高宮鈴音は、あたしにはもったいない親友だと思う。 隣の席でノートを取っている彼女の整った横顔には、さらっとしなやかで綺麗な黒髪ロングが流れている。 色白で背が高くて、体のバランスも実に見事。子供っぽいのに、変に胸だけあるあたしとは大違いだ。 目元がちょっと吊り目気味だけど、そこもまた美人だ。でもきつい印象はなくて、きりっとしている。 彼女が顔を上げて黒板を見ると、同じ動きで黒髪が動いてほっそりした二の腕を隠した。 ちょっと日に焼けたみたいだけど、それでも白い。 すると、鈴音があたしに気付いた。 目だけこっちに向けると、ハート型に折り畳んだ水色のメモ用紙を投げてきた。 あたしはすぐにそれを受け取り、開く。 陸上部の写真が出来た。当然いるよね? 少しばかり癖のある鈴音の字に、あたしは何度も頷く。 これを投げた鈴音はそんなあたしに振り向いて、笑って見せた。 そんなに自信があるってことは、きっと凄く良い出来なのだろう。彼女がこういう顔をするときは、大抵そうだ。 夏休みになる前に取材した陸上部の練習風景と同時に、あの人の姿が思い出されてくる。 思い出していると妙に嬉しくなって、体の力が抜けてしまう。今は、抜けないようにするので必死だった。 だけど、顔の緩みだけはどうしても押さえ切れなかった。 教卓の前に立つ担任教師がにやにやするあたしに気付いたらしいが、絶妙なタイミングでチャイムが鳴る。 ああ、なんて計算高い親友だろうか。 今日もあなたに、感謝します。思えば、この夏期講習の日をちゃんと教え込んでくれたのもあなたでした。 どやどやとクラスメイト達が出て行ったが、あたしと鈴音は残っていた。 ノートに書かれた内容は、予想した通り今ひとつだった。そりゃ、予習復習してないんだから当然だろう。 それを見、鈴音はあたしを見下ろした。黒いタイトなワンピースが、よく似合っている。 アーモンド型の綺麗な目の上で、細い眉が歪む。 「ひっどいけど、由佳が何もしないのは珍しいね」 すらっとした指が、あたしを小突いた。 「何かあったの? それとも、街中で園田先輩でも目撃した?」 園田先輩。 それは、ついさっきまであたしが思い出していた三年の先輩だ。 あたしと鈴音の所属する新聞部が、よく取材に行く陸上部の部長をしている。 見た目もよろしいのに成績も良くて運動神経も凄いという、とにかくやることなすこと凄まじい先輩だ。 簡単に言えば、あたしは彼に憧れている。 恋はもっと強烈だと思うし、普通に片思いとストレートに言うとなんとなくきついから、憧れていると言う。 自分でも青春だなぁとか感じるくらいに、とにかく緊張して止まない相手だ。 言い出せることは、決してないと思うけど。 あたしがインパルサーを小突いてしまったのは、きっと鈴音の癖が移ったんだろう。 その指に額を押されたまま、あたしは言い返す。 「何かあったけどさ…そんな、あたしを馬鹿みたいに」 「今まではそのパターンだったじゃない。見事に」 薄いベビーピンクのグロスを塗られた鈴音の唇が、にいっと広がった。 「それとも何、とうとう諦めたか?」 鈴音はあたしをいじるのが、楽しいらしい。 いじられてしまうあたしもあたしだが、いじる方もいじる方だと思う。 その唇を見ながら、否定する。 「諦めるとか諦めないとか、まだそういうところまで進んですらいないじゃないの」 「青い春、青い夏だねぇ」 と、鈴音はにやにやした。 「見ていてホントに楽しいわ、由佳って」 「あたしは動物園の動物か」 「ちょっと違うわ。回し車回してるハムスターみたいな?」 あ、それもまた違うかも、と鈴音は付け加えた。 いくら可愛い動物に例えられても、正直嬉しくはない。やめてくれ、親友よ。 すると、教室の前の廊下に足音がして、近付いてくる。 あたし達は、自然とそちらへ注意を向けた。 慌ただしく滑り込んできたのは、同じく陸上部の同級生、神田だ。下の名前は、よく覚えていない。 神田は机を多少ずらして掻き分けながら、自分の席へやってきた。急ぎすぎだ。 その机の中を散々探っていたかと思うと、迷彩柄のウォレットを取り出して、安心したような顔をした。 財布を忘れたらしい。きっと財布がないことにバス停で気付いて、走ってきたのだろう。 今更気付いたかのように、神田はあたし達へ振り向いた。 