昇降口のガラスに貼り付けられたロボット兄弟四人の写真と、その裏に書かれた怪文書。 あの事件から今までは何も起こっていないけど、それでも、そこから生まれた波紋は確実に広がっていた。 元からあった、彼らを受け入れる空気と受け入れない空気が明確になったのだ。 教室の中だけじゃなく、学校全体がそんな感じだ。といっても、嫌う、とかじゃない。 ヒューマニックマシンソルジャー達に、近付かない人は絶対近付かなくなった。 でも近付く人は近付いてきて、ちゃんと彼らを生徒として認めている。ただ、それだけの違いだ。 あたしはこの状態なら悪くないような気もしていたけど、この微妙なバランスがいつまで持つか、心配だった。 崩れたら、どうなるか。 それが、あたしが今一番心配な事だ。 新聞部の部室は、文化部と言うこともあって二階にある。 そこから見下ろせるグラウンドでは、サッカー部が練習を繰り返している。 部員達の掛け声を聞きながら、あたしは机の上に置かれた写真を取り、ぴんと弾く。 軽く歪んで跳ね飛んだ写真は空中を滑り、手前の箱に落ちる。するり、と他の写真の上に乗った。 その箱の傍で頬杖を付く鈴音も同じように写真を手にしていたが、ぎゅっと口元を締め、あらぬ方向を見ていた。 先日の張り紙は、まだまだあたし達の中では尾を引いている。忘れようにも忘れられない。 そのせいなのか、あたしの手元の原稿用紙は真っ白いままで、校内誌の記事はさっぱり書き進んでいなかった。 「どうでもいいんだが」 新聞部の部長が、変な顔をした。 銀縁のメガネを直してから、片手に持ったシャーペンであたし達の後ろを指す。 「なんでここにいるんだ?」 あたしが振り返ると、きっちりと正座していたインパルサーが顔を上げた。膝の上に、本を広げている。 その隣で胡座を掻いて座っているリボルバーは右の弾倉を外していて、中を覗いている。磨いていたらしい。 彼は全体的に黒ずんでいる薄っぺらい布を口元に挟んでいたが、それを外して握り、ぐるぐる振り回した。 「愚問だな、兄ちゃん。このオレが、スズ姉さんから離れるわけにはいかねぇんだよ」 「えと、僕は連れてこられました。早く帰ろうと思っていたのですが」 純文学らしき分厚い背表紙の本にしおりの糸を挟んでから、インパルサーはリボルバーを指した。 近頃、前にも増してパルは良く本を読んでいる。あたしも本は好きだけど、それにしたって量が凄い。 今彼が手にしている本は、今日借りたばかりのものだ。それも二冊目。めちゃめちゃハイペースだ。 「目に入るだけで鬱陶しい色合いなんだけどなぁ。赤い方は」 やりづらそうに、部長はリボルバーから目を外した。見ると、その手元の原稿用紙もあまり進んではいない。 リボルバーは機械油の染み込んだ布を背中に回し、押し込んだ。整備は終わったようだ。 また手前に差し出された手には、もう布はなかった。どうやら、装甲の中に入れたらしい。 がしょん、と巨大な弾倉を元に戻す。それをぐるんと一回転させてから、リボルバーは部長を見上げる。 「まぁそう言うな。ド派手な方が、敵も味方も士気が高まって面白ぇことになるんだからよ」 「敵なぁ…」 椅子に寄り掛かり、部長は足を組む。部長がよくやるポーズだ。 「そういえば、あれから何もないけど、あの脅迫文ってなんだったんだろうなぁ。知らないか?」 「知っていると言えば知っているかも知れませんけど」 そうインパルサーが言うと、部長は興味深げに彼を見下ろす。 パルはあらぬ方向を見上げていたが、少し首をかしげる。 「ああいったものの真意は、書かれた方に聞かないと解りません」 「それじゃあ、知らないってことか?」 