Metallic Guy




第十八話 戦略、始まる



一週間はあっという間に過ぎて、文化祭まで後一週間になってしまった。
その間はとにかくゴタゴタしていて、戦いのことを考えている暇なんてちっともなかった。
あたしにとってそれは、ありがたいようでもあり、ありがたくないようなことに思えていた。


近頃はずっと天気が良く、屋上はいつにも増して清々しかった。メンバーは、相変わらず多いけど。
校内は文化祭の準備でずっとごたごたしていて、埃っぽいから余計にそう思えていた。
柔らかそうな雲が、以前よりぐっと冷え込んできた、少し強めの風に流されている。
あたしは、ヘアピンで押さえていても広がってしまう前髪を押さえる。邪魔っ気な。
いつもより少し遅れてやってきたディフェンサーは、屋上に出ると、じっとインパルサーを見上げた。

「なぁ、インパルサーの兄貴」

「はい?」

台本を片手に練習していたインパルサーは、動きを止めた。
しばらくディフェンサーはやりづらそうにしていたが、意を決したように声を上げる。

「教えてくれねぇか!」

「何がだよ」

インパルサーの相手をしていたリボルバーは、すっかり折れ曲がった自分の台本を三男に向けた。
目を逸らしてから、ディフェンサーは情けなさそうに呟く。

「だから…その」


「だから、私が教えてあげるってば」

お弁当を食べる手を止め、律子は少し不満げにする。

「野菜の切り方ぐらい、教えられるよ。そんなに不器用じゃないもの」

「だけどよ、永瀬」

苛立ったように、ディフェンサーは腕を組む。律子は負けない。

「インパルサー君達は演劇の稽古で忙しいけど、私はそうでもないんだから。ちょっとは頼ってよ」

「けどよ…」

「けどもだってもないよ。クラスメイトでしょ?」

いつになく強い口調で、律子はディフェンサーを見据える。
ディフェンサーはまだ渋っていたが、律子が譲らないと解ったのか、仕方なさそうに息を吐く。

「解ったよ。けど、そんなにこだわることもねぇじゃねぇか」

「こだわってるのはディフェンサー君の方だよ」

そう言い返してから、律子はお弁当の続きを食べ始めた。りっちゃんがそこまで言うとは、ちょっと意外だ。
あたしは先に食べ終えていたため、お弁当箱を閉じた。屋上の出入り口を見てみたが、まだ来ない。
珍しいことに、今日は鈴音が遅い。いつもなら、あたしと一緒に早く来るのに。
購買に買いに行った時に、何かあったんだろうか。リボルバーも気になるのか、じっと出入り口を見ている。
フェンスの上に立っていたイレイザーは振り向き、あたし達を見下ろした。

「鈴音どのでござる」

直後、どったんばたんとやたらに荒々しい足音が響いてきた。どん、とドアが乱暴に開かれる。
長い髪を振り乱した鈴音が目を吊り上げながら、購買のパンが入っている袋を固く握り締めている。
なんとか息を落ち着けてから、鈴音はあたし達を見回した。怖いぞ、鈴ちゃん。
やはり乱暴に歩いてあたしの隣にやってくると、どっかりと座ってパンの袋を置いた。

「全く…ここんとこ、静かだと思ってたら」

握り締めていたために多少歪んでしまったハムサンドをばりっと開け、鈴音はむくれる。

「購買のパン奢るくらいで、マジで好感度が上がると思ってんの? 人をなんだと思ってるんだか」

「杉山の先輩か?」

リボルバーは、どっかりと鈴音の前に座った。台本を握り締めて、すっかり潰してしまっている。
鈴音は変な笑いを浮かべながら、ばすんとコーヒー牛乳にストローを指した。ああ、怖い。

