鬼蜘蛛姫




第十二話 幸福は絹の如し



 初めて腕に抱いた姫君は、羽根のように軽かった。
 妖力を吸い尽くされた体でさえもそう感じたのだから、そうでなければ風の如しだっただろう。九郎丸は八重姫の 上半身に成り下がっていた八雲姫を何度となく覗き込み、胸元に耳を押し当てた。耳を澄ませなければ聞き逃して しまいかねないほど小さな鼓動が柔らかな乳房の間で跳ねていて、時折指先が動いている。下半身の切断面から の出血も止まり、多量の血を吸い込んだ着物が乾いて固まっていた。それが痛々しいので、九郎丸は一度八雲姫 の着物を脱がしてやり、自分の着物を着せてやった。行者装束は雅な面差しの姫君には不釣り合いではあったが、 何も着せないでいるよりはいいはずである。
 柔らかな木の葉を布団にして横たわっている八雲姫は、数百年前と変わらぬ美しさを保っていた。八重姫の血肉 となっていた最中に顔付きはすっかり大人びたが、八重姫の呪縛から解き放たれたからだろう、額に備わっていた 六つの目は消え失せて滑らかな額に戻っている。上唇をそっとめくってみると、毒牙も失っている。変わらないのは 顎の細さと目元の涼やかさで、見つめているだけで胸の底がぎゅうっと絞られていく。

「う……」

 重たげに瞼が上がり、双眸が露わになる。花びらのような薄い唇が開き、弱々しく言う。

「そなたは何者ぞえ」

「八雲姫様より御自愛を賜りました、鴉天狗の九郎丸にござりまする」

 九郎丸が深々と頭を下げると、八雲姫は両目をぎこちなく動かし、九郎丸を捉える。

「九郎丸、とな?」

「いかにも、九郎丸でござりまする。八雲姫様がどこの馬の骨とも付かぬ俺をお拾いになって命を救われたばかり か、存分な寵愛を注がれた、鴉にござりまする。俺は八雲姫様が忌まわしき蜘蛛妖怪に喰われた後、山々を渡る 天狗に見初められて修行に修行を重ねた末、ただの鴉より鴉天狗と成り得たのでござりまする」

 地面にクチバシをめり込ませている九郎丸に、八雲姫は袖口からそっと手を伸ばす。

「表を上げい」

 ひやりとした手が黒く太いクチバシを包み、顔を覆う羽根をまさぐってきた。恐る恐る目を上げた九郎丸が八雲姫 を捉えると、八雲姫は眼差しに次第に力を宿し始めていた。白魚の如し繊細な指先が黒い羽根に隠れた肌を探り、 クチバシの根元からまなじりに至ると、八雲姫の面差しに血の気が戻ってきた。

「ああ……九郎丸ぞえ。わらわの鴉や」

「お解りになられるのでござりまするか、姫」

「忘れるわけがなかろうぞ、わらわはそなたの育ての親ぞえ。クチバシの裏に小さな傷があろう。それは、そなたが 巣から落ちた際に石に打ち付けた時に出来たものぞ」

「ああ、八雲姫様! 俺は姫様のことを思わぬ時は片時もござりませんでした!」

 感涙した九郎丸が声を詰まらせると、八雲姫は九郎丸の太い腕を掴んでくる。

「のう、九郎丸や。わらわを起こしてはくれぬかえ、木の枝と空ばかりではつまらぬ」

「直ちに」

 九郎丸は八雲姫の上半身だけの体を慎重に抱き起こし、切断面が地面に接しないようにと斜めにした。八雲姫は 九郎丸に抱えられ、仰向けから起きた態勢になったが、動きの鈍い腕と目を動かして下半身を探った。途端に顔を 曇らせ、空虚な裾を何度となく握った。九郎丸はどんな言葉を掛けるべきか迷ったが、言った。

「申し訳ござりませぬ、姫様。姫様のお体は、蜘蛛妖怪に喰われた後、その上半身にされていたのでござりまする。 辛うじて肝を掠め取ることは出来ました故、このように姫様の魂は守り通せておりまするが、おみ足までは……」

「ならば、そなたがわらわの足となれい。それで良かろう、九郎丸や」

 八雲姫は名残惜しげに裾から手を離すと、クチバシに手を添えてきた。九郎丸は深々と頭を下げる。

「相分かり申した。ならば、姫様、そのお体に触れることをどうか御許し下さりなさいませ」

「今更、何を咎めることがあろうぞ。わらわとそなたの仲ではないか」

 八雲姫は九郎丸にもたれかかり、行者装束を脱いだために曝け出されている九郎丸の胸元に頭を預けてきた。 その距離の近さに九郎丸は動揺したが、ぐぇ、と喉の奥で鳴き声を飲み込んだ。八雲姫は暖かく柔らかな鴉の羽根 に顔を埋め、そっと腕を伸ばしてくる。九郎丸はそれを受け止めるか否かを躊躇ったが、八雲姫の気持ちを無下に することは出来かねたので、九郎丸もまた八雲姫に腕を回した。

