鬼蜘蛛姫




第十二話 幸福は絹の如し



 糸を売らないか、と言った。
 すると、案の定、八重姫は不可解極まりない顔をした。それは予想していた通りの反応であり、自分がもしもそう 言われたとしたら同じ顔をするに違いないと九郎丸は思った。だが、敢えて反応を返さずに捲し立てて畳み掛けて やることにした。絹糸よりも丈夫でありながら美しい糸だなどとクチバシが浮くような文句を次から次へと並べ立て、 褒めて褒めて褒め殺ししてやると、八重姫は少しばかりその気になってくれたようだった。だが、本気で信用して くれたわけではないらしく、紡錘で巻き上げた糸玉を渡してくれはしなかった。
 端から上手く行くとは思ってもみなかったが、これは手強い。いつものように八重姫の住まう洞窟の手前に生えた 木に留まった九郎丸は、大岩の上に据えられた小屋で糸丸を構っている八重姫を注視した。だが、愛する姫と同じ 顔でありながらも中身が別物の蜘蛛女は、九郎丸の様子がおかしいと悟っているのか隙を見せることはなかった。 常日頃から人間を忌み嫌っている自分が人間と交流を持とうとする、などと、自分でもおかしいと思うぐらいなのだ から、八重姫からすればそれはそれは気色悪いであろう。かといって、他の手立てを考えている暇があるとも思い がたかった。こうしている間にも、影の中に隠したあの刀は、九郎丸の妖力を吸い続けているのだから。

「何がしたいんね、鴉どん」

 木の下から、怪訝そうにチヨが見上げてきた。その肩には、蛇同然の体格の水神が絡んでいる。

「また良からぬことを企んでおるのではあるまいな」

「そんなんじゃねぇや。俺がそこまで腹黒いとでも思ったか」

 九郎丸が毒突くと、チヨは言い返してきた。

「腹も何も、どこもかしこも真っ黒けでねっか。あんまり悪さばかりすっと、八重姫様に言い付けるでな」

「往くぞ、チヨや。あまり奴にばかり構っておると、今度は我とそなたが憂き目を見かねぬ」

 叢雲は細い尾を振り、新妻の二の腕に絡めた。チヨは頷き、足取りも軽く洞窟に入っていった。その様はすっかり 板に付いたもので、どことなく夫婦らしさが滲み出るようになっていた。素直に羨ましいと思った反面、腹が立つほど 苛立ちもする光景である。九郎丸はやり場のない感情を持て余しつつ、再度思案した。要するに、八重姫に素肌を 曝させる隙を作らせたいのである。そのためにはまず、土台作りが欠かせない。八重姫が自らの口から吐き出して 紡いだ糸を人間に売るようになれば、随分と金が貯まる。嫁入りに憧れて止まない八重姫のことである、白無垢を 手に入れようとするはずだ。いつもの着物からその白無垢に着替える瞬間、身も心も無防備になった八重姫に件の 刀で斬り付けて上半身と下半身を両断し、上半身だけを持ち去ってしまうのだ。しかし、物事はそう上手くいかない ものであり、謀略を巡らせるどころかその取っ掛かりですら掴めなかった。
 悶々としている九郎丸の耳に、糸丸の辿々しく舌っ足らずな音読の声が聞こえてきた。大名の跡継ぎに相応しく、 読み書きを教えているらしい。だが、読ませている文章が余程古いものらしく、今時は耳にしないどころか誰も口に しないような単語ばかりであった。それどころか、祝詞でしか語られないであろう言葉が次々に出てくる。となると、 恐らく糸丸に読ませているのは、叢雲を奉る神事に欠かせぬ書物なのだろう。そんなものを読み書き出来るように なったとしたら、末路は大名ではなく神主ではなかろうか。それなのに、八重姫やチヨは糸丸が文字を読めるように なったのだと言って喜んでいる。見当違いも良いところの皆になんだか腹が立ってきた九郎丸は枝を蹴り付けると、 滑るように洞窟に突っ込んだ。小屋の入り口に着地した九郎丸は、勢い良く引き戸を開けた。

「なんてもんを読ませてんだい!」

 九郎丸の乱入に、幼子を囲んで巻物を広げていた面々は鬱陶しげな目を向けてきた。小屋の板床に伸びている 書物は思った通りの代物で、ミミズがのたくったような古語が連なっていた。チヨはむっとし、九郎丸を睨む。

