鬼蜘蛛姫




第十三話 裁かれぬ業苦



 呪いは嘘だ。だが、毒は嘘ではない。
 故に、女をどうにでも出来る。どうせ、こんな貧しい藩主の元に来るのは武家の厄介者であり、どう扱っても文句は 言われない。女の方もそれを解っているから、文句を言うこともない。悲しいまでに利害は一致していて、不利益を 被るのは力一杯花を咲かせても葉や花を毟り取られるマンダラゲぐらいなものだ。
 腹違いの兄の元に嫁いできた若い娘は、両腕が生まれ付き生えていなかった。着物の両袖は常にだらりと垂れ 下がり、何をするにも従者の娘に任せていた。だが、顔付きは驚くほど整っていて息を飲むほどであり、思うがまま に動けない退屈を紛らわすために書物を読み漁っていたからか、女でありながらも教養を備えていた。兄嫁の名は 佐々木みつといい、腹違いの兄はみつの美しさに心底惚れ込んだのか、周囲の者が呆れるほど可愛がっていた。 理知的な娘であったが少々変わった部分もあり、誰もいない場所を目で追ったり、声を掛ける素振りを見せたりと、 まるで目に見えない何者かを捉えているかのようでもあった。だが、それも度を過ぎることはなく、誰に対しても態度が 控えめなので城の者達にも好かれていた。懸念があるとすれば、なかなか子に恵まれないことであった。
 ある日の夕暮れ、久勝は本丸の下に通り掛かった際に、三階から下界を望んでいたみつに呼び止められた。兄に 見つかれば妙な勘ぐりをされかねないが、みつから話し掛けられるのは滅多になかったので、余程のことなのだ ろうと思った久勝は本丸の三階に上がった。すると、窓から外を望んでいたのはみつだけであり、彼女に常に寄り 添っている従者の娘はいなかった。もしや、誘うつもりではあるまいか。そう邪推した久勝は一瞬躊躇ったが、西日 による茜色の輪郭をみつの姿は怖気立つほど美しく、馬鹿げた下心が萎むほどであった。

「どうぞこちらへ、久勝様」

 涼やかな声に促され、久勝は兄嫁に歩み寄る。

「いかがなされた、みつどの」

「御心配なさりませぬように先に申しておきまするが、私は久勝様と契りを結ぼうとは思うてはおりませぬ故」

 くすりと笑みを零したみつに、情けない内心を見透かされていた久勝は恥じ入った。

「そのようなこと、当たり前のことではありませぬか」

「久勝様がよろしゅうござりましたら、今しばらく、御時間を頂けませぬでしょうか」

「何故に」

 窓縁に腰を下ろしているみつと距離を保ちながら、久勝は手近な梁に腰を下ろす。

「この城には、糸が見えるのでござりまする」

「糸? 儂にはそのようなものは……」

 みつの目線を辿った久勝は目を凝らすが、庭には鮮やかな西日が差しているだけであった。

「物心付いた頃から、私は少々妙なものが見えるのでござりまする」

 みつは空虚な袖を窓枠にもたせかけ、遙か彼方で朱色に染まっている八重山を望む。

「この城に嫁いできた日から、目にしておりました。その糸はあの山から長く長く伸びており、城をゆるりと囲んで おりまする。御庭にも、城の中にも、塀にも、糸は張っておりまする。けれども、その糸は現世のものではありませぬ 故に、皆、通り抜けるだけでござりまする。糸の主が誰かまでは解りませぬが……その糸が特に強く絡んでいるのは 久勝様に他ならぬのでござりまする」

「……糸」

 まさか、あの三文芝居のせいか。まさかそんな、と久勝が笑いを浮かべかけたが頬が強張った。

「お心当たりがござりまするのですか、久勝様」

 みつは矢尻の如き眼差しを、久勝に据えてくる。しかし、久勝は答えられなかった。八重姫と戦っているかのような 芝居をしたことを明かすこととなれば、すなわち蜘蛛の呪いも明かすということになる。だが、みつは遠からずその 呪いを受ける身の上であり、久勝が調合した毒を含ませる相手だ。それ以前に、蜘蛛の呪いは家督を継ぐ者以外 には明かしてはならない秘密の中の秘密だ。一言でも教えでもしたら、城中に広まるどころか藩の存続すらも危うく なるやもしれぬ。久勝は首筋から粘つく汗が滲み出し、ぬるりと肌を舐めた。