「はい」 こくんとパルは頷く。 「下手に不確実な情報を話してしまうと、混乱しか呼びませんから」 「そういうことですわ」 窓枠に寄り掛かっていたマリーが頷いた。いつのまに。 ふわりと広がったクリーム色のカーテンの手前で、髪を揺らがせながらこちらへ振り向く。 「ごきげんよう。お邪魔いたしますわ」 「ここ…二階なんだが」 「細かいことはお気になさらずに」 優しく微笑みながら、マリーは困惑している部長を見据える。その笑顔に押し切られた形で、部長は頷いた。 あたしは、窓の外を見てみた。ベランダはあるけど足音はしていなかったし、下は中庭だ。 中庭から来たのか、もしかして。だけど中庭に並んでいる木はどれも細くて、とても登れるようには見えない。 本当にどこから来たんだ、マリーさん。凄く気になってきた。 「ベランダ伝いに決まっていますわよ」 あたしが聞くより早くに答え、マリーはあたし達の後ろを歩いていく。先手を打たれてしまった。 少し後ろ側の机から椅子を引くと、すとんとそこに座った。まるで遠慮がない。 マリーは通学カバンから本を取り出すと、めくり始めた。パルと同じことをしている。 青っぽい宇宙空間が表紙の、アメリカ辺りの科学雑誌のようだった。図書室のゴム印が、裏表紙に押してあった。 あたしは彼女から目を外し、真っ白な原稿用紙を見下ろした。今はこっちが優先。 記事にするのは、先日行われた陸上競技大会のことだ。我が校は、そこそこにいい成績を残している。 一応上位に納まったので、今度の地区大会にも出ることになったようだ。取材に付いていかないとなぁ。 陸上なので、当然神田も映っている。その後ろには、園田先輩も。 相も変わらず爽やかな園田先輩を見つつ、あたしはなんとなく懐かしい気分になっていた。 そういえば、あんな時期もあったなぁ。今から考えると、自分の事ながら妙に微笑ましい。 すると、いつのまにかあたしの手元を覗き込んでいた鈴音が、にやりとしていた。 「あの頃の由佳は、可愛かったわねぇ」 何を考えていたのか、鈴音にはあっさり見透かされている。なんてことだ。 あたしは言い返せずにいると、インパルサーがこちらを見上げていた。 「由佳さんはいつでも可愛らしいと思いますが」 「姉さんも、寝起き以外はうっつくしいぞ」 顎に手を添えたリボルバーは、にんまりと笑う。そんなに凄いのか、寝起きの鈴ちゃん。 鈴音は、すぐさま嫌そうな顔をした。言われたくなかったらしい。 「目が覚めるまで時間が掛かるのよ」 部室の壁越しに、廊下を歩く足音が聞こえた。重たいから、きっと弟二人のどちらかだろう。 磨りガラスの填ったドアの前に止まると、おもむろにがらりと開けた。細身のシルエットが、見える。 長身のせいで入りづらいのか、一度屈んでから体を中に突っ込み、入ってきた。ロボット達には、校舎は狭い。 怖い顔をして両手を固く握りしめたイレイザーは、赤いゴーグルをじっと部室の中に向けた。 なんとなくイレイザーを見上げると、なぜかあたしと目が合った。またすぐに逸らすのだろう。 が、逸らさない。 イレイザーは目を逸らすまいとするうちに気合いが入るのか、歯を食いしばって足を広げている。 きっちり十五秒経った直後、凄い勢いで顔を逸らした。あんた、何がしたいのさ。 すぐさま彼は出て行こうと背を向けたがその直後、ひゅん、とあたしのすぐ脇を何かが通り抜けた。 空気を切りながら飛んだ赤い部品が、一直線にイレイザーの後頭部へ向かう。かこん、といい音を立てて命中した。 ぎりぎりと振り向いたイレイザーは、途端に扉の前にへたり込んだ。あんた、本当に何しに来たんだよ。 インパルサーは首をかしげながら、妙な動きをする弟に尋ねた。 