風は、止まない。それが、凄く冷たかった。 あたしは手を開き、オープンハートのリングとフェンスの向こうを見比べていた。 でも、これに八つ当たりしたって仕方ない。投げ捨てたところで、パルが来るわけがない。 ヘアピンが無駄に思えるくらい、前髪は揺れている。シルヴァーナ号が通り過ぎたあとでも、風は残るのかな。 あたしは薄汚れたフェンスから、足元のコンクリートへ目線を落とす。世界はまた、灰色になっている。 灰色が、濃くなっていく。足元にある自分の影が、暗いのも、そのせいなのかな。 強烈な風に、高い音が混じっていた。 「由佳さん」 高音が、近い。それに、あの声も混じっていた。 あたしは、フェンスから顔を上げる。でもやっぱり、世界は灰色だ。色も濃い。 いや、違う。これは影だ、屋上もグラウンドも覆ってしまうほどに、大きな鳥のような形の影。 振り返ると、濃い影の中で一際目立つ、レモンイエローのゴーグルを持った青いボディの彼が見下ろしていた。 レモンイエローのゴーグルが、ヘルメットへ収納された。マリンブルーのマスクが上がり、白銀色の口元が見える。 優しげで愛しげなサフランイエローの瞳と、目が合った。 「チョコレートケーキ、どうでしたか?」 「食べてる、暇なんて」 泣いていたせいで、もっと好きになっちゃったせいで、会いたかったせいで。 「あるわけないでしょ」 「ではそれは、また後日ということになりますね」 ちょっと残念そうに、でもどこか安心したように、インパルサーは笑った。 その背後には、飛び去ったはずのシルヴァーナ号。風もエンジン音も影も、気のせいじゃなかったんだ。 機首は上空へ向かったときとは、反対方向へ向けられていた。旋回のために、飛び上がっただけだったんだ。 あたしはちょっと、いや、かなり拍子抜けした。そうならそうと、早く言って欲しかった。 するりと着地したインパルサーへ、あたしは駆け寄る。ほぼ同時に、リボルバーとディフェンサーも屋上へ下りた。 彼らの背後にいたイレイザーとクラッシャーは、軽く手を振りながら小学校の方へ向かっていった。 どん、と足音を響かせて着地したリボルバーは、目を見開いて突っ立っている鈴音の前に立つ。 鈴音は何か言おうと唇を開いたが、何も言わずにリボルバーの胸元を叩いた。たん、と軽く拳が当たる。 リボルバーは背を丸め、鈴音の肩の傍へ手を添えた。でも、それ以上はやらない。 だん、ともう一度リボルバーを殴ってから、鈴音は顔を上げた。リボルバーのライムイエローの目が、細まる。 「姉さん」 「紛らわしいこと、するんじゃないわよ!」 鈴音の拳が、リボルバーを押す。でもその手は、緩んでしまった。 肩を上下させながら、鈴音は赤い装甲へ額を当てる。背を覆う黒髪が、さらりと落ちた。 「…馬鹿。別れに、来ないかと思っちゃったじゃないの」 「文句なら、大佐の姉ちゃんに言ってくれ。操縦してたのはオレじゃねぇんだからよ」 困ったように、リボルバーは口元を曲げる。だがすぐに、それを緩ませた。 ゆっくりと額を外し、鈴音はリボルバーを見上げる。切なげな表情が、とても綺麗だった。 鈴音は目を伏せると、顔を逸らしてしまう。リボルバーは太い指を伸ばし、細い黒髪を少し撫でる。 「心配すんな、すぐに帰ってきてみせらぁ。オレのボディもコアブロックも、全てがスズ姉さんのものだ」 鈴音は頷き、目線を上げる。心なしか、頬がうっすら赤い。 「ボルの助」 「なんでぇ、姉さん」 リボルバーが返すと、鈴音はまた目線を逸らしそうになった。でも、逸らさない。 「私」 真紅の装甲に添えられた白い指先が、ぎゅっと握られた。 吹き付けていた風が鈴音の長い髪を広げ、横顔を覆い隠してしまう。 表情は見えなくなったけど、言葉は続いていた。 「あんたのこと、嫌いじゃないわ」 それだけ言って、鈴音はリボルバーへ背を向けてしまった。 鈴音の白い頬は朱色に染まっていて、この上なく可愛かった。