三つある銀色の円筒、ブースターの下にリボン結びを作る。 あたしは彼から離れて前に回り込むと、じっとその姿を眺める。 そして吹き出した。 「にっあわなーい!」 自分で着せておいてなんだけど、本当に似合わなさすぎた。 あたしは笑いを堪えようと頑張ってみたけど、すぐに限界が来てしまう。 目の前で突っ立っているインパルサーは訳も解らないのか、きょとんとしながらエプロンを広げた。 それを持ったまま彼が涼平に振り向いた途端、弟もあたしと同じように笑い出す。 これは、エプロンをインパルサーに着せたあたしが悪かった。 もう少し大人しいデザインならまだ良かったのだろうけど、生憎あたしは少女趣味なものが好きだ。 だから持っていたエプロンは、昼メロの若奥様が着るようなひらひらのフリルの付いたものしかなかったのだ。 しかもそれは純白で、布地の隅には可愛らしく花の刺繍がされている。 「姉ちゃん、冗談きついよ! パル兄、全っ然似合わねぇー!」 涼平も苦しげに、ソファーの上で笑い転げている。 あたしは手にした三角巾代わりのバンダナを、彼の頭の上に乗せた。 「屈んで」 「はい」 言われた通り、インパルサーはあたしの手が届く位置まで膝を曲げた。 赤いバンダナを結ぶと、多少はまともに見えてくる。 だけどやっぱり、白くてひらひらのフリルが付いたエプロンが似合っていない事実は変わりようがない。 もう一度彼の全身を眺めると、やっぱりおかしい。 あたしが笑いを堪えていると、インパルサーがむくれた。 「由佳さんが、これを僕に着せたんですよ!」 とりあえず怒っているらしいが、ふりふりのエプロンのせいでまるで迫力がない。 彼は腕を組み、あたし達に背を向けた。 「そんなに笑うんでしたら、僕はもう作りませんからね」 「ごめーん」 あたしは涙の滲んだ目元を擦り、なんとか笑いを抑えた。 「謝るから」 「で、何を作るんだ?」 と、涼平がインパルサーを見上げた。 彼は考えるように俯いていたが、くるっとあたしへ振り向いた。 「由佳さんが考えてくれませんか? 僕は調理方法、何も知りませんから」 「んーとそれじゃあねぇ…」 あたしは、ダイニングキッチンに入った。 あまり手間の掛かるものや、時間の掛かってしまうものはダメだろう。 それに、今ここにある材料だけで作れるものを作るべきだろう。 そう思いながら、冷蔵庫やオーブンレンジ台の戸棚を開けてみた。 しばらく中を探ってみると、出てきたものは丁度良さそうなものだった。 「あ、これでいいかも」 立ち上がり、大きめの箱をダイニングカウンターに置いた。 インパルサーはそれを手に取ったけど、日本語が読めないからパッケージを睨んでいるだけだ。 その後ろから、涼平が言った。 「ホットケーキだよ」 「ホットケーキ…ですか?」 「そ」 あたしは卵と牛乳を取り出して置くと、ボウルやフライパンも出した。 それをざっと水で流してから、インパルサーの手から箱を取って裏返して見せる。 「これなら、簡単でしょ?」 「えーと…」 インパルサーは、箱の裏に書いてある作り方ではなく、その隣の写真をじっと眺めている。 それを、何度か指先でなぞっている。 「つまり、これは材料を混成して加熱調理をするだけ、というものなんですね?」 「うん。粉に卵と牛乳混ぜて、焦がさないように焼くだけでいいの」 あたしは頷く。 インパルサーはホットケーキミックスの箱を持ったまま、ダイニングキッチンに入った。 カウンターに横付けてあるテーブルに、涼平がちゃっかりと座っている。 インパルサーは食器棚の引き出しを開け、何かを取り出している。 あたしがそれを不思議に思って見ていると、彼は薄いゴムの手袋を出し、それをぱちんと両手に被せた。 