まただ。 またあたしは、タオルケットを蹴り飛ばしている。 ベッドの下に落ちたハイビスカス柄のそれを掴み、引っ張り上げた。 なぜ最近、こんなに寝相が悪いのだろう。ええいもう、情けない。 弱い風が入っていると思ったら、カーテンの向こうで窓が細く開いてある。 ふわふわとはためくカーテンの下辺りに、インパルサーが座っていた。 カーテンの隙間から入り込むぎらつく朝日を、マリンブルーが跳ね返して、ぺかりと輝いている。 逆光の中、レモンイエローのゴーグルがこちらを見ていた。 「おはようございます」 「おはよ」 ぼんやりしながら体を伸ばし、息を吐いた。 枕元に置いた、ピンクのクマが文字盤の丸っこい目覚まし時計を手に取る。 鳴っていない。しかもその短針が差しているのは、午前七時。 数日前に設定したアラームの時刻の、二時間も前だ。 「早ー…何しろっつーのよ」 「アサゴハン、作りましょうか?」 「お願い」 と、あたしは気の抜けた声を返した。 どんどん自堕落になるのに、なぜか早起きになっている。 インパルサーは立ち上がると、クローゼットの前に掛けてあるハンガーからふりふりエプロンを外した。 それを見た途端、心底ぐったりした。 「今日こそ買ってくるね、あんたのエプロン…」 「はぁ」 インパルサーは、別に構わないのに、とでも言いたげな声を返した。あたしが構うのだ。 ここ二三日、起き覚めにこんなものを見てしまうといやでも目が覚める。 青くてがっしりしたロボットが全然似合わない白くてふりふりのエプロンを着ている姿なんて、嫌すぎるからだ。 インパルサーは前屈みになって、背中で腰紐をリボン結びにしている。まるで新妻だ。 ふと、彼の新妻姿を想像してしまい、もっとぐったりした。朝から一体なんてことを考えるんだ、あたしは。 無意識に深く大きなため息を吐いてしまったので、インパルサーが反応した。 「どうしましたか?」 「なんでもない」 ベッドから降りて窓に近寄ると、弱い風が近付いて気持ち良い。 まだ新しいカーテンを買っていないので、代用に掛けている少しくすんだ水色のカーテンを掴んだ。 この色は、正直趣味じゃない。だから早く新しいのが欲しいのに、なかなか求めるものが見つからなくて悔しい。 しゃっとカーテンレールが鳴り、窓が露わになった途端に朝日が突っ込んでくる。 フローリングに、あたしとパルの濃い影が出来た。 「紫外線強そー…最高気温、三十二度だっけ、四度だっけ」 「あのタイフウの日から、まるで雨が降りませんからね。ボディに湿気が溜まらないので、僕には好都合です」 インパルサーは新妻姿のまま、窓の外を見た。 「でも、適度に湿気があった方が由佳さん達有機生命体にはよろしいのでないでしょうか」 「水不足になっちゃうしね」 と、あたしはかんかんに照っている空を見上げた。 事実、ここ二三日のニュースはダムの水が干上がりそうだ、という話が多い。毎年のことだ。 でも今年は去年程はひどくなく、断水があっても長時間ではなさそうだ。 世間はお盆休みであるせいか、心なしか窓から見下ろす住宅街が静かだ。皆、帰省ラッシュの中なのだろうか。 なのになぜ、あたしはパルと二人でうちにいるかと言えば。 原因は、当然ながら台風の日とその翌日にあった。 あの後、あたしとインパルサーは一応無事に朝帰りした。 そして母さんと父さんに洗いざらい、リボルバーのことも神田のことも話した。 いや、話させられた、といった方が正しい。はぐらかそうとしても、問い詰められたのだ。 リボルバーのことよりも、二人に強く問題視されたのは、当然三度も空を飛んでしまったことだ。 挙げ句神田に見つかったのだから、それ見たことか、と言われてしまった。その通りだけど、なんか悔しい。 あたしとパルは反省させるため、という名目の元にうちに取り残された。自業自得もいいところだけど。 毎年、お盆には父さんの実家に帰省していたのになぁ。