目線は定まらず、あらぬ方向へ向いている。 そんな彼女の背後で、リボルバーは面食らったように目を丸めている。まだ、事実を飲み込めていないらしい。 しばらくその状態だったが、リボルバーは鈴音に近寄り、背後から覗き込むように見下ろす。 「…するってーぇと、その…姉さん」 「悪い?」 ちょっとむくれたように、鈴音は背後のリボルバーを見上げた。 やけにつっけんどんな言い方は、鈴ちゃんの照れ隠しに違いない。 「なんか、気が変わったのよ。そのついでに、あの命令、解除してあげてもいいわよ」 「へ?」 上擦った声を洩らしたリボルバーへ、鈴音は続ける。 「鈍いわね、さっさと思い出しなさいよ! …恥ずかしいんだから」 ぷいっと顔を逸らし、鈴音は腕を組んだ。リボルバーは、またきょとんとしている。 間を置いてから、彼は次第に大きく目を見開いていった。どん、と一歩、鈴音から後退る。 僅かに震えていた手を、がしりと握り締める。そして満面の笑みになり、力強く叫び声を上げる。 「ぃいよっしゃあああ!」 「叫ぶな!」 振り返った鈴音は、リボルバーを制止する。凄く照れくさそうに、むくれている。 すぐに外れてしまいそうな視線をなんとかリボルバーに合わせ、鈴音は消え入りそうな声で呟いた。 「大体…あんた以外の誰が、あんなこと、私に言うのよ」 リボルバーは両腕を握り締めて背を丸め、幸せを噛み締めている。良かったね、ボルの助。 鈴音は、いつ頃からリボルバーを好きになったんだろう。あたしが思うに、きっと、文化祭の頃からじゃないかな。 多少どころか、かなり突っ走っていたリボルバーは、考えようによっては一途だ。それが、遂に報われた。 他人事ながらも、あたしもなんだか嬉しかった。ボルの助は、嬉し泣きしそうな勢いで声を上げている。 「生きてて良かった、造られて良かったぜぇ! ああそうさ、そうだよな姉さん、オレ以外に、誰が!」 鈴音の前に踏み込んだリボルバーは、渾身の力を込めて叫んだ。 「姉さんを、愛してるって言うんだぁあああ!」 最後の叫びは、辺り一帯に響いた。久々だから、余計にテンションが上がっている。 高々と突き上げていた両腕を下ろし、リボルバーは鈴音へ目をやる。だが彼女は、目を合わせようとしない。 リボルバーはちょっと不満げだったが、すぐに上機嫌な笑みになる。めちゃくちゃ喜んでいる。 あたしの方へ顔を向けている鈴音の表情は、嬉しそうでもあり、照れくさそうだった。ああ、可愛いなぁ。 しばらくそれを眺めていると、あたしに気付いた鈴音はちょっと笑った。いいなぁ、ボルの助。 鈴音の背後で猛り続けるリボルバーを、鈴音は裏拳で叩いた。さっきから、叩いてばっかりだ。 「騒ぐなやかましい」 途端に、リボルバーは黙った。背筋を伸ばし、勢い良く敬礼する。 「イエッサァ!」 「解ればいいの」 敬礼したリボルバーを見上げ、鈴音は頷いた。この辺は、相変わらずのようだ。 でも、もう命令の言葉に以前のような棘はない。言い方はやっぱりきついけど、丸くなっている。 鈴ちゃんの恋は、これから始まるんだ。それがどんなものになるか、ちょっと楽しみだ。 「静かに出来ねぇのかよ、この馬鹿兄貴は」 うんざりしたように、ディフェンサーはリボルバーから目を外した。 その前で、律子は笑っていた。リボルバーの喜びようが、可笑しいらしい。 「でも、仕方ないよ。リボルバー君、嬉しいんだから」 「そりゃそうだけどよ…別れっつーもんは、もうちょいしんみりやるもんじゃねぇの?」 嫌そうにしながら、ディフェンサーはぼやく。うん、あたしもそう思う。 鈴音に何か言われているリボルバーを見ていた律子は、ディフェンサーを見下ろした。 「かもしれないけど、この方が皆らしくていいよ」 「そういう考え方もあるか」 と、珍しく素直に、ディフェンサーは律子の言葉に同意した。今日は、やけに大人しい。 律子は、うん、と頷いた。