校門を抜けて、昇降口へ入った。当然ながら、生徒はいない。 妙にひっそりとしているけど、教室棟に繋がる廊下や階段の奧から、先生達が授業を行う声が聞こえてきた。 あたしはやけに慎重になりながら、そっと下駄箱を開け、そっと内履きを下ろして履き替える。 ぱたん、と下駄箱を閉めた。ふと、違和感を感じた。ちょっとしたものだけど、何かが変わっている。 しばらく眺めて、あたしはようやく気付いた。マリーとリボルバー、インパルサーの下駄箱から名前がない。 昨日付で、三人とも自主退学したことになっているからだ。これもまた、寂しいことだ。 あたしはなんとなく、パルの下駄箱へ手を伸ばした。たぶん、何も入っていないだろうけど。 木製の扉を引っ張ると、隙間から数枚、薄っぺらいものが滑り出してきた。ふわり、とコンクリートに落ちる。 あたしは身を屈め、それらを手に取った。星やハート、丸っこいキャラクターなどの付いたファンシーな封筒だ。 全部で五通ある、ピンクや赤の封筒裏には、別のクラスや下級生などの女子の名前が書いてあった。 これは。まさか、とは思うけど。 「…ラブレター?」 あたしはもらったことないのに。いや、そうじゃなくて。 どれも開けた痕跡がないから、きっとパルは下駄箱を開けてなかったんだ。靴、履かないしね。 中身は後で見てみよう。ていうか、あれで結構モテていたんだなぁ、パルは。ちょっと意外。 あたしは感心すると同時に苛々しつつ、それでいて安心していた。当の本人がいないから、これは届かない。 この子達には悪いけど、これは絶対パルには渡さない。渡してたまるもんか、パルへのラブレターなんて。 あたしは五通の手紙を通学カバンへ突っ込んでから、階段へ向かった。が、途中で立ち止まる。 教室にこれから行っても、どうにもならないんじゃないのか。授業だって、頭に入るかどうか。 あたしは足音を立てないようにしながら、階段を昇っていた。向かう先は、ただ一つだ。 ドアを開けると、冷たい風が一気に吹き付けてきた。ここは、空が近い。 屋上には、先客がいた。鈴音と神田はこちらに振り向くと、フェンスの前からやってきた。 鈴音はあたしの肩へ手を回すと、ぽんぽんと軽く叩く。そして、頭も同じように叩いてきた。 「来ないかと思っちゃった」 「遅刻したのって、初めてかも」 あたしは苦笑しながら、鈴音を見上げる。神田はポケットに手を突っ込んだまま、笑う。 「授業サボったのも、じゃないのか? オレは少しあるけど」 「なんかスリリングよねぇ、不良行為って。生真面目に生きてきたから、余計にさぁ」 と、いやに楽しそうに鈴音は笑った。でも、ちょっと目元が赤い。 そうか、鈴ちゃんも泣いていたんだ。リボルバーが、いなくなっちゃうから。 あたしがあの時感じたことは、本当だったんだ。奇跡は、しっかり起きていたんだ。 鈴音はあたしを解放してから、川の方を指す。その方向のフェンスには、二人の荷物が置いてある。 「あっち側、十時まで見てようか」 「うん。そだね」 あたしはフェンスの下へ近寄り、二人の荷物の隣へ通学カバンを置いた。コートを脱ぎ、畳む。 それを通学カバンの上に乗せてから、幅広の川と土手を見下ろした。日光で、水面がきらきら眩しい。 一体、どういうふうに宇宙船が出てくるのか、あたしにはさっぱり想像が付かなかった。その時を待とう。 小学校の方を見ると、グラウンドが騒がしい。朝から、子供達が体育をしているようだ。 あたしがしばらくそうしていると、神田も小学校の方を見下ろす。 「あっちも、ちゃんと見送れそうだってさ。二限使って、体育するらしいから」 「都合のいいこと。