「まだ帰ってなかったのか」 「編集作業があるし」 鈴音が、あたしの机に座った。弱い風で、ふわっと黒髪がなびく。 「ほら、七月の合宿、取材しておいたでしょ」 「あ、そうだったな」 やや大袈裟に、思い出した、という顔をした。 神田はハーフパンツの後ろポケットにウォレットをねじ込むと、教室の出口へ向かった。 でも出る寸前で立ち止まり、振り返る。 たぶん、本人は爽やかだと思っているであろう変な笑顔をあたしへ向けた。 「美空。また、な」 また、ばたばたと廊下に駆け足の音が響いていった。 騒がしい。 鈴音はあたしを見下ろし、ノースリーブのために露わになっている肩を竦めた。 「あっからさまー」 「わざわざ区切る? あそこで」 あたしは、頬杖を付いて足を組んだ。 膝丈のフレアスカートに風が当たって、少し揺れる。 「何かすっごい勘違いしてない、あいつ?」 あたしと神田の間柄は、そんなに特別なモノじゃない。 神田が妙な態度を取るようになったのは、夏休み前の七月の始め頃にあたしが神田にCDを貸したあとからだ。 土日を挟んですぐにそのCDは帰ってきたけど、神田がそれを返しにきたときから、どうにも妙なのだ。 一般的に言えば、神田はあたしに気があるのだろう。だけど、正直なところ迷惑だ。下手な少女漫画のようだ。 そりゃ園田先輩には憧れてはいるが、それはそれだ。尊敬が混じっているし、恋人同士になりたいとは思わない。 それに、あたしは色恋沙汰にはそんなに強い興味はない。 ちょっとはあるが、クラスメイトの女子の色恋沙汰といえば、大抵はノロケか愚痴かドロドロした愛憎劇くらいだ。 そんなものを聞かされてもどうにもならない、という辺りで、あたしと鈴音は意見が一致している。 だからそういう話を聞かないようにしているし、することもない。 鈴音は美人だが、学校の男子共には微塵も興味はないらしく、たまに言い寄られてもすっぱり断っている。 そんな光景を見るたび、美人は大変そうだと思う。 「でもーさぁ、こんなに暑い学校で編集作業が出来ると思う?」 鈴音は、ばさりと長い髪を持ち上げて首筋を露わにする。折れそうに細い首だ。 そこに手で風を仰ぎながら、ぼやいた。 「ただでさえ頭使うのに、やれる気がしなくなってきたわ」 「だぁよねぇ」 まずい。こうくると、大抵鈴音はうちへ来たがる。 どうしてかは解らないけど、鈴音はあたしのうちで二人で作る記事の編集や傾向を話し合いたがるのだ。 昨日までは喜んで彼女を受け入れたけど、今日からはさすがにそうもいかない。 インパルサーがいるからだ。 思わず、鈴音から視線を外してしまった。 あたしが躊躇していることを、鈴音はめざとく気付いた。 彼女は髪を頭の後ろへ持ち上げたまま、ぐいっと顔を寄せる。 「部屋なら、別に片付いてなくてもいいけど?」 「そうじゃあなくって…その」 あたしは、目を伏せた。 「今日はうちに、来ない方が」 「お客さん? でも、さっさと二階に行けば問題ないでしょ。お昼とか買い込んでさぁ」 「んー、そのー、部屋…使えないんだよ、今」 煮え切らないあたしへ、鈴音は詰め寄る。 「どうしたってのよ。隠し事なんて、由佳には難しいことだぞー」 部屋が使えないことは嘘ではないけど、鈴音にインパルサーのことを隠したいのは確かだ。 あたしは、鈴音に何かを隠し通せた前例はない。 それに粘ってみたところで、鈴音は諦めないのだ。余程の事ではない限り。 水掛け論になったとしても、絶対に勝てない。そうなるのは、嫌だ。 仕方なしに、あたしは鈴音を手招きした。 「んーじゃあ…これから言うこと、マジも大マジなことだからね」 「秘密にしたいこと?」 「そういうこと。じゃなきゃ、鈴ちゃん相手にこんなに詰まるもんですかい。嘘だとか、まさかとか言わないでね」 「言わない言わない。約束するわ」 鈴音は髪を耳へ乗せ、銀色の小さなピアスを乗せたそれをあたしへ寄せる。 ほんのりとした香水の匂いが、感じられた。 あたしは、出来るだけ落ち着けた声で言った。 「ロボットが降ってきたの」 鈴音は、机から立ち上がった。 がたっと机がずれて、あたしは腕を乗せていたためにそれがずれてしまった。 その腕がノートに当たって、ノートに押されたペンケースが床に転がり、ばらばらと中身が散らばった。 