その様子を、横から覗き込む。 「手術?」 「違いますよ!」 彼は嫌そうに、また言われた、と呟いた。きっと、母さんも同じ事を言ったのだろう。 ゴムに包まれた指先を曲げながら、しっかりと手首の関節までゴムを被せる。 ぎしっ、とゴムと金属が擦れる。 「お母様に言われたんです。こうしておけばいいだろう、って」 「なるほど」 それは確かにいい手だ。ゴムだから伸縮するし、水が入らないし、使い捨てだから汚れても大丈夫だ。 あたしはぱんと両手を合わせ、そのアイディアに感心した。 「さすがは母さん」 「じゃ、始めましょうか」 インパルサーはそう言いながら、ゴム手袋の填った手をぎゅっと握り締めてから、開いた。 あたしは、もう一度言いたくなった。 「やっぱりそれ、手術でしょ」 「違いますってば、防水と防汚のための装備ですよ! それになんですか、そのシュジュツって」 インパルサーはむきになったのか、声を上げる。 あたしは笑い、ホットケーキミックスの箱の蓋を開けた。 「言ってみただけだって」 すると、いきなりがしっと箱が掴まれた。 マリンブルーの手が、そこそこ強く箱を握る。握られたために箱が潰れ、中の袋が歪んでいる。 あたしが恐る恐る見上げると、インパルサーがやけに気合いの入った声を出した。 「僕がやりたいんです。由佳さんには、指示をお願いします」 「え、あ」 あたしが箱から手を放すと、がばっと箱が奪われる。そんな、乱暴な。 インパルサーはその中身の袋を取り出し、ばんっと勢い良く開いて中身の粉をざざっとボウルに入れる。 ぱしん、と拳を手のひらに当てて、彼は背筋を伸ばした。 「さあ、早いとこお願いします!」 「…うん」 なんだ、その気合いの入り用は。たかがホットケーキじゃないか。 あたしはちょっと呆れながら、卵と牛乳を指した。 「まずはそれを入れるの。卵、割れる?」 「大丈夫、だと思います」 インパルサーは卵を手に取り、まじまじと白い楕円を眺めた。 そしておもむろに腕を振り上げたが、ゆっくり下ろし、何回かボウルのフチに当てて白い殻にヒビを走らせる。 ヒビの間に太い指先を押し込むと、かぱっと開く。それを傾けると、粉の上につるんと白身と黄身が落ちた。 あたしは、ついぱちぱちと拍手してしまった。 「凄い! 凄いぞパル、進歩してるね!」 「そうですか?」 照れくさそうに、彼は頬を掻いた。 あたしは何度も頷き、拳を握る。 「そうよ! だって、あれだけ紙風船を潰してたのに、もうちゃんと卵を割れるんだもん!」 「偉いんですか?」 「偉い偉い、パルは偉いぞ」 あたしは笑い、背伸びして前傾姿勢になっている彼の頭を軽く撫でた。 するとインパルサーはますます照れくさそうに、俯いた。 「はあ…」 ダイニングテーブルに座る涼平は、馬鹿にしたような目をあたし達に向けていた。 そうか、お前はあたしとパルの苦労を知らないのだ。 後でみっちり教えてやろうじゃないか、あの紙風船との死闘の事を。 ホットケーキを作る作業は、滞りなく進んだ。 火加減の調整をあたしが一度行うと、インパルサーはそれをそっくり覚えてしまった。 最初の一枚はちょっと焼け過ぎて焦げてしまったけど、失敗したのは後にも先にもこれだけだった。 一度慣れてしまうと次からはもう失敗しないようで、インパルサーのホットケーキは上出来なものが焼けていった。 二枚目からはきつね色のまん丸がいくつも出来て、大皿を埋め尽くしていた。 ホットケーキの山から四枚取ると分け、二枚ずつ二つの皿に乗せてから、ダイニングテーブルに座った。 待ち兼ねていた涼平はホットケーキを見た途端、嬉しそうに表情を綻ばせた。 インパルサーがホットケーキを焼いているうちに、淹れておいた紅茶を、ホットケーキの乗った皿の隣に置いた。 