「わらわは夢現にそなたを感じておったぞえ、九郎丸」

 九郎丸が何度となく八重姫に断ち切られた首を、八雲姫は優しい手付きで慈しむ。

「わらわはあの穢らわしい蜘蛛女に喰われてしもうたが、未練を宿したわらわの御魂は、そなたが建ててくれた墓の 傍にずっと漂っておったのぞえ。そなたがわらわを見舞ってくれることも、思い遣ってくれておることも、その墓の傍 から見ておった。だが、あの蜘蛛女はそなたを痛め付けるばかりでのう。同じ顔をしておるというに、あの蜘蛛女は そなたを慈しむどころか弄んでおった。それが、腹立たしゅうてのう」

 ざわり。ぞぶり。八雲姫の儚げな面差しの先で、下半身の切断面から黒い筋が現れる。それは風に乱れる女の髪 のように細かったが、並々ならぬ障気を放っていた。あの黒い刀を握った時と同様かそれ以上の寒気に襲われた 九郎丸は八雲姫を凝視するが、八雲姫の面差しは変わらなかった。しかし、ざわざわと妖しく蠢く黒い筋が着物の 裾から伸び上がってくると、八雲姫の目はきつく吊り上がっていく。このままでは、八重姫をも勝る悪鬼の形相になり かねない。それを知ってか知らずか、八雲姫は八重姫に対する恨み言を連ねていく。それが募れば募るほどに目は 光を失い、牙が上唇を捲り上げ、長い髪は別の生き物のようにうねる。九郎丸は八雲姫から目を逸らしたくなる ほどの寒気に苛まれるが、堪え、八雲姫と向き直る。

「姫様、今はあの蜘蛛妖怪のことはどうかお忘れに。姫様は御自由なのでござりまする」

「……それも、そうやもしれぬのう」

 八雲姫が恨み言を留めた途端に、黒い筋はしゅるりと八雲姫の体内に引き戻されて髪の乱れも落ち着き、形相も また愛らしい姫君のそれに戻った。九郎丸はどくどくと肝が高ぶり、羽毛の下では脂汗を垂れ流していた。八雲姫は 八重姫と一体だったからこそ、安定していたのだと思い知ったからだ。考えてみれば、八雲姫は他者に恨み辛みを 抱かない方がおかしいほどの荒れた人生を歩んでいたのだ。九郎丸の前でこそ姫君としての体面を保っていられる ようだが、他者に明確な悪意を抱けば最後、八重姫や蜂狩貞元を凌ぐ修羅と化すやもしれぬ。
 ならば、九郎丸がすべきことは決まっている。八雲姫を心行くまで愛し、ただの鴉であった頃に注がれた分を凌ぐ ほどの思い遣りを返すことである。そんなことは元よりするつもりでいたし、そうしたいがために八雲姫を切り離した のだ。九郎丸は綿雲を抱くような手付きで八雲姫を胸に納めると、両翼を広げた。それだけの動作で大量の羽根が 抜け落ち、大樹の下に堆積した木の葉が黒く染まる。だが、そんなことに構っている暇はないと風を起こす。
 束の間ではあろうが、愛する姫君に無限の自由を与えねば。




 戦場のような光景に、チヨは硬直した。
 八重姫と糸丸の住まいが夥しい量の血に染まっているばかりか、八重姫の下半身が逆さまになって洞窟の地面 に転げていた。艶やかな着物の切れ端が上半身と下半身の切断面に貼り付いているが、上半身はない。糸丸の姿も 見えず、泣き声も聞こえてこない。ほんの少し来るのが遅れただけなのに、その間に何が起きたというのだ。

「む……叢雲様ぁ」

 鍋を手にしたチヨが震えながら、肩に載る水神に声を掛けると、叢雲は鼻先を突き出す。

「チヨや、おぬしは立ち入るでない。鬼蜘蛛の姫の穢れを受けるやもしれぬ」

「誰がこげなおっかねぇことしたんだいや。糸丸と八重姫様は御無事なんけ?」

 鍋の中身をひっくり返してしまわないように、チヨは手近な岩の上に鍋を置いてから再び身震いする。

「鬼蜘蛛の姫が死ぬことはない、あれは狂おしき念で成されておるが故。糸丸の姿は見えぬが、血の臭いはせぬ」

「そ、そんでも、あっげなことになっとるとただじゃ済まんて」

 チヨが怯えながら八重姫の下半身を指すと、叢雲は一度瞬きしてから鼻を鳴らす。

「検分せねばなるまい」

 叢雲はチヨの肩から飛び降りると、八重姫の血に染まっていない箇所だけを器用に這いずって洞窟の奥へ奥へと 進んでいった。チヨは一人取り残されるのが心細く、夫を追い縋ろうとしたが、叢雲からいつになく強く制止されたので その場に踏み止まった。寂しげに俯くチヨを目の端で捉えた叢雲は少々心が痛んだが、仕方ないことだ。八重姫の 血は女郎蜘蛛と土蜘蛛と落人の姫君の血が混じっているばかりか、長い長い歳月を掛けて煮詰められている。 よって、その中に宿る妖力と恨み辛みの濃さも並大抵ではなく、叢雲と契りを結んだことで常世の住人となったチヨ がそれを浴びてしまえばろくなことにはならない。叢雲でさえも、多量に浴びれば水が濁ることだろう。