「ご名答。自分の言動忘れてんじゃないのかしら、あの男は」

「杉山先輩って、サッカー部の部長だよね? 高宮さんと、何かあったの?」

と、律子があたしに尋ねてきた。そうか、りっちゃんにはこの話はしていなかった。
あたしは要点だけを掻い摘んで、律子に説明する。本当に要点だけだ。

「杉山先輩が鈴ちゃんに言い寄ってるんだよ」

「私をそこら辺に落ちてる適当な女と一緒にして欲しくはないわねぇ」

そう一気にまくし立ててから、鈴音はコーヒー牛乳を飲んだ。半分くらい飲むと、多少表情が落ち着く。
ストローを口から離して足を組み、ふう、と息を吐いた。乱れていた髪を細い指で梳き、少し整える。
黒くて艶やかな髪をまとめて白い耳に掛けると、銀色の小さなピアスが露わになった。
台本を握ったまま、リボルバーは腕を組んでにやりとする。妙に嬉しそうだ。

「どんどんスズ姉さんに嫌われてるじゃねぇか、あの兄ちゃん」

「女性の扱いは、武器の扱いとは比べものにならないほど難しいですから」

すとんと正座したインパルサーは、リボルバーへ顔を向けた。あたしも、それには同意する。
コーヒー牛乳を置いた鈴音はサンドイッチを食べていたが、嫌そうに眉を歪める。

「私が避けてるのは本当に嫌だからで、好きなわけないでしょーが」

「イヤヨイヤヨも、というやつですね」

と、インパルサーが補足すると、鈴音は頷いた。

「そういうこと。勘違いも甚だしいわよ」

「鈴ちゃん。結構、やばいことになってない?」

あたしは、少し心配になってきた。いくらボルの助がいて、鈴ちゃんだからってこれはちょっと。
サンドイッチを一つ食べ終わった鈴音は、横目にリボルバーを見たが、あたしに戻した。

「別に。いつものことだし」

「まぁ、そりゃそうなんだけどさぁ…」

今までの鈴音の告られ遍歴で行けば、確かにいつものことだ。妙な勘違いをされるのも、一度目じゃない。
だけど、今回ばかりはちょっと様子が違う。杉山先輩はリボルバーを見下しているし、敵視している気もする。
だから、余計に心配なのだ。何かあったら、それこそ取り返しが付かない。
あたしはリボルバーを見てみたが、逆に変な顔をされた。

「何心配してんだ、ブルーコマンダー。オレやスズ姉さんが、そう簡単にやられるわけねぇだろ」

「だけどさあ」

「何かある前に、自分でなんとかしてるわよ」

そう笑いながら、鈴音はあたしの頭を軽く叩いた。余裕ありすぎだ、鈴ちゃん。
少し離れた位置で胡座を掻いていた神田は、意外そうな顔をして鈴音を見上げた。

「杉山先輩、そんなに悪い人じゃないと思ってたんだけどなぁ」

「それはそれ、これはこれよ。私に対する執念は別物なんでしょ」

すっかり怒りが冷めたのか、鈴音はサンドイッチの続きを食べていく。本当に切り替えが早い。
あたしはそれが少し羨ましいような、そうでもないような気分になっていた。それでいいのか、鈴ちゃん。
お弁当を食べ終わった律子は蓋を閉じて箸を片付け、巾着袋に入れた。きゅっ、と紐を締める。

「そういえば、マリーさんは?」

「エメラルダ姫はまだまだ練習してるよ。あたし達より、かなりセリフが多いから」

あたしは、左手にある講堂を兼ねた体育館を見下ろした。その周囲には、結構人影がある。
大方、マリーのギャラリーだろう。衣装を着ていなくても、充分に美少女だから。
ディフェンサーはふと思い出したように、神田へ顔を向けた。