涼平の皿の傍にも、紅茶とフォークを置く。 あたしはホットケーキにフォークを刺し、四分の一程の大きさに切り分けて口に運んだ。 最初の一口を食べた途端、ちょっとほにゃっとなってしまった。 ふんわりとした食感に、ほんのりとした甘さと卵と牛乳の優しい味が実に見事。 焼き加減も丁度良いから、柔らかさの中にちょっとだけ香ばしさもあって、本当においしい。 涼平もこれはおいしいと思ったのか、すぐに食べてしまっていて、もうその皿は空だった。 残りの四分の三にバターを乗せると、あたしはそれを四分の二にし、食べる。 ああ、やっぱりおいしい。甘いモノは、これだからやめられないのだ。 幸せな気分に浸っていると、インパルサーがダイニングカウンターの向こうから、声を掛けてきた。 「どうですか?」 「おいしいよぉ」 あたしは、なんとも気の抜けた声を出していた。 インパルサーはフライパンの前でがしっと拳を握り、突き出した。 その拍子にふりふりエプロンがふわっと広がり、男らしいポーズが一気に情けなくなった。 褒められたことが相当に嬉しいのか、ライトグリーンになっているゴーグルの光が、ちょっと強い。 彼は拳を握ったまま、ぐっと妙な構えになった。 「もっと作りましょうか?」 変な構えで迫るインパルサーに、あたしはフォークを握ったまま頷いた。 「作って作って〜」 一時間後。 あたしは自分の言動を、海溝より深く後悔した。 目の前の大皿を埋め尽くしたまん丸いホットケーキが、山となって積まれている。 ダイニングカウンターに並ぶ器は、全てそれと同じ状態になっていた。 ダイニングキッチンとリビングには、甘い匂いがもわっと満ちている。 ホットケーキミックスがなくなっても、薄力粉やベーキングパウダーを混ぜて、次から次へと作り続けたからだ。 食べるだけ食べてみたけど、インパルサーの作るペースの方が早すぎた。 いや、おいしいんだけどね。おいしいんだけど、これはいくらなんでも多過ぎる。 あたしはいくら食べても減ることのないホットケーキの山を睨み、深くため息を吐いた。 「あー…」 ホットケーキでお腹が一杯になっていて、ちょっと胸焼けしていた。 「パル、作りすぎ」 「姉ちゃんのせいだぜ、これ」 ホットケーキの山を見、涼平が嫌そうな顔をした。 当のインパルサーは、流し台で散々酷使したフライパンと、ボウルや泡立て器を洗っている。 ふりふりエプロンは外すことはなかったけど、頭に乗せたバンダナは首までずり落ちて、赤い襟巻きになっていた。 「楽しいですね、これ」 「パルは楽しいでしょうねぇ…」 げんなりしながら、あたしは冷め切った紅茶を傾けた。 「あんたは食わなくていいんだもん」 「で、どうでした?」 「おいしかったよ。おいしかったけどね、作りすぎ」 と、あたりが呟くと、インパルサーはこんもりとしたホットケーキの山を見下ろした。 「それじゃ、次はこの半分くらいで」 「三分の一!」 「…了解しました」 あたしが声を上げると、インパルサーは洗剤に濡れた手を伸ばして額に当てた。 外は相変わらず、激しい雨と風が続いている。 時折うちの前を通る車が水を跳ね上げているのか、ざばあ、と音がする。 一向に天気は良くなる気配はなく、上空の雨雲は重たいままだった。 本当に、これが明日の朝にはすっきりと晴れているのだろうか。 洗い物を終えたインパルサーは、エプロンのまま、また外を見上げる。 両手のゴム手袋を外し、それをちゃんと不燃ゴミのゴミ箱に入れてからリビングへやってきた。 がたがたと風に揺れる窓に手を当て、ガラスにレモンイエローのぼんやりした光を映り込ませた。 「うーん…」 「フレイムリボルバーのこと?」 「はい。