鬼蜘蛛姫




第一話 怨嗟の紡ぎ糸



 つん、と死の匂いがした。
 いずこからだろうか。差して離れているわけでもないが、それほど近くもない。風の流れによっては、遙か彼方の 戦場で撒き散らされている硝煙の匂いすらも感じ取れるからだ。飛び散る血飛沫、舞い散る臓物、千切れ飛ぶ首、 それらを思い描くだけで飢えが蘇る。だが、近頃は旅人は滅多に山道を通ろうとしない。かといって、里に下りてまで 人は喰わぬ。飢えに飢えて、干涸らびるほど腹を減らした瞬間に啜る血の味は極上の酒にも勝るからだ。
 ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。洞窟の中に収めている巨体から伸びた八本足が軋み、耳障りな音を立てる。その足の一本一本に 繋がっている細い糸は絹の如く煌めくが、一本も震えはしない。どれがか僅かにでも震えたら、即座に洞窟から 飛び出していくか、獲物に糸を絡めて引き摺り込むか、そのどちらかだが、今は飛び出したい気分だった。

「全く、敵わぬのう」

 色鮮やかな朱色の着物から伸びたしなやかな指が、小さく張った巣の上に寝ていた柘植の櫛を拾う。

「退屈で、退屈で、退屈で」

 艶やかな光沢を帯びた長い黒髪を、しゅるりしゅるりと梳いていく。

「ああ……」

 悩ましげにため息を零した唇は毒々しい紅が塗られ、涼やかな目元が陰る。

「わらわを満たす者はおらぬのかえ」

 気怠げに髪を弄ぶ女は、女でありながら女ではなかった。そして、蜘蛛でありながら蜘蛛ではなかった。上半身は 見目麗しき姿形で、卵形の顔には透き通るような白い肌と知性を感じさせる目元に花びらのような唇を備え、肢体は 弓の如く柔らかな局線を描いており、朱色に椿の刺繍が艶やかな着物を身に纏っている。それだけならば、女は 絶世の美女だろう。しかし、女が女であるのは腰から上だけであり、腰から下は世にもおぞましい妖怪だった。
 土色のごつごつとした外殻、無限に糸を吐き出す丸く巨大な胴体、それを支えるに見合った太さと長さの八本足。 黒の帯に縛られた着物の下では、女の胴体と土蜘蛛の頭頂部が存在していた部分が融合しているのだ。しかし、 女と土蜘蛛は元々一つだったわけではない。女の形をした上半身を成しているものは本来は平家の落人の姫君で あったが、山道に迷い、土蜘蛛と女郎蜘蛛が縄張りを競い合う山奥に入り込んでしまった。先に姫君に糸を掛けた のは女郎蜘蛛であったが、土蜘蛛は女郎蜘蛛と姫君ごと喰らった。しかし、妖怪としての力は女郎蜘蛛の方が上で あったため、姫君を喰らって力を付けていた女郎蜘蛛は土蜘蛛の頭部を食い破って上半身を捻り出した挙げ句に 巨体を支配下に置いた。そうして出来上がったのが、女であり蜘蛛である妖怪、鬼蜘蛛の八重姫である。
 糸は一本も揺れなかったが、洞窟の前に不躾な羽音が近付いてきた。同時に訪れた暴風で木々が揺さぶられ、 枯れ葉が舞い上がる。いびつな半円の出口からよく見える太い枝に、何者かが高下駄を履いた足を掛ける。

「カカカカカカカ……」

 山伏装束を身に纏った異形は、黒い羽根を折り畳み、黄色いクチバシを開いて哄笑した。じゃらり、と黒い羽根に 覆われた手に握られている錫杖が鳴る。八重姫は前髪に隠れた六つの目を細め、注視する。

