった。
街灯が何度か瞬いて、白い光を丸くアスファルトに落としている。その下を、歩いていく。
インパルサーのレモンイエローのゴーグルが、ふっとあたしを見下ろした。
あたしがそれを見上げると、パルはその奥でサフランイエローの目を細めた。

「楽しかったですね。色々、ありましたけど」

「そだね」

あたしはそう返しながら、一番星の見えてきた空を見上げた。気温が、すっかり低い。
多少肌寒さを感じてはいたけど、うちはもうすぐだから大したことはない。
がしゃがしゃと荷物を鳴らしながら、インパルサーはあたしの後ろに続く。前には出ない。
この前、早いと言ったせいだろう。実際早いのだけど、だからといって後ろに来られてもちょっと困る。
確かに上下関係で考えたら、あたしが前でパルが後ろが正しくて一番良いのだろうけど、なんか好きじゃない。
友達で、たぶん今はそれ以上かも知れないけど、そんな関係なのに上と下で区切るなんて変だ。と、思う。
あたしはふと、杉山先輩の言ったことを思い出した。
思い出せば出す程、腹が立ってくる。もしかして、機械だからってだけで見下してんじゃないだろうか。
確かに機械と人間は使われる側と使う側だし、ついこの間までパル達はそういう扱いだった。
だけど、同じ学校の生徒ならば話は変わってくる。生徒になった時点で、人間扱いが前提だし。
その辺りがあるから、あたしは余計に頭に来てしまうんだろう。
あたしは苛立ちのせいで少し早く歩いていたが、インパルサーはやはり追い越さない。
立ち止まってみると、またパルも立ち止まる。あたしは振り返る。

「パル。別に、あたしを追い越しても良いんだけど」

「そうですか?」

インパルサーは一歩前に出、首をかしげた。あたしの隣に並ぶ。
くりっと捻られた顔が、こちらに向けられた。奥の目が、少し見える。

「ですが、これは僕の意思です。命令されていませんしね」

それがどういうことかとあたしが尋ねる前に、インパルサーは笑った。

「由佳さんに僕の背を見ていて欲しいときは、僕が由佳さんを守っているときだけですから」


不意打ちだ。

なんだよもう、この気障ったらしさは。
あたしは急に意識してしまい、やりづらくなった。そこまでカッコ付けたこと、言うことないじゃないか。
インパルサーは今さっき言った通り、あたしを追い越さずに隣に立っている。
いきなり戦士らしくて、男らしい。本気であたしを守る気だけど、何から守るんだろう。
色々と考えてみるけど、まるで思い当たらない。そりゃそうだよ、あたしはコマンダーだけど一般市民なんだし。
レモンイエローにぼんやりと照らされたスカイブルーの胸板が、真横にあるのが解る。
その手前には細身だけど充分逞しく、銃やらなんやら入っている腕が荷物を抱えて曲げてある。
じっとしていると、街の喧噪に混じってパルの中から小さく何かが動く音が聞こえてきた。機械の音だ。
キュイン、とモーターが動き、パルはあたしを見下ろしていた。マスクは開いていない。

「前にも一度言いましたけど、もう一度言わせてもらいます」

ゴーグルの奥で、ぎゅっとサフランイエローの目が強くなった。



「僕は、あなたを守ります。例え、このボディが大破しようとも」



その言葉を理解したあたしは、首を横に振った。無意識に動いたのだ。
あたしは、彼を見上げた。街灯の逆光の中に、長身の彼がいる。

「そんなんじゃダメ。パルが良くても、あたしがダメ! 絶対に」

「どうしてですか?」

「パルはあたしの盾じゃないし、防御ロボットでもないの。だから」

手に触れたスカイブルーの装甲が、冷たかった。
その奥からじわりと感じられる熱が温かくて心地良く、彼の命がそこにあるような気がした。
あるような、じゃない。確実にあるんだ。エンジンの心臓と、コアブロックの頭脳が。
額を当てると、より強くそれが感じられた。パルは生き物だ。ただ、体が機械だと言うだけだ。