「魔王は練習してねぇのか? あれ」

体育館を指したディフェンサーに、神田は苦笑した。

「してるさ。だけど大したセリフもないし、ほとんどナイトレイヴンは突っ立ってるだけなんだ」

「なんでだよ?」

「あんまり立ち回ったら、校舎壊しちゃうだろ」

そう返してから、神田はインパルサー達へ顔を向けた。

「それに魔王は、二人の騎士とその仲間に倒されるためだけに出てくるだけだからな」

「そういえばさぁ、神田君」

あたしは、ちょっとあれが気になっていた。魔王役なら、知っているんじゃないかと思ったのだ。
食後だから眠いのか、神田は目を擦ってからあたしを見上げる。

「なんだ?」

「魔王って、なんでお姫様をあたし達に攫わせたの? その理由が台本にはないし、まるで解らないんだけど」

「理由かぁ…」

腕を組み、神田は唸る。

「オレも気になって西野に聞いてみたら、魔王は姫君の力を借りたかっただけなんだとさ」

「あ?」

拍子抜けしてしまった。そんなことのために、あたしはあんな格好であんなセリフを言わなきゃいけないのか。
神田はやよいの話を思い出しているのか、あらぬ方向を見上げながら続ける。

「なんでも、魔王の魔力を浄化して欲しかったんだと。で、元の姿に戻りたかったと」

「じゃあ、魔王直々にお姫様に直訴すればいいじゃないの」

と、鈴音がすかさず突っ込んだ。神田は少し笑う。

「そうしようと思って王国に来たら王国軍に攻撃されて、仕方ないから魔導師二人に攫わせたんだとさ」

「じゃあ、僕らが悪いんですか?」

台本で自分を指しながら、インパルサーは神田を見下ろす。
神田は少し困ったようにしていたが、パルを見上げる。

「悪いっちゃー悪いのは、やっぱり魔王なんだとさ。魔力に溺れたのは自分だし、理由はどうあれ姫様略奪したし」

「でも、なんでその辺りのことが台本に書いてないの?」

不思議そうに、律子はあたし達を見る。いや、あたしに聞かれても。
ぱらぱらとよれてしまった台本をめくっていたが、インパルサーは顔を上げた。

「たぶん、長くなってしまうからでしょうね。戦闘の部分だけで、かなり時間が潰れてしまっていますし」

「リーダーフェイス、ノーマルボディ…竜頭蛇尾でござるな」

フェンスの角の上にしゃがんでいた、イレイザーがこちらを見下ろす。神田は頷く。

「全くだよ。だけど、肝心な部分を端折らなきゃいけないくらい戦闘シーンが伸びるのは、ちょっと変じゃないか?」

そう言われて、あたしは、あのマリーのにやりとした笑みを思い出した。
本当に、この劇を利用するつもりだったのか。いや、絶対利用する。ここまで来て、しないわけがない。
でもまさか台本にまで口出しして、ここまでしていたとは。強かすぎるぞ、マリーさん。
やたらに戦闘が伸びたのは、その間にパル達の戦いを終わらせてしまうつもりなんだ。劇の一部として。
だけど、そこまでタイミング良く、敵は攻撃を仕掛けてくるものなんだろうか。
いや、不可能とは言い切れないかもしれない。プラチナでもなんでも使って誘い出せば、出来るはずだ。