拾うのは面倒そうだなぁ、とあたしは妙に悠長なことを考えている。 からからから、とシャーペンが転がる音が、妙に騒がしく教室に響いた。 大きく目を見開いた鈴音は、ゆっくりとあたしに近付いた。 「そんなことって…あるの?」 「あったの」 あたしはこっくりと頷いた。 鈴音はがしがしと髪をいじり、マスカラで重たそうな長い睫を伏せる。 「なんつーか…一昔前のギャルゲ?」 「あたしも最初、そう思いましたよぅ」 と、あたしは少し笑った。 鈴音の白い腕が組まれ、動いた拍子にふわりとまた香水の匂いが漂う。 「で、そのロボットはでかいの小さいの?」 「でかいって?」 「ほら、よくあるじゃない。十メートル、それとも四メートル、まさか子供くらい?」 「そんなにでかくないし。てか、何よその基準」 「普通はそれくらいの大きさでしょ? 合体する?」 「しないよ。一体、っていうか一人だし。そんなにでかかったら、あたしの部屋じゃなくてうちが潰れてるよ」 「そっか。由佳に部屋に落ちてきたのか、そいつは」 「そういうこと」 あたしは椅子から立ち上がり、床にしゃがみ込んだ。 ソフトビニールのペンケースにシャーペンやらカラーペンを入れていると、目の前に彼女がしゃがみ込む。 あたしをぐいっと引き寄せ、真剣な顔をした。 「会わせて」 言うと思った。 あたしは半分くらい中身を戻したペンケースを握り、苦笑した。 そうなのだ。 鈴音は美人で大抵のことはこなせる秀才なのだが、どうにもアニメとかゲームとかにのめり込んでいるのだ。 ロボットやら美少女やら美少年やら女同士男同士と、とにかくざっくばらんに手が広い。 それを前面に押し出すことはしないけど、あたしにだけはばらしている。それは、信頼してくれる証だと思っている。 だから、インパルサーに会いたがるというのは充分に予想出来たことなのだ。 インパルサーがそれを承諾するのか、は解らないけど。あいつはあれで、結構繊細だと思うから。 あたしは、鈴音の信頼に応えることにした。 「いいけど」 精一杯、迫ってみた。 「誰にも言わない、言いふらさない、写真撮っても絶対に公表しない、って約束してくれたら」 鈴音が、あたしの手を握った。その指先が、ちょっとひんやりしている。 彼女はうんうん、と頷き目を輝かせる。 「約束する。私がそんなことしたら、由佳から絶交していいから」 凄い約束の仕方だ。でも、鈴音らしい。 あたしは頷き、その手の上にペンケースを持った手を重ねた。 「解った」 「約束だよ、鈴ちゃん」 教室の静けさに、あたしの声が混じった。 グラウンドからは、どこかの運動部の掛け声が聞こえてくる。 弱い風がカーテンを揺らしていて、その影があたし達に掛かっている。 あたしの手を放さないまま、鈴音はもう一度頷いた。 あたしの家から高校までは、そんなに遠くない。 ゆっくり歩いても、二十分も掛からない。 焼けたアスファルトの上を鈴音と歩きながら、携帯をいじっていた。 アドレス帳からうちの電話番号を出し、決定ボタンを押す。 二つ折りのパールホワイトの携帯を耳に当ててみたが、流れてきたのは単調な女の声。 「留守電になってる」 鈴音が、あたしの携帯を覗き込んだ。 「あの元気な少年が留守番してるんじゃなかったの?」 「遊びにでも出たんでしょ」 ため息を吐き、携帯を畳んでショルダーバッグへ突っ込んだ。 鈴音はあたしが預けていたコンビニの袋をあたしに返し、唇に薄いマニキュアを乗せた指先を当てる。 「ってことはー、そのロボットが留守番てわけか」 あたしはサンドイッチとクリームプリンの入った袋を握り締め、呟いた。 「何もしてなきゃいいけど…」 「ねぇ」 歩道の隣を、車が通った。 鈴音は暑い風に揺れた髪を押さえ、言った。 「そういえばそのロボット、男、女?」 「男だよ」 あたしは、鈴音へ顔を向けた。 「背ぇ高いし、肩幅あるし」 「空飛べる?」 「飛べたんだけど、故障してるんだって」 「色は?」 「青。綺麗な青でさ、マリンブルーとスカイブルー。目っていうか、ゴーグルはレモンイエローかな」 「よくある二号ロボの配色ねー」 と、鈴音がにやりとする。 二号ロボ。 言われてみれば、インパルサーはそんな感じだ。 見た目も主役っぽくないし、第一主役ならメインカラーは赤だろう。 