鬼蜘蛛姫




第六話 継ぎ接ぎの劣情



 箱に入れて飾りたいほど愛おしい一方で、一息に握り潰したいほど狂おしかった。
 相反するようでいて、それらの感情は全く同じ方向を向いていた。チヨである。どちらの思いにせよ、チヨに対して 感じたものに他ならない。生まれてこの方、丹厳は特定の相手を好いたことなどない。そんな高等な感情を持てる ほど、人間味を帯びた妖怪ではなかったからだ。故に、丹厳はチヨへの思いを持て余し気味だった。
 その日もまた、チヨは廃寺に来てくれていた。家々を飲み込むほど雪が分厚く降り積もった集落の中を、蓑と笠を 被ってやってきてくれた。素足の上に藁靴を履いただけの足先は寒さのあまりに真っ赤になり、鼻先も頬も霜焼けで すっかり強張っていた。そこまでして運んできてくれたものは何かというと、正月の祝いに欠かせない餅だった。丹厳 はいつものように人魂を掴まえて火鉢に放り込み、世にも禍々しい火を焚いてやると、チヨは真っ白い息を弱々しく 吐き出しながらその小さな火に手を翳した。次第に指先が温まってくると、チヨは弛緩した。

「ああ……あったけぇ……」

 日々の仕事で肌がかさついた手を擦り合わせてから、継ぎ接ぎの綿入れを着た背を丸める。

「坊様はしゃっこくねぇの?」

 と、チヨに訝られたが、丹厳は答えに迷った。感じるか感じないかといえば、感じないのだ。丹厳は年がら年中同じ 擦り切れた法衣を身に付けているが、脱ぎもしなければ着込みもしない。暑かろうと寒かろうと身に堪えないのだ。 散々飲み食いしたおかげで腹が満ちる感覚と酒に酔っ払う感覚は覚え込むことが出来たが、そればかりは覚えよう がないことだった。丹厳は円座の上で胡座を直し、笑みに見えるであろう表情を作った。

「拙僧はそのようなことは気にせぬ。存分に暖まるが良い」

 丹厳は火箸を取り、火鉢の中で燻る炭を転がした。火の粉が上がり、小さく弾ける。

「んだども、なんか勿体ねいや。坊様も火に当たったらええがんに」

 チヨは火鉢の傍に手招きするが、丹厳は渋った。下手に近付きたくないからである。ここ最近、チヨは急に女らしく なってきたせいだ。ついこの間まではどこもかしこも子供だったのだが、顔付きが変わり始めた。ただ大きいだけで あった目元にほのかな色が帯び、粗末な着物の下では胸が柔らかく膨らみ、尻と足にも慎ましやかではあるが肉が 付き始めていた。鉄臭さは感じないので月の障りは始まっていないようだが、時間の問題だろう。

「そったら、こうしたらええろ」

 チヨは立ち上がると、底冷えする板張りの床をつま先立ちで歩いて丹厳に近付いてきた。躊躇いもなく胡座の中に 腰を下ろしてきた少女は、枯れ木の束のように軽い体重を掛けてきた。胡座を掻いているために大きく広げている 股の真上には丁度チヨのそれが重なり、縫い目の粗い着物越しではあったが接する形となった。思い掛けないことに 丹厳は激しく動揺したが、妖力やら何やらを駆使して抑え込んだ。こんなことで盛りが付いてどうする。