そろそろコミュニケートが入っても良さそうなんですが、何も連絡がないんです」 細身のマスクフェイスの顎に指先を当て、肘をもう一方の手で持つ。 サスペンスドラマの刑事が良くやる、推理のポーズに似ている。 「ちょっと、心配ですね」 なかなか、カッコ良い雰囲気だ。 でもそれがどうにも締まらないのは、ふりふりのエプロンを付けたままだからだ。 あたしは彼の後ろに立ち、しゅるっとリボン結びを解いて、両肩のアーマーに引っかけた肩ひもを外す。 インパルサーは両腕を広げ、それを外させてくれた。解ってるじゃないか。 背伸びをしてバンダナも外し、あたしはエプロンを一緒に抱える。 「こっちから連絡してみたら?」 「あともう少し、待ってみます」 インパルサーはあたしを見下ろし、そして窓の外を睨んだ。 すると。 テーブルの上に置いたあたしの携帯が、鳴り出した。 ぱちんとパールホワイトを開いて着信表示を見ると、鈴音からだ。 あたしは通話ボタンを押し、受話部分に耳を当てる。 「はーい」 「あ、由佳?」 「どしたのさ鈴ちゃん、そっちから掛けてくるなんて珍しいね」 「うん、それがね…」 鈴音にしては、歯切れの悪い言葉だ。 その後ろがちょっとやかましく、他の声も聞こえてくる。 「こんなこと、由佳にしか相談出来ないし、話せないから」 「だからどうしたの、鈴ちゃん?」 と、あたしが更に尋ねようとすると、いきなり後ろにあった声が近付いた。 太くて大きな、とにかく男の声が響いた。 その声は、意外な名を呼んだ。 「久し振りだなぁ、ソニックインパルサー!」 あたしは、思わず携帯とインパルサーを見比べた。 携帯を向けた直後、彼は叫ぶ。 「フレイムリボルバー! あなたは今、どこにいるんですか!」 「さぁなぁ…オレにも良くは。だがよ、ここにいるすっげぇ美人の有機生命体の姉ちゃんと、そっちの…ガキンチョには解るんじゃないのか?」 「が…」 インパルサーが、おずおずとあたしに顔を向けた。 あたしは、正直泣きたくなった。 そりゃ、目だけ大きいこの童顔と一緒で、あたしの声はいつまでたっても小学生みたいだ。 電話口でよく小学生かと言われるし、でもだからってそうストレートに言うこともないだろう。 携帯を握り締め、そのフレイムリボルバーと思しき男に叫んだ。 「とにかく! あんたはパルの知り合いで、あんたは鈴ちゃんちにいるのね!」 いいからあんたどいて、との鈴音の声と同時に、相手が変わった。 鈴音は申し訳なさそうに言う。 「そんなわけだから…ごめん、とりあえず来てくれない? 私だけじゃ、どうしたらいいのか解らないの」 「うん。解った」 あたしは頷き、一度ホットケーキの山を見てから続けた。 「ホットケーキ持って行くね」 「…何それ?」 「色々あったの」 「そっか…とにかく、来てね。ブルーソニックも一緒に来るなら、正門閉じてあるからその内側に入ればいいから」 「了解」 そう返し、あたしは電話を切った。しまった、パルのが移ったか。 携帯を閉じてポケットに突っ込むと、ダイニングキッチンに入り、食器棚の引き出しからケーキ箱を取り出した。 それを組み立てて周りにキッチンペーパーを敷くと、ざらざらっと一皿分のホットケーキの山を入れる。 蓋を閉じてシールを貼り、それを持ったまま、インパルサーを手招きする。 彼は頷き、こん、と自分の胸を叩く。 「了解しました。命令とあらば、僕も行きます」 「でも、行くったって…」 と、所在なさげにしていた涼平が呟いた。 あたしは腹を括り、ぐっとエプロンを握り締めた。 「飛ぶの!」 「え、でも姉ちゃん!」 涼平は立ち上がり、インパルサーを指した。 「この間パル兄と一緒に空飛んだじゃんか、ずりぃよ姉ちゃんばっかり!」 