鬼蜘蛛姫




最終話 絆されし魂



 金屏風の前に、三三九度の盃が設えられた三宝が据えられている。
 その傍には白無垢が飾られ、鮮やかな朱の敷物も敷かれている。荒井久勝はそれらを満足げに眺め、鬼蜘蛛の 八重姫が白無垢で着飾った姿を思い描いているのか、いつになく楽しそうだった。考えてみれば、この男の心から の笑顔を見たのはこれが初めてかもしれない。早川政充の姉であり正室であった咲との婚儀の際、政充も同席して いたのだが、久勝は終始仏頂面であった。元々愛想を振りまくような性格ではなかったが、あのマンダラゲの畑にて 政充と相対した頃から表情も生気も消えていったように思う。それもこれも、魔に魅入られたからだろう。
 雨脚は激しくなる一方であり、天守閣の瓦屋根に叩き付けられる雨粒も大きくなり、屋根の端から滴り落ちていく 水量も見るからに増している。雷鳴が轟く間隔も次第に狭くなっており、崩れ落ちるように荒ぶる破裂音が響くたび に糸丸はびくんと震えた。幼い我が子を膝の上に座らせてやり、政充はその背をとんとんと軽く叩いた。

「そう泣くでない、そなたの母が必ずや迎えに来ようぞ」

「う、うぅぅ……」

 糸丸は涙と洟でべたべたになった顔を政充の着物に擦り付けながら、深く埋めてくる。小さな手には渾身の力が 込められ、短い指先は血の気が失せて真っ白くなっているほどだった。チヨが首を刎ねられた際に出すものは全部 出してしまったからだろう、小水の生温い池は足元には広がらずに済んでいる。絞れるほどに濡れてしまった褌を 脱がせて手拭いでも当ててやりたいところだが、久勝がそれを許すまい。腹立たしさよりも情けなさが先に立って くるが、顔には出さなかった。久勝は名実共にこの城の主であり、政充の主であり、形の上では糸丸の父親なのだ。 そして、傍から見れば愚か極まりない一念を果たさんがために策を巡らし、そのためだけに何人もの人間を殺し、 死体と恨み辛みを積み重ねてきた。最早、何一つ躊躇いなどない。そうでもなければ、城内の者に毒を混ぜた酒を 与えるわけがない。久勝は朱塗りの盃の底に残っていた酒を呷ってから、口元を緩ませる。
 
「母か」

 その冷たくも粘り気のある口振りに、糸丸はひくっと悲鳴を上げかける。

「政充や。そなたと咲の血を煮詰めただけの子が、なぜ儂の触れられぬ八重に触れられたと思うか」

 肘掛けに肘を載せて頬杖を付いた久勝の目には、嫉妬が色濃く滲んでいた。政充は久勝の性根の幼さに笑いが 出そうになったが、背中を二三度引きつらせるだけに止めておいた。確かにそうかもしれない、十年以上も苦心して 八重姫に近付く手段を探っていたのに、餌として攫わせた糸丸が易々と八重姫に近付いたばかりか、その我が子と して育てられていたのだから。並々ならぬ執着心の持ち主だ、嫉妬心もそれ相応に強かろう。だから、糸丸を八重姫の 目の前で殺してやる、と言ったのもその実は糸丸に妬けて仕方ないからだろう。全くもってどうしようもない。

「答えよ」

 政充の反応の鈍さに焦れ、久勝は抜き身の刀を軽く上げる。

「御嫡男共々八重姫様と接する月日の浅い拙者では、与り知らぬところでござりまする」

 政充が謙って述べると、久勝の眉尻が吊り上がる。政充の口から八重姫の名が出たことすらも面白くないのだ。 だったら最初から他人を巻き込まないでくれ、と思わないでもなかったが、これもやはり口から出さなかった。久勝は 毒突きながら腰を落とし、手酌で盃に零れるほどの酒を注いだ。