サボらなくていいなんて、ちょーっと羨ましいかも」 フェンスに寄り掛かり、鈴音はしなやかな指へ広がった髪を絡ませる。耳元へ乗せた拍子に、ピアスが覗く。 あたしはなんとなく、神田の横顔を見上げていた。あの戦いを終えてから、まるで顔付きが違う。 ちょっと前から戦士っぽくはなってはいたけど、こんなにカッコ良くはなかった。だから、なんだか不思議な感じだ。 あたしは今日が何の日だったかを思い出し、尋ねてみることにした。これだけカッコ良くなったんなら、きっと。 「神田君。チョコもらった?」 神田はちょっと面食らったように振り向いたが、すぐに頷いた。 「え、ああ、西野からもらったよ。なんか、ゼルの襲撃を片付けたの、オレだって勘違いしてるっぽいんだ」 「へーぇ…やよいから、葵ちゃんにねぇ」 にやりとしながら、鈴音は神田ににじりよる。神田は、顔を逸らす。 あまり面白くなさそうにしながら、呟いた。あたしのことを気にしているのか。 「西野は義理だって言ってたし、別に大したもんじゃないさ。それにオレは、その」 「あたしはあげないからねー、神田君。本命がいるもん」 と、あたしは笑いながら神田へ言う。好きなのは、一人だけだ。 神田は苦笑し、頷いた。ちょっと期待してたのかな、もしかして。 「…解ってる。解ってるけどさぁ」 「葵ちゃんもしつこいっていうか、執念深いっていうか。諦めが悪いわねぇ」 「戦士ってのは、諦めが悪い方が強いんだよ」 「退くも勇気、って言葉もあるわよん」 鈴音はにんまりしながら、神田をいじる。すっかり遊んでいる。 言い返せないらしく、神田は面白くなさそうにしていた。鈴ちゃんには、勝てないよ。 ふと、階段の方から足音がした。しばらくすると、ブレザーのポケットを大きくした律子が現れた。 律子はあたし達へ気付くと、ポケットの中から赤いコーラの缶を抜く。それを向け、笑う。 「思った通りだ。四つ買ってきて、良かったぁ」 「りっちゃんも?」 あたしが尋ねると、律子は気恥ずかしげに頷いた。缶をまた、ブレザーへ入れる。 こちらに近付いてくると、ちょっと舌を出して肩を竦める。可愛いなぁ、もう。 「うん。授業、サボっちゃった」 「結局、いつものメンバーになるわけか。多少、人数は足りないけど」 少し寂しげに、神田は呟いた。屋上が、以前よりも広く感じた。 あたし達は、なんとなく黙ってしまった。これからは、これが普通になるんだ。 フェンス越しに見下ろした川には、まだ異変はなかった。十時まで、もう少し時間がある。 四人で並んで座ったのは、これが初めてかもしれなかった。 いつもはお昼だったし、並んでいたのはあたしと鈴音と律子ぐらいなものだったから。 それでも、神田は少し離れて座っていた。謙遜しているのか、気が引けているのか。 律子の買ってきてくれたコーラは、ここで飲むにはちょっと冷たすぎた。でも、これを買う気持ちも解る。 大方、マリーのことでも考えちゃったんだろう。そうじゃなきゃ、こんなときにコーラなんて買わない。 あたし達はそれぞれで飲んでいたけど、神田は開けてすらいなかった。そういや、りっちゃんは知らなかったっけ。 律子は神田の様子を伺い、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げる。缶を両手に持ち、膝の上に乗せた。 「神田君、コーラ嫌いだった?」 「オレ、甘いのダメなんだよ。ジンジャーエールなら大丈夫なんだけど、コーラとなると甘過ぎてさ」 「私、買い直してこようか?」 「いいよ。そんなに喉乾いてないし」 神田は首を横に振り、コーラの缶を足の間に置いた。律子は、なら、と頷いた。 