「うっわー…」

そこまで考えて、あたしはそんな声を出していた。利用出来るものは、とことん利用されている。
サンドイッチを食べ終えた鈴音はあたしを見、少し首をかしげる。

「どしたのよ。口、ぱかーんて開いて」

「鈴ちゃん。肝心な部分が端折られてるってのは、マリーさんのせいかもよ」

「やっぱりそう思う? それ以外に有り得ないわよ、まず」

と、鈴音は頷いた。どうやら、鈴ちゃんはとっくに察していたようだ。
難解そうに口元を曲げていた律子は、ふう、と息を吐く。

「戦いって、凄く大変なんだね」

「つーかなぁ…」

頬杖を付いたディフェンサーは、マリンブルーの目を伏せる。

「ここまでお膳立てされると、ちょっとばかしやる気が失せてきちまうぜ」

「そう言うなよ。オレだって今回ばかりは、ちぃともやる気はねぇんだから」

三男へ目を向けたリボルバーは、表情を歪める。ばきり、と彼の手の中で台本が握り潰される。
フェンスの上から降りたイレイザーは空を見上げ、苦々しげに呟く。

「鈴音どのの、お察しの通りでござった…。銀河連邦政府軍のトランスポートシップに眠りし鋼の戦士達は、全て」



「紛う事なき、我らの部下にござる」



どごん、と、インパルサーの拳がコンクリートに埋まっていた。灰色に、ヒビが走る。
しばらくしてから拳を抜いた彼は、ぎりぎりと固く握りしめていた。ゴーグルの色が、強まる。
怒っている。パルは、本気で怒っている。
自分を落ち着けるためなのか、深呼吸を繰り返し、大きく肩を上下させている。

「いっちゃん、そのマシンソルジャー達のコアブロックは?」

あたしは、それが心配だった。コアブロックが入っていたら、彼らは本当に自分の部下を殺すことになる。
イレイザーはまたしばらく上空を見上げていたが、呟いた。

「コアブロックパルスは微塵も感じられぬ。全て抜かれているでござる。それだけが、いや…何も救いにはならぬ」

「彼らが…一体、何をしたと言うんですか」

震えた声を出したインパルサーは、俯いた。翼が、ぐいっと上向いている。
相当に気が立っているのか、再度拳が打ち込まれた。こうでもしないと、怒りが納まらないのだろう。
ディフェンサーはどかんと拳を足元に当てて、表情を歪めて吐き捨てる。

「ユニオンの奴らの性根、芯まで腐り切ってやがるぜ」

「ああ。よっぽど、オレら全員のエモーショナルリミッターを切らせてぇみてぇだな」

ぎしりと関節を鳴らしながら、リボルバーは肩を怒らせる。オレンジのスコープが、ライムイエローに染まる。
ばぎゃん、と力一杯拳を自分の手のひらに当て、それを固く握りしめた。相当、怒っている。
イレイザーは一見すると様子は変わっていなかったが、空を睨んで口元を歪めていた。

「悪辣でござる」


「パル」

ゴーグルの色が一向に弱まらない彼を、あたしは近付いて覗き込んだ。まだ、強い。
ゆっくりとコンクリートから拳を抜いたインパルサーのもう一方の手は、台本を思い切り握り潰していた。
一度深く息を吐いてから、あたしを見上げる。やっと、色が弱まってきた。

「大丈夫です」

そうは言っているが、彼の奥の目は色が強かった。まだ、怒っている。
あたしには、その怒りが尤もだと思えた。だけど、彼の怒りを落ち着けてやりたかった。
だけど、何も言ってやることも、してやることも出来なかった。こういうときに言う言葉なんて、知っていない。
不意に、予鈴が校内から鳴り響いた。昼休みも、もう終わりだ。
生徒達が教室へ戻る足音が、廊下や校舎を伝って聞こえてくる。
インパルサーは立ち上がり、ゴーグルの色が完全に戻るまで、晴れ渡った空をゴーグルに映していた。
あたしには、その姿が痛々しく見えてならなかった。




部屋のテーブルの上に置かれたメモ用紙には、インパルサーの曲がり気味な字が並んでいた。
あたしはカーテンと窓を開けて、夜空を見上げる。入り込んでくる風が、冷たい。
オレンジ色のクマが薄く印刷されたメモ用紙の上には、青い水性ペンでこう書かれていた。