高速道路の渋滞は嫌だけど、行けないとつまらない。 弱い風が、ふわりとインパルサーのエプロンを揺らした。 彼はあたしの背後から、体を曲げて上から覗き込んできた。 「フレンチトーストとチーズオムレツ、どっちがいいですか?」 「フレンチトースト!」 あたしは、昨日の間食に食べたフレンチトーストの味を思い出した。 ふんわり甘くて、でも甘過ぎなくておいしかったのだ。バニラアイスを乗せた本格派だったし。 インパルサーは無駄のない動きで、敬礼する。 「了解しました」 「でもホントに凄いよ、パルは。何覚えさせても、ちゃんとおいしいの作るんだもん」 窓を閉め、レースカーテンを引く。 クローゼットを開けて適当な服を取り出し、閉める。 廊下へ向かうインパルサーは、嬉しげな声を出した。 「今度、ハンバーグの作り方教えて下さいね。あれって、難しそうですけど面白そうですから」 「解ってるって」 そう返すと、彼はドアを閉めた。 この間の一件は、無駄ではなかったらしい。ちゃんと着替えの時は、外に出てくれるようになった。 あたしは汗の染み込んだパジャマを脱ぎながら、ふと思い出した。 洗濯物が溜まりに溜まったから、いい加減にしなければならないことを。ああ、面倒だ。 だけど、この二三日で痛感した。 毎日洗濯や掃除をして料理も作って仕事もこなして、自分への手間も欠かさない母さんは凄いってことを。 あたしも、いつかそうなるのだろうか。日々の家事をこなさなければならない、忙しい日々が。 その全てを一人でこなせる自信は、欠片もない。 リビングに入ると、ダイニングキッチンの中に彼が立っていた。 すっかり見慣れた光景だけど、客観的に見ると凄く変な光景だと思う。 コンロの上のフライパンにはバターが落とされてあり、とろりと柔らかく溶けて広がっていた。 その隣のボウルには、たっぷりの卵液に浸されてしっとり柔らかくなった、フランスパンが入っている。 インパルサーは使い捨てゴム手袋を付けた手でパンを取り、溶かしバターの中にゆっくりと置いた。 「由佳さん」 油の跳ねるフライパンを見下ろしながら、インパルサーは言った。 「僕は食べられませんけど、本当にこれ、おいしいんですか?」 「おいしいよ、マジで」 「僕はただ、火の通るタイミングとかをメモリーして、それを何度もシミュレートして最適なタイミングを計算して」 「脳内練習?」 「ノウナイ…? 意味は解りませんが、まぁ、そんなところではないでしょうか」 そう言いながら、彼はフライ返しでパンをひっくり返した。 きつね色の焦げ目が綺麗に付いていて、甘い匂いが漂っている。 「シミュレートは何度も繰り返してこそ、ボディに馴染んで情報伝達が速やかに行われます。だからその由佳さんの言うノウナイレンシュウも、大事な訓練の一環なんです。戦闘時には、迅速な判断と的確な状況把握、そして戦術が物を言いますから」 また、インパルサーはフレンチトーストをひっくり返す。 一枚目は順調に焼け、それはダイニングカウンターに置いてあった皿に乗せられた。 もう一度バターを落とされたフライパンの中に、二枚目が置かれた。 彼の横顔を見上げる。表情は解らないけど、あたしにはとにかく楽しそうに見えた。 「つまり、料理も戦いなの?」 「うーん…」 顔を上げ、遠くを見るようにする。 レモンイエローのゴーグルに、外の明かりが映ってぺかりと跳ねた。 マリンブルーのマスクに卵液で汚れた指先を当て、彼は軽く頬を掻いた。 「僕としては、戦いです。今まで経験し得なかったことですから、楽しいですけど、その分大変なことも多いですから」 「大変?」 「はい」 インパルサーは頷き、フレンチトーストを裏返した。 「僕としては会心の出来だと思ったときに限って、由佳さんはおいしくなさそうな顔をするんですよね…」 「いや…それは…」 あたしは流し台に寄り掛かり、腕を組む。 