「何してるんですか?」 「訓練でござる」 力ない声で呟き、イレイザーはドアを掴んで立ち上がった。情けないぞ、四男。 足元に落ちていた赤い部品を手に取り、ゆっくり歩いて近付いてきた。今度は、誰からも目を逸らしている。 リボルバーの手前に来ると、それを待ち構えていた兄の手の中へ落とす。 「さゆりどのの命令でな。近頃の目標は、出来る限り他人から目を逸らさないように、とのことでござる」 「そいつを実行してる、っつーわけか」 リボルバーは肩の弾倉を出し、その中に赤い部品を突っ込んだ。変なところに入れている。 兄達の前にぺたんと座り込んだ四男を、インパルサーはどこか嬉しそうに見た。 「偉いですよ、シャドウイレイザー。頑張って人見知り、直して下さいね」 「ネコノスケどのはもう平気でござるから、由佳どので試してみたのだが…さすがに、まだダメでござったか」 「ネコノスケって、なんですか?」 「さゆりどのが飼われている、真っ黒いネコでござる」 はぁ、と深くため息を吐いたイレイザーは、胡座を掻いて腕も組んでから呟く。 「やはり由佳どのは女性でござるからな…。もう少し、葵どので試した後の方が良かったかもしれぬな…」 「でも、パープルシャドウはマリーさんは平気じゃなかったっけ?」 と、鈴音が訝しげに言うと、イレイザーは顔を上げて曖昧な表情を浮かべた。言われてみれば、確かに。 マリーは科学雑誌から目を外し、ちらりとイレイザーを見下ろす。彼はマリーを横目に、苦笑する。 「マリーどのを女性だと思ったことは、ただの一度もござらんよ」 一瞬、何が起きたのか解らなかった。 素早く机を蹴って高くジャンプしたマリーは白い足を長く伸ばし、真上からイレイザーの首を掴む。 イレイザーを掴んだままバック転して、両手を床に付けたかと思うと、直後に強く蹴り飛ばす。 蹴りと同時に、大きく広がった紺のプリーツスカートの下から、純白のレースに飾られたパンツが露わになる。 天井まで投げ飛ばされた紫の影はすぐに姿勢を正し、たとん、と軽く着地する。片膝を曲げ、床に付けた。 くるっと一回転して机の上に落ちたマリーは、大きくめくれてしまったスカートを押さえてから、すらりと立つ。 イレイザーは背中に伸びている棒状の物を掴んでいたが、ゆっくりと手を外す。 「そうやってすぐ力を用いるから、拙者にはそなたが女性だとは思えぬのでござる」 「思われなくても結構ですわ」 つんと澄ましてマリーは言い返し、机の上から降りて椅子に座った。あたしには、それでいいとは思えないけど。 腰を落として構えていたイレイザーは、やっと姿勢を元に戻した。安心したように、肩を落とす。 部長は格闘戦を終えた二人を眺めていたが、不思議そうに呟いた。 「強い、というか…無茶苦茶だなぁ」 「はい?」 きょとんとしたマリーが顔を上げると、部長は続ける。 「確かに自分より大きい相手を投げる格闘術は多いけど、わざわざ上に投げるなんて、普通は無理だ」 難解そうに目を伏せながら、部長は声を落とす。 「人間業じゃない。あんな不安定な姿勢で、倍以上の体格の相手を投げられるわけがないんだ。しかも足で」 そりゃあそうだろう、人間じゃないんだから。と、あたしは部長に言いたかった。 マリーは見た目は普通の人間みたいだけど、中身はサイボーグで軍人だ。だから、出来るだけだ。 冷静で的確な部長の突っ込みに、鈴音はちょっと困ったようにしていた。うん、あたしも困る。 部長はもう一度マリーとイレイザーを見比べてから、今度はリボルバーとインパルサーにメガネを向ける。 「ロボットだから、ってだけでついなんとなく納得してたけど、考えてみたらあんたらも充分無茶苦茶だ」 中指でメガネの位置を直してから、足を組む。 