「む……」

 八重姫に近付いた叢雲は、ヒゲをうねらせる。死んだ虫のように腹を曝してひっくり返っている八重姫の傍に、 禍々しい黒い渦が巻いていた。それは八重姫の妖力とはまるで違う力であるが、八重姫の体から溢れ出した血を 啜り上げては重苦しさを増していた。渦の傍に鼻先を寄せただけで肌がざわめいて、ウロコががしゃりと波打った。 障気自体は蜂狩貞元のそれに似ているが、業の深さは一つ目入道の丹厳のそれに等しい。しかし、この洞窟には そのどちらも訪れていないし、丹厳に至っては八重姫に屠られた様を目にしている。八重姫の刀傷はかなり乱暴で、 太刀筋はいい加減だが八重姫の硬い外殻を断ち切っている。となれば、腕の立つ侍である早川政充ではない。 ならば、答えは解り切っている。八重姫を屠ったのは、鴉天狗の九郎丸を置いて他にいない。糸丸の行方について は、早川政充に尋ねればいいだろう。糸丸を攫うことに利益があるのは、彼ぐらいなものだ。

「チヨや。おぬしは我らの住み処に戻るが良い」

「なんで? 叢雲様お一人で、どっか行くん?」

 チヨは入り口に這い戻ってくる叢雲を出迎え、不安げに眉を下げる。チヨの腕に絡み、叢雲は答える。

「時が経てば、鬼蜘蛛の姫が息を吹き返すであろう。そして、あの黒き渦の根源が鬼蜘蛛の姫に更なる狂気と 憎悪を授け、修羅と化すやもしれぬ。その時に糸丸がおれば、鬼蜘蛛の姫の憎悪も少しは落ち着こうぞ。よって、 我は糸丸を連れ戻しに下界に参る。九郎丸の動向も気に掛からぬでもないが、今はこちらが大事である故」

「そったら、九郎丸が八重姫様を半分にしたんけ?」

「我の見立てでは」

「そんなら、糸丸を攫ったんは……早川様っつうことけ?」

「恐らく。というより、それ以外にはおるまい」

「そったら、おらが早川様んとこお伺いするすけん、叢雲様は鴉どんのとこに行ったらええろ?」

「しかしだな」

 チヨを荒事に巻き込みたくない叢雲が渋ると、チヨは叢雲を掲げて目を合わせてきた。

「八重姫様んとこで暮らすか、早川様にお城に連れ戻してもらうかを決めるんは、誰でもない糸丸だすけん。叢雲様が 行ってしもうたら、話はこんがらがっちまうかもしれんすけん。赤城様が春祭りで大暴れしちまったせいで、叢雲様 はこって悪い神様みてぇに思っとる人もちったぁおるし、早川様がそうでねくっても、その回りんしょが叢雲様を恐れ でもしたら、まーた前みたいなことになっちまうかもしれんすけん。だすけんに、おらが行くいや」

「道理である」

 確かに反論は出来ない。叢雲が目を伏せると、チヨは叢雲の鼻面に顔を近寄せる。

「御安心なされいや。おらは暴れもせんし、死にゃあせんし」

「ふむ。ならば、糸丸の行く末を見定めた後、我の元に戻るが良い」

「そったら、急いで行ってくるいや」

 チヨが叢雲を地面に降ろすと、叢雲は優しい面差しを注いできた。

「無理だけはするでないぞ。我からすれば、おぬしは宝玉が如し」

「う……うん……」

 チヨは照れ臭くなり、声色を弱めながら俯いた。叢雲は幼妻の赤面した面差しをいつまでも眺めていたかったが、 そうもいかないので這いずって移動し始めた。チヨは叢雲に気を付けるようにと何度も呼び掛けた後、山道を転げる ようにして駆け下りていった。正直不安だったが、信じ合うのも夫婦の務めと己に言い聞かせ、叢雲は九郎丸が 移動した痕跡を辿っていった。それは赤黒い血痕で、点々と木々の葉を濡らしていた。その滴が古いものであれば あるほど周囲に影響を及ぼしていて、血の滴が落ちた葉どころか木自体が枯れ果てていた。山の生命力を吸って いるのだろうか、ただ単に障気が濃すぎるだけなのか。いずれにせよ、あまり長らえてほしくない相手だ。
 その正体が、なんであろうとも。





 


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