でもすぐに、表情を曇らせてしまう。 ディフェンサーは、顔を逸らしてしまう。だが、目線だけは律子へ向けていた。 「馬鹿、いちいち泣くな」 じわりと目元に涙を滲ませた律子は、メガネを外して目元を拭う。肩を上下させ、しゃくり上げる。 すっかり困った様子のディフェンサーは、がしがしと頭部を掻いていた。言うことが、思い当たらないようだ。 律子は泣き止もうとしているようだったが、余計に泣いてしまっていた。ハンカチで、目元を強く押さえている。 ディフェンサーは困り果てたように俯いていたが、顔を上げる。いつになく、真剣だ。 「出来るだけ早く、やること終わらせる。だからまた、必ずこの星に戻ってくる」 ハンカチを外し、律子は頷いた。ディフェンサーは、少し笑った。 「その時はまた、永瀬の厄介になってやるさ。オレ以外の誰が、お前みてぇなの守れるんだよ?」 顔の下半分を覆っていたハンカチを下ろした律子は、目元と一緒に頬も少し赤くなっている。 ディフェンサーは慌てて背を向け、何やら呟いている。恥ずかしかったらしい。 そりゃそうだ。守ってやる、なんて、告白以外の何者でもないんだから。 パルの弟だけあって、こいつも充分気障ったらしい。取りようによっては、ナイト宣言だし。 しばらくきょとんとしていた律子は、まじまじとディフェンサーの後ろ姿を眺める。 「フェンサー君、でも、私なんかを」 「アホ! 下らねぇこと聞くんじゃねぇ!」 勢い余って振り返り、律子へ向き直ったディフェンサーは声を上げる。かなり恥ずかしそうだ。 「いいか、オレにはそれしか能がねぇんだ! だからオレは、お前を」 「律子を守るったら守るんだよ!」 「以上!」 と、吐き捨てるように付け加えたディフェンサーは、また律子へ背を向けた。 目を丸くした律子は、ぽかんとしている。いきなり、まくし立てられたせいもあるんだろう。 内容が理解出来てきたのか、律子はさっきよりも頬の色を赤くしている。それを押さえ、俯いた。 「フェンサー君」 「あ?」 変に上擦った声で、ディフェンサーは答えた。 頬から手を放した律子は、目元に残っていた涙を拭う。メガネを戻し、微笑んだ。 「ありがとう」 ディフェンサーは顔を伏せ、黙り込んでしまった。余程、りっちゃんが可愛かったんだろう。 曖昧な言葉を洩らしながら、がりがり頬を掻いている。嬉しいなら嬉しいと、言えばいいのに。 シルヴァーナ号から巻き起こる風が強いせいで、律子の長い三つ編みがぱたぱたと揺れ、背に当たっていた。 広がってしまう前髪を押さえながら、律子は身を屈めてディフェンサーと目線を合わせる。 「私、待ってるね。フェンサー君が、帰ってくるまで」 「また、うんざりするほどピアノ聞いてやるさ。どうせオレ以外に、律子の練習に付き合う奴はいねぇんだから」 「ひっどぉい」 そう言いながらも、律子は笑っていた。その頬は、まだ赤い。 ディフェンサーは律子を見上げ、事実じゃねぇか、とけらけら笑っていた。言い方は悪いけど、悪意はない。 この二人は、これから進展するのかな。でもそれは、彼らが帰ってきてからになるだろうけど。 頑張れ、ディフェンサー。意地さえ張らなければ、もっと律子と仲良くなれるはずだから。 あたしは鈴音と律子の姿を、インパルサーの肩越しに見ていた。視界が高い。 パルが目の前に下りたとき、半ば条件反射で飛び上がって、その首に腕を掛けてしまったのだ。 スカートが広がっていないか気になっていたけど、今はそれどころじゃなかった。パルから、離れてなるものか。 ぎゅっと力を込めていると、肩と背に当たっている大きな手があたしを押さえている。落とさないためだ。 すぐ傍の顔がこちらへ向けられ、サフランイエローの温かみのある光が感じられた。 「由佳さん」 「来ないかと思った」 「シルヴァーナ号は八百メートル級の戦艦ですからね、一度旋回しないと方向転換出来ないんですよ」 と、申し訳なさそうにパルは苦笑する。