Metallic Guy




第二十七話 モータル・コンバット



あれから、数日。
冬休みは終わって、三学期が始まった。でも、彼らの戦いはまだまだ続いている。
爆発事件のニュースは止むことはなく、連日のように新聞やテレビを騒がせていた。
色んな専門家が色んな検証をしていたが、どれも真実からは程遠いものばかりだった。
当然といえば、当然のことだ。誰も、宇宙から来たロボット兄弟が戦っているなんて思わないだろうから。




冷え切った空気は、いつにも増して静まり返っていた。普段ならいるはずの人間が、数えるほどしかいないからだ。
ずっと並んで続いている塀の脇を歩きながら、あたしはつい後ろを見てしまった。彼は、いない。
パルが戦いに出向いてから、今日で一週間が過ぎた。その間、一度も帰ってくることはなかった。
曇り空の下、薄暗い住宅街をぼんやり眺めていると、路地の向こうから自転車の走る音が近付いてきた。
後方の角を曲がって姿を現した黒いマウンテンバイクは、速度を上げてあたしの隣へ滑り込んでくる。
ぎゅっ、とブレーキを掛けて止まってから、神田はマウンテンバイクから降りた。

「おはよう、美空」

「神田君、おはよ」

あたしは神田の後ろを見たが、いつもいるはずのさゆりがいなかった。これも、当然のことだ。
万が一、のことを考えて、小学校は休校になっているからだ。だから、涼平も休みだ。
あたし達の高校も、通常通りというわけではない。休む子は休んでいるし、授業時間も少なくなった。
それでも、うちにいるよりはいいと思い、あたしは行くことにした。うちにいても、辛いだけだし。
ちりちりとマウンテンバイクを押していた神田は、あたしの左足を指した。

「足、どうしたんだ?」

「あ、これ?」

あたしは、左の腿を指す。大分傷は治ってきていて、今は絆創膏になっている。
大判の絆創膏の上を手で押さえながら、神田を見上げる。

「ちょっと擦っちゃったの。でも、大したことないから」

「大丈夫なら、いいんだけどさ」

そうは言いながらも、神田は心配げな目をしていた。そんなに心配しなくても。
あたしは通学カバンを持ち直してから、手を横に振る。

「スコットさんの応急手当が良かったから化膿もしなかったし、あとはカサブタ取れるだけなんだから」

「どうしてそこで、スコットさんが出てくるんだ?」

神田は訝しみながら、あたしと傷を見比べた。あたしは、言ってしまったことを後悔した。
深夜デートと、襲撃のことを話さなきゃならないんだろうか。でも、あまり話す気は起きない。
あたしが黙ってしまうと、神田はそれ以上問い詰めてこなかった。気を遣ってくれているようだ。
そうこうしている間に、横断歩道までやってきた。土手の上は、砕けたアスファルトが残っている。
あたしは上を見、砕けている周囲が立ち入り禁止になっていることを知った。赤いコーンが、並んでいる。
神田も同じ方向を見ていたが、横断歩道へ向き直った。普段より台数の少ない車が、止まる。
並んで横断歩道を歩きながら、神田はあたしへ振り向き、笑った。

「何かあったみたいだけど、言いたくないなら聞かないよ」

「ありがと」

その気遣いが、ありがたかった。礼を言われて気恥ずかしいのか、神田は足を早める。
先に横断歩道を渡り切った神田は、マウンテンバイクを高校の方へ向けて、あたしが来るのを待っている。
あたしがその隣へ付いてから、神田はまた歩き出した。律義なことだ。
高校の門が近付いてきたが、入っていく生徒の数はいつもの半分くらいしかいなかった。




屋上は、かなり寒かった。風が強いから、制服じゃ防寒しきれない。
それでも、あたし達は屋上でお昼を食べていた。半ば、根性でここにいる。
あたし達三人と神田だけでは、屋上がだだっ広く感じた。以前のメンバーの、半分以下だからだ。
パルのお弁当がないため、購買のカレーパンを食べていた。久々に食べたからか、なんだか新鮮味がある。
温かいレモンティーを飲みながら、つい空を見上げていた。つい、マリンブルーの姿を捜してしまう。
コロッケパンを食べ終えた鈴音は、紙パックのコーヒー牛乳を飲み干し、ストローを中に押し込んだ。

