鬼蜘蛛姫




最終話 絆されし魂



 呆気に取られている間に、政充は縺れながら階下に倒れ込んだ。
 首のない娘は政充を力一杯突き飛ばして、階段から遠ざけてくる。娘の細腕らしからぬ腕力で狭い部屋の隅へと 転がされた政充は思わず刀を抜きかけたが、気付いた。首のない娘が身に付けている粗末な着物はチヨのもので あり、政充が押しやられた部屋の隅には彼女の首を抱きかかえて泣いている糸丸が隠れていた。首を刎ねられて なぜ生きていられるのだ、と言いかけたが思い出した。チヨは現世と常世の狭間にいるのだ、首が刎ねられた程度 で死ぬようなタマではない。というより、既に死んでいるのだから再び死にようがないのだ。
 政充がチヨの背に声を掛けようと口を開いた瞬間、天守閣に落雷した。本条藩の中では最も天に近い建物を真上 から叩き伏せたのは恐るべき力であり、瓦屋根が砕け散った。空気が痺れ、これまでの雷鳴など子供騙しに思える ほどの轟音が城全体を揺さぶっていった。政充は傷口が疼くのを感じ、ぐ、と唇を噛む。

「お出でなすった」

 チヨの声が聞こえたが、それは目の前の背中からではなく背後からだった。ぎょっとした政充が振り向くと、糸丸が 大事に抱えているチヨの生首の口が動いていた。声は腹から出すものであろうに、とまたも疑問が湧いたが、些末な ことを気にしていては何も始まらない。糸丸はぐずぐずと啜り上げて目元を拭い、チヨの生首に額を当てる。

「あねうえぇ……」

「安心せいや、糸丸。八重姫様がいらしたすけん、もう大丈夫だいや」

「でも、姉上がぁ」

「こっけんこと、大したことじゃねぇ。ちょちょっと縫えばくっつくいや」

「せんせぇ……」

 糸丸は念を押して欲しそうに政充の袴を掴んできたので、政充は肯定する他はなかった。

「そうなると思えばそうなるのであろう、ならば、そう思うておけい」

「うん」

 糸丸は頷き、涙を拭った。首から下だけのチヨは階段の前に立ちはだかっていたが、その頭上の天井が不意に 破れ、巨大な蜘蛛の足が降ってきた。そんなものを持ち合わせているのは、八重姫の他にいるはずもない。糸丸が 母親に縋ろうと立ち上がりかけたが、政充はそれを制するために抱き締めてやった。チヨの生首が間に挟まる格好に なってしまったのはさすがに気色悪かったが、チヨの助力がなければ政充は八重姫の襲来に巻き込まれ、手も足 も出ずに踏み潰されていたであろう。それを思うと、邪険には出来ぬ。誰も斬らぬために刀を床に横たえた政充は、 呼気を整えて心中を落ち着けた。やれるだけのことはしたつもりだ。
 その頃、三人の頭上では修羅と修羅が相見えていた。落雷に乗じて物見の間に乗り込んできたのは、鬼蜘蛛の 八重姫であったが、その様相は以前とは大きく様変わりしていた。九郎丸によって上半身を分断されてしまったため に美しき女の上半身は失われ、土を塗り固めたかのようないびつな大蜘蛛だけとなっていた。八重姫であることを 示すものは、八つの目の狭間に刺さっている柘植の櫛だけであった。その巨体に任せて天守閣の屋根を破壊した 鬼蜘蛛の姫は牙をがちがちと打ち鳴らしながら、怨霊と藩主を見渡す。

「……八重、か」

 貞元の切っ先を首筋に叩き込まれる寸前であった久勝が、歓喜に打ち震えながら名を呼ぶ。

「久勝かえ」

 八重姫は泥水を啜ったかのような濁った声を零し、八本足を軋ませながら踏み入ってくる。貞元は舌打ちすると、 白い刀の切っ先を上げて八重姫に据える。容赦なく注ぐ雨粒が刃を濡らし、血糊を薄めていく。