  マリーさんの所へ、オーバーホールに行ってきます 帰還予定は、十二時前です

  ブルーソニックインパルサー


「お風呂に入ってたからって、わざわざこんなの書いていかなくったって」

あたしはそのメモ用紙をテーブルに放り、窓枠に寄り掛かる。ここは、彼の定位置だ。
月明かりが綺麗で、街並みが青白い。だから、なんとなく蛍光灯を付ける気が起きなかった。
文化祭は、あっという間に近付いてきた。戦いも、ほとんど同じ速度で近付いてくる。
その両方に対する覚悟が本当に出来ているのか、自分のことなのによく解らなかった。
腹を決めたはずだけど、多少不安が残っている。特に、劇のことが。
新聞部の方は、過去の写真やら記事を寄せ集めた展示で、それはもうほとんど終わっているからいいとして。
夜空をぼんやり見上げてみても、今はさすがに銀色の機影は見えなかった。敵も夜は休むのか。
あたしはベッドの枕元に置いてある目覚まし時計を見てみたが、まだ十二時には程遠かった。

「十一時半か…」

放っておけば、三十分なんてすぐに過ぎてしまうだろう。だけど、無性に長く思えた。
たかだかオーバーホールじゃないか。整備なんだし、すぐに戻ってくると書き置きしてある。
なのに、なんだ。この虚無感。

前にも、こんな感じだったことがある。

思い出した。あれは確か、リボルバーと戦った後に、パルが爆睡してたときだ。
あの時も、妙に物足りない気分になっていた。その挙げ句、最初のキスを彼にあげてしまったのだけど。
芋蔓式にその時の感覚まで思い出して、あたしは声を上げたくなった。でも、夜だから我慢する。
恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしいし、照れくさい。ホントに、なんであんなことしちゃったんだ。
パルは自分からしたとしても、まだデコ止まりだってのに。あたしの方が、遠慮がない。
普通は逆だろう。男の方から積極的になってくるべきじゃないのか。だけど、凄くパルらしい。
何かしてきてもそれはキスじゃなくて、やたらに抱き締められる。これも、実に彼らしい。
そこから先へ進むつもりはあるようだけど、本人がその気を押し潰しているような気がする。
この間だって、そうだ。抱き締めておきながら、自分でマスクを開いておきながら。
その先へ、行かなかった。

「行くと思ったんだけどなぁ」

あたしは、ついそう口に出してしまった。いや、行って欲しいというわけじゃないけど。
思い返してみると、パルの行動にはいつもブレーキが掛かっているみたいだ。それも、結構強めに。
散々あたしのことを好きだ好きだと言っておきながら、そんな感じなのはリボルバーとは違うからだろう。

「まぁ、らしいといっちゃらしいか」

あたしは二学期始めにリボルバーが起こした、ブレーキなしでアクセル全開な行動を思い出した。
けれど、その後の鈴音とリボルバーの関係が悪くなることもなかったのは、ちょっと不思議だった。
ああいう強引なことは、鈴ちゃんはあんまり好きじゃない。むしろ嫌いだ。
それなのにリボルバーをないがしろにしたりしないのは、もしかしてとは思うけど。

「いや…それは」

いくらなんでも、それは有り得ないだろう。希望があったとはいえ、希望は希望だ。確証じゃない。
鈴音のリボルバーへの態度は変わっていないし、なによりあの鈴ちゃんだ。
ボルの助に愛情、というか愛着は出てきたかもしれないけど、それと恋は別物なんだから。
あたしはリボルバーを応援したいような、鈴ちゃんが心配なような、複雑な心境になっていた。
また目覚まし時計を見ると、まだまだ十二時にはならない。パルが帰ってくるまで、まだ間がある。
さっさと寝てしまってもいいのだけど、なんとなく、待っていたいような気分だった。
理由は解らない。結構眠くなっているし、正直なところ、連日の演劇の稽古で疲れてもいる。
けど、待っていたい。彼が、ここに戻ってくるまで。
少し離れただけで、何をここまであたしは寂しがっているんだろうか。子供じゃあるまいし。
ちょっと、自分に呆れてしまった。