「寂しいもんねぇ」

「うん。フェンサー君、今頃はどこにいるんだろう」

お弁当箱を重ね、袋に入れた律子が頷いた。目線が、あたしと同じように空へ向いた。
あたしと律子につられたのか、鈴音と神田も上を見上げる。薄い雲の切れ間から、僅かに青空が見えていた。
それを見つめながら、神田は足を投げ出して上体を逸らす。強い風が、神田のネクタイをなびかせた。

「少なくとも、今日は都内じゃない。ナイトレイヴンの索敵範囲からは外れてて、感知出来なかったから」

日を追う事に、彼らの戦いの範囲は広がっている。最初は、東京だけだったのに。
空になった紙パックをビニール袋に入れてから、鈴音は足を組む。その上に腕を乗せ、頬杖を付いた。
手のひらで口元を覆いながら、長い睫毛を伏せる。冷たい風に、ふわりと長い髪が広がった。

「そんなんじゃ、帰ってくる暇がなくて当然か」

「毎日毎日、戦ってばかりみたいだもんね。皆、無理してなきゃいいけど」

心配げに目を伏せ、律子は呟く。心配なのは、皆が同じだ。
あたしは空になった缶をビニール袋に入れて、足元に置いた。白い袋が、ばさばさと揺れる。
それが転がっていかないようにつま先で押さえながら、深く呼吸する。空気を出すと、それはため息になっていた。
ここ数日、ずっとこんな調子だ。あの夜のことを、何度悔やんだか解らない。
あたしがパルと一緒に行かなければ、こうならなかったのかもしれない。襲撃が、起こらなかったかもしれない。


「…あたしのせいだ」

雲の切れ間を、ゆっくりと流れてきた雲が塞いでいった。空の色が、見えなくなる。
少し強い風が川からやってきて、体を冷やしている。俯くと、視界がコンクリートの灰色だけになる。
怪訝そうにあたしを覗きながら、鈴音は髪を掻き上げた。

「由佳、それどういうことよ?」

「あたしがパルと一緒にいたから、ゼルは攻撃してきたんだよ。あたしがいなきゃ、良かったんだ」

左足の傷に貼った絆創膏が、目に入る。

「そしたら、スコットさんも間に合っただろうし、パルもエモーショナルリミッターを切らないで戦えたかもしれない」

インパルサーの、赤い瞳が思い出された。

「馬鹿だよ、あたしは。自分のことしか、考えてなかったんだから」

あの夜は、周りが見えなくなっていた。スコットの警告も、結局のところ無視してしまった。
思考がまともじゃなかった。状況は理解していたはずなのに、どんなに危険なことか知っていたはずなのに。
本当に、馬鹿だった。


「最初に土手で起きた戦闘は、あんたらだったってことか」

鈴音の言葉に、あたしは頷いた。さすがに、鈴ちゃんは鋭い。
律子は、ぎゅっとスカートを握り締めた。泣きたいのを、堪えている表情だ。

「起きちゃったことは、悔やんだって仕方ないよ。いつか…いつかは、始まっちゃう戦いだったんだもの」

「でも、その引き金を引いたのは、間違いなくあたしだよ。ゼルに、襲撃の隙を与えちゃった」

これが、その結果だ。左足の傷を覆う絆創膏を押さえると、下の傷が少し痛む。
少しだけど出てきてしまった涙を手の甲で拭ってから、顔を上げる。鈴音が、あたしを見ていた。
目元を強め、唇を固く締めている。腕を組んでフェンスに寄り掛かり、胸を張る。

「ボルの助が来たときも、そうだったわよね。帰りの時に、葵ちゃんに見つかっちゃったんだから」

きつい口調のまま、鈴音はあたしを睨んでいた。怖い顔だ。

「由佳って、そういう大事なところが抜けてるのよ。この状況でそう動けば、どうなるか予想が付くはずよ」

ふいっと顔を逸らした鈴音の耳元で黒髪がばらけ、ピアスが覗いている。

「馬鹿だってこと、自覚してるならいいわ。でもね」

あたしは、それを否定する気も言い返す気も起きなかった。鈴ちゃんの言っていることが、正しい。
もっと、責められても仕方ない。あたしがその続きを待っていると、頭に手を置かれた。

「確かに、今度の戦いの引き金に指を掛けたのは由佳かもしれない。だけど、それを押し込んだのはゼルよ」

ぽんぽん、と軽く頭を叩かれた。鈴音は続ける。

「もっと言えば、その銃を用意したのも、弾を装填したのもあいつ。あんたはただ、引き金に指を掛けただけ」

「…そう?」

あたしの呟きに、彼女は頷いた。肩に手を回され、抱えられる。
すぐ近くに、ローズ系の香りが感じられる。その甘い香りと鈴音の体温が、優しかった。
あたしの肩越しに聞こえる声からは、もう棘が抜けていた。