あたしは甘い炭酸を飲みながら、マリーを思い出していた。彼女はいつも、これを流し込むように飲んでいた。 鈴音はゆっくり飲んでいたが、缶を口元から外した。息を吐いてから、缶を下ろす。 「久々に飲んだ気がするわー、これ」 「マリーさんが飲んでたからね、いつも」 あたしは中身が半分ほどになった缶を、すぐ脇に置いた。こん、と缶が鳴る。 一番時間を掛けて飲んでいた律子は、缶を放して膝の上に置いた。 「私はドクターペッパーの方が好きだなぁ。これもおいしいんだけどね」 「…マジ?」 信じられないような声を出し、神田は律子へ振り向く。律子は、こくんと頷いた。 「うん。おいしいじゃない、あの味。神田君、それも嫌いなの?」 「…まずくないか、あれ?」 「えー、そお?」 おいしいんだよぉ、と律子はにこにこしていた。逆に、神田はげんなりしていた。 あたしは飲んだことがないからなんともいえないが、きっと、神田にとってはまずかったんだ。 でも、ドクターペッパーに挑んでみるのも悪くないかもしれない。そのうち、飲んでみよう。 ぱちゃぱちゃと軽く缶を揺らしていた鈴音は、横目に律子を見た。長い睫毛が、風に揺れている。 「律子ってさー、一見クセがなさそうなんだけどアクが強い趣味してるわよねぇ」 「うん。あたしもそう思う。りっちゃんの趣味って、ちょっと不思議」 「怪談収集は普通だと思うけどなぁ」 きょとんとしたように、律子は首をかしげた。あたしからしたら、普通じゃない。 神田もそう思っているのか、複雑そうにしていた。一応、葵ちゃんもりっちゃんの趣味の被害者だっけ。 あたしはあの誕生日プレゼントを思い出し、神田に尋ねてみた。あれから、どうなったんだろう。 「そういえばさ、神田君。りっちゃんの誕生日プレゼント、読んだ?」 「読んだよ。うっかり一晩で一冊読んじゃって、眠るに眠れなかったさ」 誕生日だったのに、と神田は自虐的に笑った。怖いもの見たさ、ってやつだろう。 途端に律子は目を輝かせ、神田に近寄る。何を期待しているんだ。 「怪異、あった?」 「いや、なかったよ。オレ、霊感ないし」 「なんだーぁ、つまんないのぉ」 と、律子は不満げに頬を張る。それ、ちょっとひどくないか。 嫌そうに、神田は呟いた。葵ちゃんも大変だ。 「嫌なもん期待しないでくれよ」 「面白いのになぁ、怖い話。フェンサー君も皆も、なんでこんなに怖がっちゃうんだろう」 ちょっと怒ったように言ってから、律子はしゅんと目を伏せた。彼がいないことを、実感したようだ。 彼らのことを話題にすると、寂しさが強くなる。それがあるから、今まで彼らのほとんど話題が出なかったんだろう。 コーラの残りを飲み干した鈴音は、がしゃん、とフェンスに背を預けた。足を放り出し、スカートが広がる。 「…結局、最後までボルの助に振り回されっぱなしかぁ。優等生に、初めて授業サボらせやがったんだもの」 苛々したように、鈴音は乱暴に髪を梳いた。甘い香水が漂う。 「馬鹿みたい。支配してたつもりの相手に、支配されちゃうなんてさぁ」 「ホントだよ。フェンサー君って、すっごく自分勝手」 メガネの奧で、律子の目が潤んでいる。 「ちゃんと、お別れしたかったのに。勝手にいなくなっちゃうんだもん」 「だよねぇ。ずるいよ、パルは」 あたしは、ポケットの中のリングに指で触れた。 「こんなことなら、もっと、好きだって言っておくんだったなぁ」 「そうだな。こんなことなら、さっさと踏ん切り付けとくべきだった」 神田は頭の後ろで手を組み、フェンスに寄り掛かる。 「インパルサーが、来る前に。そしたら、少しはオレにも勝ち目があったかもしれないな」 ざあ、と川から風がやってきた。