「邪魔するんでねぇいや、鴉どん。せっかく糸丸が字を読めるようになってきたんだすけん」

「うん、そうだよ! あのね九郎丸、この字はね……」

 嬉々とした糸丸は巻物を差し、字と単語を読み上げようとしたので、九郎丸はその巻物を引ったくった。

「大名になろうって男が読む代物じゃあねぇ!」

「母上、九郎丸が意地悪したぁ!」

 途端に笑顔を失った糸丸が八重姫に泣き付いたので、八重姫は目を全て開いて九郎丸を見据えた。

「わらわの息子に、なんたる仕打ちぞ」

「うむ。面白くないのであろうが、相手は幼子である故」

 叢雲までもが八重姫に同調したので、九郎丸は本気で呆れた。巻物を丸め、それで皆を指し示す。

「いいかお前さん方、この時代、そんなもんが読めるようになっても何の意味もねぇんだからな? 神主になるってぇ んならまだしも、こいつは大名になるやもしれねぇ血筋だぞ? そういう輩が読むのは、唐渡りの兵法書に決まって んだろうが。そうでなかったら、学術書だ、学術書。教えるんなら、もっときちっとしたのを教えやがれ」

「ヘイホーって何だいや」

 チヨがきょとんとすると、叢雲も首を捻った。

「ついぞ存じておらぬ」

「そなたのくせに難しい言葉を使うとは、随分な身の程知らずぞえ」

 八重姫も意味が解らなかったようだが、それを誤魔化すように苛立ってみせた。九郎丸は歯痒くなる。

「だぁから、兵法だよ兵法! 一介の侍ならまだしもだ、大名になろうって輩が兵士の動かし方一つ知らねぇでこの 戦国乱世を生き延びられるわけがねぇだろ! どいつもこいつも物を知らねぇんだな!」

「ならば、最初からそう申してくれれば良かろう」

 八重姫は負け惜しみのように毒突いてから、九郎丸の手から巻物を奪い取った。

「そこまで言うのなら、そなたはわらわの糸丸に兵法と学術を授けられる者を知っておろうな?」

「お、おうよ」

 と、大見得を切ってから、九郎丸は気付いた。そんな輩、知っているわけがないではないか。だが、ここまで言った のだから後には退けぬ。九郎丸は後退りつつ、表情を取り繕った。八重姫はまるきり信用していない顔をしており、 チヨはそれ以上に不審げで、叢雲はあまり期待していない様子で、糸丸はふて腐れていた。場の空気はねっとりと 手足にまとわりつくほど重たく、居心地は極めて悪い。九郎丸は更に後退り、足に触れた糸玉を拾った。

「そんなら、こいつは対価にもらっていくぜ。何もないんじゃ、相手方もうんとは言わねぇだろうよ!」

 小屋から飛び出す直前に八重姫に文句を言われたような気がしたが、それを振り切って翼を広げると、洞窟から 飛び去っていった。その間にも、あの刀に着実に妖力を吸われ続けていて、苦でもなんでもなかった空を飛ぶことが 辛くなり始めていた。体が異様に重く、翼を広げて風を起こしても体が浮き上がらないのである。なけなしの妖力を 使って風を操り、辛うじて空を飛ぶ格好を取ることは出来たが、いつまで持つかは解らない。それでも踏ん張ろうと 思えるのは、ひとえに八雲姫への忠誠心からである。それがなければ、当の昔に折れていたはずだ。
 身も心も。