「邪魔立てする気か、鬼蜘蛛の姫よ」

「わらわの男ぞえ」

 八重姫の言葉に、久勝は腕を切り落とされた痛みも何もかもを忘れて笑みを浮かべる。

「ああ、八重、八重、儂の八重」

「そなたには、この愚劣なる男と変わらぬほどの恨み辛みがあるわい。いざ尋常に、勝負!」

 貞元はそう叫ぶや否や、朱色の敷物を蹴散らしながら駆け出した。八重姫は屋根に糸を吐き付けると、すぐさま それを伝って屋根に這い上がる。貞元は一閃でその銀色に煌めく糸を断ち切ると、物見台の無惨に折れ曲がった 手すりを蹴って跳躍し、草鞋で濡れた瓦屋根を踏み締める。天守閣の屋根にて対峙した両妖怪は、敵対するべき 相手を初めて目の当たりにした。八重山にて八重姫が貞元一行を屠ってからというもの、貞元は荒井久勝の手の 者であると判断した八重姫に対して並々ならぬ怒りを抱いていた。そしてまた白玉も、愛する武将をおぞましき怨霊 へと変えた一端を担う蜘蛛妖怪を恨んでいた。しかし、八重姫は根本的に貞元にも白玉にも興味を抱いておらず、 己の糸に絡め取っていた二人の様子を見に行くことすらしなかったのである。よって、戦い合うこともなければ目を 合わせることすらなく、荒井久勝の頭越しに互いを認識していた程度であった。だが、今は違う。

「そなたらが久勝の腕を切り落としたのかえ」

 八重姫は恨みがましく言うと、両前足を上げて威嚇の姿勢を取る。貞元は白い刀を構え、腰を落とす。

「いかにも」

「許しはせぬぞえ」

 穏やかながら激情を宿した言葉を発し、八重姫は多量の糸を吐き付ける。貞元は素早く跳ねてその糸を逃れた。 が、天守閣の屋根飾りと屋根飾りの間に張られていた別の糸に背中が貼り付く。

「ぬうっ!」

 前はここで終わってしまった。だが、二度と同じ手は喰うものか。貞元は白い刀を己の薄い影に突き刺すと、捻り、 掬い上げると百鬼夜行の者共が溢れ出してきた。古道具箱をひっくり返したかのように転げ出てきた雑魚妖怪は、 貞元へと迫ってくる八重姫に襲い掛かっていった。どいつもこいつも一拍も持たずに蹴散らされているが、少しでも 八重姫の気を惹ければそれでいい。本命は別にいる。貞元は白い刀で腹を突き刺した網剪りを引き摺り出し、その ハサミで糸を切らせた。だが、糸を一本切るごとに網剪りのハサミは刃零れし、貞元が解放される頃にはハサミと しての役割を果たせなくなっていた。用済みとなった網剪りを八重姫に放り投げると、八重姫は新たに吐き付けた糸 で網剪りを団子にして無造作に階下に放り投げてしまった。束の間、ぎいいい、との悲鳴が聞こえた。

「お互い、小細工は通用せぬわい」

 貞元がにやつくと、八重姫は牙で糸を断ち切る。

「そうやもしれぬえ」

「刀を抜けい。丹厳の肝を鍛えた黒き刀、そなたの元にあろう」 

 貞元は白い刀を握り直し、刀身に蜘蛛を映す。八重姫は八つの目に怨霊を映すと、口を大きく開け、糸の固まりと 共に一振りの刀を吐き出した。それを足で切り裂いて黒い刀を露わにした八重姫は、前足でそれを掴むと、刀の中 で淀んでいた恨み辛みが、ほんの一時ではあるが八重姫の妖力を昂ぶらせてくれた。木の肌を毟り取るかのような 異音の後に八重姫の頭部からは、人間のそれに似た上半身が突き出す。二本のしなやかな腕に弓形の艶やかな 腰つき、滑らかな背に引き摺るほど長い黒髪、華奢な首の上に乗る細面の顔。その面差しは、八雲姫の上半身を 用いていた頃と等しき美貌を備えていたが、前髪に隠れた八つの目には白目がなく虫の複眼であった。磨き上げた 黒曜石を填めたかのような目が貞元を捉えると、八重姫は両手で黒い刀を握る。