誰かの空き缶が、からからと転がる。 何年も、パルと一緒にいたみたいな気がした。夏休みから今までの、たった七ヶ月なのに。 なんだかずっと、夏休みが続いていたみたいだ。ロボットの降ってきた夏が、秋になって、冬になって、そして。 春が来る前に、終わっちゃうんだ。どこぞの詩にでも、ありそうな話だ。 一般的に考えてみると、あたしの恋は悲恋なのかな。相手がロボットだから、結ばれようにも結ばれないし。 でもあたしは、パルとの恋が悲しい恋だなんて思えないし、思わない。あたしもパルも、凄く幸せだった。 互いが好きなら、それが何よりの幸せなんだから。 「青春メモリアル、だな」 その声と共に、独特の匂いを持った煙が漂ってきた。マイルドセブンだ。 煙が流れてきた先を辿ると、骨張った大きな翼を広げながら、屋上の出入り口の上に座る影があった。 スコットは指の間に挟んだ煙草を深く吸い、煙を吐く。ふわり、と灰色が風に薄まる。 「よぉ、コマンダーズに葵ちゃん」 「マリーさん達を護送するんじゃなかったんですか?」 鈴音の突っ込みに、スコットはむっとする。煙草を振り、声を上げる。 「いいじゃねぇか、お別れの挨拶に来たって。それに、どうせお迎えが来るんだから」 立ち上がったスコットは、とん、と屋上に着地した。携帯灰皿を取り出し、煙草を押し付ける。 軽い足取りで近付いてくると、神田の手前当たりに腰を下ろす。一体どこから出てくるんだ、この人は。 胸ポケットからよれたマイルドセブンを取り出し、それを一本抜いてくわえる。ライターを出し、火を点す。 「スクール時代を思い出すぜ。オレも良く、ダチとつるんでサボったりしてたもんさ。葵ちゃん、一本やろうか?」 「いりませんよ。未成年に喫煙を勧めるなんて、あんた本当に警察官ですか」 呆れたように、神田はスコットを見下ろす。スコットは、ちょっと物足りなさそうにする。 「あ、そ。付き合い悪いなー、もう」 「それよりも、ちゃんと吸い殻は持っていって下さいね。停学になるのはごめんだし」 「ああ、解ってるって。煙も散らしてくさ」 鈴音の強い言い方に、辟易したようにスコットは肩を竦める。いや、この場合はあんたが悪い。 大体、ここは高校だ。そんなところでほいほい吸われちゃ、あたし達が不良みたいに思われるじゃないか。 いやでも、今の状況は不良かもしれない。遅刻して授業をサボっただけだから、大したことないけど。 スコットは煙草をくわえたまま、頬杖を付く。ブラウンゴールドの髪が、日に照らされて色が薄く見えている。 「ゼルの野郎は今、裁判の真っ最中だ。証拠やら証言やら綺麗に揃ってるから、有罪は確定してるがな」 黒いゴーグルに空が映り、ぎらりと太陽の光を跳ねた。 「いざ捕まえてみると、つまんねぇ男だったなぁ…。あんなのが副将軍の息子だってんだから、銀河連邦政府のお先は真っ暗だ。どうせなら、マスターコマンダーに壊滅してもらった方が良かったかもしれねぇな、こりゃ」 「マスターコマンダーって言えば」 鈴音は足を組み、顎へ手を添えた。思い出すような口調になる。 「あの手紙っていうか、映像をもらったのは私だけじゃないはずよね?」 「あ、うん。私も見せられたよ、マスターコマンダーさんの映像」 両手を合わせ、律子は頷く。ほにゃっと、律子は表情を緩ませる。 「コマンダーシステムって、単なるお友達システムだったんだね。悩んで損しちゃったぁ」 「甘い親よねー、マスターコマンダーも。自分の子供が友達を作れるように、わっざわざあんなもの作って」 なんだかんだ言って可愛がってるじゃない、と付け加え、鈴音は可笑しそうに笑う。 