「推進装置はあるようだけど、あれだけじゃ空中に出られるとは思えない」 「気になりますか?」 と、インパルサーが尋ねると、部長は頷く。 「ああ。ジェットエンジン的な推進で浮かんでいるなら、真下が常に熱されるはずだけど、それもないようだし」 相当に気になるのか、部長はずっと三体のロボットを睨んでいた。そんなに興味を持っていたのか。 ここまで深く詮索する相手は今までいなかったためか、マリーは物珍しそうにしている。結構余裕だ。 だけどあたしは気が気ではなく、鈴音を見たが、鈴音はあらぬ方向を見ていた。関わらないつもりらしい。 妙に緊張した空気は、チャイムによって打ち破られた。下校時刻が近くなってきたようだ。 「仕方ないや」 右手に巻いている腕時計を見、部長は立ち上がった。あたしは、ちょっと安心した。 荷物をまとめながら、部長はあたし達を見回す。やけに残念そうに、息を吐く。 「本当なら答えて欲しかったけど、今日はこれ以上長居は出来ないな。それじゃあ、先に」 「あ、はい」 あたしが頷くと、それじゃ、と部長は出て行ってしまった。確かこの人は、塾に行っていたっけ。 部長の足音が廊下を遠ざかっていくにつれて、妙に緊迫した空気が和らいでくる。あたしも安心してきた。 安心したようにインパルサーは肩を落とし、気の抜けた声を出した。 「…びっくりしました」 「あたしもね」 まさか、部長があそこまで突っ込むとは。あたしも意外だ。 マリーは片手を頬に当てながら、動きを固めているロボット三人へ呟く。 「ああいうタイプが一番手強い、と思いませんこと?」 「ちぃとな」 ぎしりと関節を鳴らしながら、リボルバーは背筋を伸ばす。長い影が部室に伸びる。 立ち上がりながら自分の通学カバンを掴むと、カバンを持っていない方の手でがしがしと後頭部を掻いた。 「あの兄ちゃん、なかなかいい抉り方するじゃねぇか」 「次に会ったらもっと突っ込まれちゃいそうですね、僕ら」 と、インパルサーがリボルバーを見上げると、彼は唸った。 「こういう状況の中じゃ、出来る限り会いたくねぇ相手だな」 「いっちゃんは帰らないの? あんたら兄弟って、全員帰宅部でしょ?」 ふと、あたしは何やらまた様子のおかしいイレイザーに気付いた。通学カバンを、強く抱き締めている。 真剣な横顔のまま、彼はぎゅっとカバンを握り締めた。中身が壊れちゃうぞ。 インパルサーに比べて丸みのある肩装甲をいからせながら、イレイザーは声を上げる。 「存じてはおらぬか!」 「は?」 あたしが思わず聞き返すと、イレイザーはまたがばっと振り向いた。が、目を逸らす。 小さく肩を震わせながら、どん、と踏み込んで間合いを詰めて顔を上げる。 ゴーグル越しでも充分に解るくらい真剣な眼差しを、いっちゃんはあたしに向けていた。 「メロンパンと言う名の食物を大量に売りさばく、移動販売ワゴンの居所を!」 イレイザーの荒い息が、やけに部室に響いていた。この場合、排気音か。 またすぐに目を逸らしてから、さっきよりも強く通学カバンを握り締める。教科書が歪みそうだ。 あたしが思わずインパルサーと顔を見合わせていると、鈴音がイレイザーに尋ねた。 「あんたは食べないだろうから、コマンダーの子に頼まれたの? 確か、葵ちゃんの妹だっけ」 「いかにも、鈴音どの」 イレイザーは頷いたが、鈴音は正視しなかった。あたしと鈴ちゃんじゃ、差でもあるのか。 するとリボルバーの銃身が伸ばされ、ぐいっと無理矢理に鈴音の方を向かされる。大変そうだ。 その状態のまま、イレイザーはやりづらそうに続ける。 