「その糸の多くは久勝様に絡み付き、いずれもあの山へと伸びておりまする。お世継ぎを控えた大事なお体でござり まする、どうかお気を付けなされませ。この糸の主がいかなる物の怪であるかは存じておりませぬが、これほどの糸を 張り巡らせるのですから、余程のものでござりましょう。ですので、あまり相手を煽るようなことはなさらぬよう」

「はて、何のことやら」

 みつを正視出来なくなった久勝が目を泳がせると、みつは僅かに目を細める。

「御無礼を承知ではありまするが、御忠告申し上げました。毒を含む覚悟は出来ております故」

「そなた、どこでそれを」

 久勝が慌てると、みつは着物の裾の下で細い足を擦る。

「久松様にでござりまする。私は見ての通りの体でありまするが、近頃、体の具合があまり思わしくありませぬ故に 久松様に御相談しましたところ、何も心配はいらない、たとえその時が来ようとも穏やかに眠り込める、とだけ申して 下さりました。久繁様の御側室であり久松様の御母上様であるせり様は、それまで御元気だったというのに久繁様 から贈られた飴湯をお飲みになってから間もなく倒れられ、それからただの一度もお目覚めになることなく、数日後 にお亡くなりになったと、久松様から聞いておりまする」

 久松とは腹違いの兄の名であり、せりとはいつのまにか姿を見なくなった側室の名だ。

「せり様は口が利けぬ御方であったと存じておりまする。また、久照様の御母上であらせられる、とよ様も長らく肺を 患っていたと存じておりまする。他の御母上様方も、私と同じようにどこかしらがお悪うござりました。そんな女達を 娶って下さる荒井家はお優しゅう家柄でござりまするが、皆様方は子をお産みになり、十年もしないうちにお亡くなり になられまする。その少し前に、必ず久繁様が甘いものを振る舞われまする。私にも覚えはござりまする、幼き頃、 苦き薬を飲むのが嫌だと駄々をこねましたらば、飴湯に混ぜたものを匙で掬って含ませて頂きました。それと同じこと なのでござりましょう。きっと、何か重大な理由があるのでござりましょうぞ。女の身の上では、到底与り知れぬこと であろうとも察しておりまする。ですので、どうかお忘れ下さりませ」