物凄くひねくれている人なんだ、マスターコマンダーは。あたしにはもう、そうとしか思えない。 マスターコマンダー、いや、レイヴンが素直になれるのは相手は、マリーだけなんだろうな。 あたしは、レイヴンに今度こそ親しみを持てそうな気がした。鉄仮面の下は、人間らし過ぎるほど人間らしいし。 「だぁよねぇ。そんなことしなくたって、ちゃーんと皆は友達作れたのに」 「変なところで過保護だなー、レイヴンさんて」 ちょっと呆れたように、神田は笑った。あたしは頷く。 「パルを地球に寄越したのだって、本当は逃がすためだって言うし」 「素直に逃がせば良いのに、わざわざあんなことするなんて。フェンサー君よりも、ずうっと意地っ張りな人だね」 くすっと律子は笑いを零し、あたし達へ目を向ける。鈴音は顎から手を外し、腕を組む。 「要するに、マスターコマンダーは感情表現が下手なのよ。よくもまぁ、そんなのをマリーさんは…」 「そんなのだから、マリーさんは好きなんじゃないか?」 と、神田はマリーの家がある方を見上げた。あたしの家の、裏山だ。 ナイトレイヴンが戦った跡は、まだ残っていた。山の斜面には、人の形に木がなぎ倒されている部分がある。 戦いの痕跡は、まだ残っている。あたしはちょっと気になることを思い出したので、神田へ尋ねた。 「そういえば神田君、ナイトレイヴン、大丈夫?」 「インパルサーに手酷くやられたからなー、あいつ。あと一ヶ月は、ドックから動かせないよ」 情けなさそうに、神田は苦笑した。あれだけボロボロになれば、仕方ないだろう。 「備品だけじゃ全部治せそうにないから、新しい部品も発注しないとだなぁ…」 「巨大ロボの世話も大変ねぇ。でもさ葵ちゃん、そういうのの金ってどこから湧いてるわけ?」 鈴音の問いに、神田はマリーの家の方を指した。 「マリーさんだよ。半分ぐらいは軍の経費で落とせるらしいけど、残り半分はマリーさんの貯金だってさ」 「さすがは政府高官の娘さんだねぇ。お金持ちぃ」 感心したように、律子は手を合わせた。神田は振り向き、笑う。 「地球に来たときの宇宙船だって、自分の持ち物だって言うし。スケールがでかすぎる人だよ」 「葵ちゃんを養うのも楽々、ってことかぁ。上には上がいるわね、マジで」 鈴音は感心した様子で、頷いた。これはちょっと、珍しい反応だ。 でもあたしも、こればっかりは素直に凄いと思う。宇宙船一機って、一体いくらぐらいするんだろう。 きっと、かなり高いはずだ。宇宙を飛べるようなものなんだから、安いわけがない。 ざりっ、とスコットは吸い殻を携帯灰皿に押し付ける。煙が途切れ、次第に消えていった。 「だがこれで、当分ナイトレイヴンの出番はないだろうな。敵がいなきゃ、戦う必要もねぇしよ」 「それでも、訓練は続けるさ。もっと強くなって、今度こそオレはインパルサーに勝つんだ!」 意気込んだ神田は、ぐっと拳を握り締める。スコットは、にぃっと口元を広げる。 「目標があるってのはいいことだよな、うん。ちょいと無謀すぎる目標だが」 もう一本、スコットは新しい煙草を取り出した。それに火を点け、深く吸い込む。 細長く広がる煙をくゆらせながら、スコットはゴーグルをスーツの袖でぐいぐい擦った。 多少埃の取れた黒いゴーグルが、川の方へ向いた。屋上のフェンスと空の景色が、漆黒に映り込む。 色のせいもあって、あまり重そうでない髪がふわふわしていた。久々に、スコットをまともに眺めてみた。 よく見ると、これはこれで、割とカッコ良いのかもしれない。あの言動さえなければ、の話だけど。 パル達を護送するんだから、この人とも別れなきゃならないんだ。ちょっと寂しいなぁ。 