「なんぞ。九郎丸かえ。面白うないのう」

「カカカカカカカカッ! 別に俺はお前さんの退屈を紛らわそうっちゅう気はねぇさ、鬼蜘蛛の姫よ」

 鴉天狗の九郎丸は、八重姫の黒髪に勝るとも劣らぬ黒さの翼を折り畳み、太い枝の上で胡座を掻いた。

「そうさな、忠告と言うべきだな。お前さんを始めとした妖怪には、縄張りっちゅうかがあるだろ」

「そなた如きに言われるまでもないわ」

「俺はこの成り故にまだその辺の縛りが薄いが、お前さんのような輩は土地に根付いたものだからな。いかに血の 匂いが流れてこようと、飢えに任せて突っ走るでないぞ」

「わらわを誰と心得るか」

「やあすまん、すまん」

 カカカカカカカ、と九郎丸はまたも哄笑してから、錫杖を抱えて背を丸めた。

「近々、この地に死人の山が出来るのでな。お前さんの腹を満たすものは、焦らずとも手に入る」

「ほう」

「上野国に大天狗がおって、そやつが話してくれたのさ。上野国に黒須藩っちゅう藩があってだな、まあ大した石高の 藩ではないのだが、奥州から関西に抜ける道筋に丁度良い位置なもんで、奥州の戦国大名から目を付けられて 兵站の要にされちまっているのさ。で、この前もまた西の方で豪儀な戦があったんだが、黒須藩の藩主と民は奥州 の戦国大名に駆り出されたんだが、所詮は農民の寄せ集めよ、ろくな戦が出来るわけもなく、這々の体で戦場から 逃げ出してきおったのさ」

「それがどうかしたのかえ。つまらぬ話よの」

「まあ待て、待て。面白うなるのはこれからよ、鬼蜘蛛の姫や」

 九郎丸は心持ち身を乗り出し、錫杖を振り翳した。

「その黒須藩の藩主とこの本条藩の藩主は、少しばかり繋がりがあってだな。絹糸よりもほっそい縁を当てにして、 生き延びようっちゅう腹なのさ。だが、この戦国乱世、うちの藩主もそんな縁を尊ぶかね? つまり、だ」

「西の方から来るのであれば、確かにわらわの山を通るやもしれぬのう。さすれば、死人はわらわの糸の内に山と 積み重なるであろうな。久方ぶりやもしれぬえ、満足に腹を満たせるのは」

 八重姫は八本足に繋げてある仕掛け糸を見やってから、額の下の目を半分だけ閉じた。

「だが、それをなぜわらわに教えたもうたのかえ」

「俺は人間は好かぬが、死人の山はもっと好かん。汚らしくてならんからな。誰かが喰ってくれぬと、腐り果てて蛆が 湧き、蠅が渦巻き、水が濁る。故に、そうなる前に然るべき輩に然るべきことをしてもらおうと思ったまでのことよ。 お前さんは姫は姫でも、崇め奉られる姫ではないからな。そうさな、言うならば卑しき女と書いてヒメよ」

「話は、それで終わりかえ」

 八重姫は蝋細工のように滑らかな指先を上げ、巨大な腹部から吐き出した糸の一筋を向かわせた。

「応!?」

 九郎丸はその糸が届く寸前に枝から跳ね上がり、別の木に着地した。

「落ち武者共が来るのであれば、出迎えねばなるまいて。いつまでもそなたのさえずりを聞いてはおれぬ」

 八重姫が指先を軽く曲げると、九郎丸が座っていた枝は容易く折れて洞窟に引き摺り込まれ、女の上半身と蜘蛛の 胴体の繋ぎ目にある縦開きの口が開き、二本の太い毒牙が噛み砕いて嚥下した。

「カカカカカカカ……。それだけで重き腰を上げるのか、卑しき蜘蛛よ?」

 九郎丸が意味深に囁いたので、八重姫は再度糸を飛ばした。しかし、九郎丸は笑い声を撒き散らしながら素早く 羽ばたき、木々の間から脱していた。捕らえるべきものを失った糸が弛み、空しく地を這う。八重姫はその糸を断ち 切ってしまうと、仕掛け糸を見つめた。まだ震えてはいないが、地面を通じて伝わってくるものがある。生命力からは 程遠い、今にも消えてしまいそうなほど弱り切った気配だった。兵士から滴った血の量が多すぎるのか、どこぞの水が 濁った匂いもする。これは、喰わずにはおられまい。生きたまま貪り喰うのが好ましいが、こんなにも弱っていた のでは洞窟に引き摺り込むまでの間に死んでしまい、鮮度が失われる。となれば、久し振りに洞窟から出て、直接 敗走部隊を襲うべきだろう。生温かい人の味を思い出した八重姫は、耳元まで裂けた口を広げ、腹部の口と同じく 毒液が滴る牙を覗かせると声を出さずに笑った。
 り、りぃん、と不意に鈴の音がした。高ぶり始めた食欲が一瞬で収まり、八つの目が全て見開いた。洞窟の隅の隅に 掛けてある小さな銀の鈴が、上下に揺さぶられている。八重姫は裂けた口を元に戻してから巨体を反転させて、 怖々と両手を鈴に伸ばした。確かに動いている。音も聞こえている。食欲にも勝る歓喜が沸き上がり、忘れもしない 感覚が子蜘蛛の群れのように全身を這い回った。柘植の櫛をそっと両手で包み込むと、頬を淡く染めた。
 あの男が呼んでいるのだ。