きっと001は赤なんだろうな、とあたしはつい想像していた。 あたしは、なんとなく頷いた。 「肩んとこに、002って書いてあるし。きっと二号ロボだよ」 「戦隊物みたい」 鈴音はペットボトルを開け、麦茶を傾けた。 四分の一程飲むと、キャップを閉めつつあたしの後ろに付いてくる。 「んじゃ、001は赤で、003は緑で004は黄色で、005は…黒かピンクか、ってとこか」 あ、シルバーか紫ってのもありかも、と彼女は続けた。 001について考えていたことは、同じだったらしい。 でも、そんなにいたらたまったもんじゃない。 あたしは色違いのインパルサーがいるところを想像し、うんざりした。 あれは一人、一体でいい。結構でかいし。 「そっかー…合体しないのかー」 凄く残念そうに、鈴音は項垂れる。 そして顔を上げて拳を握ると、空に叫んだ。 「ロボっつーのは、合体してなんぼでしょ!」 「なんぼなの?」 「なの」 鈴音は頷いた。あたしには、この感覚はよく解らない。 前も、ドリルがなんだとか言っていた気がする。 横断歩道の、信号が赤だった。 あたし達は立ち止まり、熱気で遠くがゆらめいている道路を見下ろしていた。 車が立て続けに通って、暑さが増している。ええい、鬱陶しい。 信号が青になり、歩き出す人間の姿が青緑の四角い中に出た。 じりじり暑いアスファルトの上を歩きながら、次第にあたしのうちが近付いてきた。 結構外にいたから、もうプリンはぬるくなっているに違いない。しっかり冷やして、これは夜のおやつにしよう。 何軒か似たような住宅の前を通る。 真っ昼間ということもあるけど、夏場は大抵の家が窓を閉め切っているために、妙な静けさだった。 しばらく歩いて角を左へ曲がると、クリーム色の塀が現れた。 その終わりにある門柱には、ローマ字で「MISORA」と書かれた表札がある。あたしのうちである証拠だ。 正面の塀に面したあたしの部屋の壁には、まるでドラマの殺人現場みたいな青いビニールシートが掛かっている。 昨日の夜、父さんと一緒になって必死にやったやつだ。 鈴音は一度それを見上げ、嘘じゃなかったんだ、と呟いた。 だが直後にこれも約束の一部であったことを彼女は思い出したようで、ごめん、と短く謝った。 あたしは首を振る。 「いや、そんなことはいいよ。それよりも」 「解ってるって。ばらさない、ばらさないって」 と、鈴音は苦笑した。 あたしは門を開け、レンガみたいな色をした狭い歩道を歩いていった。 薄暗い玄関に出ると、とりあえずノブを回してみる。がしゃん、と引っかかった。 鍵が掛かっている。きっと、涼平がやっていったんだろう。 あたしはショルダーバックの中から自転車の鍵と一緒に付けてある、チェーンのキーホルダーを取り出した。 鍵を差し込んで回すと中で引っかかり、結構軽くかしゃりと開いた。 そしてノブを回してドアを開けようとしたが、逆に中へ引っ張り込まれてしまった。 ドアに体重を掛けていたこともあって、あたしはちょっとつんのめる。 その肩をぽんと青い手で押さえられ、顔を上げる。 レモンイエローのゴーグルが、あたしを待っていた。 「こういう時は、おかえりなさい、でしたっけ」 今朝覚えさせたばかりの言葉を、ちょっと得意げにインパルサーが言った。 あたしは彼に支えられたまま、返す。 「そう。それでいいの」 背後の鈴音が、ばさん、とコンビニの袋を取り落とした。 昨日の母さんと、そっくり同じリアクションだ。 麦茶のペットボトルの下敷きになったおにぎりが潰れて、無惨にもツナマヨがはみ出ている。 鈴音はあたしの後ろから、ブルーソニックインパルサーを呆然と眺めている。 当のインパルサーは、あたしから手を放し、彼女へぱしっと敬礼した。 「コズミックレジスタンス・第二攻撃隊所属のヒューマニックマシンソルジャー、ブルーソニックインパルサーです」 言い方は硬いけど、声の調子は優しげなままだった。 「初めまして」 鈴音はしばらくぼんやりしていたが、少し頭を下げた。 「…高宮、鈴音です」 そのまま、しばらく時間が過ぎてしまった。 裏山のセミが、昼間中だから一番元気に騒いでいる。 あたしは二人を、交互に見た。 「中、入ろうか」 鈴音は、頷いた。 04 3/6 |