「そのうち飛べばいいでしょ。今は、そんなこと言ってる場合じゃないの」 リビングから出ようとしたあたしの背に、涼平はまだ言ってきた。 「で、でもさぁ! 姉ちゃん達がいないこと、母さんに言ったらオレが怒られちゃうじゃないか!」 「あたしとパルはその十倍よ」 と、言い残して、あたしはリビングのドアを閉めた。 階段を駆け上って部屋に入り、クローゼットを開けた。 服の間を探っていくと、見つかった。 中学の林間学校の時に買った、半透明のレインコート。名前が書いてあって、多少恥ずかしいけど。 それを着てから、ホットケーキ入りのケーキ箱と多少の荷物が入ったトートバッグに入れて、それをお腹に入れた。 まるで妊娠したかのような見た目だけど、中身を濡らさないためにはこれが一番だろう。 しばらく待っていると、開け放したドアからインパルサーが入ってきた。 彼は、斜め下を指す。 「外へ出るなら、ここではなくてワシツからの方が目立たないのでは?」 「よっしゃ」 あたしは頷く。 「そこから出るとしますか」 「了解」 インパルサーは敬礼し、先に階段を下りていった。 和室へ向かうあたし達を、心配げな顔をした涼平が見ていた。 廊下に呆然と突っ立っていて、何をして良いのか解らないらしい。 あたしは少し笑い、軽く手を振る。 「窓、ちゃんと閉めといてね」 「姉ちゃん!」 「大丈夫よ、たぶん。こんなに凄い雨だから視界も悪いし、傘差してるだろうから上なんて見ないでしょ」 「そういうことじゃなくってさぁ…」 気恥ずかしげに、だが心配げに涼平が目を伏せた。 あたしはにやりとしながら、弟の短髪をがしがしと撫でた。 「鈴ちゃんは大丈夫よ。あたしなんかより、ずっとしっかりしてるもん」 多少、涼平の表情が綻んだ。ませているぞ、弟よ。 和室の窓は、既にインパルサーが開けていた。 風で雨が多少吹き込んでいて、畳をぱたぱたと叩いている。 あたしはふと、靴を忘れたことを思い出した。 ちょっと待ってて、と彼に言うと、彼は窓枠に片足を掛けたまま頷いた。 玄関に走り、濡れていないサンダルを掴んで、トートバッグと同じくお腹の部分に入れて抱える。 また和室に戻ると、インパルサーが浮遊しながらあたしを待っていた。長い足を曲げて、前傾姿勢で浮いている。 彼はあたしをすくい上げるように肩と膝の裏を抱え、するっと天井当たりまで浮いた。 廊下に突っ立っている涼平は、インパルサーが頷くと、どこかぼんやりとしながら頷いた。 外に出ると、途端にばらばらと激しい雨が降り注いでくる。 でも、この視界の悪さなら誰にも見つからないだろう。たぶん。 ちゃんと涼平が窓を閉めたのを確認してから、あたし達は雨空の中へ飛び出した。 十数分飛んで、鈴音の家に到着した。 鈴音の家は、大きなお屋敷だ。周囲を高い塀に囲まれて、植木の並ぶ大きな庭が広がっている。 あたしとインパルサーは、鈴音の指示通りに、閉じられた正門の下に立っていた。 立派な庭園の向こうにある玄関は、雨で霞んでいる。 雨の中を飛ぶことは、予想以上に厄介だった。 まず、遮蔽物がないから雨が全部当たるし、多少スピードを出しているからレインコート越しとはいえ、痛い。 そんなこんなで全身ぐっしゃぐしゃになってしまい、無事なのはお腹に抱えたトートバッグだけだった。 インパルサーも似たようなもので、だらだらと雨水を体に伝わせている。 その足元には、大きく水たまりが出来ていた。 頬に張り付いた濡れた髪を剥がし、あたしは息を吐いた。 「…飛ぶのって、大変だねぇ」 「はい」 ぼたぼたと水滴を落としながら、インパルサーは肩を落とした。 「これで防液体機能が戻っていなかったらと思うと…」 しばらく二人でぼんやりしていると、ぱしゃぱしゃと軽い足音がした。 