窓枠に寄り掛かってうとうとしていると、ふわりと弱い風が抜けた。
あたしは冷たさの混じっているそれを感じて目を開け、月明かりを遮る影に気付く。
青白く弱い逆光の中、長身のすらりとした青いボディが窓の前に浮かんでいる。
レモンイエローのゴーグルを薄く光らせながら、インパルサーは身を屈めてあたしを見下ろしていた。
あたしは起き上がると、窓枠の痕が付いた頬を少し拭った。ちょっと痛い。

「パル。おかえり」

「ただいま戻りました」

軽く敬礼してから、インパルサーはするりと部屋の中に戻ってきた。
あたしは彼が完全に入ってから、窓を閉めて鍵を掛けた。カーテンは後でいいだろう。
インパルサーは整備のついでに装甲を磨いてきたのか、全体的につやりとしているように思えた。
とん、とフローリングにつま先を落としたインパルサーは、あたしへ顔を向けた。

「あの、由佳さん」

「ん?」

あたしは頬を押さえながら、彼を見上げる。薄暗いから、パルのゴーグルが目立つ。
インパルサーは青い装甲を月明かりで青白く光らせながら、こん、と首筋を軽く叩く。

「オーバーホールのついでに故障箇所も修理してきましたので、僕の首はもう外れないと思います」

「肩の翼は?」

最初に来た日に外れて、瞬間接着剤で直したままだったような気が。
ああ、とインパルサーは頷いた。片手を挙げ、002の上に付いている翼を指す。

「こちらもちゃんと直してきました。また外れてなくしてしまったら、事ですから」

「そういやパルって、その翼が外れたときに泣いてなかったっけ?」

そんなことも思い出したので、言ってみた。すると、パルは顔を背ける。

「思い出させないで下さいよ…」

がしがしと強くマスクを掻きながら、はあ、と肩を落とす。結構気にしていたらしい。
あたしは少し悪いことをしたかな、と思ったので、とりあえず謝っておいた。

「ごめん」

「いえ…」

力なく答え、インパルサーは頬を掻く手を止めた。
こちらに背を向けてから、パルは右の肩甲骨の辺りを指す。

「前に由佳さんが塗装を削っちゃった場所も、塗り直してきました」

「…ごめん。マジで」

今度はあたしがへこむ番だった。ドライバーでがりっとやっちゃった傷は、完全にあたしが悪いから。
普段は見えない翼とブースターの奥にあるから、つい忘れてしまいそうだったけど。
インパルサーは背中の翼の角度を直角にして、ブースターを少し外側へ動かした。あたしが、削った場所が見える。
確かに、そこにあった細くて長いドライバー傷はなくなっていた。ホントにごめんよ、パル。
インパルサーは背中を元に戻してから、あたしに向き直る。

「どうせまた塗り直すことになりそうですが、戦う前には綺麗にしておきたいですから」


「パル」

あたしは、彼を見上げた。
レモンイエローが、淡く光っている。

「辛い?」

「はい」

こくんとパルは頷く。

「辛いですよ。部下さん達と戦うのも、由佳さんの命令に逆らって戦わなければいけないのも、文化祭を乱すのも」

それを聞いたら、あたしはなぜだか妙に安心してしまった。
自分も辛いと、パルが認めたからだろうか。だったら、ちょっと変な感じがする。
インパルサーはそれだけ言うと、黙ってしまった。彼の両手はぎしりと軋むほど、固く握られていた。
相変わらずだ。何かを堪えるときは、彼は必ずこうしている。これも、パルのクセなんだろう。
あたしがその手に触れると、少し緩んだ。しばらくすると、手から力が抜け、指が伸ばされた。
その大きな彼の手を両手で掴むと、表面は冷たかった。外から帰ってきたばかりだからだろう。