「せんせぇ」

 泣きすぎて声を嗄らした糸丸が、政充を見上げてくる。政充は手拭いでその顔を拭ってやり、目を見て問う。

「何用か」

「僕と母上が仲良くするのは、そんなに悪いことなのですか」

「そのようなことがあるものか」

「じゃ、じゃあ、なんで父上はお怒りなのですか」

「それは拙者の口からは申せぬこと也」

「なんでですか」

「斬られてしまう」

「うぅ……」

 そう言われては問い詰めようがない。糸丸は納得しつつも不可解さを持て余してしまい、唸った。政充はその様が 可笑しくもあり、歯痒くもあった。今更ながら我が子としての実感が湧いてきた糸丸を守ってやりたいと思う一方で、 久勝だけならまだしも、蜂狩貞元が攻めてきたら、まず勝ち目はないと諦観している。万が一八重姫が牙を剥いて きたとしたらば、やはり同じ結末だ。政充はそれなりに剣術の腕は立つやもしれないが、退魔師ではないし、増して 常世の住人でもない。右腕の筋が削ぎ落とされたために普段通りに刀を振るえないであろうし、右耳も側頭部から 剥がれてただの肉片と化してしまったせいで、かなり音が聞こえづらくなっている。足腰にはまだ踏ん張りが利くが、 糸丸を守りながらの長丁場は耐え抜けまい。それでも、出来ることはあるはずだ。チヨもそう思っていたからこそ、 敢えて危険を冒して久勝の元に乗り込んできたのだ。糸丸もそうだ。女子供に先を越されてばかりでは、それこそ 武士の名折れではないか。政充は着物の袖を引き千切って紐にすると、根本しか残っていない右耳の上に巻き、 縛り付けた。政充が膝から糸丸を降ろして腰を上げると、糸丸は不安げに政充の袴に縋ってきた。

「先生まで動かれないで下さい、姉上のようになってしまいます」

「案ずるでない」

 政充は糸丸を撫でてやってから、己の刀に手を掛ける。久勝は酒を飲みかけていた盃を放り投げると、喉の奥で 上擦り気味の笑みを殺しながら刀を手にする。

「花嫁が来るまでの退屈凌ぎというわけか。まあ良い、媒酌人などおらぬでも祝言は挙げられるわい」

「御無礼つかまつる」

 政充は親指で鍔を上げ、柄を握る。あう、あああ、と糸丸が悲鳴とも鳴き声とも付かない声を上げて腕を伸ばして くるが、政充は敢えてそれを視界に入れなかった。糸丸を目にしていては、心中が揺らいでしまうからだ。これまでの 政充は、武士の風上にも置けぬ男であった。だが、我が子の前では、せめて武士らしく在りたい。
 手狭な物見の間だ、刀を抜いた瞬間に勝負が決まるだろう。久勝との間合いを取って、政充は余力を振り絞って 城主の目と睨み合う。剣術の修練でも相対したことはないが、改めて向かい合うと背筋に嫌なものが這い上がる。 それは蛇のようでもあり百足のようでもあり、すなわち人間に対して感じるものではなくなっていた。人が人を喰えば 鬼と呼ばれるように、久勝もまた、いや荒井家そのものが人を喰い物にしてきた。その荒井家の歪みという歪みが 収束し、凝固したのが、久勝という男なのやもしれぬ。
 裸足の足の裏には、誰のものとも付かない体液がぬるりと絡み付く。昼間であるはずなのに真夜中の如き暗さを 破るのは、時折駆け抜ける雷光しかなく、逆に言えば雷光が駆け抜けた瞬間にしか互いの姿を捉えられない。流血 した上に疲弊している政充の居所を見つけるのは容易いかもしれないが、今の久勝は高揚した上に何杯もの酒を 喰らい、更には苛立ってすらいる。狙いが外れて糸丸を斬られては元も子もないので、政充は糸丸を足で階段へと 押しやり、小さな足音が階段を数段下るのを確かめてから切っ先を上げた。

「いざ」

 血を分けた息子がため、無念のうちに殺された姉がため、蜘蛛の呪いと関わりもないのに殺された者達がため。 息を詰めた政充は柄を握り締め、足音を立てぬように歩を進めていく。久勝は円を描くようにして物見の間の外周 を巡り、政充と一定の距離を保っている。分厚く頑丈な鐘を石段から転げ落としたかのような雷鳴の唸りが聞こえ、 ぴんと張り詰めた空気が震える。彼方に雷光。だが、光量が少ないがためにどちらも動けず。一際激しい雷鳴が 崩れ落ちてくると共に雷光が瞬間的に二人を照らし出し、金屏風に影絵を焼き付ける。一閃、白刃が翻る。

「つぇいっ!」

 そう、声を上げたのはどちらであったのか。どちらかであったかもしれぬし、どちらもであったかもしれぬ。雷鳴が 遠のいていくと再び闇が戻り、雨音に互いの速い吐息が混じる。握り締めた刀には手応えがあった。しかし、政充の 身に及んだ痛みが増しているような気もする。刀を振り抜いてからの時は異様に長く感じられ、ものの数秒であった であろうにも関わらず、永遠の中に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。