「さゆりどのがご所望なのでござるが…拙者には、メロンパンがいかなるものかまるで解らぬのでござる」 「教えてもらわなかったんですか?」 本を収めた通学カバンを抱えて立ち上がったインパルサーが、イレイザーに尋ねる。 イレイザーは鈴音の方を向かされたまま、返す。 「それもまた試練だ、とさゆりどのが命令したのでござる。しかも、兄者方には頼るな、と…」 「結構厳しいわねー、その子」 通学カバンに写真やら原稿用紙やら入れた鈴音は、多少中を整理してから、ファスナーを閉めた。 それを肩に乗せると、ちらりと左手首の細い腕時計を見た。ブランドは解らないけど、値の張りそうなものだ。 彼女はあたしへ振り向き、申し訳なさそうに笑う。鈴ちゃんも用事があったらしい。 「じゃ、私は帰るわ。もうちょっとしたら、家庭教師が来ちゃうのよ。待たせるわけに行かないから」 「うん。ばいばい、鈴ちゃん」 「じゃね、由佳」 と、軽く手を振り、鈴音は出て行った。お嬢様も大変だなぁ。 その後にリボルバーは続いて廊下に出ようとしたが、狭い扉に引っかかっている。肩の弾倉がでかすぎるのだ。 しばらくしてやっと脱出すると、がっしゃんがっしゃん足音を立てながら鈴音を追っていった。騒がしい。 マリーは科学雑誌を抱えて、軽くあたし達に頭を下げる。 「それでは、ごきげんよう。今日は葵さんと手合わせいたしますので、早く戻らなければなりませんの」 あたしが止める前に、さっさとマリーも出て行った。とん、と扉が閉められ、廊下を軽い足音が通る。 ということは、もしかしなくても。 背後のインパルサーを見上げると、彼は仕方なさそうに首を振る。あたしも早く帰りたかったのに。 急にしんとしてしまった部室に、イレイザーの申し訳なさそうな声が響く。 「拙者の任務にご同行願えぬか、由佳どの。おぬししか、頼れぬのでござる」 見上げると、イレイザーはかなり参ったような顔をしていた。本当にメロンパンが解らないんだろう。 あたしは迷っていたが、この顔を見て、少しイレイザーが哀れに思えた。人見知りするのにお使い、なんて。 後方のインパルサーを見ると、彼はあたしが言う前に頷いた。 困り果てているシスコン忍者を見上げ、あたしは言う。こうなったら、仕方ない。 「いいよ。でも、さっさと終わらせて帰るからね」 ほんの少し表情を緩めたイレイザーは、深々と頭を下げた。これはこれで丁寧だ。 「感謝いたす」 「それじゃ、行きましょうか」 あたしと自分の通学カバンを持ったインパルサーが、片手で外を指す。 イレイザーは顔を上げ、困ったように腕を組む。 「だがさゆりどのは、兄者方の手は借りるなと」 「いくら弟とはいえ、あなたに由佳さんを連れて空を飛んで欲しくないんです」 むくれているような声を出し、インパルサーは弟を見据える。そんな理由だったのか。 ぎゅっと通学カバンを掴み、大股に歩いてイレイザーの隣を通っていく。勝手に妬いている。 がらっと扉を開けたインパルサーは振り返り、やけに強い口調になる。 「さっさと行きますよ!」 「待たれよ兄者!」 自分の通学カバンを抱き締めたまま、イレイザーはインパルサーを追っていく。 一人部室に取り残されてしまったあたしは、本当は行く気など起きてはいなかった。だけど、仕方ない。 これもさゆりちゃんのためであり、イレイザーのためでもあるのだ。そう思うしかない。 だけど、秋の空を飛ぶのは寒そうだ。冬服のブレザーとベストを着込んではいるけど、ちょっと心配だ。 また、風邪を引いたりしなきゃ良いけど。 秋の空は、やっぱり寒かった。 あたしはインパルサーにお姫様抱っこで抱えられながら、市街地の上を飛んでいた。ぶっちゃけ寒い。 