「きぇええええっ!」

 貞元は強烈に踏み込み、一息で八重姫の懐に飛び込む。八重姫は眉一つ動かさずに黒い刀を振るい、貞元の 荒々しき刃を受ける。白と黒が雷光の下で鍔迫り合い、火花が散る。既にヒビの走った瓦をつま先で砕きながら、 貞元は八重姫に迫る。互いの鍔ががちがちと衝突し、両者の腕も小刻みに震える。

「亡びを恐れはせぬのか、鬼蜘蛛の姫よ!」

「何を申すか、落ち武者風情が!」

 八重姫は八本足を一度縮めてから伸び切らせ、その勢いで貞元を弾く。

「儂と白玉は荒井久勝への恨み辛みにて成し上げられた概念であり、常世と現世の狭間の道化よ!」

 濡れに濡れた瓦に足を滑らせながらも寸でのところで踏み止まった貞元は、屋根飾りを掴む。

「恨み辛みを晴らさねばならぬと思う一方で、恨み辛みを晴らせば儂らは消えるさだめ! しかしだぁあああっ!」

 屋根飾りを踏み砕きながら、貞元は跳躍する。八重姫の真上に躍り出た怨霊は、白い刀を突き立てんと柄に手の ひらを据えながら雨粒と共に落下してくる。八重姫はすかさず黒い刀を掲げるが、弾いた拍子に黒い刀が中程から 割れて涼やかな金属音が響き渡る。先程政充に通用しなかった唐竹割りを再度放つ。八重姫の額から腹に掛けて 鮮やかに白い刀が振り抜かれ、切っ先が瓦にめり込む。俯いた貞元の兜の端から滴る雨水に、赤が混じる。

「恨みを晴らさずして、果てられようか」

 黒い刀の折れた刀身が宙を舞う。弧を描きながら、屋根に大穴が開いた物見の間に吸い込まれていった。床板 に突き刺さったと思しき音と久勝の鈍い悲鳴が漏れてくる。兜を上げると、唐竹割りを真っ向から受けた八重姫は ずるりと粘液の糸を引きながら左右に分かれた。下半身までもは断ち切れなかったが、これで充分であろう。真の 仇はあくまでも久勝であり、八重姫は一世一代の戦の盛り立て役に過ぎぬ。
 久勝の目の前に飛び降りた貞元は、面頬の下から熱い呼気を吐きながら白い刀を振るって血と滴を払う。久勝は 呆然とするがあまりに言葉さえ失ったのか、頬をぎこちなく引きつらせている。貞元は久勝の襟元を引っ掴んで乱暴 に立たせると、手近な壁に背を叩き付けた。足が浮き上がった久勝はきつく絞まった首を少しでも楽にしようと壁を 蹴るが、貞元の拳が喉に埋まると久勝は舌を突き出して黙する。

「お前様ぁ、参りましょうや」

 白い刀が甘えてきたので、貞元は笑んだ。

「うむ」

 腰に捻りを加え、腹を一突きする。軟弱な手応えの後に生温い血飛沫が迸り、貞元と白い刀を濡らす。

「八重、八重、八重ええええええっ」

 内臓の切れ端を腹の裂け目から零しながら久勝は懇願するが、唐竹割りにされた八重姫は動きはしない。

「笑止!」

 ぐい、と貞元が白い刀を捻ると久勝の背骨が割れ、腰から下が垂れ下がる。血反吐を垂らしながらも尚、八重姫 を求める久勝に、貞元は面頬を突き付けて瞼のない目を細める。

「ああ、清々するわい。そなたのような塵芥を斬らんがために、これほど労するとは思わなんだ」

「八重、八重」

「おお嫌だ嫌だ、他に言うことはねぇのかい」

 白い刀が久勝を侮蔑すると、貞元は血反吐と涎と涙でべとついた久勝の顎を鷲掴みにする。

「女に始まり、女に終わるか。そなたは己が肩で、国を、民を、果てはこの地を支えようと胸に据えたことすらないと 見える。大した志もなしに血筋に添って家督を継いだが挙げ句にこの様とは、先祖が墓土の下で泣いておるわい。 そのような男にしてやられたことは恥辱極まりない。喰う価値もないわい、死ね!」