 みつは窓の側から離れると、床に膝を付いて深く頭を下げてきた。久勝は喉が干涸らびて痛みすら生じるほどに 動揺していたが、ねじ曲がった安堵感を覚えてもいた。あれほどまでに業の深い秘密を、世継ぎである自分一人で 守り通すのは辛すぎる。父親が母親らを毒殺した事実も、その父親らがその母親らを毒殺していたであろう過去も、 また、女を娶れば必ずその女達に毒を含ませなければならない現実も、青年になったばかりの久勝には重たすぎる ものばかりであった。秘密を共有する相手が出来れば、その重荷を少しばかり下ろせる。だが、あまりにみつと 親しくなれば兄から不貞を疑われるどころか、みつに含ませるための毒を作るのを躊躇ってしまいかねない。
 久勝は迷いに迷った末、その場から離れることにした。だが、みつと交わした会話は忘れられず、みつが一人で いるところを見計らって近付いては話し込むようになった。その内容は、みつが日頃目にしているという奇妙な者達 に関するものばかりであった。城中を騒がす噂話や城下の流行りものについても話したりもしたが、久勝の好奇心が くすぐられるのは現実離れした話だった。みつが言うには、久勝らが過ごしている常人の世界にもう一つの世界が 薄膜を重ねるかの如く寄り添っているのだそうだ。それはあの糸の主や霊魂の行き着く先であり、滅多なことでは 互いの世界が接することはないが、人間が恨み辛みといった激情を滾らせると、そちら側の世界と近付いてしまう のだそうだ。だが、そちら側の住人がこちらの世界で長らえるためには依り代となる獣や品が必要なので、接したと してもすぐに消え失せてしまうらしい。糸の主もそちら側の住人なのか、と久勝が問うと、十中八九そうであろう、と みつは答えた。更に、そちら側からこちら側はよく見えるが、こちら側からはそちら側はよく見えない、故にそちら側 と密接な場所では粗相をしないように、とも忠告された。久勝が八重山で繰り広げた三文芝居はその粗相に当たると 見て間違いなく、久勝に糸が絡み付いているのもそのせいであろう。
 埋め合わせをした方が良い、とみつから言われたが、久勝にはどうやって亡者に償えばいいのか、まるで見当が 付かなかった。相手は馬鹿でかい蜘蛛であって、人間ですらなく、そもそも儀礼を払うべき相手なのかすら怪しい。 しかし、みつの助言を無下にするのも良くないのでは、と判断した久勝は遠乗りだと称して、八重山へと出向いた。 念のために熊避けの鈴を下げて馬に跨り、しなやかに伸びた稲穂が揺れる田園を横目に進んだ。
 また農民達に引き留められるのではないかと危惧したが、そんなことはなかった。不思議なことに、農民達の姿が まるで見えなかった。そして、農家の軒先には奇妙なものが打ち付けられていた。それは強烈な毒針を隠し持った 大振りなハチで、黄色と黒の腹をうねらせながらびいびいと羽を震わせていた。胴体を釘で打ち抜かれ、玄関先の 柱には何匹ものハチが止められていた。それも一軒や二軒ではなく、人間が住んでいるであろう家屋には必ずハチ が打ち付けられている。久勝は薄ら寒いものを感じたが、馬を進めていった。
 叢雲神社に差し掛かると、神社の境内には戸板に載せられた死体が横たえられていた。大方、八重山を越えようと して足でも踏み外したのであろうが、それにしては死に方が変だった。刀傷のように鮮やかな切り口で手足が切断 されており、はらわたが引き摺り出されているばかりか、そのはらわたが喰い荒らされている。熊避けの鈴を付けて きて正解だった、と久勝が懐で揺れる鈴を確かめると、社から神主が顔を出した。

「これはこれは、久勝様ではありませぬか」

「遠乗りに来たのだが、熊でも出たのか?」

 久勝は馬から下り、空の背負子を背負った行商人の死体を一瞥すると、老齢の神主は顔を曇らせた。

「そのような生易しいものではありませぬ。蜘蛛が出たのでござりまする」

「ほう」

 久勝は袖に手を入れ、汗ばんだ手を隠した。神主は臆しているのか、声色が沈んでいる。

「久勝様も御存知ではありましょうが、八重山には古くから住み着いている鬼蜘蛛がいるのでござります。恐ろしい 人喰い妖怪でござりまして、八重山に通り掛かる旅人を次から次へと喰らっているのでありまする。久勝様はその 蜘蛛と渡り合ったことがおありだという評判ではありまするが、今日は昇られない方がよろしいかと」

「何故に」

「この季節になると、蜘蛛が山から下りてくるのでござりまする。ですから、皆の衆は、蜘蛛避けとして玄関にハチを 打ち付けているのです。ハチは蜘蛛を喰いますのでね」

「ならば、儂が討ってしんぜよう」

「で、ですが」

 神主はひどく狼狽し、言い訳がましい言葉を繰り返した。道が悪いだの、案内する者もいないだの、死体の血糊で 馬の蹄が滑るだの、などと。要するに久勝を八重山に登らせたくないのだろうが、そこまで反対されると逆にその気 になるのが人間のおかしなところである。久勝は神主を振り切ると馬に跨り、一直線に八重山を目指した。
 道ならば、以前来た時に頭に叩き込んである。斜面に合わせて曲がりくねってはいるが、ほとんど一本道なので 踏み固められた道から外れなければどうということもない。それに、神主の態度からして、麓の農民達は何かしらを 隠し立てしているとしか思えなかった。その割には久勝を引き留める態度が緩かったのが気に掛かるが、荒井家の 馬の足には追いつけないと踏んだのかもしれぬ。本物の蜘蛛妖怪とは相見えられないかもしれないが、蜘蛛妖怪と して恐れられているものの正体は突き止められるかもしれない。
 死体を載せた戸板から零れ落ちたであろう血の滴が点々と落ちていて、道順を辿るのは造作もないことだった。 久勝は行けるところまでは馬で行き、険しくなってきたら下りて己の足で進んだ。所々で血の痕が途切れていたりも したが、なんとか辿り続けると、視界が開けた。そこは八重山の裏手で切り立った崖があり、その見晴らしの良さに 束の間見取れてしまいかけたが、足に何かが引っ掛かったので素早く身を引いた。すると、崖沿いの道を横切って 糸が張られており、後退した木々の間にも糸が張られていた。腰を落としたまま背後を窺うと、雑草の間に光るものが 隠れていた。それは斜めに立てられている短刀で、生々しい血の筋が絡んでいた。