あたしは、自分の早とちりが恥ずかしかった。 その恥ずかしさに内心で悶えていると、彼はマリンブルーの手をあたしの顎へ添え、指先を頬に当てる。 「焦りましたか?」 「当たり前じゃない」 このまま、会えないまま行っちゃうのかと思っちゃったじゃないか。あたしは、その手に縋る。 パルの首に回していた片手を外し、頬へ添えられた大きな冷たい手へ重ねる。 ぎしり、と手の関節が軋む音をすぐ側に感じながら、パルの綺麗な色の瞳を感じていた。 透き通っている目の奧には、瞳孔のような丸いレンズがあるのが解る。それが、小さく動いた。 至近距離のあたしにピントをちゃんと合わせたようで、レンズの中心は小さくなっていた。 顎に当てられた手が、少し上へ動いた。同時に、パルは顔を寄せてきた。 あたしは唇を半開きにされる前に、パルを押し退ける。ここでするのは、さすがに恥ずかしい。 「ちょっと待って」 「嫌ですか?」 と、パルはしゅんとしたように呟いた。いや、そうじゃなくて。 あたしは彼と距離を開いてから、辺りを指した。スコットもアレンもいるんだから。 「公衆の面前でしょうが。常識で考えてみなさいよ」 「ですが」 「帰ってきたら、いくらでも。それでいいでしょ?」 あたしは、くいっとパルの眉間の辺りを指で押した。言ってて、ちょっと恥ずかしいけど。 パルはちょっと間を置いてから、頷いた。あたしの頬から手を外し、敬礼する。 「そういうことでしたら、了解しました」 「よろしい!」 あたしはもう一度、力一杯パルに抱き付いた。笑っていないと、泣いてしまいそうだ。 固く、確かなロボットの感触。冷たかった装甲が、あたしの体温と彼の熱でほんのり温かい。 パルの背に伸びているマリンブルーの翼が、つやりと綺麗に輝いていた。間のブースターには、青が映っている。 あたしは彼の首の後ろで、しっかり組んでいた自分の手を緩めた。体をずり下げ、屋上に足を降ろした。 目の前で見上げると、インパルサーはやっぱりでかい。あたしとの身長差、いくつぐらいあるんだろう。 スカイブルーの胸装甲に手を当てていたけど、あたしはそれを離した。いつまでも、こうしてはいられない。 「由佳さん」 その声に顔を上げると、パルはまた敬礼した。 「しばらく、行ってきます」 「いってらっしゃい」 あたしは笑っていたけど、声が詰まっていた。やっぱり、無理だった。 朝、あれだけ流したはずなのに。まだ涙は出てきてしまい、頬から顎に落ちていく感触がある。 すると、頬に冷たく固いものが当たる。パルの指先が、あたしの涙を拭っていた。 「由佳さん。僕は、あなたが好きです」 「あたしも、大好き」 今、パルに言っておかないと、あたしは後悔する。 これから先、何年も会えないはずだから、今を逃したらいけない。 次にいつ会えるのかは、パルにも解らないんだから。 会えないのは寂しくて辛いけど、頑張れる。パルがあたしを好きで、あたしもパルが好きで。 その幸せがあるんだから、きっと大丈夫。いや、絶対に大丈夫だ。 不意に、がしゃん、とフェンスに何かがぶつかった。振り返り、宇宙船を見上げる。 シルヴァーナ号の出入り口が開いている。そこから細いタラップが伸ばされて、フェンスの上に繋げられていた。 その上を軽く歩いて屋上へ近付いてきたマリーは、とん、と中に飛び降りる。波打つ金髪が、ふわりと広がった。 紺色でかっちりした銀河連邦政府軍の軍服を着ていて、頭には台形の小さな軍帽を乗せている。 帽子を外したマリーは、会釈をした。顔を上げ、あたし達を見回す。 「これで、私はもう二度とあなた方に会えることはないと思いますけれど…」 寂しげだったけど、どこかマリーは幸せそうだった。 「私はあなた方のことを、生涯忘れませんわ。この星で過ごした日々のことも、全て」 マリーは低いヒールを鳴らしながら、神田へ近付く。