「そう。だから、あんまり悩まないこと。律子の言う通り、起きちゃったことは、仕方ないんだから」


「そーいうこった」


その声は、屋上の出入り口上から響いていた。見上げると、灰色の翼を広げた影がある。
赤いネクタイをなびかせながら、逆光の中にスコットが立っていた。よ、と片手を挙げて笑う。
もう一方の手には、大きく膨らんだコンビニ袋がある。一緒に、お昼を食べるつもりらしい。
とん、と屋上に降りたスコットは、あたし達の近くに座ってコンビニ袋を置いた。がしゃり、と重たい音がする。
それを探ってトマトジュースを取り出し、開けた。それを半分ほど飲んでから、スコットは振り向いた。

「だから、それ以上考えるな。責任取ろうったって、諸君ら一般人の未成年者には無理なことだしよ」

トマトジュースの残りを傾け、全部飲み干した。スコットは、その缶を足元に置く。

「今日は、コマンダー諸君に報告にやってきたのさ。いやしかし、旨いなこれ」

もう一つ缶を取り出して、またぐいっと一気に煽った。さっきから、流し込むように飲んでいる。
空き缶を二つ並べてから、スコットはスーツの内側に手を入れ、携帯電話のような警察手帳を取り出した。
銀河警察の警察手帳を開けて少し操作すると、それを足元に置く。すると、ホログラムが浮かび上がった。
日本地図の上に並ぶ読めない文字と、ロボット兄弟の色と同じ、逆三角のマークが立体映像に表示されている。
五つの逆三角のマークはくるくる回転しながら、少しずつ動いている。これは、彼らの居場所らしい。
しばらく流れた読めない文字が止まると、スコットは指先でいくつかボタンを操作した。

「戦果はそこそこ。だがカラーリングリーダーの性能にしちゃ、効率が良くはない。理由は簡単だ」

サンドイッチを取り出したスコットは、それをかじった。これもまた、すぐに飲み込む。

「発砲許可が、どうしても下りないせいさ。肉弾戦てやつは、こういう殲滅戦には向かない戦法だからなぁ」

不憫なものさ、と付け加えたスコットはサンドイッチを食べ終えていた。こんなんで、味が解るのかな。
大きく膨らんでいたコンビニ袋の中身は、もう大半がなくなっていた。早すぎる。

「それでもなんとか凌げてるのは、ソルジャーブラザーズの性能と才能があるおかげだな。さすが、本職は違うぜ」

「それで、マリーさんは?」

神田に尋ねられたスコットは、三本目のトマトジュースを開けた。

「大佐どのは自宅だ。警護を付けようかって言ったんだけどな、一人にしてくれってさ。ま、大丈夫だろうがな」

その三本目もすぐに飲み干し、ことん、と缶を並べた。スコットは、深く息を吐く。
ゆっくり空を仰ぎ、翼を広げた。灰色の骨張っているコウモリのようなそれが風を孕み、揺れている。
ブラウンゴールドの髪をがしがしといじっていたが、呟いた。黒いゴーグルが、日光を跳ねる。

「全くいい星だぜ、ここは。オレの故郷があるとしたら、やっぱそれも、こんな色の空だったりするのかねぇ」

「スコットさんの故郷って、惑星ベベルじゃなかったの?」

不思議そうに律子が尋ねると、スコットは首を横に振る。

「オレの故郷は解らん。ベベルはただ、オレの生まれた星だってことだけだ」

「でも、生まれたなら故郷じゃないの?」

普通は、そうなるはずだ。あたしの問いに、スコットは返す。

「生み出されただけの星さ。オレらメタモロイドは、言葉は悪いが人工生命体ってやつだ。ナチュラルに生まれた奴なんて、ほとんどいない。でもって戦闘能力が高いから、警察や軍事組織に使われることが多いんだ。科学者共はそこからの遺伝情報の機密流出を恐れているから、オレ達は本当の故郷を知らされていないのさ。うっかりオレ達メタモロイドやバイオロイドが情報を漏らして、ベベル以外の惑星でメタモロイドの生成が可能になったら、ベベルは商売あがったりになっちまうからな」