「そういう絡繰りか」

 久勝は納得すると共に、少し苛立ちもした。つまり、崖沿いの道を通ってきた人間は足に引っ掛かった糸に驚いて 木々の間に後退り、そしてまた再度糸に引っ掛かって飛び退いた際に短刀で背中を貫かれる、という手筈だろう。 だが、それは旅人が八重山の蜘蛛妖怪の存在を知っていなければ成り立たない脅しであり、仕掛けなので、恐らくは 八重山の反対側に住んでいる者達がたっぷりと妖怪譚を吹き込んでいるのだろう。

「そしてその後は、そなたらが荷を奪うのだな?」

 久勝は抜刀して呆気なく糸を断ち切ると、短刀が隠れている草むらの周囲に目を配らせた。すると、ざざざざっ、と 雑草が波打っていくつかの足音が遠ざかっていった。その足取りは慣れたものだが気配を殺し切れていないので、 農民らしいといえばらしいのだが。深追いして確かめるまでもない、麓の集落の農民達が追い剥ぎをするために、 蜘蛛妖怪の昔話を利用して人殺しと盗みを隠していただけなのだ。久勝の三文芝居に対しての大袈裟すぎる反応 も、今にして思えば、同じ集落の農民が侍に切られたのではないかと冷や冷やしていたからだろう。

「つまらぬ」

 蜘蛛の呪いも、蜘蛛妖怪も、突き止めてしまえば何のことはない。刀を収めた久勝は落胆し、辺りを睨め付けた。 久勝の隙を窺っていた者もいたようだが、逃げ出していった。みつが話してくれた奇怪な化け物話を全て信じていた わけではないが、そうであったら面白いだろう、とは思っていた。だから、蜘蛛妖怪に出会えたとしたら、恐ろしさよりも 喜びが上回るかもしれない。ただでさえ荒んだ世だ、それぐらいの幻想を望んでも罰は当たらないであろう。
 久勝がその場から立ち去ろうとすると、糸が弱っていたのか、襟に入れておいた熊避けの鈴が一つ外れて転げた。 ころり、と可愛らしい音色を零しながら、小さな鈴が小石の間に挟まる。久勝は腰を屈めてそれを拾い上げたが、 目の端に誰かの影を認めた。すかさず身を翻して刀の柄に手を掛け、息を詰める。

「何奴!」

 久勝が目を配らせていると、その影は山中に似付かわしくない鮮やかな色合いを纏っていた。朱色に椿の刺繍が 艶やかな着物を身に付けた、若い女であった。女は久勝と目が合うや否や、立ち去ってしまった。もしかすると、 あの行商人の連れかもしれない。ならば、一人で行かせてはまずい。久勝は刀を収めてから、女を追う。

「待たれよ! 儂はそなたに刀は向けぬ!」

 だが、女の歩みは止まらない。木の根や積もった落ち葉で足元が悪いはずなのに、するすると前に進んでいく ので見失いそうになる。久勝は時折蹴躓きかけながら、意地で追い掛けた。怯えられる筋合いはないし、女を守って やるつもりでいるのだが、これは心外だ。先程感じた落胆から生じた苛立ちも相まり、久勝の歩みは荒くなっていく。 木々が拓けて滝壺が現れると、女は振り向いた。
 久勝は吐き付けてやろうと喉の奥まで込み上がっていた文句を、 反射的に押し止めてしまった。早足で追い掛けていたために上がりかけていた息までもが詰まり、滝壺に流れ込む 水音すらも聞こえてこない。吹き抜けてきた一陣の風が薄く滲んだ汗を乾かし、瞼を閉じることを憚るあまりに乾き 切った眼球から更に水気を掠め取っていく。それでも尚、瞬くことも息を吸うことも出来なかった。