「パルが作りすぎるからでしょ。あたしはそりゃ割と食べる方だけど、そんなに大量には食べらんないよ」 「そうですか? でも、スイハンキの中身は全部使うためのものではないのですか?」 「ご飯二合も使ったオムライスが食べ切れるわけないでしょうが」 あたしはそう言い返し、思い出してげんなりした。 昨日の夜にインパルサーが作った、いや、あたしが作らせてみたオムライスの量は二合だったのだ。 大皿に何枚も分けて乗せてあって、ミックスベジタブルが全部なくなった。ああ、思い出したら胸焼けがする。 当然大半残ってしまったのだが、それは冷凍庫へ入れて凍らせた。ホットケーキもまだ残っているのに。 しばらくあたしのお昼には、オムライスが続くだろう。飽きるけど、仕方ない。 うちの冷凍庫は、どんどん狭まっていく一方だ。 インパルサーは焼き上がった二枚目を、ぽすんと皿の上に置いた。 湯気が立ち上り、ふわんと卵と牛乳の匂いが漂う。ああ、とってもおいしそう。 「難しいです」 「作り過ぎなきゃ良いのよ」 あたしはコーヒーメーカーの中に出来上がっているコーヒーを、マグカップに半分まで注ぎ、牛乳を更に半分注ぐ。 それをオーブンレンジに入れ、スイッチを入れて温める。温まったカフェオレを取り出し、砂糖を落とす。 少し熱いマグカップをしっかり持つと、ダイニングキッチンから出、テーブルのある側に行く。 テーブルに座り、ダイニングカウンター越しに三枚目を焼くインパルサーを見上げた。 「それさえなきゃ、最高なんだから」 「そうなんですか?」 「何度も言ってるでしょ」 インパルサーは嬉しそうに、でも照れくさそうにまた頬を掻いた。 おかげでマリンブルーのマスクが、白濁した卵液でべったべたになっている。 「パル」 「はい?」 きょとんとしたような声が返ってきた。 あたしは、マスクの汚れた部分を指した。 「汚れたとこ、後で拭いてあげる」 「え、あ、わぁ!」 今更気付いたようで、インパルサーは声を上げた。 そして首をぶんぶん振り、ずり下がる。 「いや、あの、いい、いいですよ、そんなこと、わざわざ由佳さんにして頂かなくても!」 上擦った素っ頓狂な声を出しながら、インパルサーはフライ返しをあたしに振りかざした。 両肩の尖り気味のアーマーが、深呼吸するように上下する。相当、動転しているようだ。 あたしはその態度がおかしく思え、笑う。 「遠慮する程の事じゃないでしょー?」 「いいですってばぁ!」 ゴーグルの色がオレンジ色になり、少し光が強くなる。解りやすい奴め。 彼はなんとか自分を落ち着けたのか、またフライパンの柄を取った。 ひっくり返されたフレンチトーストは、少し焦げ目が強くなってしまっている。 インパルサーは困ったような口調で、呟く。 「何言うんですか、もう…」 ああ、楽しい。というか、可愛い。 インパルサーはちょっとでもからかうと、すぐにこれだ。まるで初恋の少女だ。 でもあんまりからかいすぎると機嫌を損ねて怒ってしまうので、やりすぎてはいけない。 実際、この間怒らせてしまったら、三時間もバスルームに立てこもっていじけていた。なぜバスルーム。 鈴音がインパルサーを可愛いと称したのは、間違いではなかった。 インパルサーはまだほんのりオレンジ色のゴーグルのまま、冷凍庫を開けた。 二リットルのバニラアイスを取り出し、スプーンで中を刮げ取って、それをフレンチトーストの上に落とした。 スプーンを持ったまま、彼はむくれたような声を出した。 「由佳さん、僕で遊んでません?」 気付かれていたか。 「ごちそうさまーっ」 甘くて優しい味のフレンチトーストは、あっさりあたしのお腹に入った。 カフェオレを飲み干してから、先程まで感じていた味を思い出し、言った。 「あーやっぱりおいしいなぁもう、パルのは! 幸せ!」 ソファーの前でいつものように正座するインパルサーは、あたしを見上げていた。 