 貞元はそう言うや否や、久勝の上半身を毟り取って投げ捨てる。柔らかな腸と臓物を撒き散らしながらずた袋の ように放られた久勝は濡れた床を滑り、屋根の穴の下に至った。しとどに降る雨に叩かれながら、肺袋の下の膜が 破れたがために言葉を発せなくなりながらも、懸命に口を開閉させて蜘蛛の名を呼ぶ。八重、八重、八重。

「ふはははははははははは、はぁっはははははははははははははははははは!」

 蜂狩貞元は哄笑する。腹の底から、死してからというもの鬱屈していた感情を一滴も残さずに絞りきる。高らかな 勝ち鬨は、恨み辛みの楔が抜け落ちたからだろう、誇らしげですらあった。だが、その笑いが弱まるに連れて貞元を 成していたものが形を保てなくなっていった。黒く粘ついた当世具足の中身は干涸らび、灰のようでもあり砂のよう でもある細かな粒と化していき、支えがなくなった鎧が外れていく。兜も面頬も落ち、白い刀もまた灰と化していく中 であっても、貞元は笑い続ける。時折混じる声は、白玉と出会えて幸せであった、白玉もですよぅ、という哀切ながら も満ち足りた言葉であった。最後まで残っていた脛当てと草鞋が灰の山に埋まると、遂に哄笑が消えた。
 蜂狩貞元と白玉が果てると共に、その足元の影もまた果てた。いつかの夜に貞元に喰われた百鬼夜行の者共は 影から脱そうと藻掻くが、指先も出せぬ間に影は縮まって薄暗さに馴染み、そして彼らも一匹残らず果てた。

「終わったのかえ」

 僅かな静寂の後、雅やかな言葉が聞こえた。生と死の狭間を行き来していた久勝は意地で目を開き、背骨と臓物 を引き摺りながら這いずり、首を動かして蜘蛛の名を呼ぶ。

「八重、八重、八重!」

「久勝や」

 呼び掛けに応じて顔を覗かせたのは、唐竹割りにされたはずの八重姫であったが、その姿は元通りになっており 美しさには翳りすらなかった。その理由を考えもせず、久勝は恋慕故に陶酔する。八重姫は物見の間に飛び降りて くると、貞元と白玉の名残である灰の山を蹴散らしてから久勝ににじり寄ってくる。割れ目だらけの床板に血の川を 擦り付けながら、久勝は蜘蛛の足に手を伸ばし、そして。

「おお、おおおおおおおっ」

 触れた。岩の如き硬さであり、死者の如き冷たさであるが、確かに願い求めて止まなかった鬼蜘蛛の姫が。

「久勝や……」

 身を屈めてきた八重姫は氷のような手で久勝の顔をそっと挟み、寄せてくる。久勝はその手を握る。

「ああ、八重、儂の……八重姫」

「よくも糸丸を泣かせおったな。この、たわけが」

 笑みを浮かべていた口元が吊り上がり、牙を剥く。八重姫は久勝の面持ちが落胆と恐怖に引きつった様をしかと 目に焼き付けてから、その首に喰らい付く。ごぎり、と訳もなく首の骨を噛み千切った女は顎を最大限に開いて男の 額に齧り付き、骨を割り、ぐじゃぐじゃと脳髄を噛み締める。八重姫は首筋にまで滴った血を手の甲で拭ってから、 階段の下へと目線を投げる。部屋の隅で政充に守られている我が子と目が合うと、柔らかく目を細めた。
 怨嗟と憎悪、修羅の渦巻く中、最も強固に八重姫と連なっていたのは、他ならぬ糸丸の一念であった。母が無事で ありますように、姉が無事でありますように、師が無事でありますように、と。幼子の細くも確かな糸があったから こそ、八重姫は荒井久勝への恋慕に狂う女ではなくなり、真の母と成ったのである。
 雨は止みつつある。





 


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