科学の落とし子ってやつさ、とスコットは笑う。

「ま、他にも色々理由はあるんだがね。それが仕方のないことだってのは解ってるし、故郷を知らないのが普通だ。知らないなら知らないで、別にどうだっていいんだけどな。もう、こういうのには慣れちまったから」

まるでSFだ。そんなこと、本当にあったんだ。
あたしは、改めてまじまじとスコットを眺めてみる。言われなきゃ、そういう種族だって思ってた。
でも、作られたんだ。なんだか、パル達に似てるかもしれない。理由は違えど、戦うために生まれているわけだし。
奧の見えない黒いゴーグルに、雲の流れが映っていた。スコットは、翼を折り畳む。

「同じ人工物同士、ってわけでもないんだけどな。ソルジャーブラザーズに同情するよ、心の底から」

警察手帳を閉じて胸元に入れてから、中身が減っているせいでよれているマイルドセブンを取り出した。
煙草を一本を取り出してくわえ、ライターで火を点けると、スコットは深く煙を吸い込む。

「ギャラクシーグレートウォーが終わって、やっと平和を知ったのに、その矢先にこれだからなぁー…。ユニオンは、えらいことになってるぜ」

こんこん、とトマトジュースの空き缶に灰を落としながら、スコットは煙を吐き出す。

「マシンソルジャーの意思と命を認めるか否か、彼らを兵器とするか人とするか、思想は真っ二つだ。今度のことが片付いたところで、その割れ方が納まるとは思えないし…。メタモロイドの人権が完全に認められるまで、三十年も掛かったが、果たして今度は何年掛かるやら、だな」

その煙草を空き缶に押し付けて消し、中に落とした。スコットは、もう一本取り出す。
火を点けて吸いながら、マリーの家の方を見る。その周囲の住宅街は、朝と同じく静かなままだ。

「全く、大佐どのの判断は賢明だぜ。あのままユニオンにいたら、ソルジャーブラザーズはどうなっていたやら」

どうやら、様々な事情が絡み合って、今度の戦いが起きているようだった。
鈴音の言った通り、完全にあたしのせいだというわけではないらしい。でもだからって、気が楽になるわけはない。
やっぱり、あたしが引き金を引く一端を担ったことには変わりがないから。それだけは、間違いないことだ。
雲は晴れることはなく、空の色が再び見えてくることはなかった。




「ちょっと、いい?」

放課後の教室で帰り支度をしていると、そんな声がした。
教卓側の扉を開けた律子が、はにかんだように笑った。西日に照らされたメガネが、眩しく見える。
あたしは通学カバンを抱えて頷くと、律子は入ってきた。とん、と後ろ手に扉を閉めた。
机をずらさないようにしながらやってくると、窓の外へ目を向ける。夕方だから、少しは外が騒がしい。
しばらくそうしていたが、律子は俯いた。通学カバンの持ち手を握り締め、呟いた。

「私、ちょっと思ったんだけど」

言いづらそうに言葉を詰まらせながら、律子は顔を上げる。

「本当に、存在意義が必要なのって」



「私達、コマンダーの方じゃないのかな?」



静まり返った教室に、律子の声が良く響いた。それは、徐々に消えていく。
真剣な、でも不安そうな顔をした律子は、じっとあたしと鈴音を見据えていた。
太陽は先程よりも傾いたのか、オレンジ色の日光に赤みが混じってきた。教室が、夕焼けに染まる。
鈴音を見ると、鈴音は肩に掛けた通学カバンの持ち手を固く握っていた。唇が噛まれ、悔しげに歪んでいた。
確かに、そうかもしれない。あたしは、律子の言葉を反芻しながら思った。


「解ってるわよ」

ゆっくりと唇を開いた鈴音は、苛立ちの混じった声を上げる。

「今更言われなくたって、そんなこと、とっくに解ってるわよ!」

怯えたように、律子は肩をびくりとさせた。鈴音は、目を逸らす。

「ごめん、律子」

ふるふると首を振り、律子はあたしへ目を向けた。すっかり潤んでいる。
あたしは、どちらの気持ちも解った。やっぱり二人も、彼らの役に立てないことが悔しいんだ。
悔しいのは、あたしだけじゃなかったんだ。変な話だけど、ちょっと安心した。
鈴音はもう一度律子に謝ってから、近くの机に腰掛ける。しなやかな黒髪を耳へ乗せ、少し笑う。