見た目ではそうでもないのだけど、いざ風に当たると冷たくて仕方ない。夏じゃないから。 二つの通学カバンを腕に提げたインパルサーは、あたしの肩をいつになくしっかり押さえている。 あたし達の右側を、背中の棒に通学カバンを引っかけたイレイザーが、前傾姿勢で飛んでいた。 インパルサーみたいに翼がないせいもあるけれど、忍者だから空を飛ぶのはあまり似合っていない。 あたしはふと、スカートを見下ろした。妙に風通しが良いと思ったら、下が全開だ。 これはやばい。マジでやばい。 「パル、ちょっと待って」 あたしはいても立ってもいられなくなり、パルを制止した。彼は少し速度を緩め、止まる。 途端に風は弱くなり、冷たさも半減した。飛んでなきゃ、寒くないようだ。 彼の首辺りに置いていた手を外して、あたしは自分のスカートを指す。弱い風に、裾がひらひらしている。 「手、スカートの下に置いてくれない? このままじゃ全開で」 「ですが、由佳さん。そこは…その」 そこまで言って、インパルサーはふいっと顔を逸らした。ゴーグルに西日が映り込む。 次第にゴーグルの色は西日に負けないくらい強いオレンジになり、徐々に高度が下がってきた。 あたしはぐいっとその顔をこちらに向けさせてから、声を上げる。背に腹は代えられないんだ。 「いちいち意識しない! あたしも意識しないから!」 「ですが…その」 「とにかく、スカート押さえて。このままじゃ真下に大解放で、恥ずかしいから」 「了解しました」 相当照れているのか、インパルサーは小さく返す。膝の裏に置かれていた手が、一瞬外れた。 あたしの下半身が落ちてしまう前に、彼の手があたしのスカートを押さえた。その位置は、太股の裏になる。 ぎりぎり尻には触らない位置だけど、それじゃ安定しなさそうだ。そう言おうと思ったけど、やめた。 真正面をぐいっと見上げているパルのゴーグルの色は、オレンジを通り越して、赤くなっていたからだ。 これ以上何か言ったら落ちる。墜落はないにせよ、絶対落ちる。それだけは回避しなければならない。 またゆっくり高度を上げたインパルサーは、さっきより格段に遅いスピードで飛行を再開した。 イレイザーはどこか妙な顔をしてあたし達を眺めていたが、兄に続く。 あたしはずり落ちそうな尻を気にしつつ、ゴーグルの色をオレンジに戻しつつあるパルを見上げた。 それくらい、なんだっての。最初に来た日には、あたしが着替えていても平然としていたくせに。 今更意識することなんて、ないじゃないか。 しばらく飛んで向かった先は、駅前の商店街だった。 いきなり街中へ降りると、さすがに目立ってしまうので、徐々に高度を下げて路地裏に回っていった。 少し引っ込んだ位置に降りて、ゆっくりとインパルサーは体を地面に近付けていく。 その手前に、たん、と膝を付いてイレイザーが着地する。カッコ付けている。 数十センチまで地面が近付いたので、太股の裏に当てられていた手を外されたが、ちょっとずり落ち掛けた。 インパルサーを掴んで姿勢を整えてから、手を放して着地する。そして、最後にパルが着地した。 路地裏から見る商店街はいつもと違って見えて、不思議な感じだ。明るく照らされた道を、人々が行き交う。 夕飯の買い物時なのか、子供や主婦が多く、それに混じって買い食いする制服姿の学生もいた。 「あうっ」 インパルサーが妙な声を上げたので振り返ると、その背後にイレイザーがしがみついていた。 彼の翼を握り潰さんばかりに掴んで、肩を震わせている。人見知りをするなら、こういうところは苦手だろう。 くるっと背を回してイレイザーをこちらに向けてから、パルは首を回して弟を見下ろした。 