神田は右手を挙げ、敬礼する。 その姿に、マリーは少し目を丸くしたが、すぐに笑った。 「軍服を着ているからといって、いつも葵さんの上官というわけではありませんわ。今は、友人ですわ」 「マリーさん。本当に、本当にお世話になりました!」 神妙な面持ちで、神田がマリーを見下ろす。マリーは、軽く敬礼し返す。 「私も、楽しかったですわ。あと何年か訓練を続ければ、もっと葵さんは強くなられますわ」 「そうっすか?」 戸惑ったように、神田は敬礼していた手を下げる。褒められたんだから、喜べばいいのに。 風に泳いでいる金髪を掻き上げると、マリーは神田を見上げる。 「ええ。あなたは努力で才能を見つけ出し、磨いたのですもの。努力を怠らなければ、必ず」 「はい!」 最敬礼し、神田は力を込めた返事をした。マリーは、満足げに頷いた。 身を引こうとしたマリーに、神田は思い出したようにポケットを探る。出したのは、缶コーラだった。 それを押し付けられるように渡されたマリーは、コーラを両手で握り締めると、ぱあっと表情を明るくさせる。 ちょっと照れくさそうにしていたが、神田は親指を立て、前に突き出す。ちょっとカッコ良いぞ、葵ちゃん。 「餞別です」 「まぁ、嬉しいですわ!」 大事そうにコーラを抱えながら、マリーは目を細めた。神田は照れくさそうに笑う。 「当分飲めないだろうし、七百年経ったら、コーラが地球にあるかどうかも解らないし」 「これは、大切に飲ませて頂きますわ。葵さん、ありがとうございます」 満面の笑みになり、マリーはコーラを大事そうに抱き締める。かなり喜ばれている。 マリーは、屋上の出入り口前に止めてある銀河警察のパトカーと、その前にいるスコットとアレンへ顔を向ける。 だがすぐに、小学校の方へ向いた。見ると、別れを終えてきたイレイザーとクラッシャーがこっちにやってきていた。 屋上の手前に止まったクラッシャーは、名残惜しそうに、くるっと小学校へ体を向けた。 泣いていたらしく、何度か目元を擦っている。手を外してから、クー子は小学校へ声を上げる。 「じゃーねー、涼ー!」 一息吐いてから、クラッシャーはもう一度声を上げる。 「わたし、涼のこと、大好きー!」 言い終えたクラッシャーは、切なげな目をしていた。すっかり、クー子は恋する女の子になっている。 四人の兄達は一瞬ぎょっとしていたが、それぞれ顔を見合わせただけで、何も言わなかった。 いや、言えなかったのかもしれない。自分達のことで、今は手一杯になっちゃってるみたいだから。 クラッシャーのすぐ後ろに浮かんでいたイレイザーは、凄く何かを言いたげだった。でも、なんとか堪えている。 ぎりぎりと握っていた拳を緩めると、イレイザーはクラッシャーと同じように小学校へ振り返った。 「さゆりどのー!」 高々と掲げた手を握り、力一杯叫んだ。 「拙者、必ずやそなたの元へ婿入りするでござるよー!」 息を荒げているのか、イレイザーの後ろ姿には落ち着きがなかった。クー子のこともあるしね。 だけど、随分と大人になったぞ、いっちゃん。シスコンも、大分まともになってきたようだ。 二人はしばらく小学校を見下ろしていたが、屋上の中へ下りてきた。イレイザーは、まだ落ち着いていない。 それが合図だったかのように、戦士達はマリーの傍へ戻っていった。ああ、とうとう帰っちゃうんだ。 兄弟を背後に従えたマリーは、深々と会釈した。上げられた顔は、軍人のものになっていた。 「それでは、皆様。ごきげんよう」 「またな、インパルサー」 マリーの背後を見上げ、神田はにっと笑った。パルは頷き、同じように笑う。 「またお会いしましょう、葵さん。そして、戦いましょう」 一歩下がったマリーは、かん、とローヒールの黒いパンプスのかかとを鳴らして敬礼する。 同じように、ロボット兄弟もかかとを打ち鳴らし、最敬礼した。 その乾いた音が響いたあと、シルヴァーナ号のエンジン音が高まっていく。