「慣れって、凄いわ」

照れくさそうでもあり、情けなさそうな声だ。

「最初はボルの助がうるさくて邪魔で仕方なかったのに、いざいなくなったら、静か過ぎて物足りないのよね」

どこか自虐的な笑みが、形の良い薄い唇に浮かんでいた。

「考えたくもないし、認めたくないけど…ボルの助は、私に必要なのかもしれないわね」


「鈴ちゃん」

あたしは、思っていたことを言ってみた。

「寂しかったの?」


「かもね。お姉ちゃんはあと三年はイタリアだし、父さんと母さんはほとんど帰ってこないし」

鈴音は、楽になったような顔をしていた。あたしの想像は、当たっていたようだ。
そのついでに、ちょっと鈴音の立場を想像してみた。いくら大邸宅ったって、一人じゃ寂しいに違いない。
いくら大人っぽいからって、いくら頭が良くてしっかりしてるからって、鈴ちゃんはあたしと同じ十七歳だ。
中学の頃から既にこの家庭状況だったから、きっと、ずっと小さい頃からそうだったのだろう。
あたしだったら、とてもじゃないけど耐えられない。父さんと母さんに、甘えたくても甘えられないことは。
だからすぐに、リボルバーのコマンダーになることを引き受けたのかもしれない。
あたしは鈴音から目を外し、律子へ振り向いた。りっちゃんにも、前から思っていたことがある。

「そういえばさ、りっちゃん」

「うん?」

きょとんとしたように目を丸めた律子に、あたしは自分を指した。

「なんでまだ、あたし達のこと名字で呼んでるの? そりゃクラスは別だけど、もうそんなに浅い仲じゃないでしょ?」

「そうかなぁ?」

困ったように、律子は目を伏せた。そのまま、ゆっくり背を向ける。
その動きに合わせて、三つ編みが軽く揺れた。黒板に落ちている彼女の影も、揺れる。

「私、そんなに仲が良いかなぁ?」

「良いも何も、友達じゃない。ついでに言えば、コマンダー同士。仲間みたいなもんでしょ」

すっかり元に戻った鈴音が、いつもの口調で律子に言った。相変わらず、切り替えが早い。
困り果てたように身を縮めながら、律子はこちらに横顔を向けた。

「だけど、私なんか」

「そんなに悩むこと?」

あたしが言うと、律子は頷いた。また泣きそうな顔をしている。

「いてもいなくても、そんなに変わらないもの」


そうか。だからさっき、コマンダーの存在意義のことなんて言ったのか。
しゃくり上げるように肩を震わせている律子の背を見ながら、あたしはそんな確信をした。
でも、そこにいるべき理由なんて、後から付けたものだ。最初から、あるわけじゃない。
そんなことで、とあたしは思ってしまったけど、そんなことだからこそ悩んじゃうのかもしれない。
だけど、あたし達を名字で呼ぶ理由がこれだったとは。ちょっと、意外な気もする。
ずっと思っていたことだったのか、律子はそれきり黙ったままだった。あたしは、その背に近付いた。

「りっちゃん」

ゆっくり顔を逸らした彼女の前に回り込み、あたしはメガネの奧で潤むその目を見上げた。

「りっちゃんがいなくなったら、寂しいしつまんない。変わっちゃうんだよ、いなくなっちゃったら」

「私達だけじゃ、屋上はちょーっと広すぎるのよ。その辺も、変わっちゃうわよ」

あたしの反対側にやってきた鈴音が、律子の肩に手を置いた。よくあたしにするように、軽く肩を叩く。
戸惑ったように肩を竦めた律子の目線が、あたしと鈴音の間を行ったり来たりする。

「でも、わたし」

「ついでに言えば、イエローフォトンが守る対象がなくなっちゃうわ。そしたらあいつ、泣くわよー?」

どこか意地悪な言い方で、鈴音は律子に詰め寄る。いくら本人がいないからって、それはきついぞ鈴ちゃん。
でもその意見には同意なので、あたしは頷いた。確かに、フェンサーはそうなりかねない。
もう一歩下がろうとしたが、律子はその足を止めた。上履きのゴムが、きゅっ、と床に擦れる。
意を決したように、律子は顔を上げた。嬉しいような困ったような、色々と感情の入り混じった目をしている。

「…じゃあ、私は」

「りっちゃんは、あたしの友達。それ以上の存在意義なんて、あるもんですかい」

「そういうこと。だから思う存分、下の名前で呼んでくれていいのよ律子。変なこと気にしないの」

あたしに続けて、うんうんと鈴音が頷いた。そんなに、不安にならなくてもいいことなんだから。
徐々に表情を明るくした律子は、まじまじとあたし達を見比べた。嬉しいらしい。
しばらくそうしていたが、竦めていた肩を下ろし、恐る恐る口を開いた。