 家宝の名刀は、杖代わりにもなりはしない。
 予想していた事態ではあった。所詮、戦国大名にとって一介の藩主と農民の寄せ集めの兵隊など、手駒の一つに 過ぎないのだと理解していたつもりだった。だが、それが現実となる瞬間が来ないことを願っていた。神仏と先祖に 祈りながら馬に跨り、槍を振るい、刀を振るい、部下を率いて戦場を駆け抜けた。勝機を掴めれば、親族達のように 武勇を上げられれば、相手方の武将の首を一つでも多く取れば、懸念は掻き消えるのから。しかし、敵陣の動きが 想像以上に素早いばかりか鍛錬が行き届いていて、戦場に赴く前は田畑で農具を握っていた兵士達は呆気なく 蹴散らされ、半時もしないうちに半分が死に、更にその半分が死に、命からがら逃げ出した頃には十分の一程度に 減っていた。彼らの家族がどんな思いをして送り出したのか、考えるだけで胸が潰れる。
 また一人、呻き声が減り、倒れ込む音がした。歩きながら死んだのだ。馬上にいた自分は比較的負傷は少ない ものの、長く歩き通せばいずれ死ぬだろう。年若く傷も軽かった兵士を本条藩への使者として送り出したことが唯一の 希望だが、彼は戻ってこられるだろうか。地元ならともかく、土地勘のない場所だ。道標になりそうなものは地面に 点々と落ちているが、それを辿ってこられるほど神経が参っていなければいいのだが。
 するり、と柔らかな風が汗と泥と血に汚れた首筋を撫でる。白粉と紅の匂いが繊細に香り、疲労困憊していた心身 をほんの少しだけ慰めてくれた。乾き切った喉に粘ついた唾液を飲み下してから、重たい瞼を上げると、目の前には 山道には似合わぬ白地に芍薬の着物を着た遊女が立っていた。

「お前様」

 懐かしくも愛おしい声に、蜂狩貞元は歩みを止めた。遊女の着物の裾が戦場と同じ色味の土で汚れているので、 ずっと傍にいてくれたのだと知る。背後では側近の武将も立ち止まり、訝ってきたので、貞元は一度歩みを止めて 身を休めよと指示をした。丁度、遊女の背後には木々が開けた草むらがあったので、兵士達はいくらかほっとした 様子で草むらに分け入っていった。貞元は既に空になった竹筒を呷り、ほんの数滴の水を喉に入れた。

「ずっと儂を見ていておったのか、白玉や」

 貞元は部下達に怪しまれぬように距離を開けてから、遊女に話し掛けた。遊女はそっと目を細める。

「お前様の行くところでごぜぇやしたら、白玉はどこへでも」

「しかし、何も戦にまで」

「お前様が死ぬ時が、白玉も死ぬ時でごぜぇやす」

「そうか」

 その言葉に貞元は胸の奥がきつく絞られ、情けないことに涙が出そうになった。遊女、白玉は貞元に寄り添うと、 矢傷が付いた肩当てに優しく頭をもたせかけてきた。何本ものかんざしを挿した髷の間からは、縦長に尖った耳が 飛び出していた。白い着物の下からは、秋頃のイチョウを思わせる黄色のふさふさとした尻尾が揺れている。着物の 袂から手を滑り込ませれば、触れるのは人の肌か獣の毛かはその時によって違う。どちらでも構わぬのだが、と ちらりと考えてしまうと、疲労を紛らわそうとするかのように欲望が膨れてくる。白玉はそれを感じ取ったのか、白粉 を塗ろうが塗るまいが白い頬を桜色に染めた。それを見、貞元はこそばゆい気持ちになった。

「御館様、我らはどうなりますでしょうか」

 代々蜂狩家に仕える一族の武将が、雑草の根元に残った朝露を舐めながら、苦しげに述べた。

「本条藩こそ我ら黒須藩と親しくしておったかもしれませぬが、荒井家と蜂狩家となるとまた別では」

「荒井は男の風上にも置けぬ、腑抜けも腑抜けではありませぬか。そんな輩を頼ってもどうにもなりますまい。御館様 と同門とはいえ、馬すらもろくに乗りこなせぬ男にございます」