風も、強くなる。 フェンスの上に乗せられた宇宙船に繋がる短いタラップへ、彼らは飛び乗った。 たん、とコンクリートを蹴り上げて高くジャンプしたマリーは、タイトスカートを広げながら着地する。 一度振り返り、微笑んでから、マリーは軍帽を頭に戻す。足音を響かせながら、シルヴァーナ号の中へ入った。 六人全員が搭乗すると、ゆっくりとタラップは持ち上がり、縮まっていく。がこん、と縦長の入り口へ填り込む。 ばしゅん、とドアとタラップが固く締められると、徐々にシルヴァーナ号は屋上から離れていった。 強烈な風を巻き起こしながら、白い巨鳥は浮上していく。それを見上げていたスコットは、煙草を口元から外す。 「今度こそ、アスタラヴィスタだ」 じゃな、と手を振りつつ、スコットはパトカーへ乗り込んだ。アレンも乗り込み、左右のドアが閉められる。 ごお、と車体の下から熱を持った風を吹き出しながら、銀河警察のパトカーは屋上から浮上した。 頭上を加速して通り過ぎたいくつかの影は、パトライトを光らせている。赤い光が、シルヴァーナ号に追い付いた。 同じように、数台の空飛ぶパトカーがシルヴァーナ号の周囲に滑り込み、しっかり固めながら上昇する。 あたしが屋上のフェンスまで駆け寄ると、三人も同じようにする。どんどん、白い機影は小さくなる。 空に漂う薄い雲に突っ込んだシルヴァーナ号は、ブースターから炎を走らせて加速した。 すかっと澄み切った濃いスカイブルーに、白い鳥が消えていく。それが離れるにつれ、風は弱くなってきた。 かなり小さくなったシルヴァーナ号は、とうとう視界からは失せた。これから、宇宙に出ていくんだ。 あたしはリングを取り出して握り、胸に押し当てる。辛いけど、寂しいけど、悲しいけど、幸せだ。 「行っちゃったぁ」 背伸びをしていた律子は、とん、と内履きのかかとを下ろした。ばらけた前髪を整え、メガネを外す。 目元を拭ってから、フェンスに寄り掛かる。長い三つ編みが、肩から落ちた。 鈴音はずっと空を見上げていたが、目線を下ろした。耳元へ黒髪を乗せながら、呟く。 「なんか、夢みたいだったわねぇ」 「そうだな。夢っちゃ夢かもしれないけど、現実なんだよ」 シルヴァーナ号の消えた先から目を外し、神田はブレザーのポケットからコントローラーを取り出した。 それを見つめながら、ぐっと握り締める。ちゃんと、彼らのいた痕跡は残っている。 あたしはポケットからリングを出し、関節に引っかけないようにしながら、左手の薬指に填めた。 「うん。ちゃんと、パルも皆もここにいたんだから。でもって、皆は」 「必ず、地球に帰ってくる!」 タイミングを合わせたみたいに、あたし達の声は揃った。 それが妙に可笑しくて、笑い出してしまった。なんだ、考えていることは同じじゃないか。 ひとしきり笑うだけ笑ってそれが納まると、また四人揃って、空を見上げていた。 すかっと晴れ渡った空から降り注ぐ、日光が眩しい。巨鳥に切り裂かれた細かい雲が、青に散らばっていた。 遠くに見える飛行機雲は、真っ直ぐに、長く長く伸びていた。 パルが来た日の空も、こんな色をしていたっけ。 また、いつか。 必ず会えるよね、パル。 春が来て、また夏が来て、秋が来て、冬が来た。 季節は確実に巡り続け、時間は過ぎていく。 空の色は変わらずにいたけど、あたしは多少なりとも変わっていった。 それでも、パルのことは好きでいた。それが辛いことも、ちょっとだけあった。 だけど、幸せだった。彼が戻ってくることを、疑わずにいれば。 時間は過ぎていく。 あたし達は、高校を卒業した。 涼平やさゆりも小学校を卒業し、中学生になった。 鈴音は留学し、律子は離れた地方の大学へ進学し、神田は更に強くなるために自衛官を志した。 あたしはいつか夢で見たように、ライターになるために大学へ進学した。 あれから三年。 あたしは、もうすぐ二十歳になる。 