「は……」

 久勝の口から嘲笑が漏れたのは、その瞬間だけであった。直後、刀を取り落とした久勝は雷鳴にも負けぬほどの 叫声を放ち、のたうち回る。政充が信じられない気持ちで目を巡らせると、再び雷光が及ぶ。一秒足らずではあった が、政充は確かに見た。久勝の左袖が付いたままの左腕が、ほとんど根本から断ち切られている。骨を切るほどの 手応えまでは感じなかったはずなのだが。だが、久勝は己の血の海で左腕の根元を押さえて呻いている。

「己の手柄とでも思うたか、田舎侍めが」

 無造作に久勝の左腕に白い刀を突き立てたのは、闇を凝らせた当世具足であった。その背後には、牛をも凌ぐ 大きさの大百足がうねり、物見台にしがみついている。それだけではない、物見台には妖怪が溢れ返っていて今にも 物見の間に雪崩れ込んできそうであった。辛うじて妖怪共の突入を阻んでいるのは、鈴と繋がっている八重姫の 糸であった。それが図らずも物見台と物見の間の間に伸びているため、生半可な妖怪では触れただけで蒸発して しまう。それを易々と乗り越えてきた当世具足の正体は、恐らく。

「お前は蜂狩貞元か!」

 政充が目を剥いて再度構えようとすると、人ならざる中身の詰まった当世具足は口を開け、久勝の左腕を喰う。

「いかにも。儂こそが黒須藩が藩主、蜂狩貞元であるぞ」

「そしてあたしが、妖狐の白玉ってぇわけさ。早川や、あんたには、お玉って言った方が解りやすいかい?」

 蜂狩貞元の手中にあり、久勝の左腕を串刺しにしている刀が口にした言葉に政充は僅かばかり狼狽える。だが、 そんなもの、今更どうということもないのでは。訳の解らないものは山ほど出てきているのだ、あの玉が妖狐の白玉 であっても、それが刀となっても驚くには値しない。むしろ、いちいち驚いていたら切りがない。政充のそんな反応が やや面白くなかったらしく、貞元は久勝の左腕の骨を吐き出して血溜まりを波打たせる。

「田舎侍、そなたは荒井久勝の手の者か」

「いかにも。荒井家が家臣、早川政充にござる」

 驚くには値しないが、怯えはする。政充は震えを堪えるために柄を握るが、込めすぎて却って腕が震えてきた。

「ならば問おうぞ、早川政充。そなたは荒井久勝を守らんがために、儂に刃を向けるのか」

 蜂狩貞元の低い声には抗いがたい威圧感が含まれていたが、政充は努めて冷静さを保とうとした。異常な事態 ばかりが続くのだ、頭だけでも冷やしておかなければ到底乗り切れぬ。政充は深く息を吸い、答える。

「否!」

「何故」

 久勝から呻きが聞こえたが、すかさず貞元が踏み締めて黙らせる。政充は叫ぶ。

「拙者は荒井家の家臣であるが以前に一人の男! 我が子一人守れずして、何が男か!」

「ならば、そこの幼子には、荒井久勝の血は混じっておらぬと」

「そうだとも! 御嫡男、いや、糸丸は我が藩主に毒を含ませられたが故に我が姉と交わった末に生まれ落ちた、 甥であり息子である! 拙者が守るべきは荒井久勝にあらず、荒井家の血にあらず!」

 糸丸は、一体どんな顔をしているだろう。政充は初めて暗さに感謝し、その顔が見えないことを喜んだ。どれほど 幼くとも、人間である限りは近親婚には嫌悪感を抱くであろう。増して、それが多少なりとも敬意を抱いていた相手 であれば尚のことだ。だが、事実を述べなければ蜂狩貞元の憎悪の矛先は糸丸からは逸れまい。
 終わる気配すら見せない激しい雨音が、ある種の沈黙を作り出す。妖狐を刀として携えた怨霊、その怨霊に左腕を 喰われた藩主、姉と交わった侍、鬼蜘蛛の姫の愛息。業と業が競り合っているのが、感覚的に解る。それが拮抗 しているからこそ、束の間ではあるが張り合えているのだ。貞元は水滴が付いた兜を上げ、闇の奥に光る赤い目で 政充を捉えると瞼を細めるように目を狭める。人間の顔であれば笑みと呼べたかもしれないが、妖怪が人間に好意を 見せるはずもない。実際、貞元の背後には妖怪の群れが膨れ上がり、政充を喰いたげに顎を打ち鳴らしている。 政充はどれか一つでも斬れたら大健闘だ、と胸に据えながら腰を落とす。

「解る、解るぞ」

 貞元は頷きながら、政充に歩み寄ってくる。その度に、鎧の端や合わせ目に溜まっていた雨水が散る。

「儂もかつてはそうであった。己が刀で民を守れるものだと、愛する女を守れるものだと、引いては世も救えるの ではないかと、青臭いことを考えておったわ。だが、身の丈に合わぬ願望など抱かぬべきだと忠告しておこう」