「ダメじゃないですか。最初からこんなんじゃ」 「あにじゃぁ…」 半泣きなのか、すっかり弱った声を出した。情けなさ過ぎる。 あたしは呆れつつ、二人から目を外して商店街を見回した。狭い路地裏からだと、よく見えない。 これではメロンパンのワゴンがあるのかないのか、さっぱりだ。一度出なければ。 あたしが路地裏から出ようとすると、インパルサーが声を掛けてきた。 「ちょっと待って下さい、由佳さん」 「見てこようと思って」 と、あたしは商店街を指す。インパルサーは首を横に振り、翼から弟を引き剥がした。 背中を押されて数歩前に進んだイレイザーは、表情を引きつらせて兄を見上げる。 パルはイレイザーの肩装甲をぐいっと押しながら、商店街を指す。行け、ということだ。 「偵察任務が一番得意なのは、シャドウイレイザーです。こういう時に出ないでどうするんですか」 「殺生でござるな、青の兄者…」 げんなりと肩を落としたイレイザーの背を、インパルサーはもう一度押した。 「あなたの任務なんですからね。僕と由佳さんは、単なる後方支援要員です」 それでもまだ、イレイザーは出ようとしない。 二人が押し問答を続けていると、商店街を歩いていた子供がこちらに気付き、立ち止まった。 途端にイレイザーはぎょっとしてのけぞり、すぐさまパルの背に回ろうとしたが、彼はその前に逃げる。 路地裏の壁を蹴ってイレイザーの後ろに着地したインパルサーを指し、子供は嬉しそうな声を上げた。 「ロボットの兄弟だ!」 「僕達を知っているんですか?」 イレイザーの後ろから顔を出したインパルサーが、不思議そうに尋ねる。 お使いの途中なのか、小学校低学年くらいの少年は買い物袋を握り締めていた。うん、と頷く。 少年は目を輝かせながら二人のヒューマニックマシンソルジャーを見上げ、声を上げる。 「知ってるさぁ、五年生のロボットの兄さん達だろ? 正座で叱られてたの、覚えてる!」 その言葉に、商店街を歩いていた人達が反応した。叱られてた、の辺りで。 多少なりとも運動会の出来事は話題になっていたのか、視線がどんどん集まってくる。やりづらい。 あたしは身を引いて、インパルサーの影に隠れた。いっちゃんの気持ち、ちょっと解るかも。 イレイザーはすっかり動転してしまい、後退してきた。更に後退しようと足を下げた、その瞬間。 「クラッシュドロップ!」 聞き覚えのある高い声と共に、小さな影が人々の向こうから現れた。 ジャンプして人垣を軽々越えると、背中の大きなブースターを上向け、加速しながら飛び込んでくる。 かかとにある太めのヒールを、真っ直ぐにイレイザーの頭部に向かわせた。 逃げ損なったイレイザーはそのまま蹴られて勢い良くずり下がったが、インパルサーに受け止められた。 あたしはその衝撃を受けつつ、彼の後ろから前を覗く。声の主は、とん、と軽く着地した。 「の、力抜いたやつー。本気でやったら、おねーさんまで吹っ飛んじゃうんだもーん」 母さんの物らしき赤いトートバッグを肩に提げたクラッシャーが、にんまりしていた。 クー子はあたしとインパルサーを見つけると、ひょいっと片手を挙げる。 「インパルサー兄さん、おねーさんと放課後デート?」 「違いますよ!」 即座に否定したインパルサーは、すっかり気の抜けたイレイザーを放る。がしゃん、と傍らに転がった。 あたしは倒れ伏したまま動かない四男を見ていたが、格好からしてお使いに来たであろうクー子へ顔を向けた。 何か買ってきた後なのか、トートバッグはぽっこり膨らんでいる。こっちはちゃんとお使いしている。 クラッシャーは腰に手を当てて小さな胸を張り、あたしを見上げる。嬉しそうな笑顔だ。 