「だろうねぇ」

その手を引き寄せて、握り締める。
整備済みだからか、関節から僅かに感じられる機械油の匂いがはっきりしていた。

「パルは、優しいから」

あたしは、彼を見上げる。パルは、俯いていた。

「僕は…」

あたしに握られた手から、力が抜けた。途端に、ずしりとした重みが掛かる。
もう一方の手を固く握ったまま、彼は顔を逸らす。
ゴーグルから出ている薄いレモンイエローの光に、月明かりが混じって綺麗な色になっていた。
それに照らされた白抜きの002が、薄暗い中でやたらに目立っている。
滑らかなラインのマリンブルーのマスクが、下へ向く。

「優しくは、ありませんよ」

どうして、と聞く前に、パルは続ける。

「本当に優しいなら、アドバンサー達を手に掛けません。先陣を切って、プラチナを追いつめたりしません」


「増して…コアブロックがないとはいえ、部下さん達を破壊しようなんて…最初から思いませんよ」

ぎしり、ともう一方の手が更に握られた。

「仕方ないなんて、そんなこと、免罪符にもなりません」

あたしには、何を言うべきか、まるで思い付かなかった。
インパルサーは俯いたまま、あたしへ顔を向けた。ゴーグルの光が、感じられる。

「由佳さん。僕はあなたが好きです、大好きです。だから、どんなことからも守りたいと思いました」

マスクの奥から出る声が、少し震えていた。

「アドバンサー達も部下さん達も、守りたいと思いました。彼らは、少しだって悪くないんです」

手の中にある彼の手が、少し浮かんだ。離れようとしている。
それを離したくなくて、強く握り締める。
あたしの体温が映ったパルの装甲は、温くなっていた。

「悪いのは」

そこまで言って、インパルサーは肩を落とした。

「マスターコマンダー…あの人、ただ一人なんです」

あたしは、ただ彼を見上げていた。
何も言えないし、言うべき言葉が見つからない。
パルは優しすぎる。本当に、どうしようもないくらい。
だけど。そんなんじゃ、戦うのが辛くて当たり前だ。
誰かを傷付けたくないのに、傷付けなければいけないのだから。


「パル」

あたしは彼の手を放し、マリンブルーのマスクへ手を伸ばそうとした。
だが触れる前に腕を取られ、ぐいっと引き寄せられる。
スカイブルーの胸が目の前にやってきて、あの冷たい感触が頬に触れる。
このまま抱き締められるのかな、と思った。けどその前に、顎に手を添えられて軽く持ち上げられる。
目の前に迫ってきたインパルサーの顔はマスクが開かれていて、口元を固く一文字に結んでいた。

「由佳さん」

顎に当てられた指が下へずれたため、唇を少し開かされる。
月明かりが彼に遮られて、完全に見えなくなる。影の中で目立つのは、サフランイエローの二つの目。
軽く開かれた白銀色の薄い唇が、目の前に近付いてきた。
だがそれが触れる寸前で、顎から手が外された。ゆっくりとインパルサーも離れ、目を伏せる。

「…すいません」

背を向けたパルはマスクを戻し、呟く。

「あなたが、僕を好きだとは限らないのに。いつも、こんなことをしてしまって」


あたしは半開きにされていた唇を押さえ、目を伏せた。ほら見ろ、優しいじゃないか。
だけど、そんな理由がパルのブレーキだったなんて、思いもよらなかった。
あたしがはっきりしないせいで、パルは自分を押し込めているだなんて。あたしのせいだったのか。
パルは好き。だけど。それが友達としてなのか、それとも違うのか、自分でもよく解らない。


「忘れて下さい」

そう言って、インパルサーは窓の鍵を開け、からりと開いた。夜風が、滑り込んできた。
あたしが止める前に、彼は窓枠を軽く蹴っていた。とん、と長い足が遠ざかる。
するりと滑るように上昇して、星々の散る夜空へ青い影が消えていった。
あたしの頬と顎には、彼の感触がありありと残っている。

「無理、言わないでよ」

それは、すぐには消えそうになかった。



窓から差し込む月明かりが、彼のいない部屋をやけに広く見せていた。







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