いたらいたで厄介で騒がしい人だったけど、悪い人じゃなかったし、むしろいい人だった。裏切らなかったし。 灰色の皮が張られた翼が、少し風に揺らいでいた。スコットはその翼を曲げ、風を受けるようにする。 「短い間だったが、オレも楽しかったぜ、ティーンエイジャー諸君。って、事件関係者に言うセリフじゃねぇな」 寂しげに、スコットは笑った。煙草を携帯灰皿に当て、とんとん、と灰を中に落とす。 「捜査協力、大いに感謝する。これからもオレは地球に来ることはあるが、もう、会うことはないだろうな」 不意に、影が出来た。屋上に長方形の影が落ちて、どこからか唸りが聞こえた。 強い風が吹き付ける中、スコットは上空を見上げた。その先には、長方形の何かが浮かんでいた。 次第にそれが屋上へ近付くにつれ、正体が解った。白いボディに青いラインの車体に、赤色灯が回っている。 あの読めない文字、ユニオン語の下には、今さっき付けたばかりのような真新しいステッカーが貼られている。 GALAXY POLICE。つまり、銀河警察ってことだ。これが貼ってあるだけで、かなりパトカーらしくなった。 そのパトカーはフェンスの上をするりと抜け、音もなく屋上へ車体を滑り込ませた。器用なことだ。 あたし達の前を抜け、出入り口を塞ぐように止まった。スコットは煙草を消し、携帯灰皿を閉じて立ち上がる。 「ちぃと早いぜ、アレン。そう急かすなよ」 ばこん、とこちら側のドアが跳ね上げられる。その奧、パトカーの運転席には、耳のある女性警官が座っている。 アレンは苛ついているらしく、細い眉が神経質そうにしかめられていた。気の強そうな人だ。 車というより戦闘機の操縦桿のようなハンドルを放し、アレンはスコットへ黒い手袋を着けた手をひらひらさせる。 「遅いよりはマシよ。で、お別れは済んだの?」 「半分くらいな。まだ大佐どののスペースシップは発進してねぇんだろ?」 携帯灰皿を胸元へ突っ込みながら、スコットは不満げにする。アレンは、すいっと上空を指した。 「私達の船は先発でしょ。早く乗り込んでおかないと、置いて行かれるわよ」 「まぁ、そうだけどよ」 と、残念そうに返し、スコットはパトカーへ近付いていった。乗り込む前に、振り返る。 ぶわり、と強い風に長めの前髪が広がる。スコットは顔を逸らし、その下の黒いゴーグルへ手を掛ける。 かちりと何かが外れたあと、ゴーグルが抜かれた。その下から現れたのは、鋭さのある薄いグレーの瞳だった。 すぐに目元を抑え、スコットは俯いてしまう。運転席から出てパトカーの反対側に立ち、アレンは呆れたように言う。 「馬鹿。直射日光で目が焼けるわよ」 「あー痛ぇ…やっぱりダメだったかぁ」 これだからオレの体は、とぼやきながら、スコットはまたゴーグルを戻した。光に弱いのか。 「せめて最後ぐらい、まともに挨拶しときたかったんだがなぁ…。あーもうこんちきしょー」 「カッコ付けようとするからよ。ほら、さっさと」 アレンに急かされ、スコットは生返事をしてからあたし達へ向き直った。 片手を挙げ、ばさりと大きく翼を広げる。そして、かん、と靴のかかとを合わせて敬礼する。 だが、敬礼した手を緩め、背を向けてその手を振り上げた。横顔だけ見せ、笑う。 「ま、堅っ苦しくしなくてもいいか。いくらコマンダーたって、諸君らはオレの上官じゃねぇんだからよ」 スコットはパトカーの方へ顔を向け、声を上げた。 「アスタラヴィスタァ!」 どん、と何かが揺れた。でもそれは、地面じゃない。空気だ。 あたしはその震動がどこから来たのか直感し、川の方へ振り返った。水飛沫が上がっている。 高く跳ねる水は、隙間の開いた川の底へ消えていった。