そんな、二十歳の誕生日が近い、十九歳のある日のこと。 目の前を、小さなものが滑っていった。 するりと落ちたそれは、足元のアスファルトにまばらに淡く染めていた。桜の花びらだ。 あたしは駅へ向かう足を止め、それがどこから来たのか見回した。花びらの出元は、すぐに見つかった。 開発が中止された裏山の住宅造成地へ繋がる、長くて緩い坂に、ずらりと立派な桜の木が並んで生えていた。 風が吹き抜けるたびに、満開の桜が揺さぶられる。花びらと枝が、ざあ、と騒がしく擦れ合う。 また、何枚かの花びらが目の前を掠っていった。あそこって、桜並木だったのか。知らなかった。 あたしは腕時計を見、まだ時間に余裕があることを確認した。ちょっと電車を遅らせても、講義には間に合う。 「…いいよね」 大学の勉強に追い付くことに必死になっていて、今年はまだキャンパス内の桜しか見ていなかった。 だから、ちょっとぐらい別の桜を見たっていいだろう。あたしはそう言い訳し、駆け出した。 それに、あの坂が懐かしかった、ってこともある。ここしばらく、近付いてもいなかった。 住宅街の裏手に回り、坂へ近付いていく。ロープに吊り下げられた、立ち入り禁止の看板が坂を塞いでいた。 あたしはそのロープをくぐり抜け、細くてゆるやかな坂を昇り始めた。横を見ると、住宅街が見下ろせた。 満開の桜はそろそろ散り際なのか、ちょっと風が吹くたびに、花びらは盛大に降り注いできた。 これが雪だったら、三年前のクリスマスみたいだ。あのときはまだ、パルと神田君の仲は悪かったっけ。 坂に沿って連なる桜を見上げながら、あたしは歩いていく。枝と花の隙間から、僅かに空が覗いていた。 この坂を昇った先に、まだ、あるはずだ。白くてこぢんまりした、未来的なあの人の家は。 目線を下ろし、あたしは坂の途切れた先を見た。薄紅色の風が、ふわりとそこから吹き付けてきた。 その、中に。 目の覚めるような、鮮やかなマリンブルー。 異質な、それでいて確かな存在が、そこに立っていた。 はらはらと散る花びらの向こう側に、レモンイエローのゴーグルフェイスが見える。 マリンブルーのマスクの脇、両側頭部には、銀色のすらりとしたアンテナが光っている。 右肩アーマーに走っている水色のラインの下には、白い文字で、002。 どれくらい、あたしは立ち止まっていただろう。 状況を認識して理解するまで、ちょっと手間が掛かってしまった。 ざあ、と一際強い風が、あたしの髪と桜を揺さぶって通り過ぎていった。 がちん、と彼が踏み出した音がした。伸ばされたマリンブルーの手が、向けられる。 名前を、呼んでいた。 名前を、呼ばれていた。 あたしは花びらに足を滑らせそうになりながら、駆け出した。 彼も、近付いてきた。重力制御で足元を浮かばせ、加速すると、彼の背後に花びら混じりの風が起きた。 ばきん、とその背に乗っているマリンブルーの翼が大きくなり、それらを切り裂きながらやってきた。 目の前に迫ったスカイブルーの胸へ、思い切りジャンプして飛び付いた。 腕を回した首元は、確かに彼のものだ。これは、間違いなく、あたしが大好きな、 「パル!」 背中に回されている彼の腕が、しっかりとあたしを受け止めていた。 すぐ傍にあるマリンブルーのマスクが、愛おしげに寄せられる。 「由佳さん…」 あたしは彼の声を聞き、力が抜けそうになる。変わらない、ちっとも変わってない。 優しい声、大きな手、この体。パルだ、ブルーソニックインパルサーだ。 必死になってしがみつきながら、彼の翼越しに坂の上を見る。そこには、色鮮やかな影が四つ並んでいた。 以前とほとんど変わっていない白いマリーの家の前に、彼らは揃って立っていた。 あたしは身を乗り出しながら、思わず声を上げていた。 「ボルの助!」 よ、とリボルバーは片手を挙げる。 「フェンサー!」 にやりとしながら、ディフェンサーは笑う。 「いっちゃん!」 