傘を差した鈴音が、敷石の上を走ってきた。 後ろで二つに結んだ黒髪が揺れ、広がっている。 彼女は門の下にやってくると、びしょびしょのあたしを思い切り抱き締めた。 「マジごめん、こんなときに来させちゃって! お風呂、入れるから!」 「あ、うん。気にしないで、鈴ちゃん」 あたしは、ちょっと驚いた。 いつも冷静で的確に行動している、鈴音らしくはない。 つまり、それほどフレイムリボルバーとやらがやってきた衝撃は、強かったと言うことだ。 あたしもあんなに驚いたのだから、当然というものだろう。 鈴音はあたしから少し離れ、隣に立つインパルサーを見上げた。 「ブルーソニックも、ごめんねこんなときに。水、もう大丈夫なの?」 「あ、はい。僕は平気です。ご心配なさらずに」 鈴音は、はぁ、と深く息を吐いた。 長い前髪を掻き上げて深呼吸してから、広い家を逆手に指した。 「とにかく、上がって。今は私以外いないし、お手伝いさんは、もう帰っちゃったから」 板張りの廊下をずっと歩いて、障子戸の前に出た。 あたしは鈴音に着替えせられて、多少サイズの合わないTシャツとスカートを着ている。 玄関先で雨水を全部拭いたインパルサーは、まだしっとりしているのか、廊下に水の足跡が続いていた。 鈴音は戸に手を掛けたが、その前に背後の池へ顔を向けた。 あたしとインパルサーもつられて、池を見た。 「あそこに落ちてきたのよ。大変だったんだから」 そりゃ、大変だろう。 壁をぶち抜かれるのも大変だけど、池でも充分に大変だ。 きっと生臭かっただろうし、泥も付いていたに違いない。 鈴音は、すぱーんと勢い良く戸を開けた。 大きな洋服ダンスの隣に、広いベッド。 その周りを固めるのは、大量のビデオテープやDVD、漫画や小説やロボットのおもちゃとかとにかく色々だ。 部屋同様に雑然とした机には、教科書や参考書の他にも、色々とよく解らないものが乗っていた。 そんな広くて雑然とした鈴音の部屋の中に、異質な存在が立っていた。 赤い。でかい。ごつい。 それが、あたしの一番最初の印象だった。 インパルサーとは正反対で、とにかく体ががっしりしている。 至る部分がとにかく強烈なイタリアンレッドで、他の色と言えば黒とかオレンジだけ。 二の腕は両方とも、リボルバーがそのまま腕になっているような感じだ。 足も太く、腰も太く、これでもかというほどに男らしい。いや、男臭い。 顔はマスクフェイスではなく、左目がゴーグルになっているだけで、あとは人間ぽい。 鼻筋も通っているし、口もあるし、顎もこれまた太い。 どうやら。 これが、レッドフレイムリボルバーのようだ。 「よう」 組んでいた腕を解き、腰に当てる。 レッドフレイムリボルバーが一歩踏み出ると、どぅん、と重い足音が響いた。 その衝撃で、微妙なバランスを保っていたビデオテープの山が、ばらばらと崩れて畳の上に広がった。 「ソニックインパルサー。てめぇにしては、随分とまぁ…慎重さを欠いた行動だな」 外は、相変わらず激しい雨と風だ。 庭園の植木がばさばさと揺れて、騒がしい。 あたしは、ちらっと鈴音を見た。 鈴音は薄い唇を噛んでいて、乱れた髪が数本白い額に落ちている。 レッドフレイムリボルバーはインパルサーを見据え、にやりとしていた。 台風がもたらしたものは、雨と風とカミナリだけではなかった。 新たなヒューマニックマシンソルジャーも、もたらした。 宇宙のどこかから、レッドフレイムリボルバーを鈴音の前に運んできた。 あたしは鈴音の中の、不安と心配と動揺とその他諸々の感情を想像した。いや、考えるまでもなく解る。 鈴ちゃん。 あたしも、パルと最初に会ったときはそうでした。 04 3/22 |