「明日の朝は、何がいいでしょうか?」 「そうだなぁ…」 あたしは頬杖を付き、ほう、と息を漏らした。 「後で考える。今はお腹一杯で、そういうこと考えられないから」 「そうですか」 インパルサーの口調は、穏やかだった。 「でも、由佳さんに喜んで頂けて嬉しいです。あ、でもこれ、嬉しいよりも強い感じがします」 「んじゃ、それは幸せなんじゃないの?」 「シアワセ、ですか?」 不思議そうに、彼は腕を組む。 「シアワセって、幸福の意味ですよね。ですが幸福とは、力で手に入れるものだと」 「誰が?」 「マスターコマンダーですが」 「力じゃ手に入らないよ、幸せなんて。それに、幸せってのは色々あるの」 あたしはマグカップを置き、彼を見下ろす。 「あたしはパルと一緒にいると、結構幸せ。大変だけど、楽しいし」 「僕といると、幸福なのですか?」 「大変だけどね」 そう付け加えなければどうしようもない程、これまでの日々は大変だった。 でもその大変さの応酬といった感じで、楽しいことも多い。実際、パルの作るお菓子やご飯はおいしいし。 インパルサーは悩むように、細い顎に手を当てる。 「僕には、一体何が幸福なのでしょう」 「そういうことは、自分で考えないと」 「教えては」 「教えたって、それはパルの感じる幸福じゃないよ。あたしの主観が入っちゃってる、あたしの感じる幸福だから」 「難しいですね」 と、インパルサーは肩を落とした。 そのマスクフェイスには、まだあの卵液がこびりついている。拭いてなかったらしい。 あたしは近くにあったティッシュを取り、それを軽く拭いた。結局、あたしが拭いてしまった。 しばらくすると、インパルサーは拭かれたことに気付き、わぁと一声上げてのけぞった。 そしてまだ少しだけ汚れの残っている頬を押さえ、足を広げながら後退る。 どん、と翼がソファーに当たり、彼は動きを止めた。 「え、と…その」 俯き、押さえていた方の手で頬を掻いた。 「ありがとう、ございます」 インパルサーは、おもむろに立ち上がった。 マリンブルーのマスクを手の甲でごしごしと擦り、ほんの少しだけ残っていた汚れを拭いた。 ちゃんと汚れを取ってから、あたしを見据えた。 「あの、由佳さん」 「何?」 あたしは、彼を見上げた。 逆光の中でレモンイエローのゴーグルが陰って、その中の横長五角形が少し見える。 突然、パルの声のトーンが落ちた。 「銃声や格闘音が響いても周囲に察されないような場所、ありますか?」 思わず、あたしは椅子から立ち上がっていた。 彼の前に立つと、インパルサーはぐっと顔を傾けた。 柔らかな色のゴーグルから光が失せ、色も消えて完全に透明だ。奥が見える。 ゴーグルの中には、あの目と、細身の鼻筋があるのが解る。目だけじゃなく、人間みたいな顔があるようだ。 サフランイエローの目の光を強めながら、インパルサーは片手を胸に当てた。 「出来れば近隣の方がいいです。あまり離れてしまうと、出撃と帰還の際に他の方々に見つかってしまいますから」 「ちょっと、待ってよいきなり何、そんな…」 「前々から、いえ、僕がアステロイドベルトの戦いから逃げたときから約束していたんです」 軽く首をかしげる。パルが笑っているときの、癖だ。 「フレイムリボルバーと戦うと」 戦う。 しかもそれは、仲の良い友達のリボルバーと。 あたしはまるでインパルサーの言うことが信じられず、口が半開きになっているのが解った。 なんとかそれを閉じて、一度深呼吸してから言った。 「なんで」 「約束なんです。これは」 奥の目が、笑うように細くなる。 機械の目でも、金属の目元でも動くようだ。 「僕が僕であるうちにフレイムリボルバーと戦うことは、彼の両腕を蹴り砕いたときに行った、約束なんです」 「蹴り…砕いた?」 信じられない。 こんな細身のインパルサーが、あんなごっついリボルバーを蹴って、砕くなんて。 