割れた水の奧には、中の見えない黒い空間がある。 きらきらと滴を輝かせながら、闇は広がっていく。また、空気が揺らいだ。 白い何かが闇の中から現れたかと思ったら、するりと前進して上昇し、姿を現す。めちゃめちゃでかい。 つやりとした流線形のボディが、水に濡れて光っている。両側面に翼を乗せた、鳥のような巨大なシルエット。 その翼が、ばきん、と横へ広げられた。すらりとした細身のボディが、途端に逞しいものになる。 翼の下に隠れされていた、銀河連邦政府軍のエンブレムが見えた。でも、この機体にはあまり似合っていない。 空気の揺らぎが納まった頃、エンジン音が聞こえてきた。これは、あの船から出ている音だ。 きっと、これがマリーの宇宙船だ。川から出てくる、ってこういうことだったんだ。 いつのまに、改造していたんだ。ていうかそんなことして大丈夫なのか、地盤とか色々。 白い機影が川の上を浮上していくと、ゆっくりと川は閉じていき、元通りになる。水も、流れが戻った。 風を巻き起こしながら、宇宙船の機首がこちらに向けられる。鋭い機首は、やっぱり鳥みたいだ。 「あれが、マリーさんの船だよ」 神田が、白い宇宙船を見据えながら呟いた。 「超高速戦闘艦、シルヴァーナ・マリー・ゴールド号。って、名前なんだってさ」 まるで、プラチナの親鳥だ。細身の、スペースシャトルのような見た目だ。全長は、何百メートルもありそうだ。 シルヴァーナ、って付けてあるぐらいだから、機首からボディ全体に掛けてシルバーのラインが走っている。 そのラインが繋がっている翼の下から、エンジンらしき円筒が出た。その中心から、激しい炎が溢れた。 両翼から出た四つの円筒は、徐々に角度を傾け、炎は斜め後方へ向けられた。加速する気だ。 直後。ごお、と強烈な風が吹き抜けた。シルヴァーナ号は、上昇を始めた。 クチバシのような鋭い機首に、きらりと光が跳ねる。空を睨んだ白い鳥が、地面から離れていこうとする。 そのときに、一目、会えたらと思っています。 出来ないよ。そんな、絶対にもう出来ない。 あたしの視界から、シルヴァーナ号は外れていく。このまま、上昇するつもりなんだ。 川から土手、住宅街を細長い影が通り過ぎる。機首の角度と一緒に、どんどん空へと近付いていく。 シルヴァーナ号が離れていくにつれ、巨大に思えた機体が小さくなってきた。 これが、最後というわけではありません。 この次が、あるわけがない。こっちに、近付いてきやしないじゃないか。 シルヴァーナ号は、雲へ近付く。すらりとした白が、同じ白へ突っ込み、ふわりと広げて散らした。 地面に落ちていた影も小さくなり、エンジン音も遠ざかる。雲の向こうに、翼が走る。 船の通り過ぎた名残のように、強い風が吹き抜けた。あたしの前髪が揺れ、頬に当たる。 こうでもしないと、僕は。 「…何が、何がよ」 指に食い込んだフェンスが、痛くて冷たい。あたしは、その痛みで泣くのを堪えていた。 彼の残した手紙の言葉が、ずっとぐるぐるしていた。期待しすぎていたのかな。 考えてみたら、パルの書き方も、希望に頼っていたものだ。会えたら、と思っています、だし。 無駄だったのかな。泣くのを堪えて、最後は笑おうと誓ったことは。 あたしはフェンスを握る手を緩め、外した。その手をポケットへ入れ、リングを出す。 空へ消え去ったシルヴァーナ号みたいに、オープンハートのリングは太陽の下できらきらとしていた。 あたしはそのリングを握った拳で、フェンスを殴った。ばしゃん、と目の前が揺れる。 「最後だったじゃないの!」 手よりも、ずっと。 胸の方が痛かった。 04 9/15 |