「それじゃあ、その」

気恥ずかしげにしながら、律子は笑った。

「由佳ちゃんと鈴音ちゃんでいい?」

「小学生みたい」

可笑しげに言った鈴音に、律子がむくれる。確かにそれは、高校生同士の呼び方じゃない。
馬鹿にされたように思ったのか、面白くなさそうに律子は顔を逸らす。

「笑わないでよぉ。由佳ちゃんだってちゃん付けしてるじゃない」

「まぁ、そりゃそうだけどさ」

でも、あたしの方は名前を縮めてあるからそこまで幼くはない。そう、あたしは自分に言い訳した。
鈴音は笑いを堪えながら、律子に平謝りした。律子は、まだむくれている。
だけど、これでこそりっちゃんだ。可愛いなぁもう。
教室の大きな窓から見える空の雲は、西日に染め上げられ、オレンジになっていた。
茜色の空が、ずっと街の上に続いていた。




校舎から出ると、もう薄暗くなり始めていた。東の空から、藍色になっている。
あたしは薄暗い昇降口から出て、先に出ていた鈴音と律子の後を追った。
ただでさえ少ない生徒はもういなくて、人影はまるでない。校舎の大きな影が、校門まで覆っている。
その影の中に、色が見えた。どんな場所にいても問答無用で目に入る、強烈な赤に塗られた巨体。
手前を歩いていた鈴音の足が止まり、その赤をじっと見据えていた。あたしと鈴音の間で、律子が振り返る。

「由佳ちゃん、あれって」

嬉しそうに顔を綻ばせた律子に、あたしは頷いた。間違いない、あのでかさと色は。

「ボルの助だ」

乾いた弱い風が、鈴音の長い髪を広げる。しなやかな黒が、つやりと輝いた。
校門に背を預けたリボルバーは腕を組んでいて、横顔をこちらに向けながらにやりとしている。
所々、色が擦れたりしているのは戦闘の後だからだろう。あたしは、彼の横顔にちょっと違和感を覚えた。
何か足りない。しばらく見ていて、やっとそれが思い当たった。
リボルバーの右目にあるはずの、オレンジ色のゴーグルがないのだ。戦闘で、壊れたんだろうか。
ゴーグルを失った顔で振り向いたリボルバーは、優しげで愛おしげな目をしていた。


「遅くなって、悪かった」

にいっと口元を上向けたリボルバーは、勢い良く敬礼する。
ぴんと伸ばされた太い指が、がつん、とゴーグルのない目の上に当たった。

「ただいま帰還したぜ、姉さん!」


鈴音は突っ立ったまま、何も言わない。
こちらに背を向けているから、その表情は解らなかった。笑ってるか、泣いているのか。
手の甲で一度目元を拭った鈴音は、真っ直ぐにリボルバーを見据えた。彼は、笑っている。
ずかずかとリボルバーに歩み寄った鈴音は何か言おうとしたようだったが、何も言わずに腕を上げる。
とん、と軽く拳をリボルバーの胸に当てながら、やっと聞こえるような小さな声を出した。

「遅い」

「すまねぇ。色々と、手間取っちまってな」

そう言いながら、リボルバーは鈴音の背へ手を伸ばそうとした。が、すぐに引っ込める。
所在なさげにしながら、その手を降ろした。命令を、忠実に守っているようだ。
俯いたまま、鈴音は黙り込んでしまった。その様子をじっと見ながら、リボルバーは笑う。

「泣いてんのか、スズ姉さん?」

「誰がこんなことで泣くもんですか、何を馬鹿なこと言ってんのよ、そんなのあるわけないじゃない!」

詰まり気味の声を張り上げた鈴音は、リボルバーを見上げた。まるで説得力がない。
さっき弱みを見せたから、気が緩んだのだろう。そうとしか思えない。
じっとリボルバーを睨むようにしていたが、鈴音は顔を逸らした。西日に、ピアスが輝く。

「…ただ」

次第に夜の温度に変わりつつある風を受けながら、鈴音は呟いた。
その声が、静かに広がった。


「ちょっと、嬉しいだけよ」



あたしは、鈴音の表情が見えないことが凄く残念だった。
今の鈴ちゃんは、凄く綺麗で、可愛いに違いない。
それをしっかり見ているであろうリボルバーが、羨ましくてならなかった。







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