 貞元よりも年上の武将は毒突きながら、兜の隙間から手ぬぐいを押し込み、汗と血を拭った。

「しかし、他に頼れる者などおらぬではないか。藩領を奪われたとあっては、上野に帰れるはずもありますまい」

 諦観で悔しさを殺しながら、貞元の側近の武将が言った。

「御館様を捨て駒扱いしおってからに! 奥州の田舎侍を末代まで祟ってやりましょうぞ!」

 足軽がいきり立って腰を浮かせたが、傷口が痛んだのか顔を歪めて座り直した。

「皆の衆、落ち着かぬか。まずは体を休めよ、傷は治らぬかもしれぬが、鋭気は取り戻そうぞ。恨み言を吐くのは、 それからでも構わぬ。死にさえしなければ、人間、どうにでもなるものぞ。奪われた藩領も、奪い返してしまえば良い ではないか。この蜂狩貞元、このままおめおめとおぬしらを死なせはせぬ」

 胡座を掻いた貞元は、黒く汚れた顔の中で最も目立つ目を見開き、ぎらついた眼差しで部下達を見渡した。

「生きて帰り、武功を挙げ、儂らを見捨てた末に藩を奪ったあやつに一太刀浴びせようぞ!」

 応、との力強い声が上がる。その光景を一歩引いた場所から眺めている白玉は、にこにこと笑っていた。それを 目の端で捉えた貞元は、ふっと表情を緩めた。家督を継がせるために子を産ませた女に対してはそれほど執着は 抱かなかったが、白玉は別格だ。いついかなる時でも、貞元の傍にいてくれる。藩主である以上は決して他人には 見せられない弱みも、白玉にだけは見せてもいいと思える。今もそうだ。白玉がいてくれなければ、こうも強い態度は 取れなかっただろう。だが、虚勢も張り続ければいつか本物になるというものだ。
 人の脂と血に汚れて錆が浮き始めた家宝の名刀を鞘に収めた貞元は、部下達の傍からなるべく音を立てぬように 離れた。見張りに立っている兵士には便所だと言い、すぐに戻ると伝えた。たとえ追っ手が掛かっていたとしても、 腕力だけで数人は叩きのめす自信があった。なまくらの刀であろうと、意地で戦い抜いてみせる。追っ手が一人も 掛からないのであれば、白玉との束の間の逢瀬を楽しむまでだ。
 樹齢数百年はあろうかという大木の根元で、白玉は貞元を待ち侘びていた。こんな時に女にうつつを抜かす自分が どうしようもなく愚かしくもあったが、白玉に救いを求めて止まなかった。相手が人間でないという引け目は当の昔に 潰えていて、むしろ人間ではないことに途方もない自由を感じていた。貞元に擦り寄ってきた白玉は、切れ長の目で うっとりと見つめてくる。粉をまぶしたように白い手で鎧を撫でさすり、額を寄せてくる。貞元が躊躇いがちに手を 伸ばすと、白玉の滑らかな頬に泥汚れが付いたが、白玉はそれを疎むどころか微笑んでくれた。

「早う、この山を去りましょう。白玉はこの山が好きではありやせぬ」

「何か、おるのか」

「ええ。いやぁなもんしかおりやせん」

 白玉は不安げに、血が乾いて堅くなった袖に手を掛けてきた。

「それはどのようなものだ。儂に教えてはくれぬか」

「それは……」

 白玉は言葉を続けようとしたが、髷の下から出ている耳をぴんと立てて目を見開いた。

「お前様、動いてはなりやせん。決して、決して」

 女狐の剣幕に、貞元は刀の柄に手を掛けた。確かに、言われてみれば空気が変わっている。それまではただの じっとりと重たい山の空気だったが、一息でも吸えば息が詰まりそうなほど濁っている。まるで、目には見えない毒を 撒き散らしたかのように。それまでは時折聞こえていた風音や、枝葉の擦れる音が一切聞こえなくなり、日差しすら も途絶えている。異変を察知したのか部下達が身構えようとしたが、何の前触れもなく誰かの腕が飛んだ。ぎゃあ、 と戦場で聞き慣れた悲鳴が上がり、赤黒い飛沫が弧を描く。間もなく武将の一人の首が飛び、ざんばらの髷が扇状 に広がりながら草むらに没した。誰だ、どこだ、何のために。ありとあらゆる疑問を浮かべながら貞元はぎちりと鍔を 上げ、刀を引き抜いた。白玉は貞元の傍に寄り添うと、睫毛の長い瞼を伏せ、目配せをした。
 木と木の間、枝と枝の間に、一筋の血が輝いていた。







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