 差し当たって目に付いた侍は、大当たりであった。
 羽ばたくたびに何枚もの羽根が抜け落ちてはいたが、九郎丸はどうにかこうにか城下町まで降りた。そこで真っ先 に目にした侍が、早川政充その人であった。理由は解らないが、政充は蜂狩貞元が根城にしていた無縁寺の手前に 馬を駐めていた。無縁寺の中は、朝日を浴びて焼け尽くされた蜂狩貞元の影響をもろに受けたらしく、草一本も 生えていなかった。それどころか死体の数が増えていて、干涸らびて皮が貼り付いた骸骨だけでなく、比較的新しい のか肉が付いている死体までもが転がっていた。政充はそれを検分するためなのか、無縁寺の境内へ繋がる石段 を昇ろうとしていた。蜂狩貞元の本体とも言うべき当世具足は糸に引っ掛かったまま、木からぶら下がっていたが、 日当たりが良いからかその中身は空っぽだった。だが、その周囲には並大抵ではない障気が渦巻いており、貞元が 目覚めずとも、障気に誘き寄せられた亡霊が寄ってくる。羽虫の如き亡霊であろうとも、それを喰らって貞元が妖力を 取り戻しでもしたら刀を奪い返されるどころの騒ぎではない。そう危惧した九郎丸は政充の頭上に音もなく近付くと、 背中から抱えて天高く飛び去っていった。
 帰った先は、もちろん八重山の洞窟である。九郎丸に抱え上げられていた政充は最初こそ暴れたが、状況を理解 するとすぐに大人しくなった。兵法はともかくとして、侍なのだから読み書き計算は出来るであろう。九郎丸は政充を 洞窟に連れ込んでから小屋の中に転がすと、空威張りした。八重姫と叢雲は早川政充をじっくりと検分すると、害の ない相手だと判断したようで、刀と脇差しを取り上げてから糸丸に差し出した。その後にやってきたチヨは珍しい来客 を見た途端に恐れおののいたが、徐々に慣れていった。叢雲も、遠巻きに侍を見回していた。
 早川政充と名乗った侍は、均整の取れた体付きと相まった涼しげな面持ちが麗しい男であった。見た目だけでは 何人もの女を泣かせていそうな男なのだが、それに反して博学であり、剣士でもあった。読み書き計算だけでなく、 兵法にも通じており、この田舎には勿体ないほどの学を持っていた。だが、子供の扱いだけは不慣れらしく、糸丸が 政充に近付こうとすると及び腰になっていた。侍としての自尊心がそうさせるのか、八重姫やら九郎丸やら叢雲やら と相対しても臆しないのであるが、子供だけがどうにも苦手らしい。早川政充の上司である荒井久勝に怪しまれては いけないので、九郎丸は夜明けを迎える手前で政充の住まいである早川家に政充を送り届け、その翌日からは彼が 仕事を終えた頃合いを見計らって攫うようになった。
 その日もまた、九郎丸は政充を攫いに行った。春が終わって初夏が訪れるようになっても、そんな暮らしは続いて いて、当初は九郎丸から逃げ出す頃合いを計っていた政充も素直に従うようになっていた。単なる諦観か、或いは 九郎丸のような腹積もりがあってのことなのか。その真偽を問い質すため、その日だけは九郎丸は八重山に直行 せずに八重姫の縄張りから離れた山林に飛び込んだ。九郎丸は政充を夏草の中に転がし、手近な枝に座る。
 
「なあ、おい。御侍よ」

「何用か」

 政充はそれなりに警戒心を抱いているのか、腰に提げた刀に手を掛けた。九郎丸は枝に寝そべる。

「お前さんは何を考えている?」

「そなたこそ、何を考えている。拙者はあの御方が殿の御嫡男であると存じ上げているからこそ、そなた達のような 妖怪に付き従っているまでのこと。事と次第によっては、斬る」

 ぱちん、と親指で鍔を押し上げ、政充は腰を落とす。政充の目を見た限り、その言葉は嘘ではないらしい。八重姫 から命じられるままに糸丸に勉学を教えているのも、荒井久勝への忠誠心によるものだろう。世継ぎが立て続けに 死んでいる荒井家を存亡の危機から救うには、ただ一人の生き残りの嫡男である糸丸を生かし、藩を支えられる力量 の侍に育て上げるしかないのだ。見上げた心意気だが、これで八重姫の隙を作りやすくなった。まどろっこしいことをする 必要がなくなったばかりか、もっと簡単な方法を思い付いた。九郎丸は手をひらひらと振る。

「生憎と、俺はお前さんみてぇな侍と真っ向からやり合うつもりはねぇんでな。ただ、腹積もりを聞かせてもらいたい っつうだけさな。その内容如何によっちゃあ、手を貸してやらんでもねぇぜ?」