「おかーさんに頼まれたの。今夜はシチューになるんだってさー、白い方!」 「そっかー。ご苦労さん」 「簡単な任務だもん」 と、クラッシャーは笑う。インパルサーは、足元で動かないイレイザーを見下ろした。 「だ、そうですよ」 「イレイザー兄さんもお使いなの?」 しゃがみ込み、クラッシャーは尋ねる。なんとか顔を上げたイレイザーは、僅かに頷いた。 ぎりぎりと腕に力を込めて起き上がって妹を横目に見、少しだけ表情を綻ばせたが、俯いてしまう。 不思議そうにその様子を眺めていたが、クー子は立ち上がり、首をかしげてあたしを見上げた。 「どしたの、この状態? ヘタレの極みみたいなー」 「いっちゃん、さゆりちゃんからお使い頼まれたんだってさ。で、あたしとパルはその支援」 屈んでクラッシャーと視線を合わせ、あたしは返す。ふーん、とクー子は面白そうな顔をした。 インパルサーは起き上がらない弟を見下ろしつつ、ため息を吐く。 「早く立って下さい、シャドウイレイザー。あまり時間を喰うと、帰りが遅くなってしまいますよ」 イレイザーは、微動だにしない。かなり、人に囲まれたことが堪えているようだ。 困ったようにパルは頬を掻きつつ、クラッシャーへ顔を向ける。クー子は、にやりとして頷く。 クー子はイレイザーの近くにしゃがむと、顔を寄せた。何をするつもりだろうか。 目一杯愛嬌を込めた声で、クラッシャーは四男へ呟いた。 「起きてよぉ、お兄ちゃあん」 すると、イレイザーはすぐさま起き上がった。心なしか、表情が緩い。 がばっと後方へ飛んで着地し、すっと背筋を伸ばして立つ。そして、クラッシャーを見下ろした。 クー子は実に反応のいい兄が可笑しいのか、けらけら笑い出していた。パルもマスクを押さえ、笑っている。 いきなり笑われていることが理解出来なかったのか、イレイザーは首をかしげた。 「兄者、ヘビークラッシャー。その…何が、可笑しいのでござるか?」 「何ってそりゃあ」 あたしは困り果てたように兄弟を見比べるイレイザーの背に、呟いた。 「あんたのシスコンが強烈すぎるからでしょ」 「そうでもないと思うでござるが…」 本気でそう思っているのか、イレイザーは腕を組んで首を捻る。 いや、そうでもあるから笑われてるんだってば。あたしはそう突っ込みたかったけど、やる気が失せていた。 イレイザーは、自覚のないシスコンなのか、もしかして。だとしたら、タチが悪くて当たり前なのかも。 ひとしきり笑って満足したのか、クラッシャーは目元を擦ってから兄二人を見上げた。 「お使いって、さっちゃんの好きなメロンパンだったりする? ワゴンのあれー」 「よく解りますね」 そうインパルサーが返すと、クラッシャーはちょっと残念そうな顔をした。 片手を伸ばして商店街の奥を指しながら、続ける。 「だけど今日はここにはいないよー。無駄足だったねー」 「マジ?」 あたしは思わず、クラッシャーを見下ろす。もうちょっと付き合わなきゃならない、てことか。 クー子は多少あたしに同情しているのか、苦笑しながら頷いた。 「マジ」 安心したような困ったような複雑な表情をし、イレイザーはあたしに振り向いた。 すぐに目を逸らしてしまったが、なんとかこっちを見ようとしている。しばらくして、やっと正視した。 赤いゴーグルは薄暗い中ではパルのゴーグルより目立ち、彼のラベンダー色の装甲を照らしていた。 ぎしりと強く拳を握ったイレイザーは、しゃがむと同時に、どかんと拳をアスファルトに当てる。 「…申し訳ござらぬが、由佳どの」 あたしは頷くしかない。 こんな状況で、断れるわけがないし。 これも、コマンダーの宿命だ。 04 5/24 |