「そんなこと、言わないで」

頭の上で、またモーターが動いた。レモンイエローが、ちょっと遠ざかる。
滑らかなラインのマスクフェイスが上向き、すっかり日の落ちた夜空を見上げた。
細身だけどしっかりした首筋が、目に入る。その後ろには、二枚のマリンブルーの翼が伸びていた。



「そんな反応を返されるなんて、予想外です」

どこかを見上げたまま、パルは呟いた。

「シャドウイレイザーではないですけど、僕も由佳さんには敵いませんね」



あたしには、この方が予想外だ。パルも、あたしと同じことを感じていたのか。
勝てない、負けている。
こっちが思っていたのと同じくらい、パルもあたしには勝てないと思っていたのかもしれない。
なんだか、拍子抜けしたような嬉しいような、不思議な気分だ。結局、どっちも勝ってないじゃないか。
少し情けなさそうに、でも嬉しそうに微笑んで、彼はゴーグルの奥からサフランイエローの目を向けてきた。

「最初から、ずっと。たぶん、いえ、これからも絶対僕は由佳さんには勝てません」

「あたしもね」

「え?」

「さっさと帰るよ。なんか寒くなって来ちゃったし」

自分で言ったくせに、あたしははぐらかした。認めると楽だけど、それ以上に恥ずかしい。
段々近付いてきたうちの門柱にはライトが二つ灯っていて、その周囲だけ白く明るい。
リビングの窓のレースカーテンが少し開いていて、その隙間から、クラッシャーが外の様子を伺っていた。
鍵を開けて窓を開いてから、クー子はあたし達に手を振ってきた。

「おねーさん、インパルサー兄さん、おかえりなさーい」

あたしが返すより先に、インパルサーがクー子に返す。

「ただいま戻りました」

「兄さん、おねーさんとどこまで進んだー?」

窓から身を乗り出して声を上げたクラッシャーに、即座にインパルサーは言い返した。

「いきなり何てこと聞くんですか! 進んでませんし、そうそう進むわけないじゃないですか!」

えー、と不満げにしたクラッシャーはあたしを見たが、あたしは頷くしかない。本当に進んでないのだし。
窓は閉められたが、今さっきのことを母さんに報告しているクー子の声が聞こえてきた。
何もそこまでやらなくたって、絶対に聞こえているぞ。同じ部屋なんだから。
あたしはなんとなく入りづらかったけど、いい加減にお腹も空いていたし、肌寒いので入るしかなかった。




お風呂から上がり、部屋に戻った。
多少油断してしまったのか、ちょっとだけ背筋が寒い。今日は早く寝よう。
でもとりあえず予習だけはと思って机に向かうが、まるで集中出来ない。でもこれは、調子が悪いからではない。
さっきの帰り道でのやりとりが、何をしても頭から離れてくれない。
近頃はなんとかインパルサーを意識しないで来られたのに、それがダメになっちゃったからだろう。
その当人もあたしを意識しちゃってるのか、変な理由を付けて外へ飛び出していってしまった。
だから、部屋の窓の鍵は閉めずにある。閉めちゃったら、彼はまた窓をぶち破らないと入れないから。
机に広げた教科書とノートから顔を上げると、本棚の手前に置いてあるコルクボードが目に入った。

あの、戦いの日の写真だ。

セルフタイマーとはいえ、さすがに鈴音が撮ったものだから、夜だというのに綺麗に撮れている。
戦いに戦って泥にまみれた二人の戦士と、その前で笑い合うあたしと鈴ちゃん。
あれだけ重たい理由だったのに、最後には、ボルの助もパルも凄く楽しそうに戦っていた。
この時はまだ、こんなにロボットが増えるなんて思ってもみなかった。今ではもう倍以上だ。
そっとインパルサーを撫でてみても、これは写真だから紙の感触しかない。印刷が、つるっとしている。
終わらないと思えてしまうような夏休みも終わって、あっという間に運動会が過ぎ、じきに文化祭が来るだろう。
本当に、早い。