「その言葉が信用に値するであろう、証しを示してはくれぬか」

 政充は木々の隙間から僅かに差す西日を宿した瞳を、震わせた。九郎丸は懐から糸巻きを出す。

「こいつだよ。こいつの糸の先っちょはな、お前さん方が憎んで止まねぇ蜘蛛女の首根っこに繋がってやがる。だから、 俺がちょいとこの糸を引っ張ってやりゃあ……」

 と、九郎丸が糸巻きの糸を一抓みして引っ張ってみせると、政充は身動いだ。

「だが、俺はまだその糸を引っ張りはしねぇ。なぜなら、俺はお前さん方と手を組みたいと思ってるからよ」

「何故に」

 政充は月代に薄く汗を滲ませつつ、九郎丸を窺ってきた。食い付いてきた、と九郎丸は笑みを浮かべる。糸巻きの糸を 八重姫の首に掛けてある、などということは真っ赤な嘘だが、信じてくれたのならそれはそれで構わない。

「そいつぁ簡単だ、俺もあの蜘蛛女を始末してぇと常日頃から思ってきた。けどな、あいつの寝首を掻くなんざ、到底 不可能ってなもんでな。俺一人で出来る仕事じゃあねぇ。首に引っ掛けてある糸だって、引っ張る前に気付かれでも したら一巻の終わりよ。だから、まずはお前さんが囮になっちゃくれねぇか」

「その手筈は」

 政充の頬から顎に掛けて一筋の汗が伝い、草を叩いた。九郎丸はクチバシをさする。

「そうさな……。お前さんはいつも通りに糸丸に読み書きを教えてやっちゃくれねぇか。だが、その途中で、荒井久勝 からの言伝があるとかなんとか言っちゃくれねぇか」

「それはまた何故」

「解り切った話さな、あの蜘蛛女はお前さん方の殿に惚れてやがんのさ。荒井久勝の名前をちらっとでも出したら、 途端に腑抜けっちまう。その間は隙だらけだ。荒井久勝から来た文書があるとか言って、懐をごそごそ探ってみる のもいいかもしれねぇな。そうだな、それがいい。その最中に、俺はぐいと糸を引いてやるって算段よ」

「相分かった」

 政充は鍔を下げると柄からも手を外し、少しばかり体の力を抜いた。

「ならば、その後、拙者はお世継ぎを悪しき蜘蛛妖怪の元から連れ出そう。そなた達に付き合っていたのは、元より そのつもりでいたからでござる。鴉天狗どのは蜘蛛妖怪を屠り、拙者はお世継ぎをお救いする。それで良いな」

「応」

 九郎丸はクチバシを広げ、笑ってみせた。荒井久勝からの伝令がある、などと言ってやれば、日頃から荒井久勝に 恋い焦がれている八重姫は妖怪からただの女に成り下がるという寸法である。上手くいく保証はないが、蜂狩貞元から 奪った例の刀を操れるだけの妖力が残っている間に、事を済ませなければ。
 政充は九郎丸に抱えられると、いつものように八重山に向かった。その頃になると辺りは薄暗くなっており、黄昏 時であった。八重姫の住まう洞窟の周囲は木々が深く生い茂っているので、闇は一際深まっていた。政充が訪れる 頃にチヨがいないのは常であったが、叢雲までいなくなっているのは珍しかった。いつもは糸丸に付き添い、幼子と 共に下界の理解を深めようと勉学に勤しんでいるのだが。恐らく、今日に限っては新妻と共に住み処に戻っていった のだろう。となると、尚更都合が良い。慈悲深い叢雲のこと、八重姫を屠ろうとすれば阻んでくるだろうから。
 小屋に入った途端、待ち兼ねていたのか糸丸が駆け寄ってきた。政充が持ち込んだロウソクに火を灯してやると、 糸丸は目を輝かせながら政充の袴を掴んだ。当初は見慣れぬ人間に臆していたが、すっかり懐いている。

「先生、先生!」

 糸丸は政充に縋り、既に硯と筆が用意されている文机に導いた。政充は少し笑い、未来の主君に従う。

「あまり焦るでないぞ、糸丸や」

「そうとも。焦らずとも、そやつは逃げはせぬ」

 八重姫は小屋の土台である岩に乗ると、上半身を寝そべらせた。糸丸は紙を広げ、下手な字を見せる。

「先生、お習字、上手に出来ました! 母上は上手だって褒めて下さりました!」

「そうだな。前よりは随分と上達しておるが、まだまだ練習せねばならぬぞ」

 政充は文机の前で胡座を掻き、糸丸を座らせた。糸丸は膝を揃えて正座し、明るく返事をする。

「はい、解りました、先生」

「では、今日はどこから教えてやろうぞ」

 政充はわざとらしい笑顔を浮かべ、糸丸に向き直った。小屋の屋根から事の次第を窺っている九郎丸は、それが 怪しいと八重姫に感付かれやしないかと気を揉んだが、八重姫は糸丸の喜びように目を細めていたので、政充の 様子の違和感を悟られてはいないようだった。政充はこれまでに八重姫に命じられて持ち込んだ書物を広げると、 糸丸に字を読ませてから書き取らせた。それをしばらく続けた後、政充は思い出したように顔を上げた。