パルは頷く。 「詳しいことはまた今度お話しますが、あと数日中に戦わないといけないんです。出来れば、七日以内に」 「ちょっ、待って、待ってよパル! なんであんたとボルの助が戦わなきゃならないの、友達でしょ!」 「ええ、僕と彼はいわゆる悪友といいますか、そんなところです」 彼の手が、不意に上がった。 ひやりと冷たい感触が頬にあったかと思うと、マリンブルーが目のすぐ下にある。 優しい手付きで、インパルサーの指先があたしの頬を撫でていた。 「それに」 「あなたをこの手で殺してしまいたくないから、僕は彼と戦うんです」 なんなんだ。 この、怖くて生々しくてえげつない単語の数々は。 インパルサー。パル。 あんたは、一体。 あたしは思わずその腕を突き、離れた。 突き飛ばされたパルは、その形のまま立っていた。ゴーグルに、光は戻っていない。 奥にある鋭い五角形の目は、どこか悲しげに伏せられている。 殺すとか殺さないとか、戦うとか戦わないとか。 怖くて、仕方なくなった。 「何、ホントに、何なの!」 「僕は」 「あんたは一体何をしに来たの! あたしが、なんであんたに殺されなきゃならないの!」 「由佳さん」 「わかんない、全然わかんない! あんたのこと、あたしは全然わかんない!」 息が荒くなって、肩が上下した。かなり、あたしは動揺している。 混乱は、まだ納まらない。本当に、一体何なんだ。 インパルサーはあたしに背を向けた。 青く鋭い二枚の翼は、少しだけ角度が下に向いて、へたれていた。 「話すべき時が来たら、全てお話しします。ですが今は、今はまだ。どうか、お許し下さい」 肩装甲が上向き、少し震える。 「由佳さんを喜ばせられたと思ったのに、すぐにこれです。悲しませて、苦しませてばかりで」 「情けないですね」 パル。 あんたは、優しい。 でもそれは、他人にだけだ。 自分には全然優しくない。むしろ厳しすぎて、凄く苦しんでいるじゃないか。 絶対、パルは苦しい。あんなに仲が良いリボルバーと、理由がどうあれ戦うのだから。 それを承諾したリボルバーも、きっと苦しい。平気な顔して笑ってたけど、彼も彼なりに苦しいはずだ。 だけど。 誰よりも一番苦しいのは、築き上げた平穏と居場所を、自分から壊そうとしている彼自身。 ブルーソニックインパルサーだ。 なんて不器用なんだろう。 あれだけおいしいものが作れるのに、器用に部品をばらせるのに、ジャスカイザーも変形させられるのに。 どうしてこんなに、行動は不器用なんだろう。戦士って、そんなのばっかりなのだろうか。 「…ごめん」 あたしは、銀色のブースターに額を当てていた。 冷たくて硬くて、だけどどこか温かい不思議な感触だ。 彼の、体温だろうか。 「パルが、一番苦しいのに」 なんとなく、あたしの手は彼の腰に回っていた。 その先で手を組むと、少しひんやりとした機械の手が重ねられた。 インパルサーは、何も言わない。 何も言えないのかもしれない。 あたしの手に乗せられた指先が離れ、下げられた。 彼は顔を上げたのか、小さくモーター音がする。 そして、いつものような大人しくて優しい口調に戻っていた。 「ありがとうございます、由佳さん。ですが僕は、彼と戦うことから逃れてはならないのです。…これだけは」 「解った。パルがそこまで言うなら、余程のことだよね」 銀色の円筒から額を離し、青い翼に手を添えた。 「でも」 「どっちも死なない、殺さないって、約束して」 セミの声が、裏山から聞こえてくる。 車がうちの前を通ったのか、一瞬影が過ぎり、排気音が響く。 回されたままの換気扇が唸っているのが、ダイニングキッチンから聞こえている。 また、小さくモーターが動いた。 こん、と装甲と装甲が軽く当たる音。 インパルサーは、敬礼した。 「了解しました」 パル。 あんたは、このまま誰とも戦わないでいた方が、幸せだよ。 きっと。 04 3/29 |