腕を組んでいたイレイザーは、頷いてみせた。 「クー子!」 やほー、とクラッシャーは手を振っている。 そうか。今度こそ、全部が終わったんだ。 彼らの戦いは、本当に。だから、今、皆がここにいる。 インパルサーが着地したので、あたしはアスファルトへ足を降ろした。 駆け寄ってきた四人は、相変わらずだった。三年なんて、長いようで短いもんね。 あたしが彼らを見上げると、リボルバーはくいっとマリーの家の方を指す。 「久しいな、ブルーコマンダー。やること終わったんで、すっ飛んできたのさ」 「少々無理のある航行でござったが、我らカラーリングリーダーに出来ぬことはない」 と、イレイザーは自信ありげに笑う。その隣で、ディフェンサーが頷く。 「急ぎすぎて、途中でこの星系のアステロイドベルトをちょっと吹っ飛ばしちまったけどな。ま、大したことねぇだろ」 「じゃ、またねおねーさん! 詰め襟学ランの涼に会いにいかないとー!」 きゃーん、と両手を頬に当てたクラッシャーは、すいっと上昇した。そのまま、加速して飛び去った。 兄達は複雑そうにそれを見送っていたが、顔を見合わせた。そして、こっくりと深く頷き合う。 リボルバーは、どん、と地面を蹴って浮上する。拳を手のひらにぶつけ、にぃっと笑った。 「ヘビークラッシャーの決めたことだ、オレらがとやかく言うことはねぇ。今はそれよりもスズ姉さんだ!」 「律子の奴、元気してっかなぁー」 ジャンプしてから浮上したディフェンサーは、辺りを見回していたが、ある方向へ顔を向ける。 するりと上昇し、イレイザーは街の方を見下ろしてにやりとする。 「さゆりどのがどれほど麗しくなっているか、楽しみでござるよ。無論、セーラー服もでござるが!」 三人は、それぞれに見定めた方向へ飛び去っていった。 あたしは、ちょっと呆然としながら彼らを見送った。なんなのよ、いきなり。 でも、その気持ちは解らないでもない。一刻も早く、好きな相手に会いたいのは当たり前だ。 彼らの巻き起こした風は、更に桜を散らした。ここの桜が散るの、早くなっちゃったんじゃないか。 あたしは、肩に乗せられたマリンブルーの手に、自分の手を重ねる。見上げると、パルと目が合う。 「しばらく見ない間に、綺麗になりましたね」 「恋してたんだもん、当然よ」 あたしは笑いながら、パルへ向き直る。ぱきん、とゴーグルが外れて収納される。 マスクが持ち上げられ、ナイトのヘルムのような位置に置かれた。その下の顔も、変わっていなかった。 白銀色の頬に、するりと花びらが滑っていく。あたしは彼の頬へ手を伸ばし、両手で挟む。 パルは背を曲げ、慣れた手付きであたしの顎に手を添える。親指で、ほんの少し唇を開かせる。 ひんやりした金属の唇が押し当てられ、口付けられる。あたしは身を乗り出し、深くする。 胸の奥が、痛くなるほど熱い。ずきりとしたその痛みは、嬉しくて心地良かった。 ゆっくりと離された唇は、上向いていた。パルはあたしの顎を持ち上げたまま、顔を寄せる。 「誰に、ですか?」 「馬鹿」 あたしは、ぐいっとパルの口元と頬を引っ張った。 手を放してから、背伸びをしてパルへ軽くキスをした。 「あんた以外に、誰がいるって言うの?」 表情を綻ばせ、パルは嬉しそうに笑った。あたしも、きっとこんな顔をしている。 目の前にある、スカイブルーの胸板へ額を当てる。 奧から聞こえるのは、彼の鼓動。震動と熱を伴った、エンジンの動く音。 あたしはそれを聞きながら、目を閉じた。 「お帰り、パル」 「ただいま戻りました、由佳さん」 大きくて硬い彼の指先が、あたしの髪を梳く。それが、頬に当てられた。 関節の軋みと一緒に、機械油の匂いもじんわりと感じられる。 あたしの胸を満たす痛みは、増すばかりだ。まだまだ、パルを好きになっちゃいそうだ。 お帰りなさい、パル。 そして。 お帰りなさい。 あたしの、鋼鉄の花婿。 04 9/16 |