「大義を抱かねば小義を貫けぬ!」

「見上げた心意気だ、儂が生きておったら家臣として引き抜きたいところよ」

「不躾ながら、断らせて頂こう!」

「何故に」

「拙者は殿を見限り、荒井家からも去ろう! 鬼蜘蛛の姫との関わりも断ち切ろう! だが、我が子だけは 救うてみせる! 蜘蛛に呪われず、何者にも脅かされず、健やかに人として生き抜ける土地に根付こうぞ!」

 政充に出来ることがあるとすれば、それだけだ。否、それ以外には何もない。武将としての才覚など持ち合わせて いたところで、討ち死にするのが関の山だ。有力な戦国大名の元に付けばそれなりの戦果を上げ、武将として名を 挙げられるやもしれぬが、戦国乱世ではそれも長くは持つまい。よって、大名同士の小競り合いからは縁遠い藩に 落ち延び、そこで糸丸と共に親子として生き抜きたい。何度となく許されないことをした、誰にも許されようとも思って いない、故に過去を切り捨てるしかないだろう。自分に都合の良い甘ったれた考えかもしれないが。

「恨んではおらぬのか。儂も、これも」

 貞元の眼差しが、苦痛に唸る久勝を一瞥する。政充は乾き切った唇を舐め、引き締める。

「砂の一粒も。恨むとすれば、拙者自身だ」

「言うてくれるなぁああああああっ!」

 燻っていた火種が爆ぜたが如く、前触れもなく貞元が激昂する。白い刀は闇をも裂き、中空に翻る。その拍子に 数粒の血が散り、久勝の体温が抜け落ちた滴が政充の月代を叩く。久勝の剣術は生まれ持った鋭さに任せた剣で あるならば、貞元の剣は生まれ持った剛力に任せたものであった。刀の切れ味で斬るのではない、断ち切るつもりで 振り下ろされてくる。だが、風は切れずにぼってりと湿った空気は淀んだままであり、血臭も晴れない。かすかに 鼻先を掠めた匂いの濃さで、相手が実体ではないと改めて思い知らされる。長年の剣術の修練によって体の隅々 に刷り込まれた動作が考える間もなく蘇り、政充は刀を横たえて貞元の刃を受け止めようとする。

「うっ!?」

 だが、手応えはなかった。思い掛けないことに政充が息を詰めた瞬間、白い刀は政充の刀を断ち切った。しかし、 金属の破砕音は聞こえない。それどころか、重みも反動も腕に伝わらない。ということは、擦り抜けたのか。そんな ことを一拍の間に考えてしまった政充が足を捌き損ねた隙を、貞元が見逃すはずがなかった。

「づぇあああああっ!」

 巨躯の鎧武者の派手な踏み込みで、床板が波打つ。貞元の白い刀は政充を唐竹割りにした。ずだぁん、と床板に 切っ先がめり込み、縦に割れ目が走って木片が散る。ぞくりとする感触の刃が額から胸を通って股に抜けた余韻 に政充は目を剥いたが、血が出なかった。足元にも滴らない。着物も斬れていない。では、一体。

「ぬぅ……」

 貞元は悔しげに唸り、兜の下から政充を一瞥する。

「お前様ぁ、斬れませんでしたよぉ」

「斯様なこと、白玉に言われずとも解っておるわい。はて面妖な」

 振り返った貞元に見据えられ、唐竹割りにされたはずの政充は、お前にだけは言われたくないと言い返しかけて 斬られなかった理由に気付いた。それは、久勝が八重姫に触れられぬ理由と同じだ。畏怖や恐怖ではなく、恨みを 糧としている妖怪である貞元に対して政充は恨みは抱いていない。白玉は別物ではあるが、今や貞元の延長上に 存在している妖怪なのだ。故に斬られなかった、ということであろう。

「ならば、拙者は誰も恨みはせぬ」

 政充は低く呟いて、刀を収めた。荒井家が撚った恨みの糸を誰かが断ち切らなければ、業が無限に連なっていく だけだ。無垢な糸丸には、そんなものを与えてはならない。繋いでもならない。生きたいように生きさせてやることも また、親の務めではなかろうか。すると、政充の袴の裾が軽く引かれた。間合いを取って巡っているうちに、階段側 に背を向けていたらしい。糸丸に違いない。政充は貞元との間合いを保ち、階段を下りようと足を下げた。すると、 その手が不意に伸びて政充の顔を抱え、階下に引き摺り込んだ。雷光の中、政充が肩越しに目にしたものは。
 首のない娘であった。





 


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