「うん?」

 チヨは丹厳に寄り掛かりながら、眉根を曲げた。丹厳は平静を保ちつつ、問う。

「如何なさった」

「坊様、あんまりあったこくねぇいや。なんでだ?」

「外に出ておったからであろう。あまりに雪が降るのでな、半刻程前に雪掻きをしてきたのだ」

「そんなら、尚更だいや。あったまっとかねっと、体を悪くしちまういや」

 チヨは丹厳の胡座の上で身を縮め、寄り掛かってきた。丹厳は息すらも詰め、心身を強張らせた。廃寺の外からは 物音一つせず、静かに雪が降り続いている。鉛色の雲からは光は差さず、昼間であっても夕刻のように薄暗い。 人の気配はおろか、獣の気配すらない。時折弾ける炭の火花と、寒さ故に控えめなチヨの吐息だけが音らしい音を 成している。思いを遂げるならば今だ、と丹厳の心中がざわめいたが、どうしても体が動かなかった。白粉を首まで 塗りたくった安い娼婦であれば容易に組み敷けるのだが、チヨには手すらも伸ばせない。濁った情欲を抱く一方で、 身の上にそぐわぬ潔癖な情念も宿しているからだろう。チヨから染み入る体温は優しく、魂すらも緩めてくる。
 迷いに迷った末、丹厳は色褪せた袈裟を広げてチヨに被せた。それからしばらくして、火鉢の熱で暖まったからで あろうがチヨは船を漕ぎ始めた。丹厳は腰を落として彼女を受け止めてやると、すぐさま寝入ってしまった。起こす のは気が引けるのでそのままにした丹厳は、火鉢に炭を入れて火を強めてやりながら、内心で思い悩んだ。
 自分はこの娘をどうしたいのだろうか。欲望の捌け口にしたいのか、家族にでもしたいのか、或いは手元に置いて おきたいだけなのか。いずれも真意ではあったが、焦点からはずれていた。答えを見出したいと思う一方で、答えを 敢えて探し出さずに胸の奥に秘めておきたい、とも思った。流れ者の坊主と村娘という関係で終わるのであれば、 それが何よりではないか。チヨへの劣情を削ぎ落とせれば、これまで味わってきた快楽という快楽に見切りを付けて 在るべき位置付けに戻れるかもしれない。いや、そうするべきだ。中身はどうあれ、姿形は僧侶なのだから。
 穢れた世俗から、脱しなければ。




 雪も溶け切らぬ、春のことだった。
 その日は、丹厳はいやに落ち着きがなかった。嫌な予感とでもいうのだろうか、ムカデが這いずっているかの ような尖った違和感が腹の底を練り歩いていた。緩んだ雪が茅葺き屋根から滑り落ちれば、その音で腰を浮かせたり、 山の木々が吹き下ろしの風に揺さぶられれば目を見張ったりもした。そんなことをしているうちに昼が訪れ、丹厳は 気晴らしに酒でも呷りたい気分になっていた。だが、あの冬の日に密かな誓いを立ててからというもの、女を買いに いくこともなければ酒を飲むこともなくなっていた。だから、この程度のことで誓いを破るわけにはいかない。チヨに 対して思いを遂げられないのだから、せめてこれだけは貫かねばなるまい。
 昼を過ぎて間もない頃、山から声が聞こえた。忘れもしないチヨの声である。すぐさま腰を上げた丹厳は本堂から 飛び出すと、法衣を捲り上げながら山道を駆け抜けた。だが、途中で走るのがまどろっこしくなったので、木の枝に 飛び移って跳ね上がりながら移動した。雪解け水による泥溜まりがいくつも出来ている山中には、何人もの人間の 足跡が付いていた。その足跡は上に登るに連れて乱れていき、小さな足跡の主が転んだ後もある。丹厳は背筋が 総毛立つほどの緊張に襲われながら、それを辿った。辿り着いた先では、彼女が数人の男に組み敷かれていた。
 チヨに目を付けていたのは、何も丹厳だけではなかったらしい。それもそうだろう、身なりの貧しさで隠れがちでは あるが整った容貌の持ち主なのだから。泣き叫びながら暴れるチヨの手足を、何本もの男の手が押さえ付けて雪に 埋める。冷や汗を掻いた喉元に柴刈りに使う鉈を突き付け、汚い言葉を吐き付ける。脂の載ってきた太股を曝し、 着物の帯を緩める。丹厳の説法を熱心に聞いていた若者が己の裾を捲り上げて、腰を落とそうとしている。我慢が 効いたのは、ほんの一時だけだった。丹厳はすぐさま枝を蹴って飛び降り、男達の真後ろに現れた。今正にチヨを 貫こうとしている若者を手刀で薙ぎ払うと、呆気なく首が飛んで宙を舞い、赤黒い飛沫が残雪に散る。

「……坊様?」

 虚ろな目でチヨが丹厳を見上げた頃には、全てが終わっていた。

「応。拙僧だとも」

 法衣の袖口から粘ついた血の雫を落としながら、丹厳は頷いてやった。チヨを貪ろうとしていた男達は、皆、哀れな 肉塊と化していた。原形を止めている者はほとんどおらず、皆、手足が別れている。骨と臓物が混じり合ったもの が泥に混じり、早々に腐臭を立ち上らせている。丹厳はチヨを抱き起こしてやろうと手を伸ばしかけたが、躊躇した 末にその手を引いて後退った。チヨは怯えるあまり、顔を覆って泣き出した。

「坊様はなんも悪くねぇ……悪くねぇんだよぅ……」

 しゃくり上げながら、チヨは辿々しく話してくれた。それによると、チヨは頻繁に丹厳の住まう廃寺に通っていたせい で、農民達への説法の代償として春を売っていると勘違いされてしまったのだそうだ。チヨはもちろん否定したが、 男達の中にはそれを真に受けた者達がいた。集落の中では両親が守ってくれていたのだが、柴刈りをするために 山に登ったところで男達に追い立てられてしまった。そして、寄って集って襲われたのだという。