あれだけ大穴の開いていた部屋の壁も、完全に壊された窓も、塞がれて今は名残もない。


彼のいない部屋は、妙に広く思える。
テーブルの近くに置かれた白いカラーボックスには、高校に行くようになってから増えてきたパルの私物がある。
あたしにはそれ程大事には思えないようなものでも、きっちり整理して三段とも埋めていた。
本当に、嬉しいんだ。外に出られて、学校に行けて、料理をしてあたしがそれを食べることが。
綺麗に折り畳まれたエプロンが、カラーボックスの上にちょんと置いてある。
その下に覗いているのは、彼が図書室から借りてきたであろう料理に関する本が数冊。
通りで、帰りになるとカバンが大きくなっていたわけだ。それ以外の本も、何冊かあるようだ。
あたしが読んでいた文庫本とか、たぶん父さんのところから借りてきたであろうよく解らない大きな本。
字が読めるようになったこともまた、嬉しくてならないようだ。ちょっと可愛いかもしれない。

すると、レースカーテンを掛けた窓に影が出来た。
翼のある、細身の青い姿。あたしは椅子から立ち上がって、窓に近寄って開けた。
冷たい夜風と共に、インパルサーは戻ってきた。とん、と軽くフローリングに足を降ろす。
あたしが窓を閉めると、彼は伸びていた翼を元に戻してから、あたしへ向き直った。

「別に開けて下さらなくても」

「外からだと開けづらいでしょ。だから」

「そうでもありませんけど」

と、インパルサーはあまり腑に落ちていない様子で首をかしげた。
あたしは机に戻ろうと思ったけど、なんとなく、視線を外すタイミングを逃してしまった。
かしげていた首を元に戻した彼は、じっと同じように見下ろしている。相変わらず、でかいなぁ。
すっと上げられた片手が、あたしの肩に回る。もしかして、これは。
軽く引き寄せられて、目の前にスカイブルーの胸板が来る。外から戻ってきたから、さっきより冷たい。
もう一方の腕が背中辺りに回されて、簡単には出られなくなってしまった。またやられた。
ボディの奥から、彼の声が感じられた。



「少しだけでいいんです」

落ち着いた声。

「しばらく、こうさせて下さい」


今度は、いきなりなんだというんだ。
何があったのか聞こうと思ってあたしが顔を上げると、マスクフェイスが開いていた。
が、あたしが予想したようにはされず、肩から外された手が頬と唇に添えられ、軽く塞がれた。
聞くな、ということか。
インパルサーは切なそうに笑っていたが、なかなかその手を外してはくれなかった。

「由佳さん。僕は、あなたの命令に背かなくてはいけません。ですがそれは、あなたや皆さんを守るためなんです」

太めの指の関節から、うっすらとだけど、機械油の匂いが滲んでいた。
愛おしげに、マリンブルーの指が頬を撫でている。唇を押さえていた親指が外され、耳元へ髪を寄せる。
サフランイエローの瞳が近付き、あたしの真上に止まった。

「どうか、許して頂けますか?」


あたしは、頷くしかなかった。
また、パルは戦わなきゃならないんだ。
誰が相手でも、どんなに悪い相手でも、どちらも傷付いて苦しむことには代わりがない。
本当は許したくなんてないし、彼の過去の話のように、オイルと硝煙にまみれた体になってほしくない。
この優しい手が武器を持って敵を砕くなんて、想像したくもない。


「いつ?」

やっと、これだけが言えた。
インパルサーは背中を丸めて、あたしの額に白銀色の頬を寄せる。

「解りません。ですが、確実に来ます。アステロイドベルトに残された僕の部下さんが、伝えてくれました」


「ちゃんと、帰ってきてね」

あたしは、彼の冷たさを離したくなかった。

「お願いだから」

「了解しました」

敬礼する代わりに、抱き竦められた。
だけど、少しも痛くも苦しくもなく、背中に回された腕がほんのちょっと内側に押されただけだ。
壊れ物のように扱われる感覚は、あたしが単なる人間であることを知らしめてくれた。
青い装甲は次第にあたしの体温が移って生温くなり、機械らしい冷たさが、徐々に失せていく。
髪の上に軽く当てられた硬い頬の下で、苦しげに口元が曲げられていた。



どうか、神様。


もう少しだけ、パルに平穏を。




「本当は、少しだって戦いたくなんて、ありませんけど」







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