「そなたは、荒井の者ぞ」

 鮮血の如き紅を差した唇から零れた声色は、化け物らしいおぞましさと濃密な色香が複雑に絡んでいる。

「糸を掛けておいたのだが、それを引く手間が省けたのう」

 風を孕んで靡いた黒髪は黒曜石じみた艶を帯び、円熟した女の匂いが漂う。

「はて、喰うてしまおうかえ。それとも、嬲り殺してくれようかえ」

 袖口から覗いている指先は儚げで、華奢な首筋と同じく肌色は透き通るやもしれぬと思うほどに白い。

「そうでなければ、このわらわと斬り結ぶつもりかえ」

 女が目を見開く。切り揃えられた前髪が扇状に広がると滑らかな額に六つの横筋が現れ、その下に隠されていた 目玉が久勝を射竦めてくる。着物の裾が割れて真っ白く柔らかな太股が覗いたかと思うと、その足が巨大な蜘蛛に 変わっていく。気付けば女は高みから久勝を見下ろしており、馬を二頭並べても足りないほど大きな蜘蛛の下半身 から生えた八本の足が草を踏み躙っていた。
 これは現実なのか、それとも白昼夢なのか。或いは、みつの言うところのそちら側に足を踏み入れたのだろうか。 だとすれば、この蜘蛛の女は、蜘蛛妖怪としか思えぬ輩は、八重山に巣くう鬼蜘蛛の八重姫だというのか。

「そなたが興じていた一人芝居では、わらわを斬り捨てていたのかえ。ならば、その通りにしてみせい。さすれば、 わらわを斬れるやもしれぬぞえ。もっとも、斬られる前に喰うてしまうやもしれぬがのう」

 気付くと、久勝の首に糸が掛けられていた。いや、首だけではない。全身を糸できつく縛られ、少しでも身動いで しまえば耳や鼻が削げ落ちてしまいかねない。切れ味は相当なものなのか、糸と軽く擦れ合っただけで、袴の布地が 切り裂かれた。蜘蛛の女は袖で口元を隠し、八つの目を悩ましげに細めて久勝を眺め回した。目を合わせた途端、 久勝は熱いものが膨れ上がった。この女は人間ではない、女の形をしているがただの蜘蛛だ、荒井家と麓の集落の 悪事のダシに使われているだけのお伽噺の住人だ、これは悪い夢だ、だが、しかし。
 鬼蜘蛛の八重姫からは、人間ではないからこそ成し得られる美しさが迸っていた。久勝は生まれて初めて感じる 荒々しい性的衝動に震えながら、武士らしからぬ情けない言葉を口にした。その内容はあまり覚えておらず、貧弱な 語彙で八重姫の美しさを讃えていたように思う。すると、八重姫は容姿を褒められたことはなかったらしく、それまでの 態度とは打って変わって弱々しく顔を伏せた。

「わらわを愚弄するのかえ」

 袖の端から久勝を一瞥した八重姫の目元は、色気付いた年頃の娘のように赤らんでいた。

「また、そなたを尋ねてもよろしいか」

 久勝の精一杯の口説き文句に、八重姫は袖の後ろで小さく頷いた。その際に久勝を戒めていた糸が途切れた のか、自由が戻ってきたが唐突だった。至るところが火照っている久勝はろくな受け身も取れずに草むらに転がると、 襟元から鈴が一つ転げ落ちた。久勝は震える手でそれを握り、跪き、八重姫に差し出した。八重姫は恐る恐る久勝に 近付いてくると、小さな鈴を抓んだ。その指が手のひらに触れたはずなのに手応えはなく、冷気が掠めたかのような 感触が残っただけだった。生きる世界が違うのだと痛感し、久勝は頭を垂れたまま、逃げるように去った。
 あれほど美しい女を鬼として貶めている荒井家が、恥ずかしくてどうしようもなくなった。





 


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