「鬼蜘蛛の姫よ」

「何ぞ」

 不本意げに糸丸から目を外した八重姫に、政充は歩み寄り、膝を付いた。

「先日、殿へとお世継ぎが御無事であることをお伝えいたして候。よって、殿からの言伝がござります」

「久勝かえ」

「いかにも」

 政充は改まった態度になり、懐を探った。八重姫は恥じらいと期待を交えた面差しになり、暗がりでも解るほどに 頬を染めて政充の手元を見つめている。糸丸は大好きな先生が母親に取られて悔しいのか、むっとしている。政充 は懐に入っているはずもない書き付けを取り出すかのように、手拭いを握り、九郎丸に目配せした。
 心持ち身を乗り出して政充の懐を凝視している八重姫は、そわそわしていて落ち着きがなくなっていた。下半身の 八本足も浮き足立っていて、ざわめいている。その様だけで、久勝に恋い焦がれているのが良く解るが、九郎丸も 九郎丸で八雲姫に焦がれているのだ。他人の恋路に己の恋路を譲れるほど、心が広いわけではない。クチバシを 薄く開いた鴉天狗は、闇に溶けている己の影に右手を差し込んだ。水よりも重たく冷たい中を探り、手応えを感じて 柄を握った途端、干涸らびるかと思うほどの妖力が吸い取られた。実際、右手の袖が窄むほど羽根が抜けて舞い、 束の間黒い雪が降る。だが、そんなことで負けられるものか。九郎丸はかさかさになった指で悪しき刀を握り締め、 クチバシをきつく結ぶ。翼を広げ、震えの止まらぬ膝を曲げて背後の岩に噛ませる。

「ケェエエエエエッ!」

 己の体を弾き飛ばした九郎丸は、八重姫が振り向く寸前に刀を振り抜いた。扇の如く広がった黒髪の下で八つの 目が零れんばかりに見開かれ、紅を差した唇が引きつっていた。その肩越しに見える糸丸は筆を取り落とし、母親 の上半身が宙を舞う様を見つめている。返り血をもろに浴びた政充は眉を顰めたが、袖で顔を拭った。
 力を失った下半身の八本足が全て折れ、弛緩し、岩から崩れ落ちる。人間の骨格と蜘蛛の外殻が融合した部分を 上手く断ち切れたようで、上半身が纏っている着物の裂け目からは白い背骨と肉が覗いていた。巨大な下半身は 仰向けに転げ、何度か足を蠢かせたが、それきりだった。九郎丸は刀をぞんざいに放り投げて、胸を破りかねない ほど高鳴る鼓動に打ち震えながら、上半身に近付いた。政充はぎゃあぎゃあと泣き叫ぶ糸丸を脇に抱え、九郎丸の 脇を擦り抜けて岩を足掛かりにして降りていった。彼は地上に降りてすぐに駆け出し、夜の森に消えた。
 喉がひりつき、目眩がする。毒々しい血にまみれた両手を広げた九郎丸は、恐る恐る八重姫の上半身を抱えて 仰向けにさせた。滝のように滴り落ちる血を少しでも止めるため、着物の帯を解いてやると、傷口に巻いた。当然、 帯が緩んだために襟元も綻んで白い素肌が垣間見えた。九郎丸はぎくりとしたが、すぐさま飛び降りて洞窟の奥に ある八雲姫の墓を暴き、小さな肝を取り出した。泥にまみれて乾き切った肉片ではあったが、流れ出した血で泥を 洗い流してやってから、八重姫の上半身の胸元に爪を差し込んで切り開いた。豊かな乳房と肋骨の下には肺袋が あったが、その間が空虚であった。九郎丸は浅く息を吸い、吐き、唾を飲み下してから、そこに肝を収めた。
 そして、愛する姫の名を呼んだ。





 


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