「だすけんに、坊様はなんも悪くねぇ……」

 丹厳を庇う言葉を連ねながら、チヨは泣きじゃくる。明るい笑顔を見せていた顔が苦痛に歪み、今し方まで男達に 押さえ付けられていた手足には痣が残り、裾は割れたままになっている。昼の高い日差しに曝されている陰部は、 誰も受け入れていない証拠に乾いていた。無性に酒が欲しくなった。それがあれば、まだ気が紛れたものを。
 寸でのところで堪えられたのは、別の欲が勝ったからだった。丹厳はチヨに背を向けると、辺り一面に散っている 人間の残骸を掴んだ。口にねじ込むと噎せ返るような鉄臭さが襲い掛かり、ぬるりとした喉越しが訪れる。硬い骨を 尖った牙で噛み砕き、柔らかな臓物を啜り、髄液を舐める。ひとしきり喰い漁ってから、振り返ると、チヨは大きな目が 零れ落ちかねないほど見開いたまま固まっていた。腹が満ちた丹厳は袖口で顎を拭い、瞬きする。

「はて。どうしたものかな」

 命乞いされれば、その通りにしてやろう。怯えられれば、力ずくで黙らせてやろう。憎悪を向けられれば、その激情 に等しい報いを返してやろう。体の芯が鈍く疼き、これまで抑え込んできた欲が膨れ上がった。丹厳が雪解け水を 吸った裾を引きずりながらチヨに近付くと、チヨは痣の付いた頬を引きつらせ、細い腕を握り締めた。

「お……おら、なんも見てねぇよ? なんも、なんも、なんも」

 思い掛けない言葉に、丹厳は目を見張った。

「おらはなんも知らねぇ……見てねぇ……だすけんに、坊様が化け物だってことも見てねぇよぉ……」

 両手で顔を覆ったチヨは、身を縮め、健気な言葉を連ねた。

「く、熊だ。男んしょらは、皆、熊にやられたんだいや。坊様でねぇ。坊様は、なんも悪いことはしとらんすけん」

「そなたは拙僧を庇うのか」

 意外すぎて笑いすら込み上がった丹厳に、チヨはぎこちなく頷く。

「おらんこと、お助け下すったんだ。そんぐらいせんと、わ、割に合わねぇろ?」

「拙僧が今し方喰ったものを、目にしていてもか」

 丹厳はチヨの怯え切った表情が愛らしく思え、雪に埋もれていた目玉を拾って口に放った。チヨは、う、と吐き気 を催したのか呻き声を漏らしたが、それを飲み下して再度頷いた。その気丈な態度に、丹厳は感心した。涙で潤んだ 目が丹厳を映している様は、ある種の恍惚を招いた。チヨを虐げようとしたのは他の男達だが、それが自分自身で あればどれほどの背徳感と情欲が湧いてきただろうか。これまではチヨをただ愛でるだけではあったが、これからは 責めてやるのもいいかもしれない。丹厳は血塗れの手を雪に突っ込み、洗ってから、チヨに触れた。

「……ぃっ」

 丹厳が肢体に手を這わせると、チヨは悲鳴を堪えた。乱れた髪に太い指を通し、脂汗と冷や汗で薄く潤った首筋 に沿わせ、男達に広げられた襟元に手を入れる。乳房というには幼すぎる胸の肉の下で肋骨が浮き、その間では 肝が恐ろしく速く脈を打っている。このまま一息に肝を引き摺り出すのも悪くないが、それではあまりにも勿体ない。 丹厳はチヨの顎に手を添えると、寒さと恐怖で青ざめた頬とからからに干涸らびた唇をなぞった。

「チヨや。聞いてはくれぬか」

 丹厳は右手の親指を曲げ、チヨの歯の間に差し込んだ。万が一、舌でも噛み切られたら困るからだ。

「うぇ」

 舌を押さえられているせいで滑舌が鈍くなったチヨは、否定とも肯定とも付かない声を漏らした。

「拙僧はそなたを気に入った。女としてだ」

 親指に触れる舌は暖かく、手に掛かる吐息は苦しげだ。

「見ての通り、拙僧は人間ではない。妖怪と呼ばれる代物だ」

 人間らしい体面を保っていた顔付きを変化させ、元の形相に戻してやると、チヨはびくりとした。

「だが、そなたは拙僧を慕ってくれた。そればかりか、拙僧を庇うと申し出てくれた」

 丹厳は親指をずらし、チヨの左目の位置に人差し指を添えた。

「その目で見たことを、見ていないとすら申してくれた。改めて、礼を申さねばなるまい」

 人差し指の先を曲げると、薄い瞼と長い睫毛が触れる。

「故に、だ」

「ぐぇっ!?」

 丹厳の人差し指が左目に食い込んだ瞬間、チヨの体が跳ねた。

「今後、その目に映すのは拙僧だけにはしてくれぬか」

「痛ぇよお、やめてくんねっか!」

 捲れ上がった瞼から人差し指を引き抜くために、チヨは首を振ろうとするが、丹厳は腕で首の動きを阻んだ。

「何、大したことを申しているわけではない。これまで通り、拙僧を慕ってくれれば良いだけのことよ」

「やだぁっ、嫌だぁっ! 許してくんろ!」

 チヨは細い手足を突っ張って健気にも丹厳を押し上げようとするが、体格が違いすぎた。その間にも、人差し指は 小さな目玉にめり込んでいく。ぬるりとした体液に包まれた柔らかな玉が破れ、生温い水が高々と迸る。その奥へと 更に深めていくと、チヨの体は何度も痙攣した。細い筋のようなものがあったので、それをなぞってやると面白いよう に悲鳴が上がった。だが、あまりにやりすぎると衰弱しかねないので、丹厳は人差し指を曲げて目玉を引っ掛けると 容易く引っこ抜いた。目玉と眼窩を繋ぐ糸がずるりと伸びたので断ち切ってやると、チヨは痩せぎすな体のどこから 出るのか不思議に思えるほど凄絶な叫びを放った。目玉の失せた左目を押さえ、チヨは戦慄する。

「見えねぇ……なんも見えねぇ……なんにも、ねぇ……」

「先程申したではないか。拙僧だけを見ておればよいと」

 丹厳はチヨの手を外させ、目玉の中身が伝い落ちている顔の左半分を舌で舐め上げた。

「そなたは実に心根の清い娘よ。故に、狭き世界に封じてしまいたくなる」

「え……」

 最早抵抗する気力すら失ったチヨに、丹厳は囁く。

「そなたは誰の嫁にも取らせぬ。どこへも行かせぬ。人界は穢れと欲に充ち満ちているのだからな」

「そ、そんなら、おらの婿になる男んしょが死んだってぇのは」

「考えるまでもなかろうぞ」

 丹厳が耳元まで避けた口を綻ばせると、チヨは放心し、残った右目から涙を落とした。

「なんで、そんなこと……。そこまでせんでも、ええがんに……」

 泣き声を上げる余力すら潰えたのだろう、チヨはそれきり抗わなくなった。それをいいことに、丹厳は身動きしない チヨを抱き上げて廃寺へと連れ帰った。その道中で擦れ違った農民達には、熊が出て男達が襲われ、チヨも左目を 潰された、とそれらしく報告してやると鵜呑みにしてくれた。そればかりか、チヨを助けた礼まで言われた。その間も チヨは茫然自失としていて、半開きにした唇からは呻きすら漏らさなかった。
 その夜、丹厳は傷に障るからとチヨを廃寺に留まらせた。娘の身を案じた両親から、食べさせてやってくれ、と干し 大根や漬け物を渡されたので、人魂の炎を起こし、女達の見よう見まねで飯を炊いてみた。それを椀に入れてチヨ に渡してやると、チヨは食べることには食べたが、一言も発さなかった。丹厳はチヨの左目の眼窩を酒で清め、洗い 晒しの清潔な布を巻いてやってから、ムシロを重ねた寝床に寝かせてやった。その隣に寝そべり、娘を愛でた。

「拙僧だけを見ておれば良い。苦労は掛けぬ」

 そう呟きつつ、丹厳はチヨの目玉を舌の上で転がした。それを知ってか知らずか、廃寺の汚れた天井を見つめて いるチヨは乾いた唇をかすかに曲げた。今は苦しいだろうが、その後には計り知れないほどの幸福が待っている。 人間でさえなくなれば、いかなることも思いのままに出来るのだから。だが、そのためにはチヨは一度死ななければ ならない。丹厳は生きた人間を殺すことは出来ても、人間を生きたまま常世に引き摺り込むことは出来ない。故に、 一手間掛けなければならぬ。だが、こんなにも素晴らしい娘を無惨に殺して死体を繋ぎ